『幸せとは』
朝起きれば隣に彼女がいる。
……なんて、寝汚い俺にそんな都合のいい現実はなかった。
彼女は早朝には外へ走りに行く。
自宅に戻れば作り置きされた朝食を摂り、体幹トレーニングとストレッチをこなすのだ。
休日の俺が起きたときには、彼女の温もりは既にない。
あるのはふかふかな枕に残る、甘やかな整髪剤の香りだけだった。
匂いまでかわいい……。
彼女の枕に顔を埋めて残り香を堪能する。
そのあと、俺はベッドボードに置いている眼鏡をかけて、ベッドから起き上がるのだった。
*
リビングに顔を出すと、キッチンのほうで彼女がジャムの瓶と格闘していた。
「ふんぬっ!?」
やべ。
そんなにキツく閉めたっけな?
彼女はあまりパン類を食べないから、油断していた。
瓶口にタオルまで巻いて、蓋を開けようとしているが、うまくいかないらしい。
「パンなんて珍しいですね?」
「げっ」
声をかければ、顔を上げた彼女と目が合った。
「どんなリアクションしてんですか」
眉を寄せた彼女の手からジャムの瓶を抜き取る。
キュポンッ。
瓶蓋を回せば、小気味のいい音を立てて蓋が開いた。
彼女の小さな手に瓶を乗せれば、唇を尖らせて俺を小突く。
「瓶の蓋すら開けられない面倒くさい女って思われた」
「その思考のほうがよっぽど面倒ですけどね?」
「聞こえてるからな?」
「おっと、口が滑りました」
不器用に俺にときめく彼女の額にキスをする。
ツンと顔を逸らした彼女は俺に背を向け、焼きあがったトーストにイチゴジャムを塗った。
ジャムの甘ったるい香りが食パンの上に乗せられる。
そんな彼女の代わりに、俺は冷蔵庫からサラダを取り出し、皿に盛りつけた。
サラダをテーブルに置いたあと、ついでに牛乳を注ぐ。
トーストを手にした彼女が腰をかけたとき、汁物がないことに気がついた。
インスタントのコーンスープでも用意するか。
電気ケトルに水を入れたあと彼女に声をかける。
「それより、米、足りませんでした?」
「違う。海苔がなかった」
腰をかけた彼女は、お行儀よく「いただきます」と両手を合わせた。
「あれ? 切らしてました?」
「ちょこちょこオヤツに摘んじゃってたから、食べ切ってたみたいで、なくなってたの気づかなかった」
そういえば、焼いた餅を海苔で巻いて食ってたな?
正月休みで気持ちが少し緩んでいたのか、いつもより彼女の食が進んでいた。
咎めるほど過度に暴食をしているわけでもない。
俺は彼女の貴重なもぐもぐタイムを堪能していた。
「最後の1枚を使っておいて、気づかないとかあります?」
「うるさいなあー。外箱が重たかったんだもん」
子どもっぽい言いわけをしていることは自覚しているらしく、彼女はいたたまれなさそうに俯いてしまった。
「……とにかく、あとで買ってくる」
「あ、それなら、俺も一緒に行っていいですか?」
「え? ひとりで行けるよ?」
電気ケトルのお湯が沸き、マグカップに注いだコーンスープを彼女の前に置く。
ついでに俺もコーヒーを淹れ、彼女の真向かいに腰をかけた。
「食材も減ってきたから買い足ししようかと思ってたんですよ」
「ああ、そういう? わかった。手伝う」
両手でマグカップを支えながら、彼女ははふはふとコーンスープの湯気を飛ばす。
左手の薬指のつけ根で光る真新しい指輪に、口元が緩んだ。
「ふふっ。ありがとうございます」
「なんでお礼?」
近所のスーパーで、食材や日用品の買い出しをするだけだ。
彼女の指摘はもっともなのかもしれない。
三が日はしっかり引きこもったため、冷蔵庫の中身が心許ないのは本当だ。
荷物も多くなる予定だから手伝ってくれるのもありがたい。
ただの当たり前の日常だ。
それでも、彼女と過ごす日常は俺にとって当たり前とは程遠い。
「なんとなく、言いたくなったんです」
「変なの」
穏やかに笑う彼女の眩しい笑顔に目を細めた。
本来なら、彼女は俺と交わらない世界にいる。
高嶺の花である彼女に、俺は何度も恋に落ちた。
ひとりで生きることを決めた彼女が、俺とともに人生を歩むことを選んでくれている。
これ以上の幸せなんてないのだと実感した。
1/5/2026, 6:28:08 AM