すゞめ

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10/15/2025, 3:37:54 AM

「あ。ナシだー」

 スーパーに入るなり、彼女は入口付近に設置されている果物コーナーへ駆け寄った。
 そこにはナシだけではなく、クリ、ブドウ、カキ、イチジク、リンゴ……様々な旬の果実が並んでいる。

「ナシ好き?」

 ナシなんかにも負けず劣らず、瑞々しく無垢な瞳を輝かせる彼女に、俺はうなずいた。

「ええ。ひとつ買っていきましょう」
「わーい。オヤツに半分こしよっ」

 ルンルンとうれしそうに彼女はナシをひとつ、買い物かごに入れる。

「おや。間食なんて珍しいですね」
「半分だけだからいーの」

 なるほど、だから俺に食べられるかどうか聞いてきたのか。

   *

 その後。
 滞りなく買い物をすませた俺たちは、買ってきたナシを切り分ける。
 包丁を入れた瞬間、ナシ特有の豊潤さが音にまで伝わってきた。
 水分がたっぷりと含まれているから包丁も滑りやすい。
 果肉を巻き込みすぎないように注意しながら芯と皮を剥いていった。
 シンプルに8等分にカットし終えたあと、皿に乗せてフォークをふたつ用意する。
 つやつやときらめくナシを前に、彼女は目を輝かせた。

「いっただっきまーす」

 声を弾ませて手を合わせる彼女に、自然と息を溢す。
 小さな口にナシを頬張ってシャキシャキとした食感を、幸せそうに表情を緩めて楽しんでいた。

 そんなに好きなら1個といわず2、3個買えばよかったかもしれない。

「たまに食べるからいいの。あんまり買い込んでこないでよ?」
「えっ!?」

 どうやって俺の思考を読んだのか、彼女がじっとりとした目つきで釘を刺した。

「……なんでわかったんですか……」
「変に黙りこくったときは大抵、ろくでもないこと考えてるじゃん」
「ナシを買おうとすることのどこがろくでもないんですか」
「限度があるって言ってんの」

 俺の主張に一切取り合わず、彼女は自分の取り分である最後のナシを頬張った。

「ごちそうさま」

 ごっくんと、かわいらしく嚥下させて彼女は静かにフォークを下す。

「俺の分、ひとつ食べますか?」
「えっ。いいの?」

 今さっき、手を合わせて満足そうにしていたクセに、彼女はいっそう目を輝かせて俺を見つめる。

 ぐっ……。
 まぶしい……!

 夏を越えたから油断していたが、やはり今年こそは度付きのサングラスを用意しておくべきだったか。

 なんとか取り繕って、ナシを刺したフォークを彼女に向けた。

「ええ。どうぞ」
「やった。ありがとう」

 手を伸ばした彼女から、ヒョイっとフォークを遠ざける。

「?」

 きょとんと不思議そうな目で俺を見つめているが、そうではないだろう。

「相変わらず、察しが悪いですね」
「え?」
「食べさせてあげますから、アーンしてください」

 首を傾げる彼女を前に、もう一度フォークを差し出す。

「ウ、ウソでしょう?」

 目を丸くして狼狽える彼女に、俺は肩をすくめて応戦した。

「このくらいで、なに照れてるんですか」
「だって、私たちもういい歳なのに」
「誰も見てませんが?」
「れーじくんが見てる!」
「そりゃあ、俺ですから。あなたの口腔はガン見しますけれども」
「変態っ!」

 声を荒げているが、意外と食い意地の張っている彼女だ。
 俺の発言を意識してか、小さく口を開いてフォークに刺さったナシに齧りつく。
 とはいえひと口が限界か、ぷすぷすと彼女がオーバーフローした。
 ナシを食べているのに、彼女の顔がリンゴみたいに真っ赤に染まる。

「の、残りはそっちが食べて……」

 気恥ずかしそうに俺から目を逸らしたまま、フォークに刺さった食べかけのナシを俺に押しつけた。

「間接チュウですね♡」
「……」

 調子に乗りすぎた俺の言葉に、彼女の熱が一気に引いていく。

「オッサンくさ」
「ちょっと!? さすがにまだ若者でいさせてください!?」

 ツンと顔を背けたあと、彼女は立ち上がって食器を下げ始める。

「あっ!? 洗い物はダメですよ!?」
「ホンット、この時期になると特にやかましいな?」
「俺の気のすむまでハンドケアさせてくれるならお好きにどうぞ」

 ソフトスクラブ、ハンドマスク、ネイルパック、保湿剤、オイル、ハンドクリーム。
 いつでもどこでも俺の心ゆくまで彼女のハンドケアができるように、ケアアイテムは可能な限り多く用意した。

「ダル……」

 ゲンナリと眉を寄せるが、ケアを始めたら始めたでウトウトと船を漕ぎ始めるのが彼女である。
 そんな腑抜けたところもかわいくてしかたがない。

「ダルくないです。秋冬期におけるキッチンアイランドは俺に譲ってくださいって言ってるだけです」
「もー。わかった。わかった。立ち退くついでにちょっと外で走ってくるから、あとよろしく」
「風呂もやっておきますね♡」
「ありがとうー」

 ため息混じりに返事をして、彼女はリビングから出ていった。

 なにかにつけて彼女を甘やかす口実が増える時期である。
 気温も下がり、湿度も乾き、本格的に秋めいてきた。
 俺の幸せ度数がぶち上がる、最高な季節の到来である。


『梨』

10/14/2025, 4:08:36 AM

 デートを終えて少し強引ではあったが、彼女を俺の家に連れ込んだ。
 何度か招いていることもあってか、寝支度をすませているにもかかわらず、彼女から緊張感は伝わってこない。
 それどころか寝室のベッドに腰をかけ、ご機嫌に肩を揺らし、ハミングで季節外れの曲を歌っていた。

「ご機嫌ですね?」
「?」

 ベッドの端でぷらぷらと揺れていた膝が止まった。
 画面に釘づけになっていた大きな瑠璃色の瞳が、不思議そうに俺に向けられる。

「なんで?」

 こんなにもかわいい鼻歌を歌っておいて「なんで?」とくるか。
 無意識だったのだろうか。
 だとしたらかわいい。

 いや待て!?

 無意識ということは、いつでもどこでも誰の前でもやっている可能性があるということかっ!?

「それ。かわいいけどかわいすぎるからそのかわいさはお外では厳重にしまっておくと約束してくれませんか?」
「ごめん、言いたいことが一個もわかんない」

 眉を寄せてあきれ果ててため息までついた彼女に対して、俺は鼻を鳴らした。

「にぶちんですもんね」
「は? 今のはそっちの言葉のチョイスがおかしいせいだろ」

 カチン。
 彼女のぷんすこスイッチが一段階上がる。

 とはいえ、今日はずいぶんとご機嫌だから2、3段階程度不機嫌のスイッチを押したところで、どうにでも取り繕える気がした。

「かわいい子がかわいい歌を歌う姿って、本当にただただかわいいだけだよなって言ったんです」
「それはそう! 変な衣装もかわいく着こなすビジュつよつよすぎる。本当にかわいい!」

 嬉々として彼女は携帯電話の画面を俺に向けた。
 画面に映る女性は、アイドルらしくあざとく派手な衣装や髪の毛を靡かせて笑顔を振りまき踊っている。

 なるほど。

 彼女の好みの女性像をインプットした。
 そのうえで俺はため息をつく。

「やっぱりにぶちんじゃないですか」
「え?」
「俺が言ってるのは、みんなのアイドルではなく、俺の大好きなあなたのことですよ♡」

 ぱちくりと、無言で瞬きを数回繰り返したあと、彼女はせきを切ったように声を荒げた。

「はあっ!?」
「どんなユニフォームも着こなして? コートに立てばみんなを釘づけにして? 華麗なテクニックで相手を圧倒させて?」

 思い返すだけで感嘆の息が溢れるのを止められない。
 恍惚とした心地で俺は彼女に彼女の魅力を語り続けた。

「外では目が焼けるくらいギラギラと闘争心を剥き出しにしているのに、プライベートではこんなまろやかでほわほわとした光を放って俺を夢中にさせるなんて」

 彼女の前で両膝をつき、携帯電話を持つ小さな両手を包みこむ。

「そんな女性、あなた以外にいるわけないじゃないですか♡」
「そ、そんな話……は、してなかった……」

 我を忘れてつい熱く語ってしまったせいか、彼女がちょっと照れてしまった。

 やっぱり誰よりもかわいいではないか。

「あなたがかわいいって話でしたよね?」
「違うがっ!?」

 照れすぎてムキになった彼女が、身を乗り出して、キャンキャンと吠え立ててくる。

「なんでそんなご機嫌なんだ、みたいな話だった!」
「そうでしたか。では、俺の目の前で無防備に音が外れた下手くそでかわいい鼻歌を聞かせてくれるような『ご機嫌な理由』ってなんですか?」
「外れてない!」
「いえ、外れてましたよ。リズムも……ぷっ」
「うそぉっ!?」

 信じられないと頬を赤く染めるが、気が抜けていたせいもあるだろう。
 本当に音もリズムもガッツリ外れていた。

 今度、カラオケでも連れていってみようかな。

 思い返せば、彼女の歌声を聞いたことがなかった。
 少し広めの部屋を取って、照明を調整して明るくすれば30分くらいならつき合ってくれるかもしれない。

 脳内で彼女に歌ってほしい曲をリストアップしていたら、いつの間にか彼女のぷんすこ度数が上がっていた。

「むう」
「そんなむくれなくても」

 ごめんなさいと、謝る代わりにキスを落とした。
 頭頂部に、額に、瞼に、鼻先にチュッチュッとキスを楽しんでいると、彼女が不満気に顔を背ける。

「ちゃんとキスしてくれないなら、もう、帰る……」

 んんんんんんんっ!?
 な、んっっだそれはっ!!??
 かわいいなっ!?
 知ってたがっ!?

 微妙に引用する歌詞が違っている気がするが、ストレートに欲求をぶつけてくるところは100点満点である。

「なーんて……」

 ごまかすようにわざとらしくチラッ、なんて目配せする彼女に、ハナマルもたくさん追加した。
 どんなアイドルよりもきらめく彼女に、俺は眩しくて顔面を覆う。
 しかし、悶えている場合ではなかった。

「し、……しない?」

 彼女が容赦なく俺の服を引っ張りながら、理性を剥がしにかかってくる。

「しますがっ!?」

 そもそもこんな時間になるまで連れ回したのに、今さら帰すわけないが!?

 ぷくぷくと羞恥を頬につめ始める彼女の期待に応えるため、その細い背中をベッドの上に押し倒した。


『LaLaLa GoodBye』

10/12/2025, 10:59:36 PM

 深夜。
 彼はラーメンが入った鍋をテーブルの上に置いて、菜箸で直に啜っていた。
 眼鏡が曇ることなど一切かまうことなく夜ふけから豪快に麺を啜る。
 そんな彼を遠目に、胸をときめかせてしまった私は重症だ。

 食事……というにはあまりにも簡素だが、携帯電話を片手に箸を進めていく彼の顔色を伺う。
 どんな姿勢で仮眠を取っていたのか、髪の毛はボサボサに跳ねていた。
 マメな彼がよれて毛玉がついたスウェットを3日連続で着て、無精髭まで生やしている。
 目の下のクマや、肌色から疲労困憊が見て取れた。

 空いた鍋でも洗おうかと思ってキッチンで待機していたが、彼が鍋も菜箸も持っていってしまったからやることがない。
 手持ち無沙汰になってしまったのもあり彼の向かいに座ったら、その鍋の中身はもう空になっていた。

 え、早っ!?

 食事を楽しむ彼にしては珍しく、かき込むだけの動作に驚いて目を瞬かせてしまう。
 
「明日っていうか、もう今日か。休みなんだよね?」
「うん。さっき、やっと締切抜けた」

 普段よりもかなり砕けた調子でうなずきながら彼は眼鏡を外し、ひどく緩慢な手つきでレンズを拭った。

「なら、早くシャワーでも浴びてゆっくり休みなよ」
「そうだね……」

 空腹が満たされて眠気が襲ってきているのか、気の抜けた返事に心配になってしまう。

「ちょっ、大丈夫? お風呂で寝落ちとか危ないから気をつけてね?」
「……じゃあ、俺が寝ないように見張りも兼ねてつき合ってよ。風呂」

 え……?

 冗談とも本気とも言えない調子で誘われて体が強張る。
 言葉を探していると、フッと彼の笑みが溢れた気配がした。

「冗談。……それは明日に、ね?」

 わざわざ人の顔を覗き込んでまで絡ませてきた甘やかな視線と、ゆっくりと静かな低音で鼓膜を揺らした声音。
 「明日」という言葉に含ませた色気に、背筋が震えた。
 私の首筋を撫でたあとリビングを出て行く。
 丁寧にケアをしているとは同じ人の手先とは思えないほど、彼の指はカサついていた。

 今日の私はどうかしている。
 その乾いた指先にさえ、縋ってしまいたくなるのだから。

 頬に熱が集まっていくのを自覚して慌ててキッチンに向かい、早鐘を打つ胸の鼓動をごまかすために鍋を洗っていった。

   *

 騒がしくしていた心臓は次第に落ち着きはじめる。
 それでも、体の奥の疼きまでは洗い流すことができなかった。
 ましてやこんな、お風呂あがりの彼の腕に包まれた状態で寝られるはずがない。
 彼のことでいっぱいになってしまった意識を少しでも逸らしたくて、寝返りを打った。

「眠れない?」
「そんなこと……」
「じゃあ、なんでそっぽ向いちゃうの……」

 お臍の上をなぞられる。
 ぞわり、と、確実に触れられたらまずい感覚を刺激されてしまった。
 どうにかごまかしたくて慌てて身を捩るも、勢い余って毛布を全て巻き取ってしまう。
 こんな反応をすれば、察しのいい彼にすぐバレてしまうのに。

「なに、その反応」

 ああ。
 やっぱり……。

 高まっていった私の熱は、あっさりと暴かれた。

「かわいい」

 からかいを含ませた口調だが、きっと蕩けてしまいそうなくらい甘い笑みを浮かべているのだろう。
 彼の指が愛おしむように私の下腹部に触れるため、背を向けていても容易に想像がついた。

「でも、今日は我慢してください」
「……っ」

 凄艶な声音で囁かれ、キュッと太ももと唇を締める。
 先ほどまでの眠気はどこに消えたのか、言葉尻もいつもの調子に戻っていた。

「……なら。キス」
「え?」

 どうせバレているのなら、と、添えられた彼の指に触れる。
 本当は今すぐ彼の熱の形いっぱいに開かれたいのに、今日は叶いそうになかった。

「キス、も……我慢?」
「……っ」

 少しでも彼の温もりが欲しくてそう訴えれば、意外そうに声をつまらせる。
 しかしすぐに頭頂部で楽しそうな吐息が溢れた。

「……っと、俺を煽るのがうまいですね」

 どの口が、と思う。
 しかし、そんなのはたぶん、お互い様だ。
 強引に隙間を作って入り込んできたのは彼のほうだというのに。
 毎日毎日、押し潰されるくらいたくさんの愛情を注がれて、ムチャな見返りを求められて。
 一方的だったはずなのに、気がつけば私も彼を求めるようになっていった。

 どこまでも、愛おしいと感じてしまう。

「ダメ?」
「まさか。でも、こっち向いてくれないとできませんよ」

 抱きしめられたままお腹を軽く突かれて寝返りを促される。
 素直に体勢を変えてお互いの視線を合わせると、彼は少し困ったように眉毛を下げた。

「まだなにもしてないのに、その顔はずるいでしょう」

 羞恥心を煽られるが、彼相手にかわす術は持ち得ていない。
 早く欲しいのに、私からキスをするのもおもはゆかった。

「だって、好きなんだもん……」

 彼は大きく目を見開き、顔面を手で覆って天井を仰ぐ。

「あー……もう……」

 わざとらしくため息をついたあと、彼は意を決したように再び視線を合わせた。
 彼の黒い瞳の奥で揺蕩う熱が、少しずつ私と同じ温度まで高まっていく。

「俺も、愛しています」

 近づいてくる彼に合わせて瞼を伏せた。
 鼻先に彼の香りが触れた瞬間、愛おしむように唇も重なる。
 ゆっくりと時間をかけて、唇をなぞる浅いキスを繰り返した。
 控えめなリップ音は深夜のせいか、やけに耳に響く。
 彼の唇から、手のひらから、緩やかな熱が伝い、私の鼓動を心地よく揺らしていった。

「煽った責任、ちゃんと取ってもらいますから。俺が起きたら覚悟しておいてくださいね」

 やわらかな温もりが離れたあと、彼はとんでもない発言を残した。

「えっ!?」

 素っ頓狂な私の声は、彼が額に唇を落としたことできれいにかわされた。
 気恥ずかしさや戸惑い、期待やうれしさやら、いろんな感情が一気に湧き上がって、顔どころか全身が熱くなる。
 一方で彼は満足そうに目元を緩め、あっさりと意識を手放した。
 とっくに活動限界を超えていたのだろうから仕方がないとはいえ、好き放題振り回してくれる。

 私……、眠れ、る……の、かな?

 起きたあとのことを考えると、きっと少しでも寝ておくのが正しい選択のはずだ。
 悶々としながら、目をきつく閉じて意識が微睡んでいくのを待つのだった。


『どこまでも』

10/12/2025, 8:00:22 AM

 人通りの多い大通り。
 昼間は歩行者天国になっている交差点の手前で、彼女と鉢合わせた。

 珍しいこともあるものだと駆け寄ると、彼女も俺に気づいてくれたのか、笑顔で手を振ってくれる。 

 彼女を抱きしめようとした瞬間。

「ヤ、ヤだ……! それ、……キライッ!」

 明確に彼女が拒否を示したのは初めてではない。
 しかし、今にも泣きそうな傷ついた顔で言われたのは初めてだ。

「えっ!?」

 彼女の口から「嫌い」という言葉を聞いたのも、この日が初めてだった。
 唖然とする俺なんか見向きもせず、彼女は走り去ってしまう。

 それって、どれのことだ!?

 情けないことではあるが、単純な追いかけっこでは彼女には敵わなかった。
 彼女を追いかけて入れ違いになるくらいならと、先回りして家に向かう。

 俺が原因であるのは彼女の様子から明白だったが、要因がわからなかった。
 対応を間違えてしまったらこれまで積み重ねた生活が一気に瓦解してしまう。
 そんな予感がした。

 俺は今、未知の分岐路に立たされている。

   *

 帰ってきて、くれるのだろうか。

 抜け道を駆使して彼女より先に家に着いたまではいいが、そもそも彼女は帰ってくるのかと不安に苛まれる。
 メッセージアプリにメッセージや着信を入れてみたが、どれも反応はなかった。
 実家や彼女の兄のところに逃げ込むでもなんでもいいが、心配だから連絡だけは入れてほしい。

 必死になってメッセージを送り続けた。
 俺のなにが彼女をあんな状態にさせてしまったのかわからない。
 せめて話し合う余地は残してほしかった。

『帰ってるならすぐお風呂入って』

 シュポンと送られてきたメッセージの主は彼女。
 脈絡のない要望に疑問は残るものの、縋るように俺はシャワーを浴びた。

 つき合って、同棲して、結婚して……強引ではあったがなんとか関係を進めてきた。
 紆余曲折はあったし、ケンカや小競り合いもしてこなかったわけではない。
 振られ続けていた片思いのときでさえ、あんなふうに嫌悪を吐露されることはなかった。
 少なからず……いや、というかめちゃくちゃ傷ついている自分がいる。

 シャワーをすませてリビングに戻ると、彼女が帰ってきていた。
 俺を捉えてくれたが、その視線はすぐに気まずそうに逸らされる。

「えっと……おかえりなさい」
「ただいま」

 彼女が自宅に戻ってきてくれたことに心底安心した。
 安堵した俺の様子に、彼女はポツリとつぶやく。

「……さっきはごめん」

 先ほど取った態度について謝ってはくれたものの、なにも解決はしていなかった。
 また彼女に拒否されてしまったら立ち直れない。
 抱きしめてもいいものか近づいてもいいものか考えあぐねていると、彼女が俺の胸に飛び込んできた。

「ヤな態度とった」

 ぎゅうっと俺の服に縋る手のひらがわずかに震えている。

「あなたが『嫌い』なんて言うほど、俺、ダメなことしてしまいましたか?」

 彼女の背中をそっと撫でていると、おずおずと顔を上げた。

「その、たいしたことじゃ……ないんだけど……」

 咄嗟に「嫌い」だと口をついて出るほどだ。
 たいしたことでないはずがない。
 再び目を泳がせる彼女の目元は少し赤くなっていた。

「かまいません。聞かせてくれませんか?」
「……」

 うなずいた彼女をリビングのソファに促す。
 その間に、温かい麦茶をマグカップにふたつ用意した。
 そのうちのひとつを彼女に手渡すと、ほかほかと揺蕩う湯気を瑠璃色の瞳を揺らしながら見つめる。

「……今日は許してないのに、酒とタバコと女の匂いがした」
「エッ!?」

 予想していなかった彼女の主張に、思いきり慌ててしまう。

「マジすか!? す、すみませんっ! 打ち合わせのときの匂いが残ってたのかもしれませんっ!?」
「……お酒飲みながら?」

 疑わし気に眉を寄せた彼女の言い分はもっともだ。

「ビアガーデンの特集記事でコラムを書かせていただくことになったんです」
「じゃあタバコは? そういうところじゃ吸えない、よね?」
「すみません。喫煙ブースで俺も2、3本つき合いました」

 禁煙者や嫌煙者も増えて誘われることは少なくなったが、誘われたときは従った。
 タバコ社会なんてクソ食らえと思いつつ、目上の人が喫煙者であればそれにならってしまう。
 その喫煙ブースも狭かったから、そのときに相手の香水の匂いが移ったのかもしれなかった。

「打ち合わせのお相手は男性だったんですが、女性ものの香水をつけていたのはそうですね。気をつけていたんですけど」
「……本当?」

 言葉だけではなんとでも言える。
 彼女にかけられている嫌疑は全て誤解なのだが、どうすれば気が晴れてくれるだろうか。

「今日もらった名刺や財布の中身、カバンやスマホやパソコンも確認してもらっても大丈夫です。それで、身の潔白の証明になるのかはわかりませんが……」

 そこまで言って、ふと、彼女と鉢合わせた大通りは風俗店も多かったことを思い出した。

「あ!? さすがに風俗には行ってないですっ!?」
「この時間帯でそこまでは疑ってない」

 時刻は19時を回り始める。
 確かに、夜の店から帰るには早い時間だ。
 彼女からの質問は途絶えたが、まだ表情に影を残したその顔を覗き込む。

「納得は、していただけませんか?」
「だってれーじくん、竿と脳みそを切り離せるタイプのクズじゃん」

 じっとりと粘着質な眼差しを向けられてしまい、思わずその視線から逃げたくなる。

「そっ、んなことは……」

 身に覚えしかない痛いところを突かれて言葉をつまらせた。

「……………………過去には、ありましたけど……」

 これに関しては取り繕っても仕方がないので、項垂れるほかない。
 過去を持ち出されたら俺にはどうすることもできなかった。

「ほらぁっ」
「で、ですが過去の話ですっ! 時効とまでは言いませんけど、さすがにあなたという人がすぐ隣にいながら、ほかによそ見する暇なんてありませんよっ!?」

 結婚した今だってこんなに彼女に夢中なのだ。
 俺ほど彼女を一途に愛せるヤツなんているわけがないと自負しているのに。
 今、過去と同じような疑いをかけられることは心外だった。

「……ごめん。今のは意地悪だった」

 マグカップを持つ両手に力が込められる。
 言いすぎたと自覚していたのか、思いのほかしおらしく肩を落とした。
 俺のほうも少しムキになりすぎたと自覚する。

「いえ、過去も含めて俺のほうが悪いです。すみません」
「信用してないわけじゃないの」
「本当ですか?」
「でも、ヤだったの。……ごめん」
「もう謝らなくて大丈夫です。全部、俺の不用意が招いたことですから、ね?」

 きつく噛みしめられた彼女の唇を指でなぞる。
 俺の手を拒絶されないことに、心の底から安堵した。

「仲直り、してくれますか?」
「ケンカしてたわけじゃないもん」
「そうでしたね」

 顔を逸らして俺の指から逃れた彼女は、むくれた様子でマグカップに口をつける。

「でも、次は気をつけて。女の匂いくっつけた状態で抱きしめられるのはイヤ」
「もちろん。今後は気をつけます」

 フッと軽く息が溢れた。

「では、今から抱きしめるのはいいんですか?」
「え、あ。それは……うん」

 彼女はゆっくりとマグカップをローテーブルの上に置く。
 静かに音を立てあと、彼女は俺に向き直った。

「ど、どうぞ……」

 はにかみながら控えめに両腕を広げる彼女を、丸ごと胸の中にしまい込んだ。


『未知の交差点』

10/11/2025, 12:05:19 AM

 うららかな秋風に揺れる桃色の花の群生。
 頼りなく細長い茎に大きな花弁をつけるコスモスは、秋の代名詞ともいえるだろう。
 町内会で管理している花壇にも、コスモスがチラホラと咲き始めていた。

 その可憐に咲き誇るコスモスたちのなかの一輪にフォーカスを当てた写真が、ぽこん、と俺のメッセージアプリに送られてくる。
 差出人は彼女だ。

『この子が一番かわいく咲いてた』

 アプリを開いていると、彼女からこんなメッセージが送られて、一気に心が乱れる。

 は?
 そんなメッセージを送っちゃうあなたのほうがかわいいですがっ!?
 コスモスの写真もいいですが、もっと自撮りを送ってくれでもいいんですよ!?
 あ、自撮り下手くそなんでやっぱりいいです。
 俺が撮ります撮らせてください!

 気がつけば制御を失った指がそれらのメッセージを彼女に送り続けていた。
 瞬時に既読はつくが返事が来ない。
 おそらく、彼女は画面を開いたまま放置していた。

 その証拠に、外に出ていた彼女が静かに玄関のドアを開けられる。
 いつもなら彼女はシャワーに直行するのだが、俺のメッセージ乱舞のせいだろう。
 ひょこっとリビングに顔を出した。

「コスモス背景に自撮りは無理だろ」
「しゃがめばかわいく撮れるでしょうが」

 彼女の俯瞰という栄養価が高いアングルの写真は、あればあるだけいいに決まっている。
 そのうえしゃがみ込むとか絶対にかわいいというのに、当の彼女は難色を示した。

「……近所でソレはちょっと芳しくないか?」
「では、これからフラワーパークにでも行きましょうか」

 いい大人が町内会で管理している花壇で自撮りするという絵面が恥ずかしいのであれば、観光名所でガッツリ咲き乱れるコスモス畑でなら恥ずかしくないということだろう。

 コスモスの見頃としてもちょうどいい時期のはずだ。
 そうと決まれば、俺は近くで楽しめそうなフラワーパークを探し始める。

「その格好で?」

 ポチポチと携帯電話をいじくる俺に、彼女はため息混じりに肩をすくめた。

「……」

 指摘されて、俺は自分の身なりを確認する。
 連休の中日ですらないいたって普通の平日だ。
 社会人である俺はネクタイを締め、スーツを着こんでいる。
 まじまじと彼女を見つめて首を傾げた。

「なんで俺、今日が仕事なんでしょう?」

 ガックリと肩を落とすと、彼女がクスクスと笑い声をこぼした。

「安心しなよ。私も午後から仕事だから」
「俺が休んでも行けないじゃないですか」
「シレッとサボろうとしてんじゃないよ」

 さすがにあきれさせてしまったのか、彼女の口調が少しキツくなる。

「ほら。寝ぼけてないでさっさと出なよ」

 手を振って彼女は俺を無理やり見送ろうとするが、まだ時間にはゆとりがあった。
 もう少しだけかまってほしくてふざけてみる。

「いってらっしゃいのチュウがないと家から出られません」

 照れるか怒るか困るかするだろうなと思っていたのに、俺の予想はどれも外れた。
 すんなりと俺の言葉を受け入れて、目を閉じて軽く顎を上げてキスを待つ。

「ん」

 キャアアアアアアッ♡
 朝からあなたのキス顔とか♡♡

 カロリーが高くてコーヒーのおともには身に余るほど贅沢なモーニングだ。
 最高でしかない。
 かわいい。
 しかし俺がほしいのはキス顔ではなくキスだった。

 かわいいキス顔を堪能しつつ贅沢な不満を抱えていると、長い睫毛が持ち上げられる。

「……しないの?」
「しますが?」

 ああ、俺が立っているから届かないのか。
 今日もちっちゃくてかわいいなあ。

「あ、でも汗かいてるからあんまり……」

 彼女の注意も聞けず耳朶を食んだ

「……い、言ってる側、から……っ、舐めないでよ」

 彼女は肌と声をひくひくと小さく震わせる。
 調子に乗った俺は、首筋まで彼女の汗の匂いや熱を堪能したあと、チュウッと柔らかな桜色の唇を啄んだ。

「では。いってきます」

 わざとらしく眼鏡を軽くかけ直したあと、ジャケットを正す。

 彼女の頭を撫でてからリビングを出ようとすると、ジャケットの裾を遠慮がちに引っ張られた。
 振り返ると不満気に彼女が俺を睨みつけている。

 拗ねてむくれた瑠璃色の目がいわんとすることを察した俺は、緩んでいく口元を押さえた。

「どうしました?」
「そんなヤリ捨てみたいなのはヤダ」
「……その、人聞きの悪い言い方。やめましょうか……」

 なんで俺が捨てる側なのか。
 そんなもったいないことするか。

「ちゃんとキスして」

 目だけでなく口でもしっかり煽ってくる彼女に、俺はしっかりとうなずいた。

「仰せのままに」

 彼女と正面からきちんと向き合って唇を重ねる。
 我慢ができなくなる前に唇を離して、彼女の火照った頬に触れた。

「いってきます」
「ん。いってらっしゃい」

 甘やかに咲いた彼女の笑みに見送られて俺は家を出た。


『一輪のコスモス』

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