人通りの多い大通り。
昼間は歩行者天国になっている交差点の手前で、彼女と鉢合わせた。
珍しいこともあるものだと駆け寄ると、彼女も俺に気づいてくれたのか、笑顔で手を振ってくれる。
彼女を抱きしめようとした瞬間。
「ヤ、ヤだ……! それ、……キライッ!」
明確に彼女が拒否を示したのは初めてではない。
しかし、今にも泣きそうな傷ついた顔で言われたのは初めてだ。
「えっ!?」
彼女の口から「嫌い」という言葉を聞いたのも、この日が初めてだった。
唖然とする俺なんか見向きもせず、彼女は走り去ってしまう。
それって、どれのことだ!?
情けないことではあるが、単純な追いかけっこでは彼女には敵わなかった。
彼女を追いかけて入れ違いになるくらいならと、先回りして家に向かう。
俺が原因であるのは彼女の様子から明白だったが、要因がわからなかった。
対応を間違えてしまったらこれまで積み重ねた生活が一気に瓦解してしまう。
そんな予感がした。
俺は今、未知の分岐路に立たされている。
*
帰ってきて、くれるのだろうか。
抜け道を駆使して彼女より先に家に着いたまではいいが、そもそも彼女は帰ってくるのかと不安に苛まれる。
メッセージアプリにメッセージや着信を入れてみたが、どれも反応はなかった。
実家や彼女の兄のところに逃げ込むでもなんでもいいが、心配だから連絡だけは入れてほしい。
必死になってメッセージを送り続けた。
俺のなにが彼女をあんな状態にさせてしまったのかわからない。
せめて話し合う余地は残してほしかった。
『帰ってるならすぐお風呂入って』
シュポンと送られてきたメッセージの主は彼女。
脈絡のない要望に疑問は残るものの、縋るように俺はシャワーを浴びた。
つき合って、同棲して、結婚して……強引ではあったがなんとか関係を進めてきた。
紆余曲折はあったし、ケンカや小競り合いもしてこなかったわけではない。
振られ続けていた片思いのときでさえ、あんなふうに嫌悪を吐露されることはなかった。
少なからず……いや、というかめちゃくちゃ傷ついている自分がいる。
シャワーをすませてリビングに戻ると、彼女が帰ってきていた。
俺を捉えてくれたが、その視線はすぐに気まずそうに逸らされる。
「えっと……おかえりなさい」
「ただいま」
彼女が自宅に戻ってきてくれたことに心底安心した。
安堵した俺の様子に、彼女はポツリとつぶやく。
「……さっきはごめん」
先ほど取った態度について謝ってはくれたものの、なにも解決はしていなかった。
また彼女に拒否されてしまったら立ち直れない。
抱きしめてもいいものか近づいてもいいものか考えあぐねていると、彼女が俺の胸に飛び込んできた。
「ヤな態度とった」
ぎゅうっと俺の服に縋る手のひらがわずかに震えている。
「あなたが『嫌い』なんて言うほど、俺、ダメなことしてしまいましたか?」
彼女の背中をそっと撫でていると、おずおずと顔を上げた。
「その、たいしたことじゃ……ないんだけど……」
咄嗟に「嫌い」だと口をついて出るほどだ。
たいしたことでないはずがない。
再び目を泳がせる彼女の目元は少し赤くなっていた。
「かまいません。聞かせてくれませんか?」
「……」
うなずいた彼女をリビングのソファに促す。
その間に、温かい麦茶をマグカップにふたつ用意した。
そのうちのひとつを彼女に手渡すと、ほかほかと揺蕩う湯気を瑠璃色の瞳を揺らしながら見つめる。
「……今日は許してないのに、酒とタバコと女の匂いがした」
「エッ!?」
予想していなかった彼女の主張に、思いきり慌ててしまう。
「マジすか!? す、すみませんっ! 打ち合わせのときの匂いが残ってたのかもしれませんっ!?」
「……お酒飲みながら?」
疑わし気に眉を寄せた彼女の言い分はもっともだ。
「ビアガーデンの特集記事でコラムを書かせていただくことになったんです」
「じゃあタバコは? そういうところじゃ吸えない、よね?」
「すみません。喫煙ブースで俺も2、3本つき合いました」
禁煙者や嫌煙者も増えて誘われることは少なくなったが、誘われたときは従った。
タバコ社会なんてクソ食らえと思いつつ、目上の人が喫煙者であればそれにならってしまう。
その喫煙ブースも狭かったから、そのときに相手の香水の匂いが移ったのかもしれなかった。
「打ち合わせのお相手は男性だったんですが、女性ものの香水をつけていたのはそうですね。気をつけていたんですけど」
「……本当?」
言葉だけではなんとでも言える。
彼女にかけられている嫌疑は全て誤解なのだが、どうすれば気が晴れてくれるだろうか。
「今日もらった名刺や財布の中身、カバンやスマホやパソコンも確認してもらっても大丈夫です。それで、身の潔白の証明になるのかはわかりませんが……」
そこまで言って、ふと、彼女と鉢合わせた大通りは風俗店も多かったことを思い出した。
「あ!? さすがに風俗には行ってないですっ!?」
「この時間帯でそこまでは疑ってない」
時刻は19時を回り始める。
確かに、夜の店から帰るには早い時間だ。
彼女からの質問は途絶えたが、まだ表情に影を残したその顔を覗き込む。
「納得は、していただけませんか?」
「だってれーじくん、竿と脳みそを切り離せるタイプのクズじゃん」
じっとりと粘着質な眼差しを向けられてしまい、思わずその視線から逃げたくなる。
「そっ、んなことは……」
身に覚えしかない痛いところを突かれて言葉をつまらせた。
「……………………過去には、ありましたけど……」
これに関しては取り繕っても仕方がないので、項垂れるほかない。
過去を持ち出されたら俺にはどうすることもできなかった。
「ほらぁっ」
「で、ですが過去の話ですっ! 時効とまでは言いませんけど、さすがにあなたという人がすぐ隣にいながら、ほかによそ見する暇なんてありませんよっ!?」
結婚した今だってこんなに彼女に夢中なのだ。
俺ほど彼女を一途に愛せるヤツなんているわけがないと自負しているのに。
今、過去と同じような疑いをかけられることは心外だった。
「……ごめん。今のは意地悪だった」
マグカップを持つ両手に力が込められる。
言いすぎたと自覚していたのか、思いのほかしおらしく肩を落とした。
俺のほうも少しムキになりすぎたと自覚する。
「いえ、過去も含めて俺のほうが悪いです。すみません」
「信用してないわけじゃないの」
「本当ですか?」
「でも、ヤだったの。……ごめん」
「もう謝らなくて大丈夫です。全部、俺の不用意が招いたことですから、ね?」
きつく噛みしめられた彼女の唇を指でなぞる。
俺の手を拒絶されないことに、心の底から安堵した。
「仲直り、してくれますか?」
「ケンカしてたわけじゃないもん」
「そうでしたね」
顔を逸らして俺の指から逃れた彼女は、むくれた様子でマグカップに口をつける。
「でも、次は気をつけて。女の匂いくっつけた状態で抱きしめられるのはイヤ」
「もちろん。今後は気をつけます」
フッと軽く息が溢れた。
「では、今から抱きしめるのはいいんですか?」
「え、あ。それは……うん」
彼女はゆっくりとマグカップをローテーブルの上に置く。
静かに音を立てあと、彼女は俺に向き直った。
「ど、どうぞ……」
はにかみながら控えめに両腕を広げる彼女を、丸ごと胸の中にしまい込んだ。
『未知の交差点』
10/12/2025, 8:00:22 AM