失ってできた傷を知った。
手に入れてすらいないのに「失う」という表現はひどく滑稽ではあるけれども。
久しぶりに彼女をこの目で捉えた瞬間、俺の想いが壊れていないことを痛感した。
乾いた秋の風が心の隙間に吹き込んで、片思いという気持ちを締めつける。
*
木々が淡く暖色に色づき始めた休日。
街路樹に乾いた葉の落ちる量も増えてきた。
真昼の太陽はまだ強さを発揮して汗ばむ陽気だが、街の喧騒にじっとりとした湿度はない。
空は高く澄み渡り、雲は薄く流れて、風は爽らいを運んだ。
ひと駅分を歩いて秋という儚い季節を堪能した俺たちは、商業施設に入る。
お目当てはブックカフェだ。
彼女は意外とインドアな趣味を楽しむ。
「楽しそうな本屋さんがあるみたいだから、行ってみない?」
先日、和やかな笑みを浮かべた彼女は、そう言って俺に携帯電話の画面を見せてきた。
レトロな雰囲気のある喫茶店で本が読めるらしい。
本には店専用のカバーがかけられていて、本の内容は手に取るまでわからないという、遊び心あふれる店だった。
好奇心をくすぐられるコンセプトに心奪われた俺は、彼女の提案に乗る。
そして今日、そのブックカフェに来たのである。
平日の昼時という時間帯もあってか、店内は意外と賑わっていた。
本は店専用の紹介カードにあらすじとナンバリング、値段が書かれているのみ。
手に取った本が好みのナンバーであれば、次に読むおすすめの本のナンバーが書かれていた。
本を選ぶ楽しさが全面に押し出されていて、見ているだけでワクワクする。
しかしふと疑問が浮かんだ。
……これは、彼女は楽しめるのだろうか?
少し離れたところで本を吟味している彼女は、手に取っては本棚に戻す動作を繰り返していた。
次第に彼女の表情は曇っていき、しょんもりと肩を落として俺のところに寄ってくる。
「わ、私……。感受性が死んでるダメ人間だった……」
え? そんなに?
「なにごとですか?」
「カードに書かれている内容が楽しくてそれだけで満足できちゃう」
……マジか。
そんなに楽しんでおきながら、中身の詳細は気にならないものなのだろうか。
「私っていつもどうやって本を選んでるんでるっけ? ってなって混乱した」
「だいたい新刊コーナーで中身パラパラめくっていますよね?」
「言われてみればそんな気もしてきた」
いっそ好きな数字で選べばいいのに。
なんて思ったが、彼女にとってその数字すら意味をもたらさないのだろう。
となると俺が取るべき行動はひとつだ。
「……本当になんでもいいのであれば、俺の選んだ本をそのままお貸ししましょうか?」
「! いいの?」
俺の提案に、彼女の表情がパアアッと華やいだ。
照明を落とした店内でその笑顔は眩しすぎる。
「……ええ。むしろ厳選するのに時間かかりそうだったんで、助かります」
目潰しされないように薄めで彼女を捉えながら、俺はうなずいた。
無事に本を購入したあと、俺たちは隣並びにカウンター席に着く。
カウンター席のほかにもテラス席やテーブル席など設けているようで、店内は落ち着いた雰囲気を保ちながらも賑わいを見せていた。
「カウンターでよかったんです?」
「うん。カウンターもかわいい」
木製のテーブルや、目の前のラックには様々なジャンルの本が陳列されている。
クラシカルなデザインは古い図書館のような雰囲気もあり、確かに彼女の好みではありそうだ。
注文したホットコーヒーが届いたあとは、伝票代わりにアンティーク調の鍵を手渡されるという徹底ぶりである。
コーヒーも味わい深く、雰囲気に劣らずちゃんと美味しかった。
もう少し自宅から近かったら通いたいくらいである。
本を読む数時間、俺はこのまろやかな時間を楽しんだのだった。
*
少し重たくなったカバンを背負って帰路に着く。
ご機嫌に揺れる小さなポニーテールを西陽が淡く照らした。
「どうしてあのブックカフェに誘ってくれたんです?」
肩口に振り返った彼女は楽しそうに声を弾ませる。
「だってああいうの好きでしょ?」
「俺はまあ、そうですけど」
「ふふっ。やっぱり!」
今さらな答え合わせだ。
それでも無邪気に破顔させる彼女が眩しくて、目を細める。
しかし、俺の答え合わせがまだだ。
カフェはともかく、書店のコンセプトは彼女の好みのそれではない。
口を開きかけたとき、ビル風が俺の邪魔をした。
その隙に彼女の言葉が紡がれる。
「あ、あとね……」
歩みを止めた彼女がはにかみながら俺と向き合う。
「ちょっとだけ、れーじくんの好みの本を知りたくなったの」
茜色の空が彼女の赤く染まった顔を隠し始めた。
俺の目に秋の冷えた空気が目いっぱい触れる。
彼女のなかで俺への恋心がきちんと育っている。
その事実に口元が綻んだ。
『秋恋』
馴染みのメンバーでの飲み会のあと、なぜか俺は自宅ではなく彼女の家に来てしまった。
あきれながら彼女は俺を招き入れ、シャワーと寝巻きを貸してくれる。
夜はすっかり冷え込む時期になったせいか、用意してくれた服が長袖になっていた。
彼女の心遣いにほわほわと胸が温かくなる。
リビングに戻ると、彼女がぽやぽやと少し眠たそうに微睡んでいた。
1日の終わりに彼女のかわいいお顔が見られるなんて、今日のヤギ座の運勢は1位だったに違いない。
そんな気持ちで彼女の隣に座った。
「シャワー、ありがとうございました」
俺との距離感に慣れない彼女は、それだけで緊張をまとう。
気恥ずかしさを含んだ愛おしい空気を振り払うように、ソファに座っていた彼女は足をぷらぷら揺らした。
「ねー。セクシーかキュート、どっちが好き?」
「はい?」
どうしよう。
よくわからないが、いきなりかわいいことを言い始めた。
人を試すことをよしとしない彼女がなんの気まぐれか、どこかで聞いたことのあるような2択を迫ってくる。
俺のほうを見る余裕はないのか、彼女の視線は自分の膝下に落としたままだ。
彼女らしからぬその質問はあざとくてかわいいのだが、意図は読めなかった。
「……そうですね。セクシーに俺を誘惑するかわいいあなたを所望します」
彼女の意図を知りたくて、ワザと動揺する答え方をする。
「はあっ!?」
案の定、大きな声を上げた彼女はわかりやすく狼狽えた。
「逆は……すみません。かわいすぎて俺の心臓がもたないかもしれませんね?」
普段隠している青銀の髪の毛に触れる。
ビクリと大袈裟に肩を震えさせるその姿は、酒の入っている今の俺には目に毒だ。
2択の意図などすっかりどうでもよくなり、目の前にぶら下がってきた欲に手を伸ばす。
「お顔真っ赤にしてかわいいですね。キスしたくなっちゃいました」
「えっ、ぁっ?」
細い顎を掬って顔を近づける。
簡単に俺を意識してくれる彼女は、その柔らかな桜色の唇をキツく閉ざして、顔を逸らした。
「イヤなら、ちゃんと言ってくれていいですよ?」
残念ではあるが、無理をさせたいわけでもない。
引き下がれるかどうかはまた別の問題ではあるが、意思表示は大切だ。
少なくともその拒否の仕方は、嗜虐心が煽られるだけなので、俺以外の前では絶対にやめてほしい。
顎を掴んでいた手を離すと、彼女は小さく首を横に振った。
控えめに俺が着ているシャツの袖を掴み、頬を紅潮させて大きな瑠璃色の瞳を揺らす。
唇を小さく震わせ、一生懸命言葉を探している姿に、心臓の脈撃ちが速くなった。
オーバーフローした彼女は本当に扇状的で、俺は必死に下心を飲み込む。
「別に、イヤ……とかじゃ……」
追い打ちといわんばかりのこの言葉である。
ピシャッ、と俺の中で理性にヒビの入る音がした。
眼鏡をかけていなかったら確実にしゃぶりついている。
「ただ、恥ずかしいだけだから……気にしないで」
しかも恥ずかしいだけで拒否をしたつもりはなく、さらには気にしなくてもいいのか。
そうかそうか。
「かわいい……」
感嘆にも似た息とともに出たその言葉は、彼女の羞恥心をさらに煽ってしまった。
「そういうときは、以前みたいに目を閉じてくれればいいんですよ? 都合よく捉えますから」
「だ、だから、それも恥ずかしいの……んっ?」
眼鏡を外して、小さく震える唇を指で押さえた。
驚いて目を丸くした彼女がやっと俺を正面から見てくれる。
イヤじゃないなら……いいよな?
これ以上は我慢ならず、自問して彼女の唇をさらった。
ガッチガチになっている彼女の背中をあやして、唇を啄む。
己の理性と戦いつつ、何度か軽いキスを重ねていくうちに、少しずつ強張っていた体が緩んでいった。
「……はっ」
息を止めていたのか、彼女は苦しそうに口を開く。
かわいそうだと頭ではわかっているのにもかかわらず、俺はその隙をついて彼女をソファに押し倒した。
逃げ道を塞いで、舌を絡める。
鼻の抜けた声や、湿度のこもった荒い吐息、もどかしそうに揺れる腰、彼女の仕草の全てが俺をおかしくさせた。
満足するまで彼女の口内を堪能したのは、やり過ぎだったらしい。
気づいたときには彼女は蕩けきっていて、眠さもあって意識が朦朧としていた。
「ふふ。かわいい。酒が入ってる俺よりふにゃふにゃしてますよ? そろそろ休みましょうか」
動く気力のない彼女を抱えて、寝室まで運んだ。
ベッドに彼女を横たえて毛布をかけると、すぐに静かな寝息が聞こえてくる。
「寝顔までかわいいなあ」
まんまるとした額にキスをしたあと、俺は自分の体に溜まった欲に悶々としてしまうのだった。
『愛する、それ故に』
ほぼ一方的に、不機嫌なオーラをリビングに撒き散らしたのは俺だ。
静寂の中心は、間違いなくローテーブルに置かれたふたつのマグカップである。
白と紫のシンプルなマグカップは、一見するとわかりにくいがペアになっていた。
マグカップの底には、白には「T」、紫には「I」のアルファベットが刻まれている。
紫は彼女のイニシャルだが、白いほうは俺ではなく彼女の元カレのイニシャルだった。
まざまざと元カレとの思い出を見せつけられ、さらに彼女は俺の目の前で堂々と手入れをしている。
これで心穏やかにいられるか、という話だ。
今、俺が暴れずに極力冷静でいられるのは日付が刻まれていなかったからである。
つき合った年号まで刻まれていようものなら確実に泣き喚いていた。
「……」
「……」
捨ててほしいと求めているわけではない。
ただ、同棲を始めてまで元カレとの思い出を持ってきてほしくなかっただけだ。
よしんば持ってきたとしても、せめて俺の目の前で手入れをするのは控えてほしい。
その感情の機微は自然な流れであるはずだ。
数少ない思い出を持ってきてなにが悪いのか。
とでも言いたげに俺と対面していた。
開き直っているわけでもなさそうだからタチが悪い。
どこまでも俺の心を弄ぶ魔性の女だ。
「あのさ、なんでそんなに怒ってるの?」
「逆に聞きたいんですけど、俺が元カノからプレゼントされたボールペンとか使ってたらどう思いますか?」
「ムカつく」
「俺のコレもそうです」
「え?」
マグカップに指を差した俺を、彼女は大きな目を丸々させて見上げる。
「なんで? やだった?」
「当たり前でしょう」
全然使っていないクセに、彼女は元カレのイニシャルが入った白いマグカップを定期的に手入れをしている。
その表情は寂しげに影を落としつつも、どこか愛おしそうにしながら見つめているのだ。
「そ、そっか……。ごめん」
そしてこの期に及んで、彼女は白いマグカップを大切そうに抱え込むのをやめず、唇まで噛みしめる。
長い睫毛と大きな瑠璃色の瞳を切なげに揺らした彼女を見て、俺のほうが泣きたくなった。
「どうして、あなたがそんな泣きそうな顔をするんです?」
きつく噛みしめている唇を指でなぞってやめさせる。
俺ではない誰かを想って傷をつけるとか、冗談ではなかった。
半ば強引に唇を割らせてなんとかやめさせることができる。
小さな水音と、鼻の抜けた声が静かなリビングに溢れた。
「そんなに俺を妬かせたいんですか?」
「妬く……?」
「もしかして、全部言わせようとしてます? 今日のあなたはずいぶんと意地悪ですね?」
まあ、そんなに言ってほしいならそのまま言ってやるけれども。
彼女の元カレ相手に、カッコなんて今さらつかないしな。
「元カレのイニシャルが入ったマグカップを今でも大切にされると、俺の愛が足りてないのかなと自分の不甲斐なさにシンプルに腹が立ちます」
「はあ? なに言って……ああああああっ!?」
俺の言わんとすることをようやく察してくれた彼女だが、様子がおかしい。
取り乱す彼女とは裏腹に、俺の胸中は落ち着きを取り戻していく。
「ち、違う! 違う違う違う! 本当に違うの。ごめん! ヤダ、どうしよ。本当に、その……」
先ほどの様子とは打って変わり、彼女は羞恥心でパニックになっていた。
「だ、だってあのときは高校生だったもん。マグカップとか、そんな発想できなかった、し……」
「はあ?」
またそんな下手な言いわけを、とも思ったが、生真面目が服を着て歩いていたようなカップルだった。
それに、独り立ちしてない状態でペアのマグカップを持つことは、確かに不自然かもしれない。
彼女の場合に限っていえば、親子でお揃いの食器具を使っていると言われたほうがまだ説得力があった。
しかも彼女の父親のイニシャルも「T」である。
リアクションからして父親ではないことは明白ではあったが、元カレでも父親でもないとするとこの「T」を指している人物がますます見当がつかなくなった。
「これ、れーじくんの苗字のつもりだった!」
「はああああっ!?」
いやいやいや!?
真っ赤な顔して半泣きになっているが、はああああっ!?
自分のマグカップには名前で入れたクセして!?
普通、ここは「R」って入れるところだろっ!?
ちゃんと揃えろっ!
「だって恥ずかしかったんだもんっ!」
俺の言わんとすることを察した彼女は勝手にキャンキャンと吠えたてた。
「じゃあ、なんで今まで渡してくれなかったんですか?」
「…………機会がなかった」
「そんなわけないでしょう」
つき合って何年何ヶ月経ったと思っているのか。
渡す機会なんていくらでもあったはずだ。
「なら、今」
「照れ隠しとはいえ、さすがに雑すぎです」
「照れてないし」
さっきまで恥ずかしいだなんだと騒いでいたクセに。
耳まで真っ赤にしながらなにを言っているのやら。
不機嫌な気持ちは一気に吹き飛び、むくれている彼女の機嫌が直るまで甘やかし続けた。
『静寂の中心で』
夏は苦手だが、いざ夏が過ぎ去ってしまうとアンテナが鈍る。
紅葉……を見に行こうにも昨今の厳しい猛暑で、葉が艶やかに色づく時期は年々ずれ込んでいる気がした。
近所に植えられているイチョウはギンナンは落ち始めてきているが、黄葉にはいたっていない。
澄み渡った青空を彩る朱色や黄色のコントラストを楽しむ頃には、彼女は俺とのデートどころではなくなっているはずだ。
ギリギリ、彼女の機嫌次第でハロウィンというイベントを乱用しまくり、イチャイチャするのはありではあるし、するつもりでいる。
しかし、それはそれとしてしっとりと落ち着いたデートがしたい。
コントラストを落としたビターチョコのようなワンピースや、赤ワインのような大人びた色合いのカーディガンを着た彼女の写真を撮りたかった。
夏とは打って変わって、秋は素早く移ろいでいくクセして、レディースの洋服のバリエーションが豊富すぎる。
検索で「服」としか打っていないのにレディースのファッションアイテムが画像で羅列されていくのは、そろそろヤバい気がしてきた。
あ、この白いニットワンピースも絶対にかわいいに違いない。
燃え盛るほどに赤く染まったモミジやカエデの下で、全身真っ白な服で身を包んだ彼女が歩くとかマジ天使。
いや、どんな装いだろうが彼女が天使には変わりないのだ。
青葉のモミジのままでいいから、都内の公園を連れ回すのもアリかもしれない。
そうと決まれば、俺はすぐに行動に移る。
徹底的に彼女に合いそうな赤い服を探し始めた。
しかし、突如としてヒラヒラした黄金色のオフショルブラウスが現れる。
なんということだっ!
なんということだっ!
俺としたことが黄色という選択肢を忘れていたなんて。
しかも彼女が黄色の服を着ている姿をあまり見たことがなかった。
しかもこのデザインならジーンズにも合わせやすそうである。
彼女にちょっとチュッチュして絡んでなし崩せば、あっさり着てくれそうな気がした。
俺はポチッと、黄色のオフショルブラウスの購入ボタンを押す。
*
数日後、例のオフショルブラウスが俺の手元に届く。
彼女と寝食をともにするようになって、しばらく経った。
おかげで、彼女の言葉足らず病が俺にも移ってきたのかもしれない。
購入した黄色い服を広げながら、リビングで眠たそうに寝支度を整えている彼女に俺は声をかけた。
「ちょっと今から俺と一発ヤッてもらったあと、この服着てみましょうか?」
うわ、ヤベ!
先走りすぎて絶対に言い方間違えた……ッ!!
ぽやぽやと重たそうに瞬きをしていた彼女の瞼はガッツリと持ち上げられ、鋭く俺を睨みつける。
「あの……」
バッチィィィン!!
弁明をする猶予もなく、俺の頬に燃えるような赤いモミジの葉がひとつ咲いた。
「最っっっ低!!」
「すみません……っ!!」
眉をつり上げてキャンキャン吠えて捲し立てる彼女の目の前で、俺はすぐさま正座をして背筋を伸ばす。
「ちょっとは言い方に遠慮を加えろよっ!?」
「それは本当にごもっともですっ!!」
彼女の勢いをそのまま借りて、腰を曲げて額をカーペットに押しつけた。
「それで、この服がなにっ!?」
「あなたに紅葉してほしくて買ってしまいました!」
「え、ごめん。なんて?」
「美しく紅葉していくあなたを心ゆくまで鑑賞したいです!!」
「ちょっと待て、いったん落ち着け。ホントに意味がわからなくなった!」
俺のすぐ横に置いていた服がもう1着ある。
黄色のオフショルブラウスを購入する際におすすめとして出てきた、ワインレッドのロングスカートだ。
細いプリーツとサテンリボンがかわいくて、気づいたらカートに入っていたのである。
「黄色がダメなら赤色も用意してありますっ!」
オフショルブラウスがダメだった場合、保険にもなると思ったのも事実だ。
「げえっ!? ロングスカートはやめろって言ってるじゃんっ!?」
「かわいさがスーパーノヴァしちゃうからですよね!? わかります!」
「違うっ! ……とりあえず、着るなら黄色のオフショルだからなっ!?」
あまりにもあっさり了承する彼女に、つい勢いで顔を上げてしまった。
「はあっ!? なに勝手に了承してくれちゃってんるですか!? 俺はまだなし崩していませんっ!」
「おい。今度は右側、グーで行くぞ?」
絶対零度の眼差しで見下ろされ、慌てて再度頭を下げる。
いきなり抑揚が消え去った声音に背筋が凍った。
「ほ、本当に申しわけございません……っ」
「その服を着るのは別にいいけど、今日は私に触らないで」
「そ、そんなっ……!?」
日付が変わるまであと3時間もあるのにっ!?
その間に絶対彼女はすぴすぴとかわいい寝息を立てて寝てしまうのにっ!?
恐る恐る顔を上げて、ダメ元で彼女に懇願してみる。
「お、おやすみのちゅうも、ダメですか……?」
「さ、わ、ら、な、い、でっ!」
イヤだあああああああっ!!!!
自業自得ではあるが、実刑が重すぎる。
日付が変わるまで、俺はぺしょぺしょになるまで泣き崩れるのだった。
『燃える葉』
ちょっと遅くなっちゃったな。
太陽はとっくに沈み、夜のビロードが星というスパンコールを散らせている。
玄関のドアの鍵を開けようとしたとき、ツンツンと服の裾を引っ張った。
「月が……」
「あぁ、今日は満月でしたか。……って、あれ。違うか? 左側が少し欠けてる?」
目を細めて月を凝視していたが、今日は風の流れが早い。
薄雲が月に幕を張り、うまく視認できなくなった。
「そうでなくて。ちょっとだけお月見しよ?」
「え」
団子も酒も飲まない彼女がなにを言っているのだ?
彼女の真意を探ろうと、月から彼女へ視線を移す。
はぅあっ!?
きゅるきゅると無垢に小首を傾げている彼女がかわいいだけだった。
月明かりという仄かな光を浴びるオプション効果で、心臓へのダメージは絶大である。
下唇を噛みながら暴れる心臓の痛みに耐えていると、彼女はしょんもりと肩を落とした。
「あ、ヤだった? でもさ。ひとつのものをずっと鑑賞というか、観察するのとか好きだよね?」
肩を落とすが引き下がることはしない。
月を眺めていたいのは彼女のほうだと悟った。
それはむしろあなたのほうでは?
なんて指摘は余計な火種を生みそうだからしまっておいた。
「ちょっと急いで歩いてたし、もしかして帰ってから作業かなにかするつもりだった?」
「あなたとのデートで、そんな失礼なことはしません」
急いでいたのは暗くなったからだ。
時々、暗いところが苦手なことを忘れては後悔している。
彼女のそんな姿を何度か見てきた。
できるだけ怖がらせないように尽力しているというのに。
いや、彼女のせいにしたいわけではないし、それだけ俺との時間に夢中になってくれるのは素直にうれしかった。
とはいえ、ここではさすがに人目につく可能性がある。
月は高々と輝いているし、おそらくベランダからでも十分きれいに見られるだろう。
「ですが、せめてベランダからにしませんか?」
「うん」
場所にこだわりはなかったようで、うれしそうにうなずいた。
*
温めた麦茶の入ったマグカップを手に、俺たちはベランダに出た。
少し厚い雲がところどころに散らばっているが、夜空には星と月が白銀に輝いている。
日中は歩くだけで汗ばむ陽気だというのに、はるか上空の澄み渡っており空気はすっかり秋めいていた。
「大丈夫ですか?」
「なにが?」
「明るさですよ。怖くなったら泣く前に教えてください」
「……さすがにそこまでじゃないでしょ」
レースカーテンまで絞って、できるだけリビングの光がベランダにも届くようにする。
「無理してないですか?」
「れーじくんと一緒だから大丈夫」
コテン。
なんて俺の腕にあざとく甘えてきたから、俺も甘え返してやった。
「それなら、そろそろ映画館とかプラネタリウムの解禁もしてくれません?」
「そ、れは。さすがに暗すぎる……し」
一気に歯切れが悪くなった彼女に、ついクスクスと笑い声を溢す。
「水族館もダメでしたよね?」
「……だって。れーじくん絶対、深海魚とか好きじゃん」
マグカップを口に含みながら彼女は不貞腐れた。
「どんな偏見ですか、それ」
いや、水族館に行くなら深海魚エリアは外せないし、許されるならそこで1日中過ごしたいくらいだけれども。
「深海エリアは避けて。それなら手を繋いでくれれば平気だと思う。多分、だけど……」
……は?
今、彼女はなんで言った?
予想してもいなかった彼女の言葉に耳を疑う。
なんだ手を繋いでくれればって。
かわいすぎないか?
いや、かわいいのは知ってたけど。
手なんていくらでも繋ぐし、腰でも肩でもなんでも抱くが?
「お姫様抱っこして肌身離さず持ち歩くと誓いますから、次のデートは水族館でお願いします」
鼻息荒くしすぎて、ウッカリ本音と建前が逆転してしまった。
「恥ずかしいから絶対にヤダ」
ツンとそっぽを向く彼女に俺はかまわず勢いで捲し立てた。
「ペンギンショーかイルカショーならどちらが好みですか!? それともカピバラやカワウソとの握手会ですか!?」
「ダメ。深海エリアは無理だって言った」
「そんなもんはあなたの遠征中にでもひとりで周りますからどうでもいいです」
そこまで言えば、彼女はソワソワしながらこちらに向き直った。
「……カピバラがいい」
「ああ」
自分で言って気づいたが、そうなるよな?
生態は違えどでっかいハムスターに見えなくもないし?
カピバラと触れ合うだけなら動物園でもいいのだが、せっかく許してくれるつもりなのだ。
ガッチガチにおててを繋いで彼女と水族館デートをしたい。
それに、彼女は動物系は見るよりも触れ合うほうが好きだ。
動物園デートの際は入り口付近にあるゾウのエリアで、閉園までゾウを観察されたときには度肝を抜かれたが。
「わかりました。あとで予定調整しましょうね?」
「ん……」
できるだけ生き物と触れ合えるような水族館を探そう。
月明かりに照らされる彼女の横顔に、俺は誓った。
『moonlight』