失ってできた傷を知った。
手に入れてすらいないのに「失う」という表現はひどく滑稽ではあるけれども。
久しぶりに彼女をこの目で捉えた瞬間、俺の想いが壊れていないことを痛感した。
乾いた秋の風が心の隙間に吹き込んで、片思いという気持ちを締めつける。
*
木々が淡く暖色に色づき始めた休日。
街路樹に乾いた葉の落ちる量も増えてきた。
真昼の太陽はまだ強さを発揮して汗ばむ陽気だが、街の喧騒にじっとりとした湿度はない。
空は高く澄み渡り、雲は薄く流れて、風は爽らいを運んだ。
ひと駅分を歩いて秋という儚い季節を堪能した俺たちは、商業施設に入る。
お目当てはブックカフェだ。
彼女は意外とインドアな趣味を楽しむ。
「楽しそうな本屋さんがあるみたいだから、行ってみない?」
先日、和やかな笑みを浮かべた彼女は、そう言って俺に携帯電話の画面を見せてきた。
レトロな雰囲気のある喫茶店で本が読めるらしい。
本には店専用のカバーがかけられていて、本の内容は手に取るまでわからないという、遊び心あふれる店だった。
好奇心をくすぐられるコンセプトに心奪われた俺は、彼女の提案に乗る。
そして今日、そのブックカフェに来たのである。
平日の昼時という時間帯もあってか、店内は意外と賑わっていた。
本は店専用の紹介カードにあらすじとナンバリング、値段が書かれているのみ。
手に取った本が好みのナンバーであれば、次に読むおすすめの本のナンバーが書かれていた。
本を選ぶ楽しさが全面に押し出されていて、見ているだけでワクワクする。
しかしふと疑問が浮かんだ。
……これは、彼女は楽しめるのだろうか?
少し離れたところで本を吟味している彼女は、手に取っては本棚に戻す動作を繰り返していた。
次第に彼女の表情は曇っていき、しょんもりと肩を落として俺のところに寄ってくる。
「わ、私……。感受性が死んでるダメ人間だった……」
え? そんなに?
「なにごとですか?」
「カードに書かれている内容が楽しくてそれだけで満足できちゃう」
……マジか。
そんなに楽しんでおきながら、中身の詳細は気にならないものなのだろうか。
「私っていつもどうやって本を選んでるんでるっけ? ってなって混乱した」
「だいたい新刊コーナーで中身パラパラめくっていますよね?」
「言われてみればそんな気もしてきた」
いっそ好きな数字で選べばいいのに。
なんて思ったが、彼女にとってその数字すら意味をもたらさないのだろう。
となると俺が取るべき行動はひとつだ。
「……本当になんでもいいのであれば、俺の選んだ本をそのままお貸ししましょうか?」
「! いいの?」
俺の提案に、彼女の表情がパアアッと華やいだ。
照明を落とした店内でその笑顔は眩しすぎる。
「……ええ。むしろ厳選するのに時間かかりそうだったんで、助かります」
目潰しされないように薄めで彼女を捉えながら、俺はうなずいた。
無事に本を購入したあと、俺たちは隣並びにカウンター席に着く。
カウンター席のほかにもテラス席やテーブル席など設けているようで、店内は落ち着いた雰囲気を保ちながらも賑わいを見せていた。
「カウンターでよかったんです?」
「うん。カウンターもかわいい」
木製のテーブルや、目の前のラックには様々なジャンルの本が陳列されている。
クラシカルなデザインは古い図書館のような雰囲気もあり、確かに彼女の好みではありそうだ。
注文したホットコーヒーが届いたあとは、伝票代わりにアンティーク調の鍵を手渡されるという徹底ぶりである。
コーヒーも味わい深く、雰囲気に劣らずちゃんと美味しかった。
もう少し自宅から近かったら通いたいくらいである。
本を読む数時間、俺はこのまろやかな時間を楽しんだのだった。
*
少し重たくなったカバンを背負って帰路に着く。
ご機嫌に揺れる小さなポニーテールを西陽が淡く照らした。
「どうしてあのブックカフェに誘ってくれたんです?」
肩口に振り返った彼女は楽しそうに声を弾ませる。
「だってああいうの好きでしょ?」
「俺はまあ、そうですけど」
「ふふっ。やっぱり!」
今さらな答え合わせだ。
それでも無邪気に破顔させる彼女が眩しくて、目を細める。
しかし、俺の答え合わせがまだだ。
カフェはともかく、書店のコンセプトは彼女の好みのそれではない。
口を開きかけたとき、ビル風が俺の邪魔をした。
その隙に彼女の言葉が紡がれる。
「あ、あとね……」
歩みを止めた彼女がはにかみながら俺と向き合う。
「ちょっとだけ、れーじくんの好みの本を知りたくなったの」
茜色の空が彼女の赤く染まった顔を隠し始めた。
俺の目に秋の冷えた空気が目いっぱい触れる。
彼女のなかで俺への恋心がきちんと育っている。
その事実に口元が綻んだ。
『秋恋』
10/9/2025, 11:44:59 PM