すゞめ

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 ほぼ一方的に、不機嫌なオーラをリビングに撒き散らしたのは俺だ。
 静寂の中心は、間違いなくローテーブルに置かれたふたつのマグカップである。
 白と紫のシンプルなマグカップは、一見するとわかりにくいがペアになっていた。
 マグカップの底には、白には「T」、紫には「I」のアルファベットが刻まれている。
 紫は彼女のイニシャルだが、白いほうは俺ではなく彼女の元カレのイニシャルだった。

 まざまざと元カレとの思い出を見せつけられ、さらに彼女は俺の目の前で堂々と手入れをしている。
 これで心穏やかにいられるか、という話だ。

 今、俺が暴れずに極力冷静でいられるのは日付が刻まれていなかったからである。
 つき合った年号まで刻まれていようものなら確実に泣き喚いていた。

「……」
「……」

 捨ててほしいと求めているわけではない。
 ただ、同棲を始めてまで元カレとの思い出を持ってきてほしくなかっただけだ。
 よしんば持ってきたとしても、せめて俺の目の前で手入れをするのは控えてほしい。
 その感情の機微は自然な流れであるはずだ。

 数少ない思い出を持ってきてなにが悪いのか。

 とでも言いたげに俺と対面していた。
 開き直っているわけでもなさそうだからタチが悪い。
 どこまでも俺の心を弄ぶ魔性の女だ。

「あのさ、なんでそんなに怒ってるの?」
「逆に聞きたいんですけど、俺が元カノからプレゼントされたボールペンとか使ってたらどう思いますか?」
「ムカつく」
「俺のコレもそうです」
「え?」

 マグカップに指を差した俺を、彼女は大きな目を丸々させて見上げる。

「なんで? やだった?」
「当たり前でしょう」

 全然使っていないクセに、彼女は元カレのイニシャルが入った白いマグカップを定期的に手入れをしている。
 その表情は寂しげに影を落としつつも、どこか愛おしそうにしながら見つめているのだ。

「そ、そっか……。ごめん」

 そしてこの期に及んで、彼女は白いマグカップを大切そうに抱え込むのをやめず、唇まで噛みしめる。
 長い睫毛と大きな瑠璃色の瞳を切なげに揺らした彼女を見て、俺のほうが泣きたくなった。

「どうして、あなたがそんな泣きそうな顔をするんです?」

 きつく噛みしめている唇を指でなぞってやめさせる。
 俺ではない誰かを想って傷をつけるとか、冗談ではなかった。
 半ば強引に唇を割らせてなんとかやめさせることができる。
 小さな水音と、鼻の抜けた声が静かなリビングに溢れた。

「そんなに俺を妬かせたいんですか?」
「妬く……?」
「もしかして、全部言わせようとしてます? 今日のあなたはずいぶんと意地悪ですね?」

 まあ、そんなに言ってほしいならそのまま言ってやるけれども。
 彼女の元カレ相手に、カッコなんて今さらつかないしな。

「元カレのイニシャルが入ったマグカップを今でも大切にされると、俺の愛が足りてないのかなと自分の不甲斐なさにシンプルに腹が立ちます」
「はあ? なに言って……ああああああっ!?」

 俺の言わんとすることをようやく察してくれた彼女だが、様子がおかしい。
 取り乱す彼女とは裏腹に、俺の胸中は落ち着きを取り戻していく。

「ち、違う! 違う違う違う! 本当に違うの。ごめん! ヤダ、どうしよ。本当に、その……」

 先ほどの様子とは打って変わり、彼女は羞恥心でパニックになっていた。

「だ、だってあのときは高校生だったもん。マグカップとか、そんな発想できなかった、し……」
「はあ?」

 またそんな下手な言いわけを、とも思ったが、生真面目が服を着て歩いていたようなカップルだった。
 それに、独り立ちしてない状態でペアのマグカップを持つことは、確かに不自然かもしれない。
 彼女の場合に限っていえば、親子でお揃いの食器具を使っていると言われたほうがまだ説得力があった。
 しかも彼女の父親のイニシャルも「T」である。
 リアクションからして父親ではないことは明白ではあったが、元カレでも父親でもないとするとこの「T」を指している人物がますます見当がつかなくなった。

「これ、れーじくんの苗字のつもりだった!」
「はああああっ!?」

 いやいやいや!?
 真っ赤な顔して半泣きになっているが、はああああっ!?
 自分のマグカップには名前で入れたクセして!?
 普通、ここは「R」って入れるところだろっ!?
 ちゃんと揃えろっ!

「だって恥ずかしかったんだもんっ!」

 俺の言わんとすることを察した彼女は勝手にキャンキャンと吠えたてた。

「じゃあ、なんで今まで渡してくれなかったんですか?」
「…………機会がなかった」
「そんなわけないでしょう」

 つき合って何年何ヶ月経ったと思っているのか。
 渡す機会なんていくらでもあったはずだ。

「なら、今」
「照れ隠しとはいえ、さすがに雑すぎです」
「照れてないし」

 さっきまで恥ずかしいだなんだと騒いでいたクセに。
 耳まで真っ赤にしながらなにを言っているのやら。

 不機嫌な気持ちは一気に吹き飛び、むくれている彼女の機嫌が直るまで甘やかし続けた。


『静寂の中心で』

10/8/2025, 4:13:50 AM