すゞめ

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 深夜。
 彼はラーメンが入った鍋をテーブルの上に置いて、菜箸で直に啜っていた。
 眼鏡が曇ることなど一切かまうことなく夜ふけから豪快に麺を啜る。
 そんな彼を遠目に、胸をときめかせてしまった私は重症だ。

 食事……というにはあまりにも簡素だが、携帯電話を片手に箸を進めていく彼の顔色を伺う。
 どんな姿勢で仮眠を取っていたのか、髪の毛はボサボサに跳ねていた。
 マメな彼がよれて毛玉がついたスウェットを3日連続で着て、無精髭まで生やしている。
 目の下のクマや、肌色から疲労困憊が見て取れた。

 空いた鍋でも洗おうかと思ってキッチンで待機していたが、彼が鍋も菜箸も持っていってしまったからやることがない。
 手持ち無沙汰になってしまったのもあり彼の向かいに座ったら、その鍋の中身はもう空になっていた。

 え、早っ!?

 食事を楽しむ彼にしては珍しく、かき込むだけの動作に驚いて目を瞬かせてしまう。
 
「明日っていうか、もう今日か。休みなんだよね?」
「うん。さっき、やっと締切抜けた」

 普段よりもかなり砕けた調子でうなずきながら彼は眼鏡を外し、ひどく緩慢な手つきでレンズを拭った。

「なら、早くシャワーでも浴びてゆっくり休みなよ」
「そうだね……」

 空腹が満たされて眠気が襲ってきているのか、気の抜けた返事に心配になってしまう。

「ちょっ、大丈夫? お風呂で寝落ちとか危ないから気をつけてね?」
「……じゃあ、俺が寝ないように見張りも兼ねてつき合ってよ。風呂」

 え……?

 冗談とも本気とも言えない調子で誘われて体が強張る。
 言葉を探していると、フッと彼の笑みが溢れた気配がした。

「冗談。……それは明日に、ね?」

 わざわざ人の顔を覗き込んでまで絡ませてきた甘やかな視線と、ゆっくりと静かな低音で鼓膜を揺らした声音。
 「明日」という言葉に含ませた色気に、背筋が震えた。
 私の首筋を撫でたあとリビングを出て行く。
 丁寧にケアをしているとは同じ人の手先とは思えないほど、彼の指はカサついていた。

 今日の私はどうかしている。
 その乾いた指先にさえ、縋ってしまいたくなるのだから。

 頬に熱が集まっていくのを自覚して慌ててキッチンに向かい、早鐘を打つ胸の鼓動をごまかすために鍋を洗っていった。

   *

 騒がしくしていた心臓は次第に落ち着きはじめる。
 それでも、体の奥の疼きまでは洗い流すことができなかった。
 ましてやこんな、お風呂あがりの彼の腕に包まれた状態で寝られるはずがない。
 彼のことでいっぱいになってしまった意識を少しでも逸らしたくて、寝返りを打った。

「眠れない?」
「そんなこと……」
「じゃあ、なんでそっぽ向いちゃうの……」

 お臍の上をなぞられる。
 ぞわり、と、確実に触れられたらまずい感覚を刺激されてしまった。
 どうにかごまかしたくて慌てて身を捩るも、勢い余って毛布を全て巻き取ってしまう。
 こんな反応をすれば、察しのいい彼にすぐバレてしまうのに。

「なに、その反応」

 ああ。
 やっぱり……。

 高まっていった私の熱は、あっさりと暴かれた。

「かわいい」

 からかいを含ませた口調だが、きっと蕩けてしまいそうなくらい甘い笑みを浮かべているのだろう。
 彼の指が愛おしむように私の下腹部に触れるため、背を向けていても容易に想像がついた。

「でも、今日は我慢してください」
「……っ」

 凄艶な声音で囁かれ、キュッと太ももと唇を締める。
 先ほどまでの眠気はどこに消えたのか、言葉尻もいつもの調子に戻っていた。

「……なら。キス」
「え?」

 どうせバレているのなら、と、添えられた彼の指に触れる。
 本当は今すぐ彼の熱の形いっぱいに開かれたいのに、今日は叶いそうになかった。

「キス、も……我慢?」
「……っ」

 少しでも彼の温もりが欲しくてそう訴えれば、意外そうに声をつまらせる。
 しかしすぐに頭頂部で楽しそうな吐息が溢れた。

「……っと、俺を煽るのがうまいですね」

 どの口が、と思う。
 しかし、そんなのはたぶん、お互い様だ。
 強引に隙間を作って入り込んできたのは彼のほうだというのに。
 毎日毎日、押し潰されるくらいたくさんの愛情を注がれて、ムチャな見返りを求められて。
 一方的だったはずなのに、気がつけば私も彼を求めるようになっていった。

 どこまでも、愛おしいと感じてしまう。

「ダメ?」
「まさか。でも、こっち向いてくれないとできませんよ」

 抱きしめられたままお腹を軽く突かれて寝返りを促される。
 素直に体勢を変えてお互いの視線を合わせると、彼は少し困ったように眉毛を下げた。

「まだなにもしてないのに、その顔はずるいでしょう」

 羞恥心を煽られるが、彼相手にかわす術は持ち得ていない。
 早く欲しいのに、私からキスをするのもおもはゆかった。

「だって、好きなんだもん……」

 彼は大きく目を見開き、顔面を手で覆って天井を仰ぐ。

「あー……もう……」

 わざとらしくため息をついたあと、彼は意を決したように再び視線を合わせた。
 彼の黒い瞳の奥で揺蕩う熱が、少しずつ私と同じ温度まで高まっていく。

「俺も、愛しています」

 近づいてくる彼に合わせて瞼を伏せた。
 鼻先に彼の香りが触れた瞬間、愛おしむように唇も重なる。
 ゆっくりと時間をかけて、唇をなぞる浅いキスを繰り返した。
 控えめなリップ音は深夜のせいか、やけに耳に響く。
 彼の唇から、手のひらから、緩やかな熱が伝い、私の鼓動を心地よく揺らしていった。

「煽った責任、ちゃんと取ってもらいますから。俺が起きたら覚悟しておいてくださいね」

 やわらかな温もりが離れたあと、彼はとんでもない発言を残した。

「えっ!?」

 素っ頓狂な私の声は、彼が額に唇を落としたことできれいにかわされた。
 気恥ずかしさや戸惑い、期待やうれしさやら、いろんな感情が一気に湧き上がって、顔どころか全身が熱くなる。
 一方で彼は満足そうに目元を緩め、あっさりと意識を手放した。
 とっくに活動限界を超えていたのだろうから仕方がないとはいえ、好き放題振り回してくれる。

 私……、眠れ、る……の、かな?

 起きたあとのことを考えると、きっと少しでも寝ておくのが正しい選択のはずだ。
 悶々としながら、目をきつく閉じて意識が微睡んでいくのを待つのだった。


『どこまでも』

10/12/2025, 10:59:36 PM