ちょっと遅くなっちゃったな。
太陽はとっくに沈み、夜のビロードが星というスパンコールを散らせている。
玄関のドアの鍵を開けようとしたとき、ツンツンと服の裾を引っ張った。
「月が……」
「あぁ、今日は満月でしたか。……って、あれ。違うか? 左側が少し欠けてる?」
目を細めて月を凝視していたが、今日は風の流れが早い。
薄雲が月に幕を張り、うまく視認できなくなった。
「そうでなくて。ちょっとだけお月見しよ?」
「え」
団子も酒も飲まない彼女がなにを言っているのだ?
彼女の真意を探ろうと、月から彼女へ視線を移す。
はぅあっ!?
きゅるきゅると無垢に小首を傾げている彼女がかわいいだけだった。
月明かりという仄かな光を浴びるオプション効果で、心臓へのダメージは絶大である。
下唇を噛みながら暴れる心臓の痛みに耐えていると、彼女はしょんもりと肩を落とした。
「あ、ヤだった? でもさ。ひとつのものをずっと鑑賞というか、観察するのとか好きだよね?」
肩を落とすが引き下がることはしない。
月を眺めていたいのは彼女のほうだと悟った。
それはむしろあなたのほうでは?
なんて指摘は余計な火種を生みそうだからしまっておいた。
「ちょっと急いで歩いてたし、もしかして帰ってから作業かなにかするつもりだった?」
「あなたとのデートで、そんな失礼なことはしません」
急いでいたのは暗くなったからだ。
時々、暗いところが苦手なことを忘れては後悔している。
彼女のそんな姿を何度か見てきた。
できるだけ怖がらせないように尽力しているというのに。
いや、彼女のせいにしたいわけではないし、それだけ俺との時間に夢中になってくれるのは素直にうれしかった。
とはいえ、ここではさすがに人目につく可能性がある。
月は高々と輝いているし、おそらくベランダからでも十分きれいに見られるだろう。
「ですが、せめてベランダからにしませんか?」
「うん」
場所にこだわりはなかったようで、うれしそうにうなずいた。
*
温めた麦茶の入ったマグカップを手に、俺たちはベランダに出た。
少し厚い雲がところどころに散らばっているが、夜空には星と月が白銀に輝いている。
日中は歩くだけで汗ばむ陽気だというのに、はるか上空の澄み渡っており空気はすっかり秋めいていた。
「大丈夫ですか?」
「なにが?」
「明るさですよ。怖くなったら泣く前に教えてください」
「……さすがにそこまでじゃないでしょ」
レースカーテンまで絞って、できるだけリビングの光がベランダにも届くようにする。
「無理してないですか?」
「れーじくんと一緒だから大丈夫」
コテン。
なんて俺の腕にあざとく甘えてきたから、俺も甘え返してやった。
「それなら、そろそろ映画館とかプラネタリウムの解禁もしてくれません?」
「そ、れは。さすがに暗すぎる……し」
一気に歯切れが悪くなった彼女に、ついクスクスと笑い声を溢す。
「水族館もダメでしたよね?」
「……だって。れーじくん絶対、深海魚とか好きじゃん」
マグカップを口に含みながら彼女は不貞腐れた。
「どんな偏見ですか、それ」
いや、水族館に行くなら深海魚エリアは外せないし、許されるならそこで1日中過ごしたいくらいだけれども。
「深海エリアは避けて。それなら手を繋いでくれれば平気だと思う。多分、だけど……」
……は?
今、彼女はなんで言った?
予想してもいなかった彼女の言葉に耳を疑う。
なんだ手を繋いでくれればって。
かわいすぎないか?
いや、かわいいのは知ってたけど。
手なんていくらでも繋ぐし、腰でも肩でもなんでも抱くが?
「お姫様抱っこして肌身離さず持ち歩くと誓いますから、次のデートは水族館でお願いします」
鼻息荒くしすぎて、ウッカリ本音と建前が逆転してしまった。
「恥ずかしいから絶対にヤダ」
ツンとそっぽを向く彼女に俺はかまわず勢いで捲し立てた。
「ペンギンショーかイルカショーならどちらが好みですか!? それともカピバラやカワウソとの握手会ですか!?」
「ダメ。深海エリアは無理だって言った」
「そんなもんはあなたの遠征中にでもひとりで周りますからどうでもいいです」
そこまで言えば、彼女はソワソワしながらこちらに向き直った。
「……カピバラがいい」
「ああ」
自分で言って気づいたが、そうなるよな?
生態は違えどでっかいハムスターに見えなくもないし?
カピバラと触れ合うだけなら動物園でもいいのだが、せっかく許してくれるつもりなのだ。
ガッチガチにおててを繋いで彼女と水族館デートをしたい。
それに、彼女は動物系は見るよりも触れ合うほうが好きだ。
動物園デートの際は入り口付近にあるゾウのエリアで、閉園までゾウを観察されたときには度肝を抜かれたが。
「わかりました。あとで予定調整しましょうね?」
「ん……」
できるだけ生き物と触れ合えるような水族館を探そう。
月明かりに照らされる彼女の横顔に、俺は誓った。
『moonlight』
あなたの心の核にむやみやたらに触れることはしないと誓う。
だから今日だけは、その繊細で敏感な部分に触れることを許してほしい。
どうか今だけはひとりで泣かないで、俺を利用してほしかった。
好きで、好きで、好きで、どうしようもなく好きだから。
あなたの気持ちが例えいっときの気の迷いだとしても、逃してあげられないくらい好きだから。
「好き」
その言葉をもらった瞬間から、ことさらにあなたのことが手放せない存在になった。
あなたもそのくらいはわかっていたでしょう?
だから今日は諦めて、俺に縋ってほしかった。
*
お利口さんにしていられたのは彼女の家の前までだった。
玄関に招き入れられるとプツンと張りつめていた理性が切れる。
繋いでいた手を腕ごと引き寄せて、彼女の体を玄関の壁に押しつけた。
「えっ? な、にっ……んっ!?」
慌てる彼女にかまわず唇を重ねる。
視界を彼女でいっぱいに埋めて、柔らかくて暖かくて、瑞々しい唇を堪能した。
じっくりと煮詰めてきた熱が一気に滾って、つん、と唇の扉を開けようとしたとき、彼女が震えた手で俺の胸を押し返す。
「ぁ……」
「ね、もう一回」
一方的に奪った彼女との初めてのキスは、厚かましさを助長させた。
彼女からの返事はない。
真っ赤に染まった頬に手を添えて顔を上げさせれば、返事の代わりと言わんばかりに俺の服を両手で掴み、キュッと目を閉じて唇を少し突き出した。
夢にまで見た彼女のキス顔に舞い上がってしまう。
「同意って、都合よく捉えますからね?」
緊張か不安からか、小さく震える彼女を怖がらせないように、焦らないように、ゆっくりと自分に言い聞かせながら唇を重ねた。
触れた瞬間、彼女は反射的に体を離そうとする。
背中に手を回して逃げ道を塞いだ。
唇から彼女の体温が全身に伝わる。
都合よく同意を取った2回目のキスは、浮かれそうなほど心地がいい。
柔らかくて温かくて制汗剤の香りが鼻をくすぐる。
背中に置いた指で背骨を引っかけながらなぞれば、鼻からついて出たくぐもった甘い息に、俺の背筋も粟立っていった。
ゆっくりと角度を変えて、桜色の唇を啄んでいく。
舌で唇にノックをするが、その度に彼女は顎を引いた。
かわいらしくキュッと固く閉ざされる唇を無理矢理こじ開ける気にはなれず、彼女の唇をペロリと舐める。
「ぅ……」
戸惑いながら開いた彼女の瑠璃色の瞳は潤み、熱で蕩けている。
白磁の肌を際立たせる紅潮した頬、唾液で艶の増した唇、わずかに乱れた呼吸は俺を色めき立たせるには十分だった。
夢心地に浸っていれば、余裕のない表情で彼女が訴えてくる。
「唇、ツンツンしないでぇ……」
ツンツンって……!
どうしよう。
すっごくかわいいっ。
触れたくて触れたくて仕方がなかった彼女に触れている現実に浮かれてしまう。
額に、瞼に、鼻に、頬に、耳に、顔中にキスを散らしていった。
「ツンツンがダメなら、お口開けてください」
「? こう?」
調子に乗って彼女の唇を指で突きながらストレートに要求すると、思いのほか素直に小さな口を開けた。
俺を見上げて、無防備に、無垢に、無抵抗に口腔を晒す。
その姿にゾクゾクと腹の底から熱が滾っていく。
「っ、ぁー……、それ。たまんない」
彼女の下の歯茎を指で撫でたあと、唇ごと齧りついた。
「んんっ」
互いの湿った吐息が玄関に響く。
くったりとした彼女の背中を撫でながら、真っ赤に染まった顔を覗き込んだ。
「キスより先、したいです」
「え……」
「怖い?」
「怖い……というか、その……」
玄関でする話ではないと気づいたのか、彼女はドアを指差した。
「と、とりあえず中で話そ。鍵とチェーン、やってもらってもいい?」
「ええ。もちろん」
彼女のその選択は正しいが、最大の過ちでもある。
玄関先でもギリギリなのだ。
中に入ったら絶対に止まれないだろうなと思いつつ、俺は鍵とチェーンをかける。
「では、お邪魔します」
こんな手段、彼女に対して使っていいはずがない。
だから今日だけだ。
今日だけは……、こんな俺を許してほしい。
『今日だけ許して』
「誰でもいいから誰かなんとかしてくれ」
そんな言葉をよく耳にする。
俺はいつも「誰でもいい」わけないだろうと、鼻を鳴らしていた。
「俺の希望通りの未来を切り開ける誰か、うまいこと解決してアフターフォローと今後のバックアップもしてくれ」
そう言い換えるべきなのでは、と思っていた。
主に、想像力だけは非常に豊かだった中学時代の俺が。
しかし今、俺は本当に誰でもいいから、誰かこの状況をなんとかしてほしいと思っていた。
*
なにか物音がすると思って目を覚ませば、ベッドに彼女がいなかった。
時差ボケ対策するとか言ってたっけ?
日付は変わって深夜2時。
少し心配になったから寝室を出たとき、俺は自分の目を疑った。
誰が想像しただろうか。
睡眠時間をずらし、夜な夜なひとりでブロックタワーで遊んでいるということを……!
しかも甲斐甲斐しい努力の末か、ブロックがきちんと抜かれている。
それでも5回が精々だが、多少は遊べるようになっていた。
今度もう一回誘ってみよう。
彼女のいたいけで涙ぐましい努力に感動しすぎて、ズビッと鼻を啜ってしまった。
音の少ない夜更けに俺の立てた音は彼女の耳にもしっかりと届く。
勢いよく振り返った彼女は、気恥ずかしそうに頬を染めた。
「み、見た……?」
「……なんのことですか?」
彼女はことさらに自分の努力を隠す人ではないが、見せびらかす人でもない。
それでも、見てはいけない舞台裏を覗いてしまった罪悪感が、リビングに気まずい空気を作った。
「……」
「……」
気まず……。
目を泳がして彼女の視線から逃げる。
ごまかしたところで逃してくれるような人でもないから、おとなしく白状した。
「いつからです?」
「見てたんじゃん」
「深夜に派手な物音を立てていたんで、気になったんです」
「ちょ、ちょっとだけだもん」
ここ最近、妙に眠たそうにしてると思ったら。
俺とブロックタワーをして以降、こそこそひとりで練習に励んでいたようだ。
自滅し続けていたことがそんなに悔しかったのだろうか。
「……負けず嫌い」
「うっさい」
彼女は人を散々に煽るクセして、煽り耐性は低い。
いつぞやの彼女と同じ言葉を借りれば、彼女はむくれて頬を膨らませた。
「ブロックの重さや厚さが微妙に違うことがわかったから、重心をコントロールする置き方のほうが大事かなと思ったんだよね」
あ、あれ?
俺が思っている以上に、彼女のブロックタワースキルは上達しているのかもしれない。
学習能力の高さと手先の器用さはピカイチだ。
「ちょ、今から1戦だけやってみますか?」
今度なんて待っていられず、つい勢いで誘ってしまった。
断られても俺は彼女と一緒に眠るだけだし、ダメージはない。
「え、いいの?」
ぱあぁぁっと彼女はうれしそうに目を輝かせて、彼女は俺の誘いに乗った。
そして、ブロックタワーは思いのほか接戦を繰り広げる。
そして、交互にブロックを積み上げたのち、グラグラと派手な音を立ててタワーは崩れた。
ウソだろ?
倒したのは俺だ。
数日前までは俺にターンすら渡してくれなかったクセに……。
不貞腐れながらブロックを片づけていると、彼女が遥か高みからニヨニヨと腹の立つ笑みを向けた。
「れーじくん、なかなかやるじゃん」
「……」
コノヤロウ。
すぐ調子に乗りやがって。
しかし、正直もう彼女には勝てる気がしなかった。
誰か天狗になった彼女の鼻をへし折ってくれ。
ぶつけようのない悔しさを、俺はため息をついてごまかすのだった。
『誰か』
彼女の自宅の下駄箱に、見慣れないブランドロゴの入ったシューズボックスがあることは知っていた。
それがスニーカーではないことも。
だからといって、その靴の中身が黒のハイヒールだったなんて予想はしていなかった。
う、わっ……!?
カツ、カツ、と上品に音を立てて彼女は颯爽とこちらに向かってくる。
遠くから俺を捉えた彼女は、ヒールのせいか駆け寄ってくることはなかった。
早足になるわけでもなくひらりと控えめに手を振る彼女に、俺のほうが待っていられない。
焦ったいわずか数メートルに、たまらず俺が急くように詰めてしまった。
「ごめん。早めに来たつもりだったのに、また待たせちゃった」
彼女が時間よりも少し早めにくることを知っていたから、俺はさらに早めに待ち合わせ場所に来たのだ。
彼女を待たせてナンパでもされたらたまったものではない。
そもそも、俺含め、そこらへんに転がっている男なんて待たせておけばいいのだ。
「いえ。それよりもその靴……」
「ん? 変かな?」
ヒールの高さは4、5cmほどだろうか。
黒い靴に滑らかな白い足の甲のコントラストは目に毒だ。
速度を増す胸の鼓動に気づかなり振りをしながら、表情をわずかに曇らせる彼女の言葉を否定する。
「いえ、とてもよくお似合いですよ。でも疲れたらちゃんと教えてくださいね?」
「わかった。ありがと」
商業施設のカフェに行く予定だ。
人通りも多くて賑やかな場所だから、多少ヒールの音を響かせても問題はない。
だが、いつもスニーカーばかり履いているから、靴擦れができないか心配だ。
彼女の足裏に傷を作るわけにはいかない。
決意を新たに、俺は彼女の手を引いて歩き始めた。
*
彼女は俺のすぐ隣にいるはずなのに、足音が遠く感じる。
ショッピングモールという雑踏のなかに紛れているにしても、彼女の足音が妙に静かだった。
いつもより少し歩幅は狭いが、彼女が歩きにくそうにしている様子も、足を引きずっているわけでもない。
緩やかなリズムを刻むヒールの音は、心地よさすら感じた。
とはいえ、普段は階段を使うところをエスカレーターに頼ったりして、少しでも彼女の足の負担が少なくすむように注意を払う。
彼女の頭頂部がいつもより高くなった。
小さく揺れるポニーテールから白い頸が覗いて、俺の心臓まで揺さぶられる。
俺の視線がうるさすぎたのか、そのポニーテールが翻った。
「……どうしたの?」
あなたのおみ足にドキドキしています♡
なんてこの場で言ってしまおうものなら、逃げられてしまいそうだ。
彼女の言葉には、首を横に振っておくことにする。
「いえ。なんでもありませんよ」
控えめにいって、彼女のヒールは心臓に悪かった。
すらりと伸ばされた足の甲は色っぽい。
ジーンズに隠れたふくらはぎが張っていないか、靴擦れを起こしていないか心配になり、ことあるごとにベンチやソファに座らせようとすれば、彼女は淑やかに足を斜めに揃えて腰を下ろした。
「ごめん」
「え?」
自販機で買った小さなペットボトルを、彼女は両手でペコペコと遊ばせる。
「こんなに気を遣われるとは思ってなかった」
「あぁ」
大型商業施設ということを利用して、昼食、水分補給、ガチャガチャを回して開封式、カフェ、トレーディングカードのパックをいくつか買って開封式。
適当に理由をでっちあげては彼女を座らせる機会を多く作った。
「すみません。露骨すぎましたか?」
「いや、れーじくんの過保護は今に始まったことじゃないから、今さらいいんだけど……」
いいんだ。
本当に。
彼女はなんでも受け入れてくれるから、俺は確信に迫ってみることにした。
「では、過保護ついでにひとつ、教えてください」
「……なに?」
小刻みに挟んだ休憩は、俺の心臓を落ち着かせる目的もある。
「今日はどうしてヒールを?」
彼女がヒールを履くときは大抵フォーマルな場面だ。
そんな彼女が俺とのデートでわざわざヒールをチョイスしたのには、なにかしらの理由があるに違いない。
俺に聞かれることくらいわかりきっているだろうに、彼女は露骨に視線を泳がせた。
「それ、言わなきゃダメ?」
「言いたくないなら言わなくていいです」
前もって適当な理由を用意するわけでもなく、彼女は俺につけ入る隙を無防備に晒す。
「でも、俺にとって都合のいい口実ができるんですけど。そこは大丈夫ですか?」
「は? 口実? なんの?」
あまつさえ、大きな瑠璃色の瞳を無垢に瞬かせるのだから始末に負えなかった。
どこまでも俺を弄ぶ魔性の恋人である。
ひとり勝手に振りまわされるのも癪に障り、ひとつ咳払いをして形勢の立て直しを図った。
「ここからだと俺の家のほうが近いじゃないですか」
「んー? まぁ、確かに。そうかもね?」
「ヒールで長距離を歩かせることは本意ではないですから。簡単に俺の家に誘い込むことができます」
幸か不幸か、俺の家には彼女のスニーカーも置いていた。
朝帰りなんてあまりさせたくはないが、2日連続でヒールを履かせずにすむ。
「俺とドロドロになるまであまーい夜を過ごしましょうね♡」
ここまで露骨に言い回せば鈍い彼女でも察したらしく、顔を真っ赤にしてキャンキャン吠える。
「あのさあっ!? 言い方! もうちょっと気を回してもらえるっ!?」
「遠回しに言ったところで照れるじゃないですか」
「そうだとしても! そ、それに……」
頬を染めたまま、彼女はわなわなと唇を震わせる。
手にしていたペットボトルが頼りなく音を立てた。
「言わなきゃ誘ってくれないなら、言いたくない」
消え入るような声音で吐露したあと、彼女は唇を噛み締めて俯いた。
ドギャアン!!
我慢していた心臓があり得ない音を立てて、胸をキツく締めつけてきた。
「……っ!!」
両手で左胸を押さえながら乱れた心音と呼吸を整えていく。
「では、ピロトークで教えてください」
「だからっ、言い方っ! いい加減にして!」
息も絶え絶えに伝えれば、きれいに揃えられていた彼女の足が崩れた。
黒いヒールの靴先で俺の靴を小突く。
「俺の気遣いはもう売り切れです」
「ウソつき」
「本当ですって」
建前を全て剥がされて、残っているのは下心のみである。
きれいにめかし込んだメイクを早く崩したいと、心が急いた。
背中を軽く押して彼女を促す。
再び、遠く感じる静かな足音をすく側で耳にしながら、俺たちはショッピングモールをあとにするのだった。
『遠い足音』
照り返したアスファルトの匂いや蒸された草と土の独特な香りは、いつの間にか失われる。
視界を遮るほどの強い日差しに、天高く雲が積み重なってできた入道雲も同様だ。
崩れた入道雲が鱗となって剥がれ落ち、鮮やかな青空を赤トンボが群をなして食い漁った。
息を吸い込めばただ味のしないひんやりとした空気が粛々と肺へと運ばれる。
歩くだけで汗ばみ、鬱陶しくまとわりついていた湿度は、皮膚から夏という記憶を消し去ろうとしていた。
ただひとり、彼女を除いては。
*
「ただいまーっ!」
めずらしく、テンションを上機嫌にチューニングした彼女が帰ってきた。
「涼しくなったから少し時間ずらしてみたけど、もっと早く出ればよかった。まだまだあっついねー」
汗だくになって帰ってきた彼女は、恥ずかしげもなくTシャツを脱ぎ始めた。
「お帰りなさい。洗濯まだなんで、シャワーで軽く汗を流しできたらどうですか?」
「ん。でもその前に、これ。あげる」
ウエストポーチから小さな包み紙を取り出して、彼女は俺に手渡した。
「あ。また出先で無駄遣いしたんですか?」
貴重品も水分も最低限しか持っていってないのだ。
万が一のときに備えてできるだけ寄り道しないように伝えているのに、全然聞いてくれない。
「無駄遣いじゃないもん。いつものヤツ」
「ああ、ブックマーカーですか」
「そそっ」
キラキラした目を輝かせながら、彼女は元気よくうなずく。
彼女の周りだけヒマワリでも咲き誇っているかのような眩しさだ。
俺の反応を落ち着きのない様子で伺っているが、包装紙を開けるタイミングは今ではない。
「……開けませんよ?」
「えぇーっ!?」
「かわいい反応されるってわかっていながら、開けられるわけないでしょう。俺のテンションが上がってシャワーどころじゃなくなります」
「……涼しい顔してなに言ってんの?」
「なにを今さら。ほら、本当に体が冷えちゃいますから。早く行ってきてください」
「むぅ」
渋々としながら浴室に向かった彼女を見送ったあと、包み紙の中身を確認する。
いつからか、彼女は季節ごとにブックマーカーを俺に贈り続けるようになった。
ブックマーカーなんてどれだけあっても困らない。
俺のささやかに楽しみにしているイベントになっていた。
ハリネズミとドングリと落ち葉のイラストが、茶色と赤色を基調にした色使いで優しく描かれている。
今回はファンシーではあるが、落ち着いた雰囲気のあるデザインだ。
次に本屋に出向いたときは、少し秋を連想させる書籍を探してみようと思う。
リビングからシャワーの音が聞こえ始めたから、洗濯機を回すために俺もリビングを出た。
抱えきれなくなった夏の欠けらを溢しながら、少し冷えた風が小さな秋を運んでくる。
『秋の訪れ』