彼女の自宅の下駄箱に、見慣れないブランドロゴの入ったシューズボックスがあることは知っていた。
それがスニーカーではないことも。
だからといって、その靴の中身が黒のハイヒールだったなんて予想はしていなかった。
う、わっ……!?
カツ、カツ、と上品に音を立てて彼女は颯爽とこちらに向かってくる。
遠くから俺を捉えた彼女は、ヒールのせいか駆け寄ってくることはなかった。
早足になるわけでもなくひらりと控えめに手を振る彼女に、俺のほうが待っていられない。
焦ったいわずか数メートルに、たまらず俺が急くように詰めてしまった。
「ごめん。早めに来たつもりだったのに、また待たせちゃった」
彼女が時間よりも少し早めにくることを知っていたから、俺はさらに早めに待ち合わせ場所に来たのだ。
彼女を待たせてナンパでもされたらたまったものではない。
そもそも、俺含め、そこらへんに転がっている男なんて待たせておけばいいのだ。
「いえ。それよりもその靴……」
「ん? 変かな?」
ヒールの高さは4、5cmほどだろうか。
黒い靴に滑らかな白い足の甲のコントラストは目に毒だ。
速度を増す胸の鼓動に気づかなり振りをしながら、表情をわずかに曇らせる彼女の言葉を否定する。
「いえ、とてもよくお似合いですよ。でも疲れたらちゃんと教えてくださいね?」
「わかった。ありがと」
商業施設のカフェに行く予定だ。
人通りも多くて賑やかな場所だから、多少ヒールの音を響かせても問題はない。
だが、いつもスニーカーばかり履いているから、靴擦れができないか心配だ。
彼女の足裏に傷を作るわけにはいかない。
決意を新たに、俺は彼女の手を引いて歩き始めた。
*
彼女は俺のすぐ隣にいるはずなのに、足音が遠く感じる。
ショッピングモールという雑踏のなかに紛れているにしても、彼女の足音が妙に静かだった。
いつもより少し歩幅は狭いが、彼女が歩きにくそうにしている様子も、足を引きずっているわけでもない。
緩やかなリズムを刻むヒールの音は、心地よさすら感じた。
とはいえ、普段は階段を使うところをエスカレーターに頼ったりして、少しでも彼女の足の負担が少なくすむように注意を払う。
彼女の頭頂部がいつもより高くなった。
小さく揺れるポニーテールから白い頸が覗いて、俺の心臓まで揺さぶられる。
俺の視線がうるさすぎたのか、そのポニーテールが翻った。
「……どうしたの?」
あなたのおみ足にドキドキしています♡
なんてこの場で言ってしまおうものなら、逃げられてしまいそうだ。
彼女の言葉には、首を横に振っておくことにする。
「いえ。なんでもありませんよ」
控えめにいって、彼女のヒールは心臓に悪かった。
すらりと伸ばされた足の甲は色っぽい。
ジーンズに隠れたふくらはぎが張っていないか、靴擦れを起こしていないか心配になり、ことあるごとにベンチやソファに座らせようとすれば、彼女は淑やかに足を斜めに揃えて腰を下ろした。
「ごめん」
「え?」
自販機で買った小さなペットボトルを、彼女は両手でペコペコと遊ばせる。
「こんなに気を遣われるとは思ってなかった」
「あぁ」
大型商業施設ということを利用して、昼食、水分補給、ガチャガチャを回して開封式、カフェ、トレーディングカードのパックをいくつか買って開封式。
適当に理由をでっちあげては彼女を座らせる機会を多く作った。
「すみません。露骨すぎましたか?」
「いや、れーじくんの過保護は今に始まったことじゃないから、今さらいいんだけど……」
いいんだ。
本当に。
彼女はなんでも受け入れてくれるから、俺は確信に迫ってみることにした。
「では、過保護ついでにひとつ、教えてください」
「……なに?」
小刻みに挟んだ休憩は、俺の心臓を落ち着かせる目的もある。
「今日はどうしてヒールを?」
彼女がヒールを履くときは大抵フォーマルな場面だ。
そんな彼女が俺とのデートでわざわざヒールをチョイスしたのには、なにかしらの理由があるに違いない。
俺に聞かれることくらいわかりきっているだろうに、彼女は露骨に視線を泳がせた。
「それ、言わなきゃダメ?」
「言いたくないなら言わなくていいです」
前もって適当な理由を用意するわけでもなく、彼女は俺につけ入る隙を無防備に晒す。
「でも、俺にとって都合のいい口実ができるんですけど。そこは大丈夫ですか?」
「は? 口実? なんの?」
あまつさえ、大きな瑠璃色の瞳を無垢に瞬かせるのだから始末に負えなかった。
どこまでも俺を弄ぶ魔性の恋人である。
ひとり勝手に振りまわされるのも癪に障り、ひとつ咳払いをして形勢の立て直しを図った。
「ここからだと俺の家のほうが近いじゃないですか」
「んー? まぁ、確かに。そうかもね?」
「ヒールで長距離を歩かせることは本意ではないですから。簡単に俺の家に誘い込むことができます」
幸か不幸か、俺の家には彼女のスニーカーも置いていた。
朝帰りなんてあまりさせたくはないが、2日連続でヒールを履かせずにすむ。
「俺とドロドロになるまであまーい夜を過ごしましょうね♡」
ここまで露骨に言い回せば鈍い彼女でも察したらしく、顔を真っ赤にしてキャンキャン吠える。
「あのさあっ!? 言い方! もうちょっと気を回してもらえるっ!?」
「遠回しに言ったところで照れるじゃないですか」
「そうだとしても! そ、それに……」
頬を染めたまま、彼女はわなわなと唇を震わせる。
手にしていたペットボトルが頼りなく音を立てた。
「言わなきゃ誘ってくれないなら、言いたくない」
消え入るような声音で吐露したあと、彼女は唇を噛み締めて俯いた。
ドギャアン!!
我慢していた心臓があり得ない音を立てて、胸をキツく締めつけてきた。
「……っ!!」
両手で左胸を押さえながら乱れた心音と呼吸を整えていく。
「では、ピロトークで教えてください」
「だからっ、言い方っ! いい加減にして!」
息も絶え絶えに伝えれば、きれいに揃えられていた彼女の足が崩れた。
黒いヒールの靴先で俺の靴を小突く。
「俺の気遣いはもう売り切れです」
「ウソつき」
「本当ですって」
建前を全て剥がされて、残っているのは下心のみである。
きれいにめかし込んだメイクを早く崩したいと、心が急いた。
背中を軽く押して彼女を促す。
再び、遠く感じる静かな足音をすく側で耳にしながら、俺たちはショッピングモールをあとにするのだった。
『遠い足音』
10/2/2025, 9:56:22 PM