先日、俺は無事に卒業論文を提出し終えた。
ノートパソコンを片手に持った彼女は、そんな俺に声をかける。
「一緒に住む家、ちょっとだけ探してみない?」
「もちろん。いいですよ」
リビングのローテーブルにノートパソコンを置いた彼女は、慣れた手つきでキーボードを叩いていく。
……あ、自分でやるんだ?
彼女はインターネットを駆使して、同棲するための物件を探し込んでいた。
楽しそうに空き物件を漁ってはプリントアウトしていく彼女がかわいい。
しかも自発的に動いてくれているということは、俺との同棲生活を彼女自身も楽しみにしてくれているということだ。
もうそれだけで幸せである。
彼女のやる気に水をさすのは違う気がして黙ってはいるが、正直、物件を新たに探す必要ない気がした。
なぜなら、間取りの広い1LDKや広い収納スペース、セキュリティ面の観点から、本来であれば俺が彼女の家に移動するという選択が最適だからだ。
俺の考えをそのまま伝えてみたのだが、彼女は首を横に振って拒否を示す。
「れーじくんのお部屋がないじゃん」
「俺の個室、ですか?」
なんのために?
俺の荷物が多すぎる、という懸念なのだろうか。
確かに本とか増えがちだし、彼女とつき合ってからは洋服や靴も増えていった。
確かに、全て持っていくとなると手狭になってしまう。
「俺の私物でしたらきちんと整理しますし、気になるなら増やさないように気をつけますよ?」
「……いや、私物っちゃ私物なんだけどさ」
歯切れの悪い彼女の言葉に俺はある考えに辿り着いた。
「あ。まさか、寝室を別々にするつもりですか?」
それであれば断固拒否の姿勢を貫かなければならなくなる。
「れーじくんのはおっきくて気持がいいから、寝室は別にどっちでもいい」
「ありがとうございます……っ!」
寝具の話だということはわかっている。
わかってはいるが、今のは彼女が悪い。
「おい。ベッドの話だからな?」
テーブルに突っ伏して耐えていると、彼女の低い声が降ってきた。
その静かな低音ですら俺の劣情を煽る。
「ええ。もちろん、わかってます。俺が思っている以上に夜の相性が抜群だったみたいでうれしいですよ♡」
「わかってるならワザと変な言い回ししないでくれる?」
少し頬を染めて気まずそうにした彼女が、ペちっと俺の胸板を小突いた。
「それであれば、その言葉足らずをなんとかしてほしいですね。期待しかできなくなりますから」
「……今じゃないだろ、それは」
今じゃなければ期待してくれるのだろうか。
それほどまでに俺との共同生活を楽しみにしてくれているという事実に、心躍った。
彼女は普段、インターネットの海に深く潜り込むことがないから、それも手伝っているのかもしれない。
「そうじゃなくて。大量生産した変なグッズを私の視界に入れるなって言ってる」
「あぁ。そっちでしたか」
俺が大切に抱えているグッズ事情で拒まれるとは想定していなかった。
「ですが、本腰入れて家探しするには時期が早すぎませんか?」
「え? そうなの?」
俺はまだ学生の身分だ。
大学の卒業論文も終わっているし、就職先の内定ももらってはいるが、卒業式にはまだ早い。
同棲を始めるのは年度始めの4月を予定していた。
今はようやく入道雲が崩れてひつじ雲になった9月。
アパートを探す前にやるべきことが残されていた。
長い睫毛をぱちぱちと揺らし、大きな瑠璃色の瞳で不思議そうに見上げる彼女の頬を撫でる。
「イメージのすり合わせは大切ですけど、まずはあなたのパパに改めてご挨拶をしてからでしょう」
「あー、そっか、そっか。れーじくんのところにも行かなきゃ」
「えっ!? 俺……、のところは事後報告で問題ありません……です……けど?」
「その反応のどこが問題ないんだよ。ちゃんと行くからな?」
「ぐう」
俺の常軌を逸した彼女の愛情表現を隠していないから、両親には説教される未来しか見えなかった。
彼女の前で両親からお小言浴びるとか、格好つかなさすぎて嫌すぎる。
「それともなんだ? 私はれーじくんのご両親に紹介できるような女じゃないってこと?」
「その言い方は、いくらなんでもずるいですよ」
俺の浅はかな胸中など察してくれるはずもない彼女が、小賢しい拗ね方をしてきた。
これ以上は、むしろ俺が彼女に並ぶに値しない人間だという現実を突きつけられかねない。
ここはおとなしく引き下がることにした。
「あと、この家はお義父様が探したって聞いています」
「そうだけど、それがどうかした?」
「お義父様とお義兄様がきちんと納得してくれる物件を探さないと」
「えー!? パパもあのふたりもめちゃくちゃ細かいのにっ!?」
そんなかわいくほっぺた膨らませて駄々こねないでください。
かわいいだけなんで。
「れーじくんがいるからいいじゃん! だめなのっ!?」
「……うれしいですけど、多分ダメです」
唐突にギュンッと心臓を鷲掴みされてしまった。
彼女はもう少しいろんな人に狂愛されている自覚を持ったほうがいい。
下手な物件を探そうもんなら、俺と彼女の仲を引っぺがされる可能性まであるのだ。
「せっかく見繕ったのに……」
「俺、早い分にはかまいませんよ? お義父様にご挨拶したのちに、このリストを持ってイメージを伝えるのは悪くないと思います」
「なるほど」
大雑把ではあるが、意外と細かいところで神経質な彼女だ。
家探しに関して、俺は彼女のフォローに徹したほうがいいだろう。
差し当たって俺がやるべきことはひとつ。
「挨拶のときは、俺は玄関ドアの前で全力土下座するので、あなたは説得がんばってください」
「ほあっ!? えっ!? 土下座っ!? は!? ちょっと待って! 説得って私がやるのっ!?」
急に俺のほうを振り返って慌てはじめる彼女だが、当たり前だろう。
「本人には公認されていますが、ストーカーである俺が『天使以上にかわいい娘さんを俺にください』なんて言って許してくれる親がどこにいるんですか。ちょっとは世間一般の常識に寄り添って考えてください」
「はあああっ!?」
彼女は形のいい眉毛をつり上げて、怒りのボルテージをどこまでも上げていった。
「公認した記憶もないし、ストーカーまがいのことしてるって自覚あったんなら自重しろよっ!」
サラサラの青銀の髪の毛を逆立てて声を荒げ、彼女は本格的に怒りだす。
あ、ヤバい。
直感的に危機感を察知して、彼女の代わりにパソコンのキーボードに触れた。
ちょうどタイミングよくよさそうな物件が検索から出てきたので、画面を彼女に向ける。
「あ、この物件も条件よさそうですよ」
「おい、コラッ! 人の話聞けよっ!?」
彼女の怒号を受けながら、ネットの海に潜り込んでいくのだった。
『旅は続く』
年末は彼女の身動きが取れなくなる。
寒さが本格化して汚れが落ちにくくなる前に、少し早いが彼女の自宅の大掃除に取りかかることにした。
荷物の整理をしている最中、未開封のテーブルゲームをいくつか発見する。
彼女の自宅は散々漁ってきたというのに、一体どこに隠し持っていたのか。
俺のささやかな疑問はあとで追求するとして、彼女はそれらを処分するつもりでいるようだ。
「未開封ですけど、捨てちゃうんですか?」
「うん。一緒にやる人いないし」
「俺がいますがっ!?」
俺というものがありながら寂しいことを口走るので、休憩がてらテーブルゲームに勤しむことにした。
まず、ふたり遊びには王道のリバース。
彼女のA打ちとB打ちの駆け引きが絶妙で、俺は見事に踊らされた。
ぱち、ぱち、と静かに音を立てて白石が黒にひっくり返された。
ターン制のゲームのはずが、終盤は石の置き場所がなくなり、ずっと彼女のターンである。
「……ねえ。まだやるの?」
普段は感覚的に物事を進めるからすっかり忘れていたが、彼女は地頭がいい。
きれいに黒色に染まった盤面を見て、そんな当たり前のことに気づかされる。
理詰めのリバーシゲームに、俺は手も足も出なかった。
俺が特別に弱いわけではないはずなんだけどな……。
理詰めのゲームはむしろ得意まであったはずだ。
なのに彼女には微塵も勝てる気がしない。
退屈そうに石を片づける彼女の態度は、俺の闘争心に火をつけた。
「ハンデまでもらったのに1回も勝てないとか悔しいじゃないですか」
5回ほど対戦して全敗した。
しかもそのうちの2回は隅をふたつももらうという、お膳立てまでしてもらって負けたのである。
「そういや意外と負けず嫌いだったな?」
彼女は人の闘争心を焚きつけるのも天才的だ。
傲慢に唇をきれいな三日月の形にして、俺のプライドを完膚なきまでにへし折りにかかる。
「いっそもう、隅っこ全部あげよっか?」
「は? いくらなんでもそれは俺を舐めすぎです」
対戦慣れしてないクセに、さすがにデカい口を叩きすぎだろう。
四隅に白石を乗せて、再度、俺たちは盤面の勢力争いを繰り広げた。
「ドヤッ」
「ぴえん」
俺のプライドは木っ端微塵に吹き飛ばされた。
*
大掃除に目処を立てたあと、俺とのリバーシに飽きてしまった彼女は別のゲームを所望した。
マジかー……。
なお、本人の体幹が化け物級に優れているせいだろうか。
プレイヤーが交互にブロック積み木を引き抜いて重ねていく、バランスタワーゲームのセンスは壊滅的だった。
先攻であった彼女は、初手でいきなりタワーを派手に崩す。
「み゛ゃあああああぁぁっ!?」
「うわ……」
いきなりそんなガチガチになっている真ん中ぶち抜くか?
……とは正直思った。
しかし、手先も器用だから持ち前のセンスでうまいことやるのだろうと期待してしまったのだ。
リバーシとは全く異なった理由で、一向に俺のターンが回ってこない。
せめて俺の番がくるまではと先攻を譲り続けて数回目。
ついに彼女が限界を迎えた。
「ふざけんなっ! この程度のバランス感覚でふらついてんじゃねえよっ!」
「ふらつくどころか崩れ去ってますけどね」
「はああぁっ!? ムカつく!」
積み木相手に彼女は過去最高レベルでキレ散らかした。
『モノクロ』
あれ?
ローテーブルを挟んで彼女と向かい合って食事をしたあと、酒を飲んでいたのだが。
いつの間にか彼女の隣にピッタリとくっついていた。
位置的にも移動したのはどう考えても俺だろう。
このような状況になったきっかけはよくわからなかったが、至近距離で彼女の存在を感じられるのは願ったり叶ったりだ。
「あなたのその永久保存版の美しさはどうにかなりませんか?」
酒を片手に、ちょこんとお行儀よく座っている彼女の肩に手を回す。
小さく肩を揺らしてかわいらしく動揺を見せたあと、彼女はいじらしく取り繕った。
「視界を潰せばいいと思う」
視線を俺に寄越さないまま、彼女は麦茶の入ったグラスを手に取る。
彼女は麦茶を少し口に含んだあと、ため息をついた。
アルコールを一切含んでない理性的な瑠璃色の瞳は、長い睫毛で隠される。
俺もグラスに入っていた残りの酒を全て飲み干した。
「毎日毎日その瑠璃色の瞳に吸い込まれそうで……永遠に見ていられます♡」
澄ました横顔を動揺させたくて、彼女が手にしていたグラスを奪い取った。
適当にグラスを指で滑らせたら、ローテーブルの上で俺のグラスと軽くぶつかる。
祝福の音を立てた俺たちのグラスは、仲良く寄り添っていた。
一方で、視線の合わない意地悪な瞳を追いかける。
物理的に逃げられなくなった彼女は、両手で俺の顔を押しのけた。
「そっちが勝手に寄ってきてるだけだから離れてくれる?」
棘をまとった口調と、腕力に頼り始めた彼女の態度に口元が緩んだ。
「あなたとつき合えた俺は一生ずっとハッピーですね♡」
「実績もないクセによく言えたな?」
多分、彼女にとって今の俺の発言は不興そのものだろう。
永遠や一生がないことを、無垢だった彼女は経験してしまった。
鼻を鳴らしてあからさまに機嫌を損ねる。
麦茶に手を伸ばして溜飲を下げようとするその右手を掴んだ。
「そっちこそ。そんな俺から逃げきれなかったクセにまだそんなくだまいてるなんて、かわいいですね?」
「は?」
ようやく彼女との視線が絡み合う。
眼光を鋭く光らせて怒っているのが残念だが、こうでもしないと目を合わせてくれそうになかった。
「さっきからなに? ケンカでも売ってる?」
「まさか」
感情の起伏を利用したことは間違いないが、ケンカをしたいわけではない。
当然、傷口に塩を塗りたいわけでもなかった。
「いい加減、あなたにわかってほしいだけですよ」
つき合った今もなお、口説き足りない思いの丈をほかの誰でもない彼女に知ってほしい。
それだけだった。
「俺以上に執着できる男はいませんし?」
「それ、褒められたことじゃないからな?」
極寒の北極海よりも冷め切った目を向けて、彼女は身震いさせる。
厳酷な彼女の態度にさすがにツンが手強すぎると、普段の俺なら尻込みしていた。
ところがどっこい。
今日の俺はいつもよりたくさんアルコールが入っているから無敵である。
「あなたの一生を、今さら俺が手放すわけないでしょう?」
蔑みの目を向けて、ついには足まで出しながら離れようとする彼女にもめげずに食らいついた。
「あなたの心に一生しがみついてみせますから。安心して残りの人生、しっかり俺のことを引きずってください」
「うっわ。なにコイツ。本格的にダルいこと言い始めた」
「ええ? そんなつれないこと言わないでくださいよ?」
本当に嫌そうにしてリビングから出ていこうとするので、彼女の腰に腕を回して阻止をした。
「永遠なんてそんな生優しいだけの言葉で縛るつもりはありません」
「今日よりも明日、明日よりも明後日、明後日よりも明々後日。あなたの未来を少しずつ俺にください」
「……っ」
ああ。
本当に、この澄みきった瑠璃色の瞳に吸い込まれそうだな。
ぼんやりとした頭でゆっくりと彼女との距離を埋めていくと、真っ赤に染まった顔を逸らして抵抗してきた。
「きゅ、急にガチで口説くのやめてっ! この酔っ払い!!」
「軽めにジャブ打っても相手にしてくれなかったクセに♡ いじわる言わないでください♡」
むちゅりと彼女の唇に吸いついたあと、エグめに舌を捩じ込んで強引に彼女をなし崩していく。
彼女が無防備に身を委ね始めたところで、俺たちは寝室に移動した。
『永遠なんて、ないけれど』
彼女が育てた恋の花は、とっくに散ってしまっていた。
ボロボロになった植木鉢には、萎れた茎と乾いた土が残されたままになっていた。
痩せた土に水をあげるなんて痛々しいことをしているわけでもない。
ただ、捨てられない程度には未練が残っているのも事実だった。
相手に新しい恋の花が咲いたのをまざまざと見せつけられたとき、彼女は自分の心ごと植木鉢を捨てる。
声どころか、嗚咽すら漏らさず肩を震わせるのは、彼女のなけなしのプライドだ。
涙となって粉々に溢れる彼女の心を掬い取ることは、振られ続けている俺にはできない。
俺にできたことは抵抗する気力のない彼女の目の前に立ち、壁になって視界を塞ぐことが精々だった。
いつもより近くなった距離は、彼女の体温や匂いや感情を連れてくる。
俺なら、彼女にこんな表情をさせないのに。
彼女の感情の軌跡を拭うどころか自分の服にすら刻ませられないクセに、ひどく傲慢でひとりよがりな感情が、胸の内をどす黒く支配していった。
どうせ捨ててしまう心なら、とりあえず俺に預けてほしい。
決してあなたの生き様の邪魔をしたりしないから、と、ほかの誰でもない彼女に誓った。
それから、ピカピカの植木鉢を用意する。
土を入れてタネをまき肥料と水をたっぷりと与えた。
叶うなら俺と、新しく恋ができるように。
*
大学の帰りだろうか。
駅に向かう彼女の背中を見つけて俺はそっと声をかけた。
「好きです」
「ごめんなさい」
あれから数ヶ月たった今も、俺は相変わらず彼女に振られ続けている。
「そうですか。残念です」
「告白ならもう少し場所を考えて」
俺と目も合わせず、足を止めることなくつれない態度の彼女だったが、こうしてささやかな配慮を求めるようになった。
どんなかたちであれ、求められることは悪くない。
「その呼び出しに応じていただけるのなら、いくらでも熟慮しますよ」
「……」
約束を取りつけてしまえば、例え一方的なものであっても律儀な彼女は応じてしまう。
だから彼女は無言で拒否を示した。
「では、また」
「ん。お疲れ」
え?
ポツリと風に乗せた彼女の言葉に耳を疑う。
瞼が大きく見開いたときには、彼女の姿は人混みの中に紛れてしまった。
何気ない労いの言葉の中に柔らかな笑みが乗せられた気がするが、確信はない。
どうせ捨ててしまう心なら俺に預けてほしかった。
流した涙も、傷の痛みも、全て俺のせいにしてほしい。
彼女が捨てた心を拾って、ピカピカの植木鉢を用意した。
栄養たっぷりの土を入れて新しいタネをまき、肥料と水を十分に与える。
叶うなら、俺と新しく恋ができるように。
『涙の理由』
俺がワガママを通して、彼女の自宅で昼食をすませた。
食べ終わった食器さげたあと、温かい麦茶を入れたマグカップをローテーブルに置く。
「台所、お借りしますね?」
「……どうぞ」
彼女は唇を尖らせながらうなずいて、マグカップを受け取った。
ちょっとした罪悪感から、彼女は絶賛不貞腐れている。
食器を片づけたい彼女と、水仕事をさせたくない俺で衝突したのだ。
もちろん、その攻防には俺が勝利する。
食材、調理と俺の好きにさせてもらったのだから、最後の片づけもワガママを通させてほしいと屁理屈をこねたのだ。
ツンとする彼女の頭を撫でたあと、片づけに取りかかる。
食器、調理器具、キッチン周り、換気扇をしっかり掃除したあと、棚の上に高級感溢れるギフトボックスが置いてあることに気がついた。
つい最近用意したばかりなのだろう。
老舗コーヒーブランドのロゴが箔押しされていた箱は、未開封で真新しかった。
ブランド名からして明らかに来客用に用意したと考えるのが自然だろう。
だが、彼女は自宅に人を招くタイプではないはずだ。
普段、彼女はコーヒーを飲まないから自宅用でもない。
ギフトボックスを手にしてリビングに戻った俺は、彼女の隣に座った。
「来客の予定でもあるんです?」
「え? ないけど。急にどうしたの?」
ローテーブルの上に例のギフトボックスを置く。
「俺の聖域にこんな見慣れない箱ががあれば気になりますよ」
「あー、コレか」
箱を一瞥したあと、彼女はすぐに興味を失ったのか、麦茶の入ったマグカップに手を伸ばした。
「コレ、れーじくん用」
「はあっ!?」
「よく飲んでるから、用意してみた」
「用意って。いや、うれしいですけど俺、そんな味の違いとかわかんないっすよ?」
企業努力あってのことではあるが、俺がいつも飲んでいるのは150円前後のコーヒーだ。
わざわざ俺でも知っているような高級ブランドのものを用意してもらうほど、コーヒーに詳しくはない。
「私もわかんない。ただ、見た目がかわいかったから選んだだけ」
マグカップをローテーブルの上に置いた彼女は、小さく息をついた。
俺の様子をうかがう彼女の雰囲気が気恥ずかしそうに移り変わる。
頬を染めて落ち着きなく指を遊ばせる姿に息を飲んだ。
「ど、だって、れーじくんが……、私物らしい私物はあんまり置かないからじゃん」
え、俺の私物?
コーヒーから急に俺の私物に矛先が向き、話が見えなくなった。
「キッチンは我がもの顔で占拠したクセに……」
「さすがにそれは言葉に語弊がありませんか?」
調理器具は置かせてもらっているのだが、元々は彼女の所有物である。
あまり物を増やされたくないのかと思い、調味料も最低限に留めていた。
「試しにあなたの写真を1枚飾ってみたらすぐに撤去されてしまったので」
「キッチンに6切りサイズの写真を置くのはさすがに勘弁して」
どうせL版でも許してくれないのに、サイズの問題みたいに言うのはやめてほしい。
「……まともに使ってないクセに」
ボソッと本音を溢したら彼女の眼光が鋭く光った。
「なんだって?」
「なんでもありません」
俺が初めて彼女のキッチンを借りたとき、冷蔵庫と電気ケトルくらいしか稼働しておらず、度肝を抜かれたことを思い返す。
収納棚には未開封の調理鍋やフライパン、よさげなオーブンレンジと炊飯器が眠っていた。
それから足繁く通い、彼女の許可をもらいながら少しずつキッチンらしく整えていく。
キッチンでさえあの状態だったのだ。
勝手にアレもコレもと置くのはさすがに気が引ける。
「ゴミだって、生ゴミとか、……あ、アレのときのティッシュすら絶対持ち帰るし……」
「ゴミの日のときはさすがにマンションのゴミステーションをお借りしています」
「そういうことを言ってるんじゃなく、てっ」
ギュッと膝の上で彼女は指を握りしめる。
「ケトルならあるし、コーヒーくらいは温かいの飲んでほしい。……ってことを、言いたくて」
「え……」
ここまで聞いてようやく彼女の言いたいことを理解する。
彼女の部屋は少し生活感に欠けていた。
家を空ける機会が多いことも要因のひとつだろう。
ひとつひとつを見ていけば彼女の存在は確かに感じるのに、あまり人が住んでいる気配がしないのだ。
「荷物、置いてもよかったんですね?」
「イ、イヤじゃなければ……」
ふるふると唇を震わせる彼女は、顔を真っ赤にして恥ずかしがってはいるが、無理をしている感じではなかった。
いや、がんばっていじらしく気持ちを伝えてくれているという意味では相当無理をさせてしまっている。
俺としても、荷物を置かせてくれるなら願ったり叶ったりだ。
万が一、彼女の自宅に他人が上がり込んだときのための牽制にもなる。
しかし、宿主である彼女が存在を消しているのに、俺が主張するのも違う気がして、今まで私物は持ち帰っていたのだ。
「イヤだなんてそんなまさか。うれしいです」
たまらずに彼女を抱きしめると、彼女がホッと肩の力を抜く。
「お、お風呂も、ね? 毎回トラベル用のヤツ用意するの大変ならボトル置いてもいいんだよ?」
抱きしめた腕の中から、彼女がひょこっとはにかんだ顔を覗かせた。
頬を染めながらもうれしそうに照れ笑いする彼女が眩しい。
夏も終わりかけているのに、目が眩みそうになった。
うー……、わー……。
なんだこのかわいい生き物。
あざとすぎるにも程がある。
今度、絶対にマグカップとシャンプー持ってこよ……。
「ありがとうございます。そういうことなら、お言葉に甘えますね」
舞い上がる気持ちはなんとか抑え込んで、俺は彼女の背中を抱きしめ直した。
『コーヒーが冷めないうちに』