すゞめ

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 彼女が育てた恋の花は、とっくに散ってしまっていた。
 ボロボロになった植木鉢には、萎れた茎と乾いた土が残されたままになっていた。
 痩せた土に水をあげるなんて痛々しいことをしているわけでもない。
 ただ、捨てられない程度には未練が残っているのも事実だった。

 相手に新しい恋の花が咲いたのをまざまざと見せつけられたとき、彼女は自分の心ごと植木鉢を捨てる。

 声どころか、嗚咽すら漏らさず肩を震わせるのは、彼女のなけなしのプライドだ。
 涙となって粉々に溢れる彼女の心を掬い取ることは、振られ続けている俺にはできない。
 俺にできたことは抵抗する気力のない彼女の目の前に立ち、壁になって視界を塞ぐことが精々だった。
 いつもより近くなった距離は、彼女の体温や匂いや感情を連れてくる。

 俺なら、彼女にこんな表情をさせないのに。

 彼女の感情の軌跡を拭うどころか自分の服にすら刻ませられないクセに、ひどく傲慢でひとりよがりな感情が、胸の内をどす黒く支配していった。

 どうせ捨ててしまう心なら、とりあえず俺に預けてほしい。
 決してあなたの生き様の邪魔をしたりしないから、と、ほかの誰でもない彼女に誓った。

 それから、ピカピカの植木鉢を用意する。
 土を入れてタネをまき肥料と水をたっぷりと与えた。
 叶うなら俺と、新しく恋ができるように。

   *

 大学の帰りだろうか。
 駅に向かう彼女の背中を見つけて俺はそっと声をかけた。

「好きです」
「ごめんなさい」

 あれから数ヶ月たった今も、俺は相変わらず彼女に振られ続けている。

「そうですか。残念です」
「告白ならもう少し場所を考えて」

 俺と目も合わせず、足を止めることなくつれない態度の彼女だったが、こうしてささやかな配慮を求めるようになった。
 どんなかたちであれ、求められることは悪くない。

「その呼び出しに応じていただけるのなら、いくらでも熟慮しますよ」
「……」

 約束を取りつけてしまえば、例え一方的なものであっても律儀な彼女は応じてしまう。
 だから彼女は無言で拒否を示した。

「では、また」
「ん。お疲れ」

 え?

 ポツリと風に乗せた彼女の言葉に耳を疑う。
 瞼が大きく見開いたときには、彼女の姿は人混みの中に紛れてしまった。
 何気ない労いの言葉の中に柔らかな笑みが乗せられた気がするが、確信はない。

 どうせ捨ててしまう心なら俺に預けてほしかった。
 流した涙も、傷の痛みも、全て俺のせいにしてほしい。

 彼女が捨てた心を拾って、ピカピカの植木鉢を用意した。
 栄養たっぷりの土を入れて新しいタネをまき、肥料と水を十分に与える。

 叶うなら、俺と新しく恋ができるように。


『涙の理由』

9/28/2025, 4:36:52 AM