すゞめ

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 照り返したアスファルトの匂いや蒸された草と土の独特な香りは、いつの間にか失われる。
 視界を遮るほどの強い日差しに、天高く雲が積み重なってできた入道雲も同様だ。

 崩れた入道雲が鱗となって剥がれ落ち、鮮やかな青空を赤トンボが群をなして食い漁った。

 息を吸い込めばただ味のしないひんやりとした空気が粛々と肺へと運ばれる。
 歩くだけで汗ばみ、鬱陶しくまとわりついていた湿度は、皮膚から夏という記憶を消し去ろうとしていた。

 ただひとり、彼女を除いては。

   *

「ただいまーっ!」

 めずらしく、テンションを上機嫌にチューニングした彼女が帰ってきた。

「涼しくなったから少し時間ずらしてみたけど、もっと早く出ればよかった。まだまだあっついねー」

 汗だくになって帰ってきた彼女は、恥ずかしげもなくTシャツを脱ぎ始めた。

「お帰りなさい。洗濯まだなんで、シャワーで軽く汗を流しできたらどうですか?」
「ん。でもその前に、これ。あげる」

 ウエストポーチから小さな包み紙を取り出して、彼女は俺に手渡した。

「あ。また出先で無駄遣いしたんですか?」

 貴重品も水分も最低限しか持っていってないのだ。
 万が一のときに備えてできるだけ寄り道しないように伝えているのに、全然聞いてくれない。

「無駄遣いじゃないもん。いつものヤツ」
「ああ、ブックマーカーですか」
「そそっ」

 キラキラした目を輝かせながら、彼女は元気よくうなずく。
 彼女の周りだけヒマワリでも咲き誇っているかのような眩しさだ。

 俺の反応を落ち着きのない様子で伺っているが、包装紙を開けるタイミングは今ではない。

「……開けませんよ?」
「えぇーっ!?」
「かわいい反応されるってわかっていながら、開けられるわけないでしょう。俺のテンションが上がってシャワーどころじゃなくなります」
「……涼しい顔してなに言ってんの?」
「なにを今さら。ほら、本当に体が冷えちゃいますから。早く行ってきてください」
「むぅ」

 渋々としながら浴室に向かった彼女を見送ったあと、包み紙の中身を確認する。
 いつからか、彼女は季節ごとにブックマーカーを俺に贈り続けるようになった。
 ブックマーカーなんてどれだけあっても困らない。
 俺のささやかに楽しみにしているイベントになっていた。

 ハリネズミとドングリと落ち葉のイラストが、茶色と赤色を基調にした色使いで優しく描かれている。
 今回はファンシーではあるが、落ち着いた雰囲気のあるデザインだ。
 次に本屋に出向いたときは、少し秋を連想させる書籍を探してみようと思う。

 リビングからシャワーの音が聞こえ始めたから、洗濯機を回すために俺もリビングを出た。

 抱えきれなくなった夏の欠けらを溢しながら、少し冷えた風が小さな秋を運んでくる。


『秋の訪れ』

10/2/2025, 3:05:25 AM