俺なんかが好きになってはいけない人を好きになった。
彼女とは住む世界が違う。
そんなことは、彼女に一目惚れした瞬間からわかりきっていた。
例えば1から12までの数字が刻まれたアナログ時計。
12個の数字が並ぶなかで、長針と短針、秒針の全てが重なるのはたった一度きりだ。
12の数字のみ、3つの針がピッタリと重なる、時間は1秒間。
1日換算で2回、そのきれいな時間は訪れる。
0時、12時、24時、屁理屈をこねれば3回になるが、彼女の眠る0時と24時は適応されなかった。
時計の針が合わさる12時の1秒間。
1日のなかで俺と彼女が巡り合わさる、最初で最後の可能性だった。
その1秒はあくまでも自然の流れに従った時間。
秒針が12を指すタイミングでアナログ時計の電池を抜いた。
強制的に止まった時間は俺の意のまま、くるくるとネジを回して長針と短針も時計の頂点へ合わせていく。
こうして歪めた時間をさらに歪めて、じっくりと彼女に愛の言葉を囁き続けた。
刻むことのない偽りの時間を彼女とともに過ごす。
魔法が解けるのは深夜0時。
全ての時計の針が重なるわずか1秒。
スローモーションのように彼女によって全て暴かれるとしたら、この時間しかない。
どうか気づかないでいてほしいと願った。
秒針を刻んでしまう「いつか」が来たとき、離れたくても離れられないくらいに、情を深く刻みつけるまで。
*
アラームが鳴るには早すぎる時間。
時間がズレてしまっていたのか、置き時計の目覚ましがけたたましく寝室に響いた。
いつも通り22時頃に眠り始めた彼女の意識が戻ってくる。
「ん、……んー……?」
ぽやぽやとした状態で手探りでアラームを探し始めたから、代わりに俺が止めておいた。
「……?」
「すみません。うるさかったですね」
状況が飲み込めていない彼女が目元を擦って起きあがろうとするので、抱きしめて背中を撫でる。
「時計がズレていたみたいです」
「とけ、い」
「電池は俺が変えておくので、ゆっくり眠ってください」
薄目で瞬き、睫毛を震わせている彼女から腕を離した。
「まって」
音にならずに溢れた吐息と、力なく俺に縋る姿がひどく煽惑的で体がこわばる。
「え」
どうしました?
その言葉は、彼女の唇によって塞がれた。
寝ていたのに潤いを含んでいた桜色の唇は俺の上唇を食んだあと、かわいらしいリップ音を立てて離れていく。
「ふふっ。きもち、ね……?」
「っちょ、あのっ!?」
俺の視界いっぱいにふやけた笑みを焼きつけたあと、彼女の後頭部が力なく枕に沈んでいった。
そのまま深く眠りに入ったのか、彼女は小さな寝息を立てている。
その健やかな寝顔を見つめながら、穏やかな熱を与えられた自分の唇に触れた。
彼女からのキスなんて、なにかしらの条件をぶら下げてきたとき以外は滅多にない。
しかも、あんなふにゃふにゃでとろけて誘い込むようなキスなんて……ああああああああぁぁぁっっっ♡
俺も気持ちよかったです♡
明日はもっといっぱい気持ちよくなりましょうね♡
がんばります♡
緩んでいく顔を手で押さえながら、電池を変えるために時計を持って寝室を出る。
*
新しい電池に交換したあと、正しい時刻を携帯電話で確認した。
深夜2時7分。
時刻は既に日付を跨いでいた。
0時0分0秒。
ネジを回して針をピッタリと重ねた。
魔法の効力はとっくに消え、ズルをしたことは既に暴かれている。
しかし。
時計の針が重ならなくても、彼女は俺と唇を重ねてくれた。
もう、魔法は必要ない。
深夜2時7分。
時刻をきちんと合わせたあと、アナログ時計の秒針を進めた。
『時計の針が重なって』
「あ、あのっ!」
リビングのソファに腰かけている彼女の前に俺は正座をする。
神妙な雰囲気につられてか、彼女も背筋を正した。
「え、なに、急に。どしたの?」
「俺、い、いや。私……、でもないな? その、……んんっ」
咳払いして仕切り直したあと、俺は思いきり額をカーペットの上に押しつけた。
「僕と一緒にお揃いのスニーカー履いてシーに行ってくれませんか?」
「……」
彼女は数拍分、俺の言葉を熟考させたあと、特大のため息を吐き出す。
「いいけど、その土下座とテンションは告白とかプロポーズのためにとっとけよ」
静かにこぼした彼女の言葉に、俺は顔を上げた。
「俺はあなたの彼氏です」
「おん?」
「結婚もします」
「おおん?」
「なのでそこは断られる予定はないので大丈夫です。これまで通り数と勢いでなし崩してみせます」
「おい待て。ふざけるな」
「ですがっ!」
「聞けよ」
咎める彼女にかまうことなく、俺は正座をしたまま、握りこぶしを作って彼女に力説する。
「あなたにとって、キャラ耳のついたカチューシャとかつけてお揃いのスニーカーで浮かれて歩き回るとか、男女交際のなかでもハードルが高いことではないのかなと思いまして。平気ならよかったです。安心しました」
俺が肩を撫で下ろした途端、彼女は声を荒げて慌て始める。
「待て待て待て。平気なわけあるかっ! カチューシャは聞いてない」
「あなたのカチューシャとチュロスは譲れません」
「いや、知らん。勝手に決めるな」
「なんでそんなひどいこと言うんですか」
「ちょっとは己の言動振り返れよ。さっきっからクソなのはそっちだからな!?」
ちょっと照れている彼女はかわいいが、このままでは照れギレしてお出かけがキャンセルになってしまいそうだ。
「……ふむ」
カチューシャの説得は後回しにして、俺は一度リビングを出る。
玄関先に置いていた、お揃いのスニーカーが入った袋を彼女の目の前に差し出した。
「ちなみにスニーカーはこちらです」
「…………同意を得る意味よ……」
天井を仰いだ彼女はソファの背にもたれかかった。
目がくらむほど喜んでくれるとは意外で、上機嫌になった俺はスニーカーの入った箱を開けていく。
「普段使いできるように、いつも走り込みしている靴と同じデザインの物を用意したんです。色だけかわいくピンクにしました」
「ん? え? ピンクなの?」
目を丸くした彼女は真新しいスニーカーをまじまじと見つめた。
「ラベンダーとスカイブルーの3色で大変迷いました」
彼女が愛用しているスニーカーは意外にもカラーバリエーションが豊富で、色選びにはかなり長考した。
「は? いや、だってお揃いって言うから……、てっきり黒とか茶色とか。あ、色違いってこと?」
「なに言ってるんですか。そんなことしたらお揃いじゃなくなっちゃうじゃないですか。当然、俺もピンクです」
同じデザインと同じ色なのに、サイズがデカいだけでかわいさが失われた気がするが、紛れもなく彼女に用意した物と同じスニーカーだ。
「マジか」
あの3色では、俺に合うサイズがピンクしかなかった。
消去法で選んでしまったのは不本意ではあるが、これで彼女とお揃いのスニーカーを履くことができる。
「ってことで、明日どうですか?」
「明日ぁ!?」
平日ということもありチケットもあっさり取れた。
せっかくなら早いほうがいいと思ったが、都合が悪いのだろうか。
「明日お休みでしたよね? もう予定入れてしまいましたか?」
「いや、明日は平気だけど。明後日は午前中から練習がある、はず」
いそいそと携帯電話でスケジュールを確認する彼女に、俺はうなずいた。
彼女のスケジュールは向こう1年分把握している。
「ええ、もちろん。暗くなる前に自宅まで送り届けます」
「え? パレードとかはいいの?」
「あなたが見たいと言うのであれば、もちろんつき合いますよ?」
ライトアップされた夜景を背景にする彼女はもちろん魅力的だが、当の本人は暗いところを苦手としている。
パレードを見るならきちんと宿泊施設も予約して夜間の移動を最低限に抑えたうえで、気兼ねなく楽しんでほしかった。
しかし、俺たちはつき合い始めてまだ1年も満たない。
泊まりがけでのデートを、身持ちの固い彼女は許さないはずだ。
「ですが人も多いでしょうし、スニーカーとはいえ履き慣れない靴で長時間連れ回すことは、俺としては気が引けますね」
できるだけ彼女の弱い部分には触れずに、明るいうちに帰宅するつもりであることを伝える。
「それでいいの?」
「もちろん」
おずおずと見上げる彼女はホッとしながらも、どこか納得のいかない様子だ。
俺にだって下心は当たり前にあるが、彼女の弱い部分を引き合いにしようとは思わない。
とはいえ、せっかく交渉できそうな材料をもらったのだ。
ほんの少し、彼女の罪悪感を利用させてもらう。
「俺的にはカチューシャのほうが外せませんから」
「んぐっ」
頭を抱えて悶々とするが彼女にとって「行かない」という選択肢はなさそうだった。
どうなし崩して言いくるめてやろうか考えていると、彼女はぺしょぺしょと声を萎ませる。
「うぅぅ。だからってひとり浮かれたアレはいくらなんでも恥ずかしすぎる」
「……」
ん? ひとり?
彼女はひとりでなければ問題ないのだろうか。
俺はダメ元でひとつ、提案してみることにした。
「俺もカチューシャつけましょうか?」
「!?」
目を輝かせた彼女が、ガシッと俺の手を両手で握った。
どうやら交渉は成立したようである。
『僕と一緒に』
部屋が仄暗いのは遮光カーテンのせいだけではなかった。
夏の勢力が緩やかに衰退した、午前4時半。
少し湿度のこもった寝室は雨宿りの匂いがした。
あー……。
雨、降るな。
アラームより早く目が覚める日は、だいたい天候が崩れる。
不規則になりがちな生活はこういうところばかり敏感だ。
気怠く締めつけてくるこめかみ周りに不快感を覚えながら体を起こす。
ため息をこぼしてもごまかせないこの頭痛は、寝込むよりも体を動かしていたほうがよさそうだ。
ベッドボードに置いていた眼鏡をかける。
まだ隣で眠る彼女のまんまるとした頭を撫でたあと、寝室を出た。
米を炊いて、味噌汁を作り、ほうれん草を茹でてみたりする。
我ながら贅沢な早朝の時間の使い方だ。
ゆがいたほうれん草をおひたしにしたあとは、調子に乗ってグリルで鮭を焼いて、フライパンで卵を巻いていく。
後片づけの段階で、朝から魚グリルを使ったことに後悔した。
調子に乗るとすぐ洗い物が増える。
袖を捲って気合いを入れたとき、ぽふっと背中にかわいいのが衝突してきた。
「おはようございます」
「……はよ。朝から絶好調だな?」
彼女はあきれたような感心したような複雑な表情で、俺の背中から洗い物の山を覗き込む。
「むしろこれから下り坂です。仕事行くときはきちんと傘持って行ってくださいね?」
「天気のことじゃなくて」
「俺もこれから下ると思います」
俺の言葉に、瑠璃色の瞳に影が宿る。
「もしかして、もう頭痛い?」
「ええ。しばらくしたら激しく降る予感がします」
心配させたいわけでもないし、心配かけるほどの不調でもない。
茶化しながら牛乳をグラスに注いで手渡せば、彼女は受け取りながら微笑んだ。
「……その頭痛予報、意外ときちんと当たるよね。ちゃちゃっと走ってくる」
寝起き直後のせいか、彼女の雰囲気はまろやかだ。
いつものバナナも1本差し出すと、彼女はお行儀よくテーブルの前に腰をかける。
「飯、がんばったんで、寄り道しないでくださいよ?」
「ん。ありがと」
ひょこひょこと揺れる細くて柔らかな青銀の毛先にキスをしてから、彼女の身支度を促した。
推進力を落とし憂いを帯びた天候は腰が重くなるものの、休息するにはちょうどいい。
『cloudy』
せっかくデートの約束を取りつけられたと思ったのに、外はあいにくの雨模様。
夏もすっかり勢力を落とし始め、日が照っていないと肌寒く感じるほど気温が落ち着いてきた。
季節の変わり目は体調も崩しやすい。
彼女に風邪を引かせるわけにもいかず、泣く泣く出かけることを諦めた。
どうせ外に出歩けないのなら、彼女の涙腺強度を知りたい。
そんなクソみたいな下心を持って、彼女の家に押しかけたバチが当たってしまったのだろうか。
彼女を泣かすどころか、俺が泣かされそうになっていた。
映画に。
俺にとって、この映画を見るのは5回目だ。
見ているのは動物と人との関係性を描いた作品。
動物による無償の愛や健気さでわかりやすく「ここが泣くところですよ」と演出されていた。
何度見ても同じところで泣けてしまう。
あ、やばい。
本当に泣くかも。
5回も泣かされるとか恥でしかない。
そろそろ耐性がついていてもよさそうなのに。
胸中で悪態をついてごまかそうとしてみたが、自分の感受性ばかりはコントロールできそうになかった。
「すみません、お手洗いお借りします。俺、何回か見ているんでそのまま進めてていいです」
声を震わせないように意識しすぎたせいか、早口になる。
あー……、クソ。
ホントにダサすぎるっ。
しかし、吐き出したあとの言葉に対して、今さらどうこうしようがなかった。
言葉の勢いのままソファから立ち上がる。
「泣きたいなら泣きなよ」
テレビに視線を向けたままの彼女に、俺の痩せ我慢はあっさりと暴かれる。
「……」
他人に興味を持たないクセして人のことはよく見ていた。
人の感情に興味を持たない割りに、相手の感情を逆手に取ることには長けている。
「別に、我慢することでもないと思うし……」
彼女の琴線は微動だにしていなかった。
場面を止めるわけでもなく彼女は立ち上がり、棚の上に置いていたティッシュ箱をローテーブルの上に置く。
「まだ泣いてません」
「なんの強がりだよ?」
用意してくれたティッシュに罪はなかった。
鼻をかむ俺の様子にあきれたのか、彼女は肩をすくめる。
「泣いたってバカになんてしないのに」
「意外ですね? そういう空気は苦手だと思ってました」
「他人ならね」
「え……」
彼女を口説き続けて約3年。
だが、恋人期間としてはまだふた月も経っていなかった。
背筋を伸ばしてお行儀よく座って隙を見せない一方で、彼女の警戒心が上がっていないことに納得がいく。
彼女は俺を彼女の内側に入れてくれていたのだ。
過剰に気をつかうわけでもなく。
無責任に感情に触れるわけでもなく。
ただ側にいることを、ほかでもない彼女が望んでくれている。
たまらず彼女を抱きしめてしまった。
「ほあっ!? ちょ、待って。こ、この体勢、は……苦し……っ」
横から彼女の頭を抱き込んだせいか、苦しくさせてしまったらしい。
彼女を抱きしめるための位置や力加減に、早く慣れたいと思った。
「……でも、ダサくないですか? 自分で勧めた映画で泣くとか」
腕を緩めればモゾモゾと彼女が腕の中から出てくる。
少し乱れた前髪が、隠れていた額をあらわにした。
晴れやかな笑みに呼吸が止まる。
「泣くほど好きな作品を教えてくれたのはちょっと意外だったから、うれしいよ?」
……は?
「手、繋いでもいいですか?」
涙なんて一瞬で引いたし、映画どころではなくなった。
いや、映画は見てくれてていいのだが、とにかく彼女にくっついていたい。
俺の感情の起伏についていけない彼女がワタワタと慌て始めた。
「さ、さっきから、急にっ!? きょ、距離感、どどっ、ど、したのっ!?」
「早く俺との距離に慣れてもらおうかなと。そんな気分になりました。ダメですか?」
「だ、ダメ……とかじゃないけど……」
伏せ目がちに唇を尖らせて言い淀むから、つい余計な下心まで芽生えてしまう。
「けど?」
ほんの少しだけ追いつめたら、ツンとそっぽを向かれた。
「……なんでもないっ! んっ!」
それでも勢いよく差し出してくれた小さな右手に、俺の右手を重ねた。
肩が重なって密着度が増す。
左手を腰に回したら、彼女の体が大袈裟なくらい派手に跳ねた。
「そんなに驚かなくても」
「だ、だって……」
パニックになっているのか、顔を真っ赤にさせている。
言葉にならない声をはくはくと力なく押し出し、目元を潤ませていた。
映画では微動だにしないクセに、俺にはこんなふうに動揺してくれるのか。
「かわいいですね」
「そ、そっちはいきなりかわいげがなくなった!」
「ちょっと。かわいいかわいい年下の彼氏になんてこと言うんですか」
彼女は鬱々とした心を晴れやかな気分にさせてくれる。
虹のふもとがあるとすればここなのだろうと、俺はそう確信した。
『虹の架け橋🌈』
今日は定期的に行われる、高校時代の部活メンバー同士での飲み会だった。
懐かしい、と称するには顔を合わせている機会は多い。
気心も知れて飲み慣れているメンバーとあって、年甲斐もなくはしゃいで二次会まで参加した。
とはいえ、自宅では妻である彼女が待っている。
日付が変わる前に帰宅できるよう、酔いが回りきる前に切りあげた。
「おかしいな……?」
携帯電話のメッセージアプリを見てひとりごちる。
寝る前には必ずメッセージアプリを確認する彼女が、一向に俺のメッセージに既読をつけてくれないのだ。
2週間くらい前から、彼女には今日の飲み会のことや飲み会の面子、帰宅予定時間は伝えている。
面子が変わることはなかったし、帰宅時間も予定通りだ。
昨夜と今朝にも飲み会があることは伝えているから、忘れている可能性も低い。
なんなら快く送り出してくれていた。
まさか具合が悪くなって寝込んでるとか!?
超健康優良児のあの人がっ!?
もしくはかわいすぎてついに誘拐されたとかっ!?
いや、落ち着け!? 20時以降のインターフォンは絶対に出ないようにきつく伝えているから、それもないっ!
そもそも7階だし、どこから掻っさらっていくんだって話だしなっ!?
あり得ないことだと頭の中では理解している。
だが、一度よぎってしまったネガティブな思考を止めることはできなかった。
*
息も絶え絶えに帰宅すれば、ぽやぽやとリビングのソファで微睡んでいる彼女が出迎えてくれた。
「あ。おかえりー」
「よ、よかった! ちゃんとお家で元気に生きてる……っ!」
荷物とジャケットを放り捨てて、ソファで座っていた彼女にぎゅうぎゅうと抱きつく。
彼女の肩に顔を埋めてグリグリと額を押しつけて、無事であることを確認した。
「うわ。だいぶできあがってるな?」
普段なら「酒臭い」だ「汗臭い」だと文句が多いのに、今回は無抵抗におとなしく俺の腕の中に収まっている。
腕を少し緩めて彼女の顔を覗き込んだ。
「もしかして、寂しくて眠れなくなっちゃいました?」
「違う。日付変わる前に帰るって聞いてたから、1回寝て起きたの」
「え、なんすかそれ。俺を待っててくれたってことですか?」
彼女のお膝に乗っかっている罪深い携帯電話を、指先で突いた。
むしろその場所を代われとさえ思う。
「クッッッソかわいいんですけど、心配になるのでメッセージはちゃんと見てください」
「……あー……」
俺の指摘に視線を泳がせた彼女は、手に取った携帯電話の画面を軽く眺める。
その画面はすぐに暗くなり、携帯電話はソファの上に手放された。
「起きたあとトークリストまでは開いたんだけど……」
両手で頭を抱えた彼女は、辟易とした様子を隠すことなく項垂れる。
「内容もアイコンもヤバそうだったから、読むことを諦めた……」
「は? ヤバいってなんですか。俺のアイコンはあなたのかわいいお膝にできていたアザですよ?」
「今すぐに変えろ」
「イヤですよ。かわいいハート型のアザなんて今後見られないかもしれないのに」
彼女のかわいいお膝にアザを作った体育館の床はぶち抜いて、ふわふわのクッション仕様にするべきだとは思う。
しかし、それはそれとしてハート型のアザは奇跡的で芸術点が高かった。
「メッセージは、あなたがさっさと既読つけないから、心配でつい」
「ウソつけ! トークリストで見たときは性欲しかなかったからな!?」
顔を上げて俺をキツく目を光らせる彼女に、俺はあっさりとうなずく。
「下心があったのは認めます」
取り繕っても時間の無駄だ。
アルコールが入った状態で彼女を視界に入れてしまうと、無性に抱きしめたくて触れたくて甘やかしたくて仕方がなくなる。
そんな俺の欲求を認めうえで、だ。
「……けど、わざわざ起きて待っているってことは、期待してもいいんですか?」
「するな! おたんちんっ! 違うっ!」
「違うんですか!? なんで!?」
即座に一蹴されてしまい、思わず理由を求める。
「わざわざ寝てる人を起こしてまで絡んでくるな! どうせ途中で寝こけるクセにその気にさせるようなことしないで! って、いい加減に文句のひとつでも言ってやろうと思ったの!」
……それは、寝なければイチャイチャしてもいいってことか?
キャンキャンと吠え立てているが、内容は意外と俺にとって都合よく聞こえる。
「……その気、になってはくれてるんですね?」
「そうですね! 誰かさんのせいで!」
イラァっとした雰囲気を隠さずに彼女は開き直った。
その気になっているなら話は早い。
デカい幻聴ではなかったことに機嫌を良くした俺は彼女に迫った。
「なら、さっさとキスしますよ」
「なにが『なら』だよ! こっちはなんにも了承してねえよ!」
キスをしたいだけなのだが、彼女の態度はなかなかつれない。
俺の胸を押し返して抵抗する彼女もかわいいが、そろそろ我慢の限界だ。
「でも俺、帰宅するまでに既読つけないとキスするって送りました」
「なんだそ、れっ。んぅ……っ、ぁ」
半ば強引に唇を奪い、ゆっくりと彼女の背中をソファの上に押し倒す。
視界いっぱいに彼女を捉え、彼女の声をもっと近くで聞きたくてキスを深くしていった。
彼女の心音をほかの誰でもない俺が乱したいと、触れれば触れるほど欲が出る。
「ちょ、キ、キス……だけじゃなかったの……?」
服の下に手を伸ばすと、彼女の体が強張った。
のしかかった俺の首元で彼女ははくはくと息を整えながら言葉を紡ぐ。
熱のこもった浅い吐息が耳をくすぐり、理性を手放しそうになった。
首筋に跡が残らないように軽く皮膚を食む。
たくし上げたシャツの下からあらわになる、控えめな膨らみの上にキスを落とした。
「この期に及んでまだ既読つけてないんですか?」
「……ふっ……、ん、……っ。き、読?」
潤んだ瞳がソファの隅に追いやられた携帯電話に向けられ、手を伸ばす。
ロック画面が解除されたのか、画面の光が彼女の顔を照らした。
「なんでもありませんよ」
その彼女の細い手首に口づける。
「あっ」
ことん、と携帯電話がソファの下に滑り落ちた。
「場所がお顔じゃないだけでキスには変わりないでしょう」
「ひゃあっ!?」
彼女の魅力が溢れるように優しく手首に舌を這わせた。
俺の熱が彼女の指先まできちんと伝播するように、緩やかに甘やかにじっくりと蕩かしていく。
『さっさと既読つけないと、ぐちゃぐちゃになるまでキスしますからね?』
ソファの下に落ちた彼女の携帯電話に入っているメッセージアプリ。
薄暗く光る画面には、俺の送ったメッセージが羅列されていた。
『既読がつかないメッセージ』