今日は定期的に行われる、高校時代の部活メンバー同士での飲み会だった。
懐かしい、と称するには顔を合わせている機会は多い。
気心も知れて飲み慣れているメンバーとあって、年甲斐もなくはしゃいで二次会まで参加した。
とはいえ、自宅では妻である彼女が待っている。
日付が変わる前に帰宅できるよう、酔いが回りきる前に切りあげた。
「おかしいな……?」
携帯電話のメッセージアプリを見てひとりごちる。
寝る前には必ずメッセージアプリを確認する彼女が、一向に俺のメッセージに既読をつけてくれないのだ。
2週間くらい前から、彼女には今日の飲み会のことや飲み会の面子、帰宅予定時間は伝えている。
面子が変わることはなかったし、帰宅時間も予定通りだ。
昨夜と今朝にも飲み会があることは伝えているから、忘れている可能性も低い。
なんなら快く送り出してくれていた。
まさか具合が悪くなって寝込んでるとか!?
超健康優良児のあの人がっ!?
もしくはかわいすぎてついに誘拐されたとかっ!?
いや、落ち着け!? 20時以降のインターフォンは絶対に出ないようにきつく伝えているから、それもないっ!
そもそも7階だし、どこから掻っさらっていくんだって話だしなっ!?
あり得ないことだと頭の中では理解している。
だが、一度よぎってしまったネガティブな思考を止めることはできなかった。
*
息も絶え絶えに帰宅すれば、ぽやぽやとリビングのソファで微睡んでいる彼女が出迎えてくれた。
「あ。おかえりー」
「よ、よかった! ちゃんとお家で元気に生きてる……っ!」
荷物とジャケットを放り捨てて、ソファで座っていた彼女にぎゅうぎゅうと抱きつく。
彼女の肩に顔を埋めてグリグリと額を押しつけて、無事であることを確認した。
「うわ。だいぶできあがってるな?」
普段なら「酒臭い」だ「汗臭い」だと文句が多いのに、今回は無抵抗におとなしく俺の腕の中に収まっている。
腕を少し緩めて彼女の顔を覗き込んだ。
「もしかして、寂しくて眠れなくなっちゃいました?」
「違う。日付変わる前に帰るって聞いてたから、1回寝て起きたの」
「え、なんすかそれ。俺を待っててくれたってことですか?」
彼女のお膝に乗っかっている罪深い携帯電話を、指先で突いた。
むしろその場所を代われとさえ思う。
「クッッッソかわいいんですけど、心配になるのでメッセージはちゃんと見てください」
「……あー……」
俺の指摘に視線を泳がせた彼女は、手に取った携帯電話の画面を軽く眺める。
その画面はすぐに暗くなり、携帯電話はソファの上に手放された。
「起きたあとトークリストまでは開いたんだけど……」
両手で頭を抱えた彼女は、辟易とした様子を隠すことなく項垂れる。
「内容もアイコンもヤバそうだったから、読むことを諦めた……」
「は? ヤバいってなんですか。俺のアイコンはあなたのかわいいお膝にできていたアザですよ?」
「今すぐに変えろ」
「イヤですよ。かわいいハート型のアザなんて今後見られないかもしれないのに」
彼女のかわいいお膝にアザを作った体育館の床はぶち抜いて、ふわふわのクッション仕様にするべきだとは思う。
しかし、それはそれとしてハート型のアザは奇跡的で芸術点が高かった。
「メッセージは、あなたがさっさと既読つけないから、心配でつい」
「ウソつけ! トークリストで見たときは性欲しかなかったからな!?」
顔を上げて俺をキツく目を光らせる彼女に、俺はあっさりとうなずく。
「下心があったのは認めます」
取り繕っても時間の無駄だ。
アルコールが入った状態で彼女を視界に入れてしまうと、無性に抱きしめたくて触れたくて甘やかしたくて仕方がなくなる。
そんな俺の欲求を認めうえで、だ。
「……けど、わざわざ起きて待っているってことは、期待してもいいんですか?」
「するな! おたんちんっ! 違うっ!」
「違うんですか!? なんで!?」
即座に一蹴されてしまい、思わず理由を求める。
「わざわざ寝てる人を起こしてまで絡んでくるな! どうせ途中で寝こけるクセにその気にさせるようなことしないで! って、いい加減に文句のひとつでも言ってやろうと思ったの!」
……それは、寝なければイチャイチャしてもいいってことか?
キャンキャンと吠え立てているが、内容は意外と俺にとって都合よく聞こえる。
「……その気、になってはくれてるんですね?」
「そうですね! 誰かさんのせいで!」
イラァっとした雰囲気を隠さずに彼女は開き直った。
その気になっているなら話は早い。
デカい幻聴ではなかったことに機嫌を良くした俺は彼女に迫った。
「なら、さっさとキスしますよ」
「なにが『なら』だよ! こっちはなんにも了承してねえよ!」
キスをしたいだけなのだが、彼女の態度はなかなかつれない。
俺の胸を押し返して抵抗する彼女もかわいいが、そろそろ我慢の限界だ。
「でも俺、帰宅するまでに既読つけないとキスするって送りました」
「なんだそ、れっ。んぅ……っ、ぁ」
半ば強引に唇を奪い、ゆっくりと彼女の背中をソファの上に押し倒す。
視界いっぱいに彼女を捉え、彼女の声をもっと近くで聞きたくてキスを深くしていった。
彼女の心音をほかの誰でもない俺が乱したいと、触れれば触れるほど欲が出る。
「ちょ、キ、キス……だけじゃなかったの……?」
服の下に手を伸ばすと、彼女の体が強張った。
のしかかった俺の首元で彼女ははくはくと息を整えながら言葉を紡ぐ。
熱のこもった浅い吐息が耳をくすぐり、理性を手放しそうになった。
首筋に跡が残らないように軽く皮膚を食む。
たくし上げたシャツの下からあらわになる、控えめな膨らみの上にキスを落とした。
「この期に及んでまだ既読つけてないんですか?」
「……ふっ……、ん、……っ。き、読?」
潤んだ瞳がソファの隅に追いやられた携帯電話に向けられ、手を伸ばす。
ロック画面が解除されたのか、画面の光が彼女の顔を照らした。
「なんでもありませんよ」
その彼女の細い手首に口づける。
「あっ」
ことん、と携帯電話がソファの下に滑り落ちた。
「場所がお顔じゃないだけでキスには変わりないでしょう」
「ひゃあっ!?」
彼女の魅力が溢れるように優しく手首に舌を這わせた。
俺の熱が彼女の指先まできちんと伝播するように、緩やかに甘やかにじっくりと蕩かしていく。
『さっさと既読つけないと、ぐちゃぐちゃになるまでキスしますからね?』
ソファの下に落ちた彼女の携帯電話に入っているメッセージアプリ。
薄暗く光る画面には、俺の送ったメッセージが羅列されていた。
『既読がつかないメッセージ』
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いつもありがとうございます。
最近、露出が多くて申しわけございません。
しっとりさせたかっただけなので、雰囲気だけです。
苦手な方は「次の作品」をポチッとして自衛をお願いいたします。
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熱のこもった夜から、荒んだ空気を孕み始めた秋めいた夜。
まるで飼い慣らした猫のように、彼女は無防備に体をしならせた。
気まぐれに身を委ね、強かに主導権をあけ渡す。
全て無自覚だから咎めることもできなかった。
とっくに汚れた自身の手で、彼女に触れることはいつまでも怖かった。
それでも、彼女を手に入れたい。
この真っ黒に塗れた純粋な想いだけが、俺を繋ぎ止める。
真っすぐ歪んで、解けて拗れた。
とっくに堕ちているのに、とっくに戻れないところにきているのに、さらに深い泥濘へと落とされていく。
「……愛しています」
こんなにも心を焦がしているのに、言葉にするそばから熱が冷めた。
どうすればこの熱さが彼女に伝わるのか。
じっくりと時間をかけて汗ばみ、火照り、湿度を高めた素肌で、抱きしめ合う互いの体温は無情なまでに平熱だ。
ただ、欲を含んだ彼女の涙珠は温かく、その事実に救われる。
ふわり。
言葉の代わりに微笑むだけで、彼女は俺を満たしてくれる。
彼女のシトラスの香りに、柔らかな甘みが加わっていた。
目を逸らす間もなく、季節が移ろいでいく。
夏の陽炎を、不安定に揺れ動く秋がさらっていった。
*
優しすぎるくらいに丁寧な手つきでベッドに私を横たえた。
眼鏡を外して、キスをして、抱きしめる。
熱を持った彼の肌は隙間なく私と重なっているのに、今日は彼の声が遠かった。
彼はいつも忙しそうにしている人だ。
春は気怠げに、夏は物憂げに、秋は儚げに、冬は寂しげに頭を悩ませている。
文句のひとつでも言ってやりたいが、それは適わなかった。
彼によって溶かされた思考は既に使い物になっていない。
与えられる刺激が強すぎて呂律もうまく回らなかった。
「……愛しています」
私も……、好き。
伝えなければと思うのに、言葉として音を震わすことができなかった。
うわごとめいた褒め言葉と愛の言葉が、微弱の毒となって全身を痺れさせる。
逃げる理由も拒む理由もなかった。
ただ、隠していた本心が涙に変わってこぼれ落ちる。
見透かした彼がその涙を唇で掬い取った。
くすぐったくて身を捩ると、彼の唇が耳元へ移動する。
いつもよりつまった吐息、火照った唇、容赦のない舌で薄く皮膚を吸われた。
軽い痛みが走った瞬間、わずかに硬直した彼の体。
スン、と鼻先を近づけた。
少しだけコロンを振ったことも暴かれてしまう。
「夏も終わりか……」
「……っ」
いつものコロンに少しだけ金木犀の香りを足したくて、新しく調合してもらった。
こんな些細な香りまで気づかれるとは予想していなくて、気恥ずかしくて顔を背ける。
「かわいい」
今まで遠かった彼の声が急に近くなった。
つい彼のほうに向き直ってしまうと、滅多に動かない彼の表情が、柔らかく緩んでいる。
そのくせ、私を真っすぐ見つめる目には強い熱を宿していた。
慈愛と色気が合わさった彼の表情に胸が締めつけられる。
「や……っ」
わかりやすく動揺した私の失態を、彼が見過ごすはずがない。
彼の表情や声や手つきが、徐々にからかいの色を帯びていった。
『秋色』
温かい麦茶とコーヒーを入れたマグカップを、リビングのローテーブルに置いたとき、1枚の帯紙が目に入る。
ソファで本を読んでいる彼女の隣に座って、その帯を手に取った。
「1年後に世界が滅ぶ、ですか……」
コーヒー片手に帯紙に目を通す。
地球滅亡までの限られた時間のなかで育むラブストーリーらしい。
キャッチーな煽り文と有名著者のコメントで本の紹介がされていた。
「ん? あぁ、これ? 読む?」
顔を上げた彼女が、しおりも挟まずに本を閉じる。
ためらいもなく差し出してくるから少し焦った。
「読み終えてからでいいですよ?」
「この本、もう5周くらいしてるからもう大丈夫」
は? 5周……?
俺のラブレターは1周しかしてくれないクセに?
イラっとはしたものの、久しぶりに俺でも理解できそうな著書だったので素直に受け取った。
パラパラと軽くページをめくって、読みやすそうな文章であることを確認する。
「世界が終わってしまうなら、あなたならなにをして過ごしますか?」
両手でマグカップを包み込み、揺蕩う湯気を小さな口で吹き冷ます彼女に声をかけた。
「んー? 『世界』と『終わる』の定義による」
視線だけこちらに寄越した彼女は、そう言ってマグカップに唇をつけた。
読み終えたばかりだからか、俺の会話につき合ってくれるらしい。
麦茶をひと口含んだあと、考え込むように視線をマグカップに落とした。
「あと『終わり方』にもよって変わるかもしれない」
「終わり方、ですか」
「世界がぶっ飛ぶのが1時間後なのか、明日なのか、1年後なのかで変わるでしょ?」
「それは確かに」
開いていた本を静かに閉じて彼女に向き直る。
「では、この本になぞらえて……。『1年後にでかい隕石が地球にぶつかって、一瞬で人類は滅亡してしまう』としたら、あなたはどう過ごしますか?」
「どうかな……インフラや経済含めて世界がいつも通り回ってるなら、半年くらいはいつも通り過ごしていると思うけど……、でも待って!?」
堅実な彼女らしい答えを言いかけたところで、なにかを閃いたのか目と声の色が好奇に変わった。
「1年かけて世界中の体育館に突っ込んで界隈荒らして暴れ回るのも楽しそうかもしれないっ!」
「……」
なんか響きがオタクっぽくなるから界隈言うな。
俺のお気持ちなど知ったことではないと言わんばかりに、彼女は目を輝かせながら「地球最後の日の過ごし方」について思いを馳せていく。
「いや、むしろ貯めた金で研究開発チームみたいなの作って、隕石を逸らすミサイルかなんか作って地球を救うために奔走したい! そしてチヤホヤされまくって承認欲求満たしたい!!」
彼女にはやってみたいことがたくさんあるらしく、笑顔ではしゃぎまくる。
かわいいから別にいいけど、なんで「俺と一緒に過ごしたい♡」という答えがいつまで経っても出てこないのだ。
「まー、でも、なんだかんだ最後の1週間くらいはふたりでいたいかなー」
「俺と過ごす期間、短くないですか?」
おかしい。
愛が足りなかったのだろうか。
やっと欲しい言葉が出てきたと思ったら、1年のうちの1週間しか彼女と過ごす時間をもらえないとか悲しすぎる。
「一緒に起きて、一緒にご飯食べて、一緒に出かけて、一緒にいつも通りの日常を過ごしたい」
不満を訴えたらわざとらしく流された。
今日の彼女は少し意地悪をしたい気分らしい。
俺は負けじと彼女にひっついて甘えてみた。
「ですから。俺と過ごす期間、短くないですか?」
「……やりたいこといっぱいあるもん」
もう一度同じセリフでアピールしてみたら、物理的な距離感が縮まったせいかちょっとだけ照れた。
ツンとしてからのちょいデレの彼女は今日もかわいい。
「ついていきますね?」
「それ……。ヤダって言ったらやめてくれるヤツ?」
「やめないヤツですね」
ギュウギュウ抱きしめていたら、絆された彼女がグリグリと俺の胸におでこをくっつけてきた。
「んで? 聞いてきたからにはそっちもなんかあるんじゃないの?」
「俺ですか?」
俺のやりたいことなんてひとつしかない。
眼鏡のブリッジを指で持ち上げた。
「あり得ないくらい大量にゴムを買って、あなたを軟禁して一年中セックスしたいです」
「最ッッ低!!!!」
「いっっってえ!!!!」
真面目に答えたのに思いっきり足の甲を踏んづけられた。
「え、地球滅亡するってわかっているのに避妊しないつもりですか? 身ごもっても育てられないのにかわいそうじゃないですか。可能性はできるだけ低くするべきだと愚見します」
「そういうこと言ってねえよっ!! この性欲モンスターがっ!!」
踏まれた足の甲を撫でながら反論すると、彼女はソファに置いていたクッションを勢いよく投げつける。
プリプリと盛大に照れギレした彼女は、寝室に逃げ込んでしまった。
どうやらやりすぎたらしい。
しかし、閉じこもる場所は本当に寝室でいいのだろうか。
すぐに追いかけるべきか否か、俺は極限の選択を迫られてしまった。
『もしも世界が終わるなら』
「忘れ物ないですか?」
「大丈夫」
玄関でスニーカーを履いた彼女に手を差し出す。
まだ少し眠たそうにしている彼女は、俺の手を取りながら柔らかくうなずいた。
いつもより早い明け方の空は少し暗かった。
今日から彼女は、しばらく海外で過ごす。
別れが惜しくて、せめて駅までは見送らせてほしいと俺がゴネたのだ。
「あ、ごめん。ちょっと待って……」
手を繋いでいた彼女の指がするりと抜ける。
振り返ると玄関で彼女はしゃがみ込んだ。
「どうしました?」
「靴紐、ちょっと緩かったみたい」
解けかかった靴紐を、小さな手がきれいに解いていく。
走るわけでもないのに律儀に靴紐を全て緩めていく緩慢な動作が美しかった。
彼女の所作を近くで見たくて、目の前にしゃがみ込む。
「おや。左足ですか」
「ん」
スニーカーを履いているのに、革靴の俺なんかよりも小さくて細い足のサイズ。
シュルシュルと衣擦れの音が耳に心地よく響いた。
「なるほど。好きです」
「は?」
俺の唐突な告白に、彼女の手が止まる。
朝っぱらから訝しんで警戒心を上げていく彼女に、俺の機嫌はなぜか上がっていった。
「知ってました? 左足の靴紐が解けたら好きな人から告白されるらしいですよ」
「そういうのは10代で卒業しておけよ」
俺にとっても都合がよくて、かつ、それっぽいジンクスをでっちあげたのだが一蹴されてしまった。
「日本国民に夢を与える存在であるべき女神がなんてこと言うんですか」
「変なジンクス仕入れてくる暇があったらさっさと告れよ」
「だからさっき告白したじゃないですか。そっちこそ、照れてないでさっさと返事をよこせください」
「今の告白だったの? いくらなんでも軽すぎない?」
「失礼ですね?」
本気と思われていないならしかたがない。
俺は靴紐を結っている彼女の両手を包み込み、真っすぐ見つめた。
「え? な、に……? 私、呪いにでもかけられてる?」
「さあ? どうでしょう?」
狼狽える彼女にかまうことなく、無言で彼女を捉える。
沈黙に耐えられなくなった彼女が目を伏せようとしたとき、顔を近づけて囁いた。
「あなたが好きです」
「……っ!?」
距離を取ろうとする彼女の手首を掴む。
じわじわとその手に熱がこもっていった。
視線から逃れようとする彼女の退路を塞ぐ。
「目、逸らさないでください」
「なっ、だっ……て急に……」
「このタイミングで目を逸らしていいんですか? キスしてもいいのかなって、期待しますけど?」
「あっ、ダメ……」
「ダメならきちんと俺の目を見て断ってください」
「へっ!? や、やだ、そんなのっ……」
「できませんか? どうして?」
彼女の手首を離した代わりに、頬に触れた。
俺にされるがまま、力なく首を振る彼女を容赦なく追いつめていく。
「どうしてって、だって……」
「だって?」
「……は、恥ずかしい」
はー……。
かわいい。
両手で顔を隠す彼女の隙をついて、右側の靴紐を引っ張った。
シュル、と玄関に衣擦れが響くが、彼女が気づく気配はない。
「右側の靴紐も、解けてしまいましたね?」
「靴、ひも……?」
はくはくと浅く空気を取り入れる彼女は、足元に視線を移した。
「右足の靴紐が取れたら、恋人ができるらしいですけど、俺はあなたの恋人になれますか?」
「……な、なる……」
俯いたまま、彼女はズボンの布をきつく握りしめてシワを作っていく。
「よかった。恋人同士なら、キスもしていいですよね?」
「え?」
「俺にしか見せないあなたの表情、もっとたくさん見せてください」
「…………う、ん」
俺の服に縋って白い肌を真っ赤に染めながらうなずいた。
背けられた顔に手を伸ばして頬を撫でる。
あやすように耳や首筋に指先を遊ばせれば、くすぐったさそうにした彼女が表情を和らげた。
溢れた笑みを正面から見たくてゆっくりと顎を掬う。
彼女は再び肩をこわばらせたが、形のいい唇を何度か撫でていくうちに身を委ねていった。
長い睫毛を震わせながら、瑠璃色の潤んだ瞳を隠す。
「これで、少しくらいは伝わりましたかね?」
彼女のキス顔をいただいところで、俺は鼻っ柱を摘んだ。
「ふぎゃっ!!」
「俺のガチ告白、満足してくれました?」
解いてしまった靴紐を解けないようにギュウギュウと締める。
「……、怖っ……」
呆然として靴紐を結ぶ俺を見下ろしながら、ひとりごちる彼女に、俺は眉を寄せた。
「は? なんでですか」
「こんなのされたら、みんな落ちちゃうじゃん……」
「なんてこと言うんですか。あなたにしかしませんよ」
ぽんぽんとスニーカーを手で叩いて、結び終えた合図を送る。
手を差し出して立ち上がるように促したが、彼女がその手を取ることはなかった。
「てゆーか、私たちはずっとつき合ってる」
「ええ。そうですね」
不貞腐れながら立ち上がる彼女が、夢のような現実を容赦なく突きつけてきた。
些細なやり取りにどれだけ幸せを感じているか、彼女はきっと知らないだろう。
「俺を選んでくれて、ありがとうございます」
一度目は我慢できたが、二度目の我慢はできなかった。
彼女の唇を軽く啄んでいく。
「どう、いたしまして?」
「……ははっ」
キスの合間。
律儀に答える彼女に、俺は思わず声を吹き出してしまった。
「俺、すげえ幸せです」
『靴紐』
正真正銘、先輩たちの最後の試合となった全国大会の決勝戦。
2セット連続で落とした最終セットの終盤、流れは完全に相手チームに向いていた。
周りの声が遠くなり、地に足がついていない感覚や、頭の奥で大きく響く自分の心音に動揺する。
ヤバい……。
ここにきて、遅れてきた恐怖が体をこわばらせた。
俺は、昔から余計なことを考え込んでしまうきらいがある。
転んだ痛みと恐怖を知り、全力で走ることができなくなった。
擦りむいた傷をかばい、転ばないために足元を確認しながら慎重に走り続ける。
臆病風に吹かれ、目指すべき場所を見失った俺は足を止めた。
この先長い人生における目指すべき場所なんて大仰な問いの答えは、まだ、見つけられない。
いつでも縋れるように、足元には諦める言葉や生ぬるい励ましの言葉ばかりがたくさん転がっていた。
もがけばもがくほど、ぬかるみにはまった足に重く絡みつく。
それでも……。
「レフッ、トォォォ!!!!」
それでも、その一筋の光が俺の顔を上げるきっかけとなるならば。
俺ではなく、彼の進むべき道を切り開くきっかけとなるならば。
恐怖も、痛みも、傷も、全てその声に託して俺は腕を伸ばした。
「先輩っ!」
託した放物線は強烈な閃光となり、一度は静まり返った体育館を砲声のごとく轟かせた。
*
部活でお世話になった監督が今年を最後に勇退すると小耳に挟んだ。
全国大会の予選会が控えていることもあり、挨拶ついでに母校に差し入れを持ていった帰り。
ぴょこぴょこと小さなポニーテールを揺らす彼女の後ろ姿を発見した。
「お疲れさまです」
「お疲れ……。ここで会うなんて珍しいね?」
「ちょっと母校まで挨拶に出向いていたんです。そういうあなたこそ、こんなところまでどうしたんですか?」
「ん? 今日は大学で練習試合だった」
「なるほど? あの……」
練習試合の帰りなのだろうが、彼女の周りに人はいない。
さすがに彼女ひとりというシチュエーションが不自然で見過ごすことができなかった。
「チームメイトに嫌われでもしてるんですか?」
「失礼だな!?」
「だって。だいたいこういうのは、チームメイトと一緒に飯までがつきものなのでは、と思っただけです」
思うところがあるのか、彼女は言葉をつまらせて眉を寄せる。
「……いや、まあ。そういう関係は悪くないと思うよ!? 思うけどさあっ!」
彼女は心底嫌そうに心の内を吐露していった。
「……仲良くした成れの果てが馴れ合いとかクソ食らえだよな、っていう気持ちの割り合いがデカかった……」
「……」
しょんもりとかわいく肩を落としているが、言っている内容は全然かわいくなかった。
どこまでもソリストな彼女に感服すら覚える。
「しかもうちのバド部ボロ負けしてたしなおさら」
「……」
「強がりなのかわかんないけど、練習試合とはいえヘラヘラしてさー……。空気壊さなかっただけ褒めてほしい」
ブツブツ文句を言う彼女には少し意外ではあった。
ソリストのクセに、チームとして負けるのも嫌うらしい。
「ちゃんと声かけて離れたし、一応筋は通したつもり」
「では、代わりに俺が飯の権利をもらいましょうかね?」
「なに言ってんの?」
「え、もう飯食ったんですか?」
「いや、まだだけど」
「なら決まります」
「強引すぎない?」
「なにを今さら」
形のいい眉を寄せた彼女に俺はフッと息をこぼした。
「こんな俺にも、無理を押し通したいことが
あるんだなって気づかせてくれたのはあなたですよ?」
「はあ? なに言ってんの?」
あきれ果てた彼女はわざとらしくため息をつく。
「私なんか関係なしに、ずっと無理を通してきた男のクセして」
「え。なんすか、それ」
俺の疑問に彼女が答えてくれる気配はなかった。
だが、彼女と一緒に飯を食うことは許されたらしい。
上機嫌に揺れるポニーテールの後ろに、俺はついていった。
『答えは、まだ』