「忘れ物ないですか?」
「大丈夫」
玄関でスニーカーを履いた彼女に手を差し出す。
まだ少し眠たそうにしている彼女は、俺の手を取りながら柔らかくうなずいた。
いつもより早い明け方の空は少し暗かった。
今日から彼女は、しばらく海外で過ごす。
別れが惜しくて、せめて駅までは見送らせてほしいと俺がゴネたのだ。
「あ、ごめん。ちょっと待って……」
手を繋いでいた彼女の指がするりと抜ける。
振り返ると玄関で彼女はしゃがみ込んだ。
「どうしました?」
「靴紐、ちょっと緩かったみたい」
解けかかった靴紐を、小さな手がきれいに解いていく。
走るわけでもないのに律儀に靴紐を全て緩めていく緩慢な動作が美しかった。
彼女の所作を近くで見たくて、目の前にしゃがみ込む。
「おや。左足ですか」
「ん」
スニーカーを履いているのに、革靴の俺なんかよりも小さくて細い足のサイズ。
シュルシュルと衣擦れの音が耳に心地よく響いた。
「なるほど。好きです」
「は?」
俺の唐突な告白に、彼女の手が止まる。
朝っぱらから訝しんで警戒心を上げていく彼女に、俺の機嫌はなぜか上がっていった。
「知ってました? 左足の靴紐が解けたら好きな人から告白されるらしいですよ」
「そういうのは10代で卒業しておけよ」
俺にとっても都合がよくて、かつ、それっぽいジンクスをでっちあげたのだが一蹴されてしまった。
「日本国民に夢を与える存在であるべき女神がなんてこと言うんですか」
「変なジンクス仕入れてくる暇があったらさっさと告れよ」
「だからさっき告白したじゃないですか。そっちこそ、照れてないでさっさと返事をよこせください」
「今の告白だったの? いくらなんでも軽すぎない?」
「失礼ですね?」
本気と思われていないならしかたがない。
俺は靴紐を結っている彼女の両手を包み込み、真っすぐ見つめた。
「え? な、に……? 私、呪いにでもかけられてる?」
「さあ? どうでしょう?」
狼狽える彼女にかまうことなく、無言で彼女を捉える。
沈黙に耐えられなくなった彼女が目を伏せようとしたとき、顔を近づけて囁いた。
「あなたが好きです」
「……っ!?」
距離を取ろうとする彼女の手首を掴む。
じわじわとその手に熱がこもっていった。
視線から逃れようとする彼女の退路を塞ぐ。
「目、逸らさないでください」
「なっ、だっ……て急に……」
「このタイミングで目を逸らしていいんですか? キスしてもいいのかなって、期待しますけど?」
「あっ、ダメ……」
「ダメならきちんと俺の目を見て断ってください」
「へっ!? や、やだ、そんなのっ……」
「できませんか? どうして?」
彼女の手首を離した代わりに、頬に触れた。
俺にされるがまま、力なく首を振る彼女を容赦なく追いつめていく。
「どうしてって、だって……」
「だって?」
「……は、恥ずかしい」
はー……。
かわいい。
両手で顔を隠す彼女の隙をついて、右側の靴紐を引っ張った。
シュル、と玄関に衣擦れが響くが、彼女が気づく気配はない。
「右側の靴紐も、解けてしまいましたね?」
「靴、ひも……?」
はくはくと浅く空気を取り入れる彼女は、足元に視線を移した。
「右足の靴紐が取れたら、恋人ができるらしいですけど、俺はあなたの恋人になれますか?」
「……な、なる……」
俯いたまま、彼女はズボンの布をきつく握りしめてシワを作っていく。
「よかった。恋人同士なら、キスもしていいですよね?」
「え?」
「俺にしか見せないあなたの表情、もっとたくさん見せてください」
「…………う、ん」
俺の服に縋って白い肌を真っ赤に染めながらうなずいた。
背けられた顔に手を伸ばして頬を撫でる。
あやすように耳や首筋に指先を遊ばせれば、くすぐったさそうにした彼女が表情を和らげた。
溢れた笑みを正面から見たくてゆっくりと顎を掬う。
彼女は再び肩をこわばらせたが、形のいい唇を何度か撫でていくうちに身を委ねていった。
長い睫毛を震わせながら、瑠璃色の潤んだ瞳を隠す。
「これで、少しくらいは伝わりましたかね?」
彼女のキス顔をいただいところで、俺は鼻っ柱を摘んだ。
「ふぎゃっ!!」
「俺のガチ告白、満足してくれました?」
解いてしまった靴紐を解けないようにギュウギュウと締める。
「……、怖っ……」
呆然として靴紐を結ぶ俺を見下ろしながら、ひとりごちる彼女に、俺は眉を寄せた。
「は? なんでですか」
「こんなのされたら、みんな落ちちゃうじゃん……」
「なんてこと言うんですか。あなたにしかしませんよ」
ぽんぽんとスニーカーを手で叩いて、結び終えた合図を送る。
手を差し出して立ち上がるように促したが、彼女がその手を取ることはなかった。
「てゆーか、私たちはずっとつき合ってる」
「ええ。そうですね」
不貞腐れながら立ち上がる彼女が、夢のような現実を容赦なく突きつけてきた。
些細なやり取りにどれだけ幸せを感じているか、彼女はきっと知らないだろう。
「俺を選んでくれて、ありがとうございます」
一度目は我慢できたが、二度目の我慢はできなかった。
彼女の唇を軽く啄んでいく。
「どう、いたしまして?」
「……ははっ」
キスの合間。
律儀に答える彼女に、俺は思わず声を吹き出してしまった。
「俺、すげえ幸せです」
『靴紐』
9/18/2025, 3:06:55 AM