通り雨をカフェでやり過ごしていた俺たちは、雲の隙間から鮮やかな青を覗かせたタイミングで店を出た。
人ふたりが並んで歩いてもゆとりのある広い歩道。
俺の少し前を歩く彼女に声をかけた。
「そこ。足元、濡れてるんで気をつけてください」
「ん」
俺たちは同時に濡れている足場を避けた。
彼女は軽く踵を浮かせてつま先を蹴って跳び上がる。
一方、俺は歩幅を少し広げて跨いだ。
その後、彼女は歩きながらマジマジと俺を見上げる。
「どうしました?」
「今、めちゃくちゃ性差を感じた」
「……性差というより、身長差じゃないですか?」
俺たちの身長差は約35cm。
性差といえば性差だが、平均的とは言いがたい。
これだけ身長差が開けば、脚のコンパスに影響が出るのはしかたがないことだ。
「私だって、あと15cmは伸びる予定だった!」
低身長であることをコンプレックスにしている彼女がムキーッと眉を上げた。
振ってきたのはそっちなのに……。
しかも15cmとはなかなか大きく出たものだ。
「……それ、欲張りすぎたバチが当たったんじゃないですか?」
「なんだとっ!?」
背の高い彼女もそれはそれは魅力的だろうが、こうして背が低いことを気にしている彼女はめちゃくちゃかわいい。
小さいままこんなにもかわいく育ってくれたのだから、神様には感謝してもしきれない。
それに身長の高低差など、彼女の表面的な魅力にしかすぎなかった。
「そもそもあなたが本気出したら、性差も身長差も越えてくるじゃないですか」
「それは相手の心をへし折るつもりでいるから、当たり前だよね?」
「……」
勝敗はともかく、相手の心は折れるつもりでいるのだからさすがだ。
慢心と過信と自惚れもここまで突出していると、もはや清々しい。
「そうじゃなくてさ。何気ない動作で性差をまざまざと見せつけられるのって、地味に効く」
「あぁ。意外とベタなのに弱いですもんね」
「どういうこと?」
訝しむ彼女は赤色に変わったばかりの横断歩道の前で立ち止まった。
その一歩うしろで俺も立ち止まる。
「例えば……、そうですね。今の俺たちの距離」
「うん?」
今の彼女との距離感は、恥ずかしがり屋の彼女がギリギリがんばれる距離だ。
無理に崩すと怒って喚いて照れ散らかして不貞腐れるかわいい彼女が誕生する。
そして、それ以上に彼女が身を委ね始める距離でもあった。
「もう一歩だけ、俺が踏み込んだらキスとかハグとか期待しちゃうでしょう?」
「しないがっ!?」
間髪入れずに拒否する彼女に、俺は心底驚く。
彼女の彼氏は俺のはずなのに!?
「は? なんでですか!?」
「なんでって、……こ、こんな往来で、やめてほしい……」
「……」
誰も人目もはばからずしゃぶりつくなんて言っていない。
「…………ふむ。意外とえっちだったことを失念していました」
「えっちじゃないもん!!」
勢いよく喚き立てるが、俺を彼氏にしておきながら、いつまでもそんな主張が通用すると思ったら大間違いだ。
とはいえ、既にキャパオーバーしている彼女がえっちになる日はまだまだ遠い。
真っ赤になって俺に振り回されている彼女はとてもかわいいから、何ひとつ問題はなかった。
「俺としても、あなたのそのかぁわいい蕩けたお顔は誰にも見せたくないので、外で不埒なことはしませんよ」
「不埒って……」
「でも」
今は奥手な彼女をおいしく噛みしめる。
「家でなら、遠りょする必要はありませんから。ねえ?」
「へぁっ!?」
「どうします?」
惚けてる彼女の、先が少し尖った耳に軽く触れる。
「どうって、なに……が?」
「この一歩をつめて家まで焦らしてぐちゃぐちゃになりたいか」
ゆっくりと耳の輪郭をなぞれば、彼女は俯いて落ち着きをなくした。
「ん……っ」
「それとも、家まで我慢した俺に一歩どころかのしかかって逃げ道を塞いでがっつかれるか」
わなわなと震える彼女がかわいくて、真っ赤になった小さな耳を縦にムニっと折り曲げてやった。
「せっかくだから、どっちがいいか選ばせてあげます」
「ぐ、ぐちゃぐちゃ……に、されちゃう、の……?」
動揺した瞳の中に熱が孕む。
その潤んだ視線にゾクゾクと背筋が昂った。
緩む口元に抗うことなく、一歩を踏み出すことなく、耳元から首筋へ指を這わせる。
「さあ? どうしましょうか?」
もう一歩だけ、彼女に踏み出してほしい。
俺と同じ熱量で、彼女の気持ちを感じていたい。
信号が青に変わった。
俺は彼女の首筋から手を離して、横断歩道の白線を踏む。
彼女の選択は後者らしい。
ふっ、と口元が緩んだときトン、と背中に軽い衝撃が走った。
彼女の頭部である。
俺と異なる歩幅をすり寄せて、ピッタリと距離を詰めた彼女は俺の服を摘んだ。
「別にどっちでもいいけど……。ちゃんと、優しくしてくれなきゃヤダ……」
「…………やっぱり、えっちじゃないですか……」
「違うもん……」
そこはどうしても譲れないらしい。
彼女の被っている帽子のツバを下ろして顔を隠した。
ポヤポヤし始めた彼女の手を引く。
彼女の精いっぱいの一歩を胸に刻みながら。
『もう一歩だけ、』
装いはいつもと変わらず、シンプルなシャツにジーンズとボーイッシュにまとめていた。
普段は邪魔だ落ち着かないだと言われ、俺からはプレゼントさせてくれないアクセサリー。
今日は唯一、彼女が持っている輪の大きな金色のイヤリングを揺らし、右の小指に細い金のリングを嵌めた。
毎日軽くまとめているポニーテールも、ヘアアイロンで器用にウェーブを作って濡れ感を出している。
知らない世界、知らない街、知らない人々。
見知らぬ場所に赴くとき、彼女はいつもよりひときわ強い赤を唇に差す。
猫みたいに鋭い目元を作っていた彼女は、真っ赤になった口元を確認して満足気にうなずいた。
最後に、手首へひと振り。
なかなか減らないウッディ系のコロンを擦り、首筋につけた。
「うんうん、いい感じ」
上機嫌に笑みを深め、薄紫色の細やかなレース刺繍の入ったハンカチをカバンに入れる。
「お待たせっ」
約2時間。
彼女の変身過程を眺めていた俺は率直な感想を伝える。
「ずいぶん気合入ってますね?」
「初めて行くところだからね、ガッツリ強化して行かないと」
ムキっと腕を曲げて見せたが、アピールする場所は二の腕であっているのだろうか。
「とはいえ、女の舞台裏を堂々と覗くなんてデリカシーのないことしないでくれる?」
「それ。言うの今であってます?」
「今だから言うんだろ。メイクする前に言ったところで聞いてくれないだろうし」
メイクのせいか、今日の彼女は目力も圧も強い。
「それもそうですね」
「そうですね、じゃねえよ。まったく……」
あきれてため息をつく彼女に、俺は手にしていた携帯電話に視線を移した。
「もしかして、動画撮るのもやめたほうがよかったりします?」
「はあ!?」
彼女のオフからオンに切り替わる過程を動画にも収めていたのだが、気づいていなかったらしい。
「だって今日は絶対きれい系にまとめると思ったんですもん」
「……あのさぁ。もしかして朝6時に家まで来たと思ったらそういうこと?」
「それに関しては早朝にすみません。昨日の夜に押しかけたんですが、時間が遅かったのもあって既にチェーンをかけられてしまいました」
「電話でもしてくれればよかったのに」
「真っ暗だったのでもうおネムだったのかなと。わざわざ起こすことでもないですし」
「それはそう。んなくだらないことで起こされたらたぶんキレる」
「はい。なのでおとなしく帰りました」
彼女を怒らせてデートがキャンセルになってしまっては本末転倒だ。
「でも、ここまで気合い入れるとは思いませんでした。おかげで大変有意義な時間を過ごさせていただきました」
いつもとは180度違う彼女のメイクに、ドキドキと胸が高鳴りっぱなしだ。
キリッとしたメイクや髪型はいつもと印象が異なる。
ちゃんとカッコいいのにちゃんとかわいいという、とんでもない欲張りセットだった。
「お目当てがあるとはいえ、せっかく初めて行く土地勘も全然ない知らない街に行くんでしょ? 今日は特別」
「と、言いますと?」
彼女からの「特別」というワードに食いつく。
得意気に口端を上げた彼女は、猫のような瞳を妖しく光らせた。
「屋内の写真映えはね、今日みたいなメイクのほうが盛れるの」
「なんですって!?」
彼女の魅力なんてメイクや場所なんかに左右されない。
そんなことよりも、彼女が写真を好きなだけ撮らせてくれるつもりでいることに、テンションが爆上がりした。
「今日はあなたの写真を撮りたい放題ってことですか!?」
「どうせコソコソ撮られるだろうし、それなら盛ってほしいしね? でも、さっきの動画は消して」
「消しました」
彼女の目の前で、ペーンと指をスライドさせて動画を削除した。
ゴミ箱に移動したため、そちらもしっかりと削除する。
クラウドでは生きているが。
怒られそうだから内緒である。
*
玄関に移り、さあ出かけましょうというタイミングで彼女が頬を染めて俺の服の裾を掴んだ。
いつもよりキラキラさせた睫毛は、恥ずかしそうに伏せられている。
「……ねえ」
「なんですか?」
「デートが終わったあと私から……キ、キスしてあげるって言ったら、メイクの動画、クラウドからも消してくれる?」
クラウド保存されていたことはバレていた。
だが、とんでもなくでかい誘惑を彼女がぶら下げてくる。
……キ、ス……。
彼女からそんなことされたら、と思うと気持ちが一気に昂った。
あの濃く引かれた赤を崩して、目元にキラキラと乗せられたラメも熱で溶かしてしまってもいいのだろうか。
彼女から扇状的に迫られて俺が止まらないことくらい、彼女が一番よく知っているはずだ。
必然的にその先の行為を想像して息を呑む。
俺はあっさり要求に屈した。
「消します。消しました。どうぞ確認してください」
「え、は、早っ!?」
「今日のデート。ますます楽しみになっちゃいましたね?」
「ど、同意を求めてこないで……」
髪の毛を指で遊ばせながら彼女は靴を履く。
照れて少し汗ばんだ彼女の右手を取って、俺たちは家を出た。
『見知らぬ街』
燦々ときらめいていた太陽は、あっという間に仄暗い雲に覆われた。
今にも泣き出しそうな雨雲が、遠くから雷を鳴らし始める。
雷の音ばかりで、空の一閃を見つけることはできなかった。
まだ間に合う……っ!?
連日の茹だるような気温を利用して、今日はバスタオルやカーテンの大物をガッツリ洗ってきた。
調子に乗ってタオルケットやシーツまで干してしまう。
早くしないと洗濯物が死んでしまうっ!!!
夏の湿度が肌にベッタリとまとわりつくのもかまわず、俺は走る。
こんなにも全力疾走したのはいつ振りだろうか。
呼吸が乱れるほど走り続けているのに、無情にも雨がパラついてきた。
せめて本降りになる前に、と走り続けて玄関のドアを開ける。
そのままの勢いでベランダに直行しようとしたときだ。
もっ、もっ、と白い塊がリビングでうごめいている。
「うわっ!?」
「あ、おかえりー」
ひょこひょこと塊が向きを変えたと思ったら、ニパッと彼女の笑顔が飛び込んできた。
ドォン♡
ピッッシャァァァン♡♡
ガラガラ♡♡♡
ドッカーーーーーンッ♡♡♡♡
落雷位置はまさかの自宅。
光を探しても見つからないはずだ。
こんなにかわいい光が自宅に隠れているなんて……っ。
今日もかわいいをありがとうございます!
「ありがとうございます……っ!」
「んーん。雨、降られる前でよかったねー」
バサァっと白い塊をソファの上に投げ出し、すっきりしない雨雲を吹き飛ばしそうなほど眩しい笑顔を顔女は浮かべた。
横着して全部シーツに包んで取り込んできたのか、広がったシーツの中から衣類がゴロゴロと飛び出してくる。
その中から彼女はバスタオルを1枚手に取って、すんすん、と顔を寄せた。
……は?
タオルにキスするとか浮気では?
「そのタオルもらっていいですか?」
「えっ?」
落ち着け、俺。
タオルは無生物だ。
顔をつけたバスタオルに俺の顔を近づければ、実質彼女とキスを交わしたことになる。
それであれば彼女の非行をギリ許せそうだ。
早くそのバスタオルを寄越せ。
手を伸ばしたままの俺に彼女は大きな目を丸々とさせて俺を見上げた。
「あ、お風呂? よく見たらすごい汗かいてんね?」
「ん? えっ? あ、すみませんっ!? 俺、臭かったですかね!?」
「別にタイミングは好きにしたらいいけど……」
慌てた俺にかまうことなく、パタパタと手際よくバスタオルをたたみ始める。
そして朗らかな笑みのまま、彼女はバスタオルを俺の胸に当てがった。
「でも、せっかくならお日様の匂いが残ってるうちに使って?」
お日様、の……匂い……。
彼女の言葉を反芻して胸を押さえた。
ドッッッ♡
バリバリッ♡♡
バッシャァァァン♡♡♡
本日、2発目のかわいいが脳天を直撃して膝を折る。
「ありがとうございますっっっ!」
「うわっ!? 急にどうしたっ!?」
「いえ、なんでもありません。風呂行ってきます」
彼女からバスタオルを受け取り、シャツのボタンを緩めた。
気圧が下がり空気が重苦しく部屋を満たす。
いつもなら不快指数が上がるのだが、今日だけは、この気怠げな空気に身をまかせるのも悪くない。
低く鳴り響く遠雷を耳に、彼女から受け取ったバスタオルに鼻先を近づけた。
「いってらっしゃーい」
間延びした陽だまりの残り香が、憂鬱な心を溶かして満たす。
『遠雷』
夜というパレットに容赦なく黒が追加された。
まだらに染まっていく夜の空に重みと厚みと密度が増していく。
紺色と黒色の境目が曖昧になった。
限りなく紺色の勢力がゼロになったとき、ちょうど日付が変わる。
あー……頭痛え……。
眼精疲労、寝不足、悪酔いの三重奏。
一定のリズムを刻んだ重低音に合わせて、三半規管がワルツのステップを踏んだ。
風呂はもう明日、……でいいか。
ベルトを緩め、シャツのボタンを外す。
常夜灯の光すら今の俺には強い刺激になりうるから、カバンを放り投げて真っ暗な部屋のなか、靴下を脱いだ。
吐く……ことはできなかったから、暗がりのまま適当に歯を磨く。
下着以外の服を脱ぎ捨てたあと、寝巻きを取り寝室へ向かった。
寝室では、ベッドの隅で彼女がすでに眠っている。
暗闇に慣れた目は、彼女を柔らかな光として捉えた。
膝を曲げて横向きに丸まっているのに、タオルケットはベッドの下に落とされ、シャツはたくし上げられている。
……頭痛に苛まれているとはいえ、酒に飲まれた思考では彼女の姿は目に毒だ。
彼女は夜闇の中でも、美しく存在感を見せつける。
暗い夜に小さな白色を混ぜたら光り輝く星となって瞬いた。
一等輝くその星に何度も何度も恋をするのだろう。
ベッドに落ちたタオルケットをかけると、彼女の体が俺の方に向いた。
「やぁ、……暑い……」
せっかくかけたのに。
ペンっとタオルケットを剥がされてしまった。
コロコロとベッドの隅まで転がってきて、ふにゃふにゃの意識で声を出す。
「おかーりぃー……」
しかし、すぐに小さく寝息を立て始める彼女に、俺は目元を緩める。
「……戻りました」
「むぬ……おつかれー……」
あ、ヤバい。
このままでは起こしてしまいそうだ。
律儀に会話を交わそうとする彼女の頬を撫でる。
「おやすみなさい」
「ん」
ぽや、とうっすらと目を開けた彼女が俺の首に腕を回した。
素肌から直接彼女の温もりを受けて、ベッドに引きずり込まれる。
「……いっしょ、に……」
「え、いや、俺っ」
今日はソファで寝ようと……。
鼻を掠める彼女のシトラスの匂いに誘われて、俺のその言葉は続けられなかった。
無防備な細い首筋に下心が疼く。
少し品のない音を立てて彼女の首筋に吸いついた。
「ん……ふっ」
くすぐったさそうに身を捩った彼女は、甘えるように額を擦りつけたあと、今度こそ深い眠りへと落ちていく。
その寝息につられて、俺も意識を手放した。
『Midnight Blue』
ふわりと彼女の笑顔が飛び立つ。
その笑顔が眩しくて目を逸らした。
生まれてきた環境も、求められてきた理想も、歩んできた人生もなにもかもが違う。
歩幅が違う俺たちは、同じ場所を目指していても距離が開くことがあった。
だから俺は、ときにゆっくりと、ときに早足で彼女の隣に立ち続けると誓う。
*
リビングのローテーブルに置かれた1枚の感熱紙と小さな冊子。
置いたのは、神妙な面持ちでテーブルの前に正座した彼女だ。
「……」
言いたいことは山のようにあるが、その前にやることがある。
「申しわけありませんが、少し時間をくれませんか?」
「え、うん。それは、……大丈夫」
「ありがとうございます。では、まずはこちらを」
俺はブランケットと、個包装されたマスクを彼女に手渡した。
それからソファに座らせる。
「は? えっ?」
大きな目をパチクリとさせている彼女はいつもながらかわいいが、今日ばかりはかまっていられなかった。
「手短にすませてみせます。けど、苦しくなったりしたらすぐに横になってくださいね」
彼女がマスクをつけたのを確認して、俺はすぐさま窓を開けて空気清浄機を起動した。
次に処理したのはストックした酒である。
全て中身をシンクに流して処理をした。
結婚記念日にふたりで開けようと思っていたそれなりに値の張るボトルもあったが、それも捨てる。
少し……いや、かなり惜しいがいつか落ち着いたときに、この酒よりもいいボトルを用意しようと未来の俺に誓った。
酒の次はリビングの床スペースの確保に入る。
結婚してしばらく経つのに、なぜか俺の荷物や収納スペースばかりが増えていた。
収納棚の中身を整理したあと、収納棚をバラす。
急いで不燃ゴミ回収業者に連絡して捨てる日取りを確保した。
最後に、俺の推したちの回収である。
同棲を始めたときはあれだけ揉めてごねたというのに。
グッズというグッズは全て箱詰めして俺の作業部屋に突っ込んだ。
スッキリしたリビングの床に掃除機をかけたあと、軽くシャワーを浴びて埃を流す。
リビングのソファでマスクをつけたまま、ちょも、と座っている彼女と向き合った。
「お待たせしました。あの、ぼんやりしてるようですが体調、優れませんか?」
「あぁ、いや、平気。……この一連の流れを10分ですませやがったから驚いてるだけ」
「普通です」
腕が久しぶりに張っているから、明日は筋肉痛になるかもしれないが、普通だ。
彼女の身に起きた変化に比べたら、俺の筋肉痛など取るに足らない。
「それで、あの……本題なんですが」
「ん?」
ローテーブルに置かれていたのは母子手帳とエコー写真。
きょとんとする彼女を前に、俺は深々と頭を下げた。
「まずは俺の子を授かってくださりありがとうございます。予定日を伺ってもよろしいですか? 不手際はあるでしょうが精いっぱいサポートしてみせますのでどうか産んでいただきたく思います。体調が優れなくなったらすぐにおっしゃってください。妊娠により苦手な食べ物、匂い、音などがあればこちらも対処します。必要であれば里帰りしていただいてもかまいません。それから、名前ってもう決めてしまわれましたか? 性別がわかるのはまだ先のことでしょうから男の子と女の子両方の名前を考えるべきなのはその通りなんでしょうが、俺としては昨今のジェンダー事情も鑑みてつけるのもありかと考えています。つきましては俺の名前の『姫』という文字とあなたの『羽』という文字を取り『姫羽』と書いて『てんし』もしくは『えんじぇる』あるいは『ふぇありー』と名づけるのはどうでしょうか」
「却下に決まってんだろ。おたんちん」
「やはりダメですか……」
はあ、とため息をついたが予想通りだ。
こんなところでへこたれる俺ではない。
「さすがにヒエラルキーの頂点に生涯君臨するであろうあなたを差し置いて『ごっど』と読ませるのは気が引けたんですが、あなたが望むならいたしかたないですね。受け入れます」
「あ、これだいぶ盛大にテンパってるな? 大丈夫?」
「俺は問題ありません。『ごっど』ですね。かしこまりました。出生届の際はおまかせください」
「名前じゃなくて。ねえ、本当に大丈夫?」
「はい?」
「父親に、なるんだよ?」
「……俺を父親にさせる気はあったんですね?」
「え?」
母子手帳を受け取るまで、秘密裏にしていたほどだ。
てっきり逃げる算段でもつけているのかと思ったが、そうではないらしい。
今さら逃す気もないが。
「いえ、すみません。責めるつもりはありません。そもそも忙しさにかまけて気づかなかった俺が悪いです。ここ最近、頻繁に産婦人科に通っていたことをもっとしっかり問い詰めるべきでした」
「え? 身内への妊娠報告って母子手帳貰ってからがいいんじゃないの?」
「……は?」
待て待て待て待てっ!?
やばいやばいやばいやばい!!
嫌な予感しかしない!
「あの……。まさか会社にすら妊娠の報告してない……なんてことはないでしょうね?」
「してないよ? 一番最初に伝えてからって思ったし、会社には安定期? に入ってからがいいってサイトに書いてたもん」
俺が一番♡
うれしい♡
……って違う! いや、違わないけどそうではない!
「なに呑気なこと言ってんすか! 会社に連絡して報告してくださいっ! 今すぐっ!」
「み゛ゃっ!?」
自分の体をなんだと思ってんだこの人っ!?
いくらフィジカルゴリラでも身ごもった状態で元気に体育館を駆け回るとか、さすがに天使がゴリラ化しすぎている。
会社に連絡した彼女は案の定、こってりと怒られたようだ。
しおしおと肩を落として、ソファで膝を抱えていじけている。
妊娠がわかってすぐ報告しなかったのは認識の違いではなく、彼女がネット記事を読み違えた結果だった。
珍しいミスをした彼女も彼女で、平静ではなかったらしい。
彼女をぎゅうぎゅう抱き締めてため息をついた。
「……もう少し、噛みしめさせてくださいよ」
「ごめんて」
「ひとりで抱え込んで、不安だったでしょう?」
「なにが?」
……人ひとりの命を抱えてこの反応は、メンタルまで鋼すぎる。
「だって、私がどんな選択しても一緒に歩いてくれるでしょ?」
「それはそうですが。今回はいくらなんでも歩幅デカすぎです。危うく振り落とされるところでした」
「あっははー」
どこまでも彼女はあっけらかんとしているが、笑いごとじゃねえ。
「本当、勘弁してください……」
人生の節目、選択に迫られる場面はいくらでも溢れていた。
飛び立つ決意も、飛び方も、飛ぶ速さもなにもかもが彼女は俺と違う。
それでも、俺は彼女とともに在り続けるだろうと、それだけは確信していた。
『君と飛び立つ』