すゞめ

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 ふわりと彼女の笑顔が飛び立つ。
 その笑顔が眩しくて目を逸らした。

 生まれてきた環境も、求められてきた理想も、歩んできた人生もなにもかもが違う。
 歩幅が違う俺たちは、同じ場所を目指していても距離が開くことがあった。
 だから俺は、ときにゆっくりと、ときに早足で彼女の隣に立ち続けると誓う。

   *

 リビングのローテーブルに置かれた1枚の感熱紙と小さな冊子。
 置いたのは、神妙な面持ちでテーブルの前に正座した彼女だ。

「……」

 言いたいことは山のようにあるが、その前にやることがある。

「申しわけありませんが、少し時間をくれませんか?」
「え、うん。それは、……大丈夫」
「ありがとうございます。では、まずはこちらを」

 俺はブランケットと、個包装されたマスクを彼女に手渡した。
 それからソファに座らせる。

「は? えっ?」

 大きな目をパチクリとさせている彼女はいつもながらかわいいが、今日ばかりはかまっていられなかった。

「手短にすませてみせます。けど、苦しくなったりしたらすぐに横になってくださいね」

 彼女がマスクをつけたのを確認して、俺はすぐさま窓を開けて空気清浄機を起動した。

 次に処理したのはストックした酒である。
 全て中身をシンクに流して処理をした。
 結婚記念日にふたりで開けようと思っていたそれなりに値の張るボトルもあったが、それも捨てる。
 少し……いや、かなり惜しいがいつか落ち着いたときに、この酒よりもいいボトルを用意しようと未来の俺に誓った。

 酒の次はリビングの床スペースの確保に入る。
 結婚してしばらく経つのに、なぜか俺の荷物や収納スペースばかりが増えていた。
 収納棚の中身を整理したあと、収納棚をバラす。
 急いで不燃ゴミ回収業者に連絡して捨てる日取りを確保した。

 最後に、俺の推したちの回収である。
 同棲を始めたときはあれだけ揉めてごねたというのに。
 グッズというグッズは全て箱詰めして俺の作業部屋に突っ込んだ。

 スッキリしたリビングの床に掃除機をかけたあと、軽くシャワーを浴びて埃を流す。
 リビングのソファでマスクをつけたまま、ちょも、と座っている彼女と向き合った。

「お待たせしました。あの、ぼんやりしてるようですが体調、優れませんか?」
「あぁ、いや、平気。……この一連の流れを10分ですませやがったから驚いてるだけ」
「普通です」

 腕が久しぶりに張っているから、明日は筋肉痛になるかもしれないが、普通だ。
 彼女の身に起きた変化に比べたら、俺の筋肉痛など取るに足らない。

「それで、あの……本題なんですが」
「ん?」

 ローテーブルに置かれていたのは母子手帳とエコー写真。
 きょとんとする彼女を前に、俺は深々と頭を下げた。

「まずは俺の子を授かってくださりありがとうございます。予定日を伺ってもよろしいですか? 不手際はあるでしょうが精いっぱいサポートしてみせますのでどうか産んでいただきたく思います。体調が優れなくなったらすぐにおっしゃってください。妊娠により苦手な食べ物、匂い、音などがあればこちらも対処します。必要であれば里帰りしていただいてもかまいません。それから、名前ってもう決めてしまわれましたか? 性別がわかるのはまだ先のことでしょうから男の子と女の子両方の名前を考えるべきなのはその通りなんでしょうが、俺としては昨今のジェンダー事情も鑑みてつけるのもありかと考えています。つきましては俺の名前の『姫』という文字とあなたの『羽』という文字を取り『姫羽』と書いて『てんし』もしくは『えんじぇる』あるいは『ふぇありー』と名づけるのはどうでしょうか」
「却下に決まってんだろ。おたんちん」
「やはりダメですか……」

 はあ、とため息をついたが予想通りだ。
 こんなところでへこたれる俺ではない。

「さすがにヒエラルキーの頂点に生涯君臨するであろうあなたを差し置いて『ごっど』と読ませるのは気が引けたんですが、あなたが望むならいたしかたないですね。受け入れます」
「あ、これだいぶ盛大にテンパってるな? 大丈夫?」
「俺は問題ありません。『ごっど』ですね。かしこまりました。出生届の際はおまかせください」
「名前じゃなくて。ねえ、本当に大丈夫?」
「はい?」
「父親に、なるんだよ?」
「……俺を父親にさせる気はあったんですね?」
「え?」

 母子手帳を受け取るまで、秘密裏にしていたほどだ。
 てっきり逃げる算段でもつけているのかと思ったが、そうではないらしい。
 今さら逃す気もないが。

「いえ、すみません。責めるつもりはありません。そもそも忙しさにかまけて気づかなかった俺が悪いです。ここ最近、頻繁に産婦人科に通っていたことをもっとしっかり問い詰めるべきでした」
「え? 身内への妊娠報告って母子手帳貰ってからがいいんじゃないの?」
「……は?」

 待て待て待て待てっ!?
 やばいやばいやばいやばい!!
 嫌な予感しかしない!

「あの……。まさか会社にすら妊娠の報告してない……なんてことはないでしょうね?」
「してないよ? 一番最初に伝えてからって思ったし、会社には安定期? に入ってからがいいってサイトに書いてたもん」

 俺が一番♡
 うれしい♡
 ……って違う! いや、違わないけどそうではない!

「なに呑気なこと言ってんすか! 会社に連絡して報告してくださいっ! 今すぐっ!」
「み゛ゃっ!?」

 自分の体をなんだと思ってんだこの人っ!?

 いくらフィジカルゴリラでも身ごもった状態で元気に体育館を駆け回るとか、さすがに天使がゴリラ化しすぎている。
 会社に連絡した彼女は案の定、こってりと怒られたようだ。
 しおしおと肩を落として、ソファで膝を抱えていじけている。

 妊娠がわかってすぐ報告しなかったのは認識の違いではなく、彼女がネット記事を読み違えた結果だった。
 珍しいミスをした彼女も彼女で、平静ではなかったらしい。
 彼女をぎゅうぎゅう抱き締めてため息をついた。

「……もう少し、噛みしめさせてくださいよ」
「ごめんて」
「ひとりで抱え込んで、不安だったでしょう?」
「なにが?」

 ……人ひとりの命を抱えてこの反応は、メンタルまで鋼すぎる。

「だって、私がどんな選択しても一緒に歩いてくれるでしょ?」
「それはそうですが。今回はいくらなんでも歩幅デカすぎです。危うく振り落とされるところでした」
「あっははー」

 どこまでも彼女はあっけらかんとしているが、笑いごとじゃねえ。

「本当、勘弁してください……」

 人生の節目、選択に迫られる場面はいくらでも溢れていた。

 飛び立つ決意も、飛び方も、飛ぶ速さもなにもかもが彼女は俺と違う。
 それでも、俺は彼女とともに在り続けるだろうと、それだけは確信していた。


『君と飛び立つ』

8/22/2025, 6:28:42 AM