「そろそろ髪でも切りに行くか」
ことの始まりは俺の何気ない言葉だった。
伸びっぱなしになった髪が、耳や目にかかるようになりうっとうしい。
たぶん、そのときに発した俺の言葉を彼女は聞いていたのだ。
結婚して3年。
良くも悪くも、彼女は俺に似てきたと思う。
朝食の片づけをしたあと、なにをするわけでもなくソファに腰をかけた。
携帯電話に手を伸ばそうとしたとき、ヌンッと彼女の気配がする。
「……」
見上げると、彼女はずいぶんとお高そうなヘアワックスとキープスプレー、そしてヘアアイロンを手に俺の目の前に仁王立ちしていた。
「もしかしてそれ、……俺に使おうとしています?」
「髪の毛、切っちゃう前に1回だけっ」
わざわざしゃがみ込んで上目遣いに見つめられた挙げ句、両手を合わせて「お願い♡」なんてあざとくおねだりされたら、一瞬で絆されるに決まっている。
ずっる……。
俺が断れないことを知っていて彼女はダメ押しする。
彼女の欲求を満たすために、俺はおとなしくしたのだった。
*
「できた!」
鏡で様子を確認させてもらえず、ただひたすら真剣に俺の髪をいじる彼女の顔を観察した。
彼女の指先を堪能すること約30分。
ヘアアイロンを置いた彼女は、満足気に声を弾ませた。
「どんな感じにしたんです?」
彼女から鏡スタンドを渡されて、テーブルに立てかける。
う、わー……。
正面や左右角度を変えて自分の髪型を確認する。
すっかり普段とはかけ離れたセットに、俺は眉を寄せた。
「……なんか、チャラくないです?」
「え、そうかな?」
鏡越しに彼女に視線を向けるが、特に気にしている様子はない。
真面目な性格とは対照的に、彼女の美的センスはド派手だ。
彼女にまかせたら浮ついた印象になるのは必然だろう。
「似合ってると思うけど。ヤだった?」
「いえ。イヤとかではないです。あなたがいいなら問題ありませんよ」
眼鏡をかけて改めてセットされた頭を確認する。
元々クセのある毛質ではあるが、ヘアアイロンで緩くウェーブをかけられた。
伸びた前髪は分け目から軽く流され、いつも隠れている額が露わになる。
これで外に出る勇気はさすがに出ないが、自分では絶対にやらない攻めた髪型は、なかなか新鮮だ。
それに、どさくさで眉毛を整えられたときはドキドキした。
彼女に命の手綱を握られる言いようのない緊張感と高揚感は、俺の中の新たな扉が開きかける。
眉毛は時々お願いしてみるべきかもしれない♡
印象も、眉のラインが少し変わっただけなのに柔らかくなった気がした。
「それで、満足しました?」
鏡から視線を離して振り返る。
彼女は、ぽやぽやと瞬きもせずに俺を見つめて、頬をピンクに染めていた。
恍惚としたその表情に息をのむ。
自然と薄い桜色をした唇に視線が移ろいでいった。
んんっ、と喉を鳴らして朝から煩悩に塗れそうな思考を吹き飛ばす。
「……自分でやっておいてなんて顔してるんですか」
「だ、だって……」
真っ赤に染まった顔を背けながらも、チラチラと俺の顔を見ている。
もじもじと指を遊ばせて落ち着きをなくしていた。
「こんななるなんて、聞いてない……」
自分でセットしたのだから当たり前といえば当たり前だが、この髪型の俺をずいぶんお気に召したらしい。
普段は人の見目に対して心を揺さぶられることのない彼女が、ただ髪型を変えただけの俺にわかりやすく動揺していた。
「……」
まだ、俺にこんな顔を向けてくれるのか。
恋する少女のようにうっとりと目をとろかして、熱のこもった視線で俺を見つめてくれている。
俺のことが好きでたまらないという彼女のこの顔を、きっと忘れないだろう。
ジッと見つめすぎたか、彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。
「……これ、ずるい。だめ。さっさと髪の毛、切ってきて」
「ええ。次の休みには必ず」
自分でセットするわけでもないし、彼女をオーバーフローさせる手段は髪型である必要はない。
彼女が切れというのなら、さっさと切るに限る。
ワックスやヘアアイロンを片づけ始める彼女の腕を引っ張って、腰を抱き寄せた。
さっきよりも数段近くなった距離に、彼女は慌てて俺の胸を押し返す。
「ちょ、っと。……近い……」
「近づけてるんです。さっさとキスさせてください」
こんな顔を俺の目の前で向けておいて、お預けは無理だ。
恥ずかしがって拗ねて引き結ばれた唇を、むにむにと指でほぐしていく。
「ほら。早く」
「ん、……うぅー」
観念したのか、彼女の唇がわずかに開いた。
照れすぎて怒ってしまう前に、素早くその隙間に舌を差し込む。
声が艶を帯びて、浅くなった吐息は湿度が増した。
甘やかに小さく震える肌は素直に俺の体に縋っていく。
「……そんなにかわいく反応されると、髪を切るのが少し惜しいですね」
「っさい……」
照れ隠しの悪態をつく彼女に、ふっ、と自然と息が漏れる。
不貞腐れてツンとした唇に、俺はもう一度、自分の唇を重ねていった。
『きっと忘れない』
帰宅した彼女の姿を見た瞬間、俺の目から涙がボロッと溢れた。
こんなふうに泣けたのは何年ぶりだろうか。
俺の姿を見るなり彼女はギョッと目を見開く。
「なんで泣いてんの?」
なんで? ではない。
そもそもの原因は彼女だ。
抱きしめた彼女の頭頂部から普段よりも強い、ウッディ系の爽やかな香りがする。
彼女はあからさまに香りを残す人ではなかった。
いつもより艶が増し、サラサラに整えられた青銀の髪。
るんるんとテンションを上げた彼女が、俺の知らない香りを纏って帰ってきたのだ。
突然変わってしまった彼女の様子に黙ってなどいられない。
「あなたの表面積が減ったからです」
昨夜、2時間もかけて俺は反対したのに。
俺の想いはなにひとつ彼女に届いていなかった。
「……ぐずっ。ぐずっ。……毛先だけって言ったのに」
「ごめんて」
俺の見立てだが、彼女は髪の毛を5.2cmも切ってくる。
彼女が使っているシャンプーの減りが早くなってきたから、そろそろ美容院に行きたがる頃合いだろうとは予測していた。
『しばらく美容院に行けないし、バッサリいこうかなぁ』
うきうきしながらつぶやいた彼女にしがみついて、俺は猛反対したのだ。
それから2時間、彼女の髪の毛の魅力について力説する。
『わかったわかった。前髪だけ切って、あとは毛先を整えるだけにするから』
雑ではあったが、最終的に彼女は和解に応じた。
俺と仲良く一夜を過ごしておきながら、この裏切りはあんまりである。
「うゔっ。……せめて切った髪の毛をください」
「…………うーん。そうくるかぁ……」
歯切れの悪い声にイヤな予感がした。
彼女の肩をガバっと掴んで距離を取り、大きな瑠璃色の瞳を恐る恐る見つめる。
「まさか、ないんですか……?」
「あるわけないよね?」
「うぁあぁぁっっっ!」
一方的に和解条約を破っておきながら、詫びの手土産ひとつないとかとんだ暴君である。
「5cmも切れば筆が作れちゃうでしょうが!? もったいない!!」
切るだけでも我慢できないのに、捨てただとっ!?
ちょっとくらい持ち帰ってきてくれれば、もしかしたら許せたかもしれないのに……っ!
「私、……赤ちゃんかなんかだと思われてる?」
「なに言ってるんです? 俺はあなたの恋人に決まってるでしょう」
「認識……は、あってるねえ?」
あ、ちょっと照れた。
かわいい。
「……もしかして髪の毛を切る代わりに俺と結婚してくれるつもりでいました? 気がつかなくてすみません。夫婦になるのであれば許します」
小さく折りたたんだ婚姻届の用紙をズボンのポケットから取り出した。
「全然違うから、その用紙はしまってね? いつでもどこでも持ち歩くのは怖いからやめようか」
彼女は顔を引きつらせたものの、どこまでも冷静に俺を諭そうとする。
「ってか、なんでもかんでも欲しがるのやめて?」
「え? だって推しの髪の毛が落ちていたら作るでしょう。筆」
「仮にれーじくんの髪の毛が落ちていても、筆を作るなんて発想はできないかなー……」
「!? 俺、そんなに抜けてますっ!?」
「もし抜けてたらそれは絶対に円脱に決まってるから、そうなる前にきちんと生活習慣整えてくれる?」
優しかった彼女の口調が急に厳しくなり、低くなった声音に対し薄い桜色をした唇は、不自然なほどきれいな弧を描いた。
圧えぐぅ。
美人が微笑みながら怒るとここまで恐ろしくなるらしい。
「…………はい……。あの、それは……肝に銘じます」
無駄な抵抗はしないほうがいいと判断した俺は、おとなしくうなずいた。
「と、とにかくっ! 次回からあなたの表面積の管理は俺がします! 勝手に切ったらダメです! 約束してください!」
「……えぇー……」
「なんでですかぁぁああぁぁぁ!!」
約束を渋る彼女に俺は膝を折る。
「そんなに切るのダメだった? 似合ってない?」
ため息をついた彼女は、へたり込んだ俺の頭をポンポンと撫でた。
「似合ってるに決まってます。そこは大丈夫です」
ロングでもショートでも彼女のかわいさが髪型で左右されるわけがなかった。
銀河一かわいいに決まってるし、そもそもにおいて俺が問題としているのはそこではない。
問題なのは、わざわざ俺との約束を破ってまで5.2cmも髪を切ったことだ。
「だからって、なんで勝手に切っちゃうんですか……」
「だって……最近ずっと毛先にばっかりキスするんだもん……」
「はい?」
顔を真っ赤にして、彼女は口元に指を当てがう。
もじもじと落ち着きをなくす彼女の姿が妙に扇情的でごくりと喉が鳴った。
「ちゃんと、その……」
言い淀む彼女を前に己の行動を振り返れば、確かに、すぐに手を伸ばせば届く毛先に口づけていた。
「もしかしてお口のキスの回数が減って寂しかった……とか?」
「……」
こくり。
素直にうなずいた彼女を、俺は秒で許した。
これはむしろ、俺のほうが悪いまである。
涙は引っ込んだし、彼女にいっぱいキスをした。
『なぜ泣くの?と聞かれたから』
気晴らしを兼ねて出先で作業をしていると、不意に耳だけの世界が広がることがある。
目と手はしっかりパソコン作業に意識が向いているに、耳だけは意識の行き場をなくして不安定に周りの音を拾っていくのだ。
集中できるときはその不安定さが心地よく感じられる。
逆に不快感を抱いたときは、イヤホンをして耳の意識が曲へ向くようにコントロールしていた。
今日は、その音楽が邪魔になりそうな日である。
彼女とカフェで合流するついでに、俺はパソコンで執筆作業を進めていた。
自分の指先で立てるタイピングの音に紛れて聞こえる周りの足音。
他人の足音を聞くのは嫌いではなかった。
疲れていたり、軽やかだったり、すり足だったり……見た目以上に年齢や感情が足音に出る。
足音を傾聴しながら作業を進めていると、隣のテーブルが埋まった。
誰が座ったかなんて、確認しなくてもわかる。
パソコンから目を離さずに、俺は声をかけた。
「今日は遅かったですね」
「は? 怖」
声を潜めつつもいつも通りの第一声に、いつも通り傷つく。
怖い、気持ち悪い、嫌いはNGワードだと伝えているのに、彼女は全然聞いてくれなかった。
「あなたの彼氏ですよ? 俺。ナンパではありませんので怖がらないでください」
「そっちの怖さじゃねえよ」
隣のテーブルに近づくまでの足音は控えめ。
音を立てずにグラスを置き、椅子を引く音すら最低限だ。
荷物を丁寧にカゴに入れる周りに気を遣った几帳面な所作は、音だけで美しいとわかる。
「……っと、すみません。今、筆が乗っていて。少し待ってもらってもいいですか?」
「え、うん。……それは大丈夫」
「スペース狭いでしょう。テーブル、くっつけてください」
「あ、ありがとう」
戸惑っているのかいつもより歯切れを悪くしつつも、彼女は静かにテーブルをつけた。
瞬間、グラスと氷がぶつかり合う涼し気な音を立てる。
リンゴの果汁がほのかに鼻を掠めていった。
*
……夢中になりすぎた。
区切りのいいところまで作業を進めること25分。
予定よりも時間が押してしまった。
待たせている彼女の機嫌の良し悪しを伺うため、横目で盗み見る。
彼女はハードカバーの本を1枚1枚、小気味のいいリズムで捲っていた。
乱読家の彼女は本を読むペースが速い。
速読……と称するにはもしかしたら大袈裟かもしれないが、そのスキルは素直に羨ましかった。
氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを口に含んだとき、彼女と目が合う。
「終わったの?」
「ええ。お待たせしました」
「それはいいけど……」
彼女は内緒話でもするように顔を寄せて声を潜めた。
「ねえ。パソコンばっかり見てたクセに、なんで私だってわかったの?」
「なんでって、あなたの足音ってわかりやすいじゃないですか」
彼女は他人の歩き方や足音で、体勢の崩し方や相手がどこを痛めているかがだいたいわかるらしい。
以前そんなようなことを聞いて以降、俺も人の歩き方や足音を意識するようになったのだ。
人の重心なんて全くわからなかったが、人を観察する視点がひとつ増えたのは物書きにとって貴重な収穫である。
「足音?」
自分で言ったことなのに忘れているのか、小首を傾げて目を瞬かせた。
彼女の言葉にうなずいた俺は鼻を鳴らす。
「知ってました? あなたって足音までかわいいんですよ? 歩くたびにシャララワーンとか、キュルルラーとか、キラキラパラララーンってするんですから」
「……それ、言葉を扱う生業の人が使う語彙で大丈夫?」
あきれて肩をすくめるが、彼女のかわいさを言葉ごときで表現しきれるとでも思っているのだろうか。
本人が本人の魅力を全く理解できていないとは由々しき事態だ。
「そうは言われましても。あなたの足音が特別仕様すぎて言語化が難しいです。耳に届けばすぐにわかります。さっきだって、周りに気を遣って足音を立てないように静かに歩いてきたでしょう? 淑やかなあなたに相応しい上品なエフェクトが足元からかかっていて胸が高鳴りました」
「ちょっと、……そこまでわかられると気持ち悪い」
彼女の足音の魅力についてわかってもらおうと力説したら、なぜか距離を取られた。
しかも本日、まさかの2度目のNGワードである。
え。
もしかしてこのままNGワード全てコンプリートされてしまう!?
NGワードを2回も使われてただでさえ精神が削られているのに、追い討ちで彼女に『嫌い』なんて言われたら立ち直れないがっ!?
俺は慌てて彼女と認識した情報を全て開示した。
「すみません。ウソです。冗談ですから気持ち悪いは取り消してください。本当はチラッとあなたのカバンについてるハムスターの防犯ブザーが視界に入ったんです。テーブルに置かれたリンゴジュースの香りと、あなたの通う大学の指定ジャージ。待ち合わせしてるとはいえ、ふたりがけのテーブルで作業してる俺の真向かいには座らないだろうなと、総合的に判断しましたっ」
「……その、総合的な判断基準もちょっと……好きじゃない」
NGワードをコンプリートされずにすんだ安堵感。
いや、それよりも。
「……俺は……」
行き場を失った彼女の視線は、最終的に結露のたまったグラスに向かった。
真っ白な紙ストローに薄い桜色の唇が乗る。
不器用な照れ隠しに口元が緩んだ。
「あなたの、冗談でも軽口でも反射でも俺に『嫌い』って言えない正直なところ、かわいくてたまらないくらい大好きですけどね?」
頬杖をつき彼女の横顔を真っすぐ見つめ、似合いもしないあざとさを演出する。
視線は絡んでいないのに、彼女の横顔は徐々に赤らんでいった。
照れくささをごまかすためか、リンゴジュースのかさが勢いよく減る。
「っさいな」
最後は口に含んだストローでわざとらしく音を立てた。
「事実を伝えてるだけですよ。その真っ赤になったお顔は早くしまってください」
「むちゃ言わないでよ」
両手に頬を当てる彼女を尻目に、まだ切っていなかったパソコンの電源を落とす。
予定より押してしまったとはいえ、時間もいい頃合いだ。
改めて待たせてしまったことを謝罪する。
「待たせてしまってすみません」
「別に。それは怒ってない」
「なら、夕飯は? 回転寿司行きたいなんてかわいいこと言うから、俺、腹空かせて楽しみにしてたんですけど」
「!」
小さく肩を揺らしたあと、彼女は膝を擦り合わせて落ち着きをなくし始めた。
瞬きと目配せも増え、わかりやすく『回転寿司』に心を躍らせている。
「それは、行くっ。私もちゃんと、楽しみにしてた」
「では、仲直りしてくれますか?」
「仲直りって……。別に私、なんも悪くなくない?」
不貞腐れて不満がつめられた彼女の頬を指で突く。
頬の空気はすぐに抜けて、今度は唇を尖らせた。
「確かに、一方的に俺が悪いですね。自分のかわいさを全く理解できていないあなたに、少しムキになりました」
「悪いと思ってるならちょっとくらい悪びれろよ。わけわかんない責任をこっちに押しつけてこないで」
「ははっ。すみません。こんなことで感情を揺さぶられてるあなたが新鮮なんですよ」
「舐めやがって」
いつもの軽口のひとつだった。
しかし、急に彼女のまとう雰囲気に緊張感が増す。
獲物を捉えたネコのように、彼女は大きな瞳を鋭く光らせた。
「その余裕、いつか絶対に剥ぎ取ってやるからな?」
脈が強く拍動したあと、呼吸の仕方を忘れる。
負けず嫌いな彼女らしい宣戦布告とも取れる言葉に、パソコンをしまう手が止まった。
最初から、彼女以外見ていない。
余裕など、彼女と出会って以降ずっとなかった。
止まっていた息を吸えば、苦しいくらいに胸の鼓動が速くなる。
耳の奥で響く脈拍を煩わしく思いながらも、彼女からの宣戦布告を受け入れた。
「……それは、楽しみです」
「そういうところ、本当に生意気」
不服そうに吐き捨てて、彼女は立ち上がって荷物を肩にかけた。
それでも彼女は軽やかな足取りで、少し浮ついた足音鳴らす。
カフェを出て不揃いな足並みを互いに揃えていった。
『足音』
帰宅してリビングに向かうと、座椅子に座ってパソコンと睨めっこしている彼女がいた。
「珍しい。仕事ですか?」
声をかけると、彼女は今にも泣きそうな顔をして振り返る。
「おかえり! 待ってた!」
「え。どうしたんです?」
泣きたくなるほど嫌な仕事でも押しつけられたのだろうか。
それであればそんな会社は辞めてしまえばいい。
「小説の書き方教えてっ!」
おっと?
俺の予想より遥かに傾斜のえぐそうな困り方をしていた。
聞けば、長年通っていたクラブチームの後輩に夏休みの宿題を押しつけられたらしい。
「がんばってみたけど2行で書き終わっちゃった」
「2行……」
序破急に沿っても3行は書けるはずなのに?
「普段あれだけ本読んでおいてそんなことあります?」
「失礼な! 読書感想文はちゃんと書けた!」
読書感想文まで押しつけられたときた。
押しの弱さもここまでくると感心する。
「ほらぁっ!」
ぷりぷりしながら読書感想文を書いたと思われる原稿用紙を渡してきた。
几帳面できれいな文字で綴られたタイトルは、彼女の人のよさと真面目さがよく伝わってくる。
そして諸悪の根源である人物を確認した瞬間、俺は舌打ちした。
彼女に名前を書いてもらうとか、羨ましいにもほどがある。
「今後この人に宿題を押しつけられたら、俺の名前を出して断ってください」
「あ。やっぱり知り合い?」
「面識はありません。けど、向こうも俺の名前は知っていると思います」
読書感想文に書かれていた名前は、悪友の歳の離れた妹である。
今は高校生ぐらいだったはずだ。
彼女の写真と引き換えに、その悪友を通して何度も宿題を手伝わされたことがある。
「……って、待ってください。やっぱりとは?」
「その子から彼氏がゴネたらこれ渡せって預かってきた」
「は?」
彼女はパソコンの横に置かれた、真っ白な洋形2号封筒を差し出す。
封筒を受け取って中身を確認した瞬間、ローテーブルに顔面を強打した。
かああぁぁわいいぃぃ♡
封筒の中には彼女の昔の写真が入っていた。
しかもヒラヒラの黒いビキニという刺激的な格好をしている。
さらに凄いことに、青銀の髪の毛が腰までふわふわに伸びていた。
カメラに向かい真っ白な歯を見せて天真爛漫な笑顔を浮かべている。
「なにが入ってたの?」
「えっちな水着を着たあなたの写真です」
「……今すぐ燃やすから返してくれる?」
素直に答えたら、彼女は瞳から表情を消して封筒を奪おうとした。
「危なっ。いきなりなんてことしようとするんですか。俺の夏を勝手に終わらせようとしないでください」
「あ?」
「がんばってきれいに引き伸ばして、ひと夏のアバンチュールに酔いしれます」
「オッサンくさい言い方含めて、そんな夏さっさと終わらせろ! クソったれ!」
水着の写真に引っ張られて調子に乗りすぎたせいで、彼女のお口の治安が一気に悪くなった。
このままでは本当に写真が炭と化してしまう勢いのため、慌てて取り繕う。
「花火とかキャンプファイヤーとか飯ごう炊さんあたりが楽しめそうですかね?」
「ん? 火遊びってそういう……?」
「写真の代わりに火薬と薪と鉄ならいくらでも用意しますよ♡」
しかし彼女は暗い場所が苦手だ。
近所の公園であればすぐに戻れるし、花火を楽しめるかもしれない。
キャンプは日帰り一択だ。
飯ごう炊さんをメインに据えて、キャンプファイヤーの代わりに飯ごう用の火起こしを楽しむのが現実的である。
「用意しますよ♡ じゃ、ねえよ! 写真くすねる気ならこれ、なんとかしてっ!」
ピシッとパソコンに指をさす彼女に俺はうなずく。
「ええ、もちろんです。どんな物語にする予定だったんですか?」
「ふふんっ。聞いて驚け!」
自信たっぷりに、彼女はキラキラの笑顔を浮かべた。
「勇者が魔王をやっつけるお話!」
うん。
彼女にも苦手なことってあるんだな。
ドヤ顔で胸を張る彼女がかわいいし、彼女の昔の写真も貰えるし、もうなんでもよかった。
「斬新で素晴らしい発想ですね。文量と締切を教えてください」
「400字詰原稿用紙60〜200枚。締切は明日」
「はあっ!?」
けっこう文量多いし、締切タイトだなっ!?
「明後日から学校なんだって」
「マジすか……」
俺の夕飯がエナジードリンクに決まった。
「とりあえず、風呂入ったら作業にかかります。パソコン、そのままお借りしていいですか?」
「え? なんで?」
「締切がタイトですし、教えながら書くよりも俺が直接手を下したほうが早いです」
「そっか、それもそうだね……」
俺に押しつけるかたちになって後ろめたいのか、しょもしょもと彼女は肩を落とした。
「その代わり、終わったらご褒美くださいね♡」
「もちろん! わかった!」
交換条件という形式をとったことによって、彼女の罪悪感が消えた。
日帰りキャンプに、花火遊び。
それに、彼女はひと夏の恋も求めていた。
もちろん、ひと夏で終わらせる気など毛頭ない。
キラキラと輝く彼女の笑顔を前に、まだまだ俺の夏は終わりそうにない。
そう確信するのだった。
『終わらない夏』
雨音が、遠くの空へ向かって走り去る。
厚塗りされた灰色の空を見上げる、その物憂げな横顔から目が離せなかった。
スクランブル交差点の歩行信号は、強制的に人々の歩みを止めている。
同じように立ち止まる彼女の隣に俺も並んだ。
「好きです」
「ごめんなさい」
口から溢れた唐突な告白を、彼女は間髪入れずに一蹴する。
横顔のラインが崩れることなく、長い睫毛が揺れることなく、黒い大きな瞳が動くこともなかった。
周りの人々にならうように、彼女はさしていた傘を閉じる。
傘紐をキツく締めたあと信号が青に変わった。
人々に紛れて、彼女は青信号に吸い込まれていく。
結局一瞥もされないまま、俺は彼女を見失ってしまった。
*
あれから約3年が経つ。
スクランブル交差点の歩行信号は赤を示したばかりだ。
鮮やかな夏の色と同化するためには、まだ1分ほどかかるらしい。
人の視線は常に携帯電話を向いており、車やバイクのエンジン音はイヤホンで塞いでいた。
ぎゅうぎゅうと信号待ちをする人で溢れ返り、自然と縮まった彼女との距離を利用する。
「好きです」
「え……」
つぶやいた言葉のせいで、信号を見つめていた彼女の瑠璃色の瞳が俺に移った。
あのとき、横顔しか見せてくれなかった彼女が俺を真っすぐ見上げている。
長い睫毛が小刻みに揺れて、大きな瑠璃色の瞳は熱を帯びた。
「……きゅ、急に、なに?」
顔を逸らしてと色づく頬を隠したが、耳が真っ赤に染まっている。
「いえ。ここであなたに告白したことを思い出しまして」
「こんなところで?」
身に覚えがないと言いたそうにしながら、人で溢れたスクランブル交差点を見渡す。
「……いくらなんでも、見境なさすぎじゃない?」
「どうせ振られるならどこで告っても一緒かなと思いまして」
「なにそれ。雑すぎ……」
事実、俺は容赦なく彼女に振られる。
当時の彼女は俺の告白など噛み締めてすらくれなかった。
「あのときは質よりも量が適切だと判断しました」
押しに弱い彼女をなし崩すには、シンプルな言葉と数と勢いだ。
「そのおかげで、しっかり絆されてしまったでしょう?」
「う……」
身に覚えしかないのだろう。
悔しそうに唇を尖らせた。
その場しのぎの駆け引きは時間の無駄だし、ふたりきりの食事やデートに誘う隙を、心を閉ざした彼女は与えてくれない。
彼女にはひたすら好意のみを伝えて、水面下で牽制しながら周りを囲っていった。
「それで、返事はくれないんですか?」
「意地悪……っ」
毎日のように口説き続けた結果。
今ではこうして真っ赤になって、彼女は俺に動揺してくれるようになった。
彼女は俺を受け入れてくれる。
求めたら求めていたこと以上を返してくれるから、余計に彼女への想いを拗らせた。
「……そんなの、聞かなくても知ってるクセに」
「ふふ。そうですね。すみません」
拗ねたように再び顔を逸らして彼女は空を見上げた。
今日も鮮やかに夏空は光っている。
「好き……」
遠くの空へと放り出された飾り気のない感情は、優しく頬を撫でる風のように柔らかく俺の耳に届いた。
囁きよりもか細い声だっのにの関わらず、彼女の素直な気持ちに、激しく胸を揺さぶられる。
相変わらず……。
この喧騒に紛れて俺が聞き逃していたら、放った気持ちをどうするつもりだったのか。
最悪の可能性が頭をよぎったから、ため息と一緒に吐き捨てた。
「……どうせなら、こっち見て言ってくださいよ」
「……さすがに、むちゃ言わないで……」
信号が青に変わる。
いたたまれなくなったのか、彼女は夏の鮮やかな空に向かって横断歩道の白線を跨いだ。
人混みを器用に避けていく彼女のポニーテールは、しおしおと気恥ずかしそうに垂れている。
俺は息を溢して、そのポニーテルのあとを追いかけた。
『遠くの空へ』