「そろそろ髪でも切りに行くか」
ことの始まりは俺の何気ない言葉だった。
伸びっぱなしになった髪が、耳や目にかかるようになりうっとうしい。
たぶん、そのときに発した俺の言葉を彼女は聞いていたのだ。
結婚して3年。
良くも悪くも、彼女は俺に似てきたと思う。
朝食の片づけをしたあと、なにをするわけでもなくソファに腰をかけた。
携帯電話に手を伸ばそうとしたとき、ヌンッと彼女の気配がする。
「……」
見上げると、彼女はずいぶんとお高そうなヘアワックスとキープスプレー、そしてヘアアイロンを手に俺の目の前に仁王立ちしていた。
「もしかしてそれ、……俺に使おうとしています?」
「髪の毛、切っちゃう前に1回だけっ」
わざわざしゃがみ込んで上目遣いに見つめられた挙げ句、両手を合わせて「お願い♡」なんてあざとくおねだりされたら、一瞬で絆されるに決まっている。
ずっる……。
俺が断れないことを知っていて彼女はダメ押しする。
彼女の欲求を満たすために、俺はおとなしくしたのだった。
*
「できた!」
鏡で様子を確認させてもらえず、ただひたすら真剣に俺の髪をいじる彼女の顔を観察した。
彼女の指先を堪能すること約30分。
ヘアアイロンを置いた彼女は、満足気に声を弾ませた。
「どんな感じにしたんです?」
彼女から鏡スタンドを渡されて、テーブルに立てかける。
う、わー……。
正面や左右角度を変えて自分の髪型を確認する。
すっかり普段とはかけ離れたセットに、俺は眉を寄せた。
「……なんか、チャラくないです?」
「え、そうかな?」
鏡越しに彼女に視線を向けるが、特に気にしている様子はない。
真面目な性格とは対照的に、彼女の美的センスはド派手だ。
彼女にまかせたら浮ついた印象になるのは必然だろう。
「似合ってると思うけど。ヤだった?」
「いえ。イヤとかではないです。あなたがいいなら問題ありませんよ」
眼鏡をかけて改めてセットされた頭を確認する。
元々クセのある毛質ではあるが、ヘアアイロンで緩くウェーブをかけられた。
伸びた前髪は分け目から軽く流され、いつも隠れている額が露わになる。
これで外に出る勇気はさすがに出ないが、自分では絶対にやらない攻めた髪型は、なかなか新鮮だ。
それに、どさくさで眉毛を整えられたときはドキドキした。
彼女に命の手綱を握られる言いようのない緊張感と高揚感は、俺の中の新たな扉が開きかける。
眉毛は時々お願いしてみるべきかもしれない♡
印象も、眉のラインが少し変わっただけなのに柔らかくなった気がした。
「それで、満足しました?」
鏡から視線を離して振り返る。
彼女は、ぽやぽやと瞬きもせずに俺を見つめて、頬をピンクに染めていた。
恍惚としたその表情に息をのむ。
自然と薄い桜色をした唇に視線が移ろいでいった。
んんっ、と喉を鳴らして朝から煩悩に塗れそうな思考を吹き飛ばす。
「……自分でやっておいてなんて顔してるんですか」
「だ、だって……」
真っ赤に染まった顔を背けながらも、チラチラと俺の顔を見ている。
もじもじと指を遊ばせて落ち着きをなくしていた。
「こんななるなんて、聞いてない……」
自分でセットしたのだから当たり前といえば当たり前だが、この髪型の俺をずいぶんお気に召したらしい。
普段は人の見目に対して心を揺さぶられることのない彼女が、ただ髪型を変えただけの俺にわかりやすく動揺していた。
「……」
まだ、俺にこんな顔を向けてくれるのか。
恋する少女のようにうっとりと目をとろかして、熱のこもった視線で俺を見つめてくれている。
俺のことが好きでたまらないという彼女のこの顔を、きっと忘れないだろう。
ジッと見つめすぎたか、彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。
「……これ、ずるい。だめ。さっさと髪の毛、切ってきて」
「ええ。次の休みには必ず」
自分でセットするわけでもないし、彼女をオーバーフローさせる手段は髪型である必要はない。
彼女が切れというのなら、さっさと切るに限る。
ワックスやヘアアイロンを片づけ始める彼女の腕を引っ張って、腰を抱き寄せた。
さっきよりも数段近くなった距離に、彼女は慌てて俺の胸を押し返す。
「ちょ、っと。……近い……」
「近づけてるんです。さっさとキスさせてください」
こんな顔を俺の目の前で向けておいて、お預けは無理だ。
恥ずかしがって拗ねて引き結ばれた唇を、むにむにと指でほぐしていく。
「ほら。早く」
「ん、……うぅー」
観念したのか、彼女の唇がわずかに開いた。
照れすぎて怒ってしまう前に、素早くその隙間に舌を差し込む。
声が艶を帯びて、浅くなった吐息は湿度が増した。
甘やかに小さく震える肌は素直に俺の体に縋っていく。
「……そんなにかわいく反応されると、髪を切るのが少し惜しいですね」
「っさい……」
照れ隠しの悪態をつく彼女に、ふっ、と自然と息が漏れる。
不貞腐れてツンとした唇に、俺はもう一度、自分の唇を重ねていった。
『きっと忘れない』
8/21/2025, 6:47:30 AM