今日は彼女の家でデートを兼ねて、まったりとくつろいでいた。
彼女はころりんとリビングのソファに寝っ転がり、スポーツ雑誌を読んでいる。
俺はそんな彼女の真向かいに座り、彼女の携帯電話を触っていた。
しかし、先ほどから何度もかかってくる着信のしつこさに我慢できず、声を荒げてしまう。
「大好きですっ!! 俺以上にあなたを愛しているヤツなんて絶対にいませんっ!」
「み゛ゃあっ!?」
突然声をあげた俺に驚いて彼女は肩を揺らした。
目を瞬かせ、寝ていた体を起こしてソファに座り直す。
「いきなり誰と比較し始めてんの?」
そんなものは決まっている。
さっきっから携帯電話の画面に表示されている着信相手と、だ。
俺が止めても止めても、何度も連絡がかかってきて埒があかない。
余程、彼女に思いの丈を伝えたいようだ。
いまだにムームーと震える携帯電話の画面を彼女自身の目の前に突き出し、ジャッジを求める。
「この人ですがっ!!!!」
「ああっ!? ちょっと!? それ私のスマホっっっ!!」
彼女が携帯電話を奪おうとしたが、俺は距離を取って阻止をした。
キッと彼女の眼光が鋭く光る。
「なんでわが物顔で人のスマホ触ってるの!?」
「なんでって。ネットショップに登録されているあなたのクレジットカードを俺のカードにすり替えるためです」
俺の言葉を聞いた途端、彼女の顔色が青ざめていった。
「ちょ、怖っ。え。なんてことしようとしてくれるんだ。絶対にやめろ」
「なにも怖くないです。あなたの生活記録のデータを取るためには必要不可欠なのでやめません」
「生活データそのものが不要だろうが」
はあ、と彼女はため息をついて右手を差し出す。
その手のひらを取ってチュッと口づけたら、顔をしかめた彼女から舌打ちで返された。
彼女は不器用だから、きっとキスのジェスチャーに失敗したのだろう。
そうに違いない。
そうに決まっている。
そうでなければ俺が泣いてしまうがっ!?
俺の胸中など知ったことではない彼女が、ついには顎で携帯電話を指し示した。
「とりあえず電話に出たいから、早くスマホ返して」
「俺と結婚してくれるなら返してあげます」
「たかが電話ひとつで要求がデカいな……」
彼女はあきれ顔でソファの背もたれに体を預けた。
「今からそんな調子で、結婚したあとはどうするつもりだよ?」
「今、俺と結婚するって言った!? ありがとうございます! よろしくお願いします!」
「……言ってねえ…………」
「え? なんでですか? 結婚しましょうよ。結婚したあとなら頭なでなでで手を打ちますよ?」
「手軽さの高低差エグいな? あー、でもまぁ、うん。もう、それでいいよ」
げんなりとした口調で吐き捨てたあと、彼女は首の後ろをぽりぽりと掻きむしる。
「はい?」
「あとでちゃんとかまってあげるから、今はいい子にしてて」
眉を下げて照れくさそうに笑いながら、彼女は手を伸ばして俺の頭をポンポンと撫でる。
「ね?」
あざとく小首を傾げた彼女にダメ押しまでされて、もうダメだった。
見惚れていたせいで、あっさりと携帯電話を抜き取られる。
「ちょ、待っ!?」
俺たちの結婚式はまだですよっ♡
もうっ♡ せっかちさんなんだから……っ♡
一足飛びに頭を撫でるなんて、反則です……♡
まずは婚約して同棲を始めてからにしましょうっ♡
俺は一瞬で絆されそうになった。
浮かれる俺をよそに、彼女は間延びした声で通話に応じる。
俺と一緒にいるときよりも楽しそうに弾んだ声がほわほわと部屋を満たしていき、一気に気持ちが沈んだ。
……面白くない。
俺はソファまで移動して彼女の隣に座る。
ででーんと彼女の太ももに寝そべって、腹に額をグリグリと押しつけた。
このくらいしないと割に合わない。
ビクッとかわいらしく反応するから、調子に乗って脇腹をくすぐってやった。
「ちょっ!?」
部屋から出て話し込まないだけ、まだ情状酌量の余地はある。
しかし、恋人であるはずの俺の前で友人と電話など重罪だ。
「んっふ。ねえ、くすぐったい。やめて……っ」
ぽしょぽしょと声を潜める彼女がめちゃくちゃかわいかったから、くすぐりの刑は許した。
彼女にしては珍しく、通話が長くなりそうだったから仰向けに体勢を変える。
テーブルに置きっぱなしだった自分の携帯電話に手を伸ばした。
ロック画面を解除しようとしたとき、彼女と目が合う。
どうしました?
なんて聞く間もなく、彼女の顔が近づく。
柔らかな青銀の毛先が顔に触れたとき、ちゅ、と額に唇を落とされた。
「は? え……?」
限界まで目を開いて彼女を凝視すれば、はにかんだ笑みで応えてくれた。
恥ずかしがり屋の彼女がっ!!!!
おでこにチュウだとっ!!!???
「〜〜〜〜〜〜っ!!!!????」
ボンッと顔に熱が集まる。
この瞬間、新たに彼女との記念日が認定された。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
♡♡♡おでこにチュウ記念日♡♡♡
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
『!マークじゃ足りない感情』
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いつもありがとうございます。
今回は昆虫を題材にしています。
虫が苦手な方は、次の作品をポチッとして自衛をお願いいたします。
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俺なんかよりずっと忙しなく日々を駆け抜けているというのに、彼女は時間を無駄にする天才である。
朝6時には走り込みに行く彼女は、俺より早く起きて身支度をして出ていった。
それから約2時間、彼女が帰ってくる気配がない。
倒れていないか心配になり、連絡を入れたらすぐに既読がついた。
『今、公園。ちゃんと生きてるから大丈夫』
メッセージも送られてきて心底ホッとする。
彼女の無事を確認できたため、俺も買い物に行くための準備を始めた。
*
とはいえ心配ではあるから、念のため凍らせたペットボトルを携帯する。
そして、公園に立ち寄る途中で彼女と鉢合わせた。
暑さで顔は真っ赤になってしまっているが、元気そうである。
汗を滴らせ、興奮した様子で彼女は俺を見上げた。
「ねえ、虫って平気!?」
「え、えぇ……。虫、ですか?」
俺の心配をよそに開口一番、彼女は返答に困ることを口走った。
正直、虫の種類や状態によるとしか答えられない。
手放しに虫全般が得意なわけではないため言い淀んでいたら、キラキラした眼差しと笑顔で声を弾ませた。
「ベンチで羽化してたセミがいて、写真撮ってた」
「は? なんですかそれ、見たいです」
大丈夫なタイプだったし、めっちゃ興味をくすぐられる内容だった。
歩道の隅に寄って、彼女の携帯電話を覗き込む。
彼女が写真に収めたときには既に殻から出てきていたようで、きれいな薄緑色の翅がピンと伸びていた。
しかし、出てくるときに折れたのか脚の部分が1本、殻に引っかかって取り残されている。
「……これ、ちょっと羽化失敗しちゃってません?」
真っ黒でつぶらな瞳が物悲しげに写っているように見えるのは、俺のエゴだろうか。
視線を彼女に移すと、彼女はあっけらかんとしていた。
「さあ? 最終的に元気そうに飛び立っていったから大丈夫なんじゃない?」
「……へえ。たくましいですね」
数分おきに撮っていたのか、けっこうな枚数の写真が収められていた。
薄緑色の翅が透き通り、徐々に茶色く色づいて乾いていく様子が見てとれる。
俺が小学生くらいだったら夏休みの自由研究の題材にしたいくらいだ。
セミの観察記録は、抜け殻だけが残った写真で締めくくられている。
殻に取り残された脚が自然界の厳しさを物語っていて、なんとも切ない気持ちになった。
「羽化の失敗ならもっと別の写真があるよ?」
「え?」
「……でも、こっちの写真は覚悟が必要かも。どうする?」
神妙な顔つきで前置きをされるから、俺はごくりと唾を飲む。
「ぜ、ぜひ。お願いします……」
羽化失敗と称された別日の写真。
そこには翅が全部縮れたままの状態で乾いてしまったセミや、殻から抜け出せずに頭だけ乾いてしまったセミ、羽化すらできなかったセミの幼虫が写されていた。
こんなものよく集めたな!?
てか、そもそもなんでそんなにセミの写真撮ってるんだ!?
「風が強い日だったから、羽化してる途中で吹き飛ばされちゃったのかも」
狼狽える俺に彼女が羽化に失敗した仮説を立てたが、そうではない。
気になっているのは自然の摂理の残酷さよりも、彼女の行動原理だ。
「えっと、なんでセミなんです?」
「SNSのネタになるかもって」
「なるほど?」
かわいい顔してアンテナの張り方が小学生だった。
これはこれでかわいいけども。
かわいすぎて誰にも知られたくないくらいだ。
年度初めにSNSを開設した彼女は、よく写真を撮るようになった。
彼女が見た景色を共有できる貴重な機会である。
どうせ載せられない写真なら、自宅に戻ってあとでゆっくり吟味したい。
「その写真、俺にも流してもらうことって可能ですか? どこにも載せないので……」
「いいよー。スタッフさんからはこの写真は使えないって言われちゃったし」
は?
スタッフのクセに彼女の魅力をなにひとつ理解できていないとはどういうことだ。
この絶妙なバランス感覚が彼女の魅力だというのに、セミの写真を使わないとか意味がわからない。
魅力大爆発のコンボしか起こらないのに由々しき事態だ。
やはり彼女の真の魅力を理解できるのは俺しかいない。
「もしかして、セミのほかにも昆虫とか撮ったりしてるんです?」
「え? んーっと、先週くらいにカマキリが交尾してる動画は撮ったよ? 見る?」
調子に乗ったら彼女の画像ストックからとんでもないものが出てきた。
さすがにカマキリの交尾はアウトである。
「あ、それは遠慮しておきます。そろそろ俺、買い物行かないと。少し溶けちゃいましたがペットボトル保冷剤代わりにどうぞ」
「そっかー……。引き止めてごめんね?」
うぐ。
しおしおとペットボトルを受け取る彼女には申しわけないが、無理なものは無理である。
「セ、セミの画像は楽しみにしてますから、帰ったら送ってくださいね!? ねっ!?」
「うんっ! わかった!」
ぱあぁっと輝きが戻った彼女の笑顔にホッと胸を撫で下ろし、俺は買い物に向かうのであった。
『君が見た景色』
今日も……!
今日も俺の推しがかわいい……っ!
俺の語彙など全く意味をなさない。
言葉を通してかわいさを形容する行為こそがおこがましいくらいだ。
ああああぁぁぁぁぁあっっ♡
言葉にならないものが胸の奥から込み上げてきて胸が苦しい♡
サイドに大きなリボンがついた水色の帽子。
深めの帽子は日差しもカットできて、頭のラインに沿って下がったツバは彼女の顔もミステリアスに隠した。
顔の小ささが際立ち、横から見た顎のラインを美しく描く。
パシャパシャと携帯電話のシャッター音がリビングで響き続けていた。
「ねえ。もうタグ切っていい?」
アンニュイな表情で彼女は帽子を取る。
儚げに息をつき、帽子についたタグ紐の輪に指を入れて気怠げに遊ばせた。
シャッターを止めるタイミングが見つからない。
「ああ、そうでした。そうでした。動画回すので少し待ってください」
「……タグ切るだけだよね?」
瞳の影を落として首を傾げ、声音を低くする彼女も魅惑に溢れている。
俺としたことが、やはり動画も一緒に回しておくべきだった。
「ハサミを上手に使っている天使の姿は見逃せません」
「私をいくつだと思ってんだよ」
「あと3ヶ月で24歳ですね。おめでとうございます。プレゼントは新居と指輪と婚姻届でいいですか?」
「絶対にやめて」
感嘆の息を吐いてまで喜んでくれるなんて思わなくて胸を押さえた。
「あああああっ、その照れたお顔も斬新でかわいいですね♡」
「誰も照れてねえよっ! さっさとハサミ貸せっ!」
「どうぞ♡」
俺は彼女に、キャップがクマさんになっているハサミを手渡す。
ハサミには拙い筆跡で彼女の名前がひらがなでかわいく書かれていた。
「うわ。どこからこんなもん持ってきたんだよ?」
「どこって、あなたが幼稚園の頃に使っていたお道具箱からです」
ソファの下の引き出しから、彼女が幼稚園のときに使っていたというお道具箱を取り出す。
「ほら」
真新しいピンクのお道具箱を持ってニコニコと満面の笑みをカメラに向けていた幼少期の彼女は本当に天使だった。
もちろん今も天使だけど。
幼い彼女の姿を思い浮かべてホクホクしていたら、23歳の彼女が俺を現実に引き戻した。
「だからっ!? なんでそんなもん持ってて、しかも持ち帰ってんだよっ!? つかよく残ってたなっ!?」
「実家までご挨拶に伺ったとき、お義兄様からいただきました。あなたの最新版の寝顔と寝起きの抱き合わせ画像20枚とトレードです」
「最新版の寝顔と寝起きの抱き合わせ……?」
ポカンとしている彼女も、頭を抱えている彼女も、顔をしわくちゃにしている彼女もかわいいが、今はタグを切る画角が欲しい。
クマさんのキャップを外す彼女は絶対かわいいに決まっている。
「そんなことより早くタグ切ってください。このあとタグなしバージョンの差分の撮影が控えてるんですから」
「タグなしの差分ってなに!? 聞いたことねえよ! 差分って表情とか服とかに変化つけるもんなんじゃないの!?」
「自宅でパリコレしてくれるんですかっ!?」
「誰がやるかっ!!」
彼女の口からとんでもない誘惑が飛び出して秒で食いつくが、あっさり却下された。
人を弄ぶのもいい加減にしてほしい。
困ったわがまま天使様だ。
最高である。
「は? やるつもりないなら軽率に誘惑ぶら下げるのやめてください」
「なんっで私が怒られてんだよ!? 今撮った写真ごとそのスマホ、水ぽちゃしてやってもいいんだけど!?」
「画像自体は別端末と同期してるほかクラウド保存しているのでかまいませんけど……。今のスマホの壁紙とアプリアイコンは俺史上最高のかわいさの出来栄えで推しを配置したので水ポチャは困ります。やめてください」
「別端末? クラウド……? 壁紙……? ちょ、なんで刺すたびに私がダメージ受けてんの……?」
「さあ? 刺しどころが悪いんですかね?」
「ふざっけんなっ!」
ん。
と、よこせと言わんばかりに手のひらを広げるから、ポンっと携帯電話を乗せた。
彼女とは同じ機種を使っているから大きさの比率は変わらない。
それなのに、俺の携帯電話を待っているだけで小さく見えた。
いつ見ても小さなおててかわいい♡♡♡
「うわ。アプリアイコンって変えられるんだ。ほんっと、乙女みたいなセンスしてるよね?」
俺の彼女に対する献身スキルが無条件に発動して、携帯電話を手渡していたことに気がつく。
「あ、え? あれっ?」
そして、なぜか当たり前のように英数字含めたパスワードを解除されていた。
同じ機種を使っているだけあって、彼女は慣れた手つきでタプタプと画面を指で弾く。
「ふんっ」
ぷりぷりしながら携帯電話を手渡されたときには、壁紙もアイコンも初期設定に戻されていた。
「ねえ、ちょっ、くぁwせdrftgyふじこlp」
無慈悲な鉄槌を施されたスマホ画面に、俺は言葉にならない声をあげて膝をついたのだった。
『言葉にならないもの』
……ん?
真夏の雨の日のカフェ。
彼女の姿を見つけたのは偶然だった。
コーヒーよりもほろ苦い記憶が蘇る。
雨に降られたのか濡れた服をタオルで拭いながら、店内のメニュー表を困ったように見つめる小柄な女性がいた。
俺の通う大学から然程遠くない場所に、体育会系大学の敷地がある。
彼女はその大学に通っていた。
大学名が大きく入ったジャージ姿は、このしゃれ込んだカフェでは少し浮いている。
居心地悪そうにして焦る彼女に俺は声をかけた。
「あの……」
「んえっ!?」
ビクッと勢いよく振り返る彼女は目を白黒させて俺を見上げる。
「すみません。驚かせました」
「いえ……。なにか?」
「注文、困っているようだったので」
「あー、おかまいなく」
警戒心を露わにしたまま、彼女は俺からすぐに顔を逸らしてメニューと睨み合う。
俺はメニューの右端のほうを指差した。
「……余計な世話ですみません。メインメニューのドリンクはハイカロリーな物ばかりですけど、こっち。レモネードとか、カフェインが平気なら紅茶とかコーヒーが選べます」
「……ども。ありがとうございます」
ひょこひょこと小さくポニーテールを揺らし、彼女はレジカウンターで温かいレモネードを注文した。
商品が提供されるのをレジ前で待つ間、声を落として話しかける。
「雨宿りなら俺の隣が空いてるので、よければ来てください」
「は? なんで?」
「居心地悪そうにしてたんで。俺の隣に来れば待ち合わせっぽくなると思いますから」
警戒心と居心地の悪さ、どちらを優先されてもかまわなかった。
選択を彼女に委ね、軽く手を振ったあと席に戻る。
「……お気遣いありがとうございます」
澄ましているイメージを持っていたが、意外と顔に出るらしい。
不服そうに眉をひそめながら俺の隣のテーブルにトレイを置いた。
「いえ、こちらこそ不躾にすみません。でも、あなたの彼は誤解するような人でもないでしょう?」
「彼……?」
人伝てではあったが、彼女とは何度か顔を合わせたことはあるし、直接言葉を交わしたこともあった。
しかし、全く認知されていなかったらしい。
「……高校のとき夏合宿でお世話になったんで顔見知りですよ。心配なら俺からも連絡しますけど……」
携帯電話を取り出した俺に、彼女は慌てて首を横に振った。
「え!? 大丈夫っ、です!」
「そっすか?」
切な気に黒い瞳を揺らしたあと、静かに声を溢す。
「……その、もう、別れてるんで……」
「はあ!?」
耳を疑う発言に、思わず声をあげてしまう。
カフェ内は賑やかだったため俺のは掻き消され、視線がこちらに集まることはなかった。
「す、すみません。すげぇお似合いだったから、……意外で」
「そう見えてました?」
「え? ええ。まあ……」
憎らしいくらいにお似合いだった。
おかげで俺の恋は一瞬で散るハメになったのだが、それは彼女には関係のないことである。
でも別れたのか……。
なんで?
いや、理由なんてどうでもよかった。
以前はもっと冷ややかで……それこそ、声をかけようなんて思わせる隙すら見せなかったはずだ。
俺のことを警戒しているとはいえ、ガードが固いのか緩いのか、目を離せない程度には危なっかしい。
「なら、よかったです」
どこか寂しそうにしながらも、フワッと口元を緩める彼女を見て確信した。
彼女はまだ、彼のことを思い慕っている。
関係を終わらせてもずっと彼への気持ちを捨てずに、大切に抱えていた。
「折りたたみでよければ俺の傘、使ってください」
「え? なんで……」
「雨、しばらく止まないみたいですよ?」
携帯電話に表示された天気予報によると、夜までずっと振り続けるらしい。
「気が向いたときでいいです」
折りたたみ傘しか貸せない俺には、連絡先を渡すどこらか、名乗る資格すらない。
自己紹介や確実に会える約束なんて、今はまだ求める段階ではなかった。
会える可能性だけ。
ささやかな期待を、ひとりで勝手に抱くだけで十分だ。
「晴れた日の木曜日、16時からここにいます」
「え?」
「今日って木曜日ですよね? このくらいの時間ならいつも空いてるのかと思ったのですが、違いました?」
「それは、まあ……」
カバンの中から折り畳み傘を取り出して彼女のテーブルの上に置いた。
「では晴れた日は待っています。そのときに俺の傘、返しにきてください」
まだ口もつけていない、冷めたコーヒーをミルクも砂糖も入れずに一気に飲み干した。
傘を持って席を立つ俺に、彼女は慌てるようにぺこりと頭を下げる。
「わ、わかっ、りました」
……かわいい。
意外と押しに弱いんだ。
彼女のことをひとつ知れただけで目元が綻ぶ。
「ではまた」
雨の日の真夏の記憶。
コーヒーよりもほろ苦い日常に、夏というこれ以上ないきらめいた一色を与えてくれた。
まろやかに馴染んでいくミルクのように、色が染まるのを待てばいい。
関係を進めるための砂糖を入れるタイミングは、次にまた会えたときでもきっと遅くないはずだ。
『真夏の記憶』
うるさい夏のせいにして、騒がしい心の声をごまかした。
夏の実家の冷凍庫は、宝箱みたいにキラキラしている。
アイスクリーム、チョコレート、ゼリー、チキンナゲット、コロッケ、チーズが中に入ったハンバーグ。
俺の好きなものがいっぱいつまっていた。
だから冷凍庫の奥に、捨てられない気持ちを果肉の入ったストロベリーアイスクリームと一緒に隠し込む。
それでもどうしても、はにかんだキラキラの笑顔が忘れられなくて、隠していた気持ちをスプーンで掬ってみた。
ストロベリーの果肉のようにキラキラと輝いたあと、すぐにドロドロと音もなく溢れていく。
掬っては食み、掬っては食み、ストロベリーの酸味が口の中に広がった。
甘い部分はどこかに溢れて溶けたのか。
心の中はずっと酸っぱいままだった。
*
風呂上がり、冷凍庫で冷やしていたカップアイスを取り出す。
蓋を剥がせばミントの香りが広がった。
真ん中からスプーンで掬えば、パリパリとチョコレートの割れる感触が伝わってくる。
「これもある意味、水色かあ……」
洗濯物を畳み終えた彼女が、俺の隣にちょこんと座ってきた。
「なんです? 藪から棒に」
「水色にハマってるってさっき言った」
水色……。
彼女に言われてカップアイスに目を向けた。
チョコレートの比率は多いものの、確かに色味は水色には違いない。
「……これはたまたま。3個で200円という破格の値段で売ってたので」
「!?」
ワゴンセールで掘り出し物を漁るのが好きな彼女だ。
案の定、彼女は目をキラキラと輝かせる。
「それは買っちゃうかもしれない……っ!」
「そうでしょう?」
俺もつい調子に乗り、カップアイスを食べ進めながら夕飯時に濁された彼女の言葉の真意を求めてみた。
「でも、それでいうなら、さっきの……『そういうところ』ってなんですか?」
「え? あー……あれか」
きょとんと目を丸くさせたあと、彼女はジイっと俺の目を見つめた。
「いくら変な格好したって、少し喋ればすぐにいい男だってわかるもん。好きになっちゃうのはわかるよなあって思っただけ」
……え。
スプーンを傾けてしまったせいでぼろっとアイスクリームが溢れ、カップの中に落ちていった。
「あなたが乙女心を理解していると……っ!?」
「おい。待て。どういう了見で言ってんだよ?」
ギロリと睨みつけかくるが、どうもこうもない。
「いつもクソ鈍いじゃないですか」
「失礼だな。さすがに今回のはわかりますぅ」
「なんでですか」
「いや、だからさ。好き、以外にある?」
「は?」
「私も好きだもん。だから、わかるの」
好き……。
今、彼女、俺のこと、好きって、言った?
「ちょ、ま……っ!? タンマ。一旦、待ってください」
彼女からの告白なんて多ければ多いほうがいいに決まっている。
決まっているが、こんな流れるようにあっさりと吐露されることは滅多にないから心の準備が全然できていなかった。
「言わせた本人がなに照れてんの?」
今のは言わせてない! 断じてっ!
俺の手からスプーンを抜き取る際、触れた彼女の温もりにビクリと反応してしまう。
クスっと息を漏らしながら、彼女は溢れたアイスクリームを掬い直した。
スプーンに乗せられたアイスクリームが蠱惑的に輝いて見える。
からかいを含めたその笑みは艶めいていて、微かな熱を孕んでいた。
俺、タンマって言ったよな!?
こんなバカップルよろしく「あーん♡」なんてイベントまでやってきて、バクバクと心臓が暴れ始める。
左手を添えながら、少し溶けたアイスクリームを乗せたスプーンが口元に差し出された。
食えと言わんばかりにツンとスプーンで急かす。
あぁぁぁっ。
クソッ……!
抵抗なんてできるわけもなく、おとなしく口を開けた。
満足そうに笑みを深くした彼女はゆっくりとスプーンを口の中に運ぶ。
スプーンが歯に当たってカチャリと小さく金属音を立てた。
ごくり。
爽やかなミントと甘ったるいチョコレートを嚥下したあと、彼女はカップの上にスプーンを置いた。
「じゃ、お大事に」
赤みも痛みもとっくに引いた頬を撫でて彼女はソファから立ち上がる。
カップアイスをテーブルに置き、リビングを出ようとする彼女の右手をそっと掴んで引き寄せた。
「……っとに」
「なに?」
そのままソファに押し倒し、ほんのりと色づいた頬を撫でる。
唇はきれいに弧を描き、挑発的に細められた瑠璃色の瞳はやはり熱を孕んだままだ。
「人をこんなふうに焚きつけておいて、眠れると思ってます?」
「それは……」
上半身を起こした彼女は、俺の頬に軽く口づける。
……は?
「どうぞ、お手柔らかに?」
ほうけている俺の隙をついてひらりとソファから抜け出して、彼女はリビングから出ていった。
マジか……。
パタリと、静かに閉められた寝室のドアを見つめる。
唇でなかったのは残念だが、あの奥ゆかしくて恥ずかしがり屋の彼女からキスまでいただいてしまった。
「顔、あっつ……」
このあとどうしてくれようかと悶々としながら、俺は急いで溶けかけたアイスクリームを片づけた。
『こぼれたアイスクリーム』