……いってぇ。
身から出た錆とはいえ、容赦なく引っ叩かれた。
桃色を塗りたくった長い爪。
すぐに引くかと思った痛みは、自宅に戻った今も熱を持ってジクジクと疼いた。
冷凍庫から保冷剤を取り出したとき、ちょうど彼女が帰ってきた。
「ただいまー、って……どうしたの?」
「おかえりなさい。まあ、はい。ちょっと……」
……タイミングまで最悪かよ。
「飲み会で一緒に飲んでいた相手に叩かれました」
「なにそれ詳しく」
俺のゴシップネタに、彼女はうれしそうに目を爛々とさせる。
中途半端に間をあけてしまったのもよくなかった。
立ち話ではすませられない雰囲気にため息をつき、リビングのソファに座る。
「痛い? ミミズ腫れみたいになってる」
「マジすか……」
ならほど、だから痒いわけだ。
「ワセリンでも塗っとく?」
「持ってるんです?」
「あるよー。ちょっと待ってね」
彼女はカバンからワセリンを取り出した。
ワセリンの中身を指先で掬って、俺の頬に湿布する。
ワセリンのオイルが優しく円を描きながら広がった。
やわらかな温もりに身を委ねすぎて、眉を下げていてもキラキラと陰りを失わずに輝くご尊顔が近くにあることに、今さら気がつく。
「自分でやりますがっ!?」
「塗り終わったあとに言われても」
ティッシュで指を拭う彼女の爪は飾り気がなく、短かった。
爪を切るだけでは説明できない、丁寧に手入れが行き届いている指先。
その細い右手を取って、彼女を隣に座らせた。
「あまりにも贅沢で幸せなひとときをありがとうございます」
「それはどうも」
「後払いになってしまってすみません。いくら支払えばいいですか?」
携帯電話を取り出そうとすれば、彼女はニチャアと鼻につく笑みを浮かべた。
「金はいらねえ。ネタをよこしな」
「……」
クソ。
すこぶる面白がられていた。
とはいえ、隠すようなことでもごまかすようなことでもない。
「……そんな大袈裟なことはないですよ。ただ『ピンクが好きだって言ったクセに』とか『クソダサTシャツ着てたクセに』とか『連絡先は交換してくれたクセに』とまくし立てられたと言いますか」
「待って。クソダサTシャツってなに。まさか……」
サアァーっと血の気を引かせる彼女の反応は予想通りだ。
解釈の一致に感情が昂り、彼女の右手を両手で取って握りしめる。
「あ。やっぱりそこに引っかかります? ええ、もちろん。あなたのかわいいお顔を熱転写したTシャツです」
「やっぱりか!? なんってもん着て飲み会参加してくれやがるんだよっ!? そういうのやめろって言ったよなっ!?」
キャンキャンと騒ぎ立てるのも概ね予想通りだ。
しかし彼女からやめろと言われたのは、自作Tシャツを着て「公共交通機関を利用するな」である。
俺の推しシャツを着て飲み会に参加することはセーフのはずだ。
「しかたなくないですか? 人数合わせに連れてこられただけでもダルいのに、彼女いることを伏せろとか言われたんですよ? 合コンでもねえのに人を巻き込んでガッつきやがって……」
その飲み会で派手に浮いた俺に声をかけた勇者が、例の女性である。
声をかけたのだって社交辞令だったはずだ。
義務感から連絡先の交換を申し出たと思っていたから断るのも良心が痛み、挨拶を交わしたあとはさっさと消去した。
まさか好意を持たれていたとは。
「もちろん、ソイツとは絶縁したので、今後そういった飲みはないので安心してください」
「そっちの心配はしてない。心配してるのはほっぺの傷」
「それは……。問題ありませんよ」
そうやって不器用に心配をかけさせてしまうから、できれば知らないままでいてほしかっただけだ。
*
きれいな所作で味噌汁を啜る彼女は、ふと箸を置いた。
かわいく首を傾げながら真っすぐ俺を見つめる。
「え? てかピンクが好きなの?」
「いえ。別にそういうわけではないです」
あのあと、彼女は風呂に入ったから満足したのかと思っていた。
突然話題を蒸し返され、やっと引いた頬の痛みがぶり返す。
「?」
彼女の頭の上に特大サイズのハテナマークが見えた気がした。
不要なインプットをされても困るため、「俺の好きな色」だったかについて答える。
「当時あなたが着ていたユニフォームがピンクだったんで、その色にハマっていたのは事実です。そういう意味であれば今は水色です」
「……なるほど?」
そもそも好きだと言った覚えはない。
その言葉は彼女のためにある言葉だ。
彼女のため以外に使えるはずがない。
「アレのどこで俺なんかに好意を持ってくれたのかはわかりませんけど、脈なしの相手からの優しさなんて向けられても迷惑でしょう」
「そういうところじゃない?」
彼女は呆れているようなうんざりしているような、複雑な表情をしていた。
鈍いクセに知ったような口をきいた彼女だったが、これ以上、喋る気はないらしい。
上品な箸遣いで黙々と夕飯を食べすすめていくのだった。
『やさしさなんて』
「み゛ゃ、み゛ゃ、み゛ゃぁあああ゛ぁあ〜〜…………」
かっっ、わっっっっ!?
帰宅して早々、リビングで信じられない光景を目の当たりにした俺は、膝から崩れ落ちた。
ズゴャォオオオンッッ!!!!
ド派手な音を立てたせいで、彼女はギョッと目をむいて振り返る。
「ちょ、大丈夫? どうしたの?」
「…………いや、俺のセリフです」
扇風機の前でペタンと座り込み、首を伸ばして無防備に小さなお口を開けて声まで出していた。
しかも風呂上がりのためか、上裸である。
エアコンは効いているとはいえこの暑さだ。
湿度に侵された頸の周りの髪の毛は重たそうに乱れている。
くっきりと浮き出たきれいな肩甲骨には水滴がゆらゆらと乗っていた。
……これは、ちゃんと拭いていない結果だと断定する。
必然的に視線が彼女の下半身に誘われるついでに、膝の上でくしゃくしゃに丸まったバスタオルを拝借した。
タオルを背骨の筋の上に乗せていく。
蠱惑的に突き出している尻はさすがに紺色のスポーツ下着で隠されていた。
「服も着ずになにしてるんですか?」
「風を感じてる」
絶妙に鼻のつく言い回しで返された。
人工風の前でドヤ顔を向けられても、なにも響いてこない。
いや、視覚的な暴力で下半身にはよく響いた。
「風を感じるのに、声をあげる必要性ありました?」
「空気の流れが風の強弱で変わるから、音の聞こえ方に影響するはずだよ」
「……俺には、俺がいないことをいいことに扇風機の前ではしゃいでるようにしか見えませんでしたけど?」
「ふっ。それだって、この風の影響を受けてこそでしょ?」
「風っつうか、扇風機です」
「細かいこと言ってないで、ただ心のままに感じなよ」
小難しいこと並べてそれっぽいことを言っているのは彼女のほうなのに、なぜか嗜められる。
今日の彼女はちょっとだけ面倒くさい仕様だ。
そんな彼女もかわいいから問題ない。
問題があるのはそのしどけない格好だ。
彼女の肌から水気をとったあと、バスタオルで白くてみずみずしい肌を包み隠す。
「なんでもいいから、服を着てください」
赤らんだ肩と控えめに膨らむ胸はなんとか隠せた。
しかし、その下の立派な腹斜筋と、かわいらしく窪んだへその穴は露わになったままである。
呼吸するたびにふるふる揺れる素肌に目眩がした。
「もーっ、ちょっとくらいノってきてくれたっていいじゃん」
求めていた反応と違うのが気に食わないのか、すっかりいつもの調子でぷりぷりしながら唇を尖らせた。
正面から風を浴びていたせいか、前髪がひょこっと跳ねている。
防御力がゼロになった彼女の額を見て、俺は考えるのをやめた。
「おや。ノってもよかったんですね?」
シャツのボタンをふたつほど外して、その額にちゅ、とわざとらしくリップ音を押しつける。
そのまま目元、鼻先、頬、耳元へ唇を移していくと彼女は戸惑いながら視線を揺らした。
「どういうこと?」
「今しがた帰宅したばかりなので風呂も飯もまだですが、あなたが許してくれるなら俺は全く問題ありませんよ?」
跡がつかないように首筋にかぷりと歯を立てる。
皮膚が薄いせいか、すぐに赤く色づき熱を持った。
「ん、えっ? なにっ?」
「なにって、心のまま感じていればいいんでしょう?」
散々、練り上げられた美しい裸体を見せつけていたくせに、今さら警戒してバスタオルで体を隠そうとした。
「いつまでも服を着てくれないので、俺はお誘いと受け取りました」
「おさっ!? ち、違っ!?」
これまで涼しそうな顔をしていたのに、急にポポポッと顔を真っ赤にさせるのずるすぎる。
ノってこいと言ったのは彼女だ。
それならば俺も便乗させてもらう。
ただ、俺が感じるのは風ではなく彼女自身にはなるが。
「なにも考えず、ただ俺を感じてくださいね♡」
「ちょ、やだっ! 離せえぇぇっ!」
威勢よく逃げ出そうとする彼女に、がっしりとしがみついて物理で逃げ道を塞いだ。
容赦なく暴れるから何発か腹にキマったが、かまうことなくゆっくりと理性を溶かしていく。
今日の彼女は特にノリノリだったから、すぐにぽやぽやと瞳を蕩かしておとなしくなった。
そのタイミングで彼女を抱え上げる。
足先で扇風機のスイッチを切るという横着をして、彼女を寝室へ運んだのだった。
『風を感じて』
時刻は朝の4時。
俺の家、俺のベッド、俺の毛布。
枕だけは彼女が愛用しているブランドと同じものを用意した。
目覚まし時計のベルが鳴る前に、彼女は目を覚ます。
「……は? ウソでしょ?」
寝起きにしてはずいぶんハッキリとした口調だ。
天井を見上げたまま何度も瞬きを繰り返す。
「どうしました?」
「……爆睡した」
「それはよかったです」
昨日、俺は初めて彼女を自宅に招いた。
俺の家で過ごす夜に緊張して眠れないかもしれない。
ためらいがちに打ち明けた彼女の姿はいじらしくて、胸をときめかせた。
下心なんて当たり前にあったから、しっかりと理性を吹き飛ばす。
そんな彼女は意識を手放すように5時間ほど眠り、あどけない寝顔を無防備に晒した。
彼女が自分のベッドにいるという夢と見紛うばかりの現実がいまだに信じられずにいる。
おかげで5時間、俺は彼女の小さな寝息を堪能できた。
「なんにもよくない」
朝から頭を抱えてうんうんと彼女は唸っていた。
「こんな部屋で熟睡できるとか人として終わってる。全部夢でありたい」
「ふふ。俺のかわいい推したちに囲まれて安心してくれたということですね? うれしいです」
「おい。ちゃんと私と会話しろ」
「ええ。もちろん、喜んで♡ というよりしてるじゃないですか。今、俺の推したちに安眠効果があるという新たな発見に感動しています」
俺の推しは、もちろん当然言わずもがな彼女である。
ベッドボードには、かわいいフォトフレームに入れた彼女の写真を飾った。
写真だけでは味気ないので、大きさや形が異なる缶バッチもアクセントとして置いてみる。
壁には彼女のタペストリー、ガーランド、フォトスナップを所狭しに掛け、彼女のアクスタを立てるためにレイアウトにこだわった。
現在は様々なデザインで、彼女のぬいぐるみを少しずつ増やしているところである。
これらが図らずも癒し効果が彼女自身によって証明されたのだ。
最高でしかない。
「帰る……」
「えっ!?」
リビングには彼女の写真を入れたカーテンを広げているからぜひ見てほしい。
トイレには彼女の格言と写真を入れたとっておきのカレンダーもあるのだ。
見てほしい俺のコレクションが、まだまだたくさんあるというのに。
「帰っちゃうんですか!?」
俺の推したちに囲まれている彼女の姿をもっと写真に収めたかったのに。
やんわりと引き止めてみると、彼女は両手で顔を隠してしまった。
「だって、どこ見ても私の顔ばっかりで逃げ場ないんだもん……っ」
逃げるなんて信じられない言葉が聞こえて、己の耳を疑う。
枕元に雑に置いた眼鏡をかけて、彼女の上にのしかかった。
「ちょっと。どこに逃げ込むつもりですか」
「自分の家だがっ!?」
眉毛を吊り上げてキャンキャンと吐き捨てた最強のワードに、言葉につまる。
「…………さすがに、聖地には敵いません……」
「あ? 聖地って、もしかして私の家のこと言ってる?」
「ええ。いつも巡礼させていただいてます」
「出禁にしてやろうか」
「なんでそんなひどいこと言うんですか」
調子に乗ったら眼光がさらに鋭くなった。
しかし俺の推したちが余程気になるのか、彼女はうつ伏せになって顔面を枕に押しつける。
「あああああ、なんでこんな、……夢であってほしい光景が夢じゃないんだよぉ……」
「俺は夢心地です」
ぺしょぺしょと声を萎ませる彼女には申しわけないが俺はそれどころではなかった。
幸せをこすりつけたこの枕は、あとで絶対に吸わせてもらう。
俺は鼻息を荒くしながら誓った。
「でも、外に出るなら一度シャワー浴びて、朝飯をすませて、……そうですね。今日の蠍座の運勢を確認して、3分間クッキングの料理レシピをメモしてからにしてください」
「……それ、帰す気ある?」
「ええ。それはもちろん」
彼女を帰さない権利は今の俺には持ち合わせていない。
それでも、今日が休みである彼女を帰すタイミングくらいなら選べるはずだ。
「……でも、まだ体に違和感があるでしょう?」
「ひぁっ!?」
俺の家に彼女がいるという現実に我を忘れ、彼女には無理を強いた。
昨夜の甘やかな余韻が、まだ彼女の皮膚に残っている。
自宅に送り届けるにしても、柔らかく蕩けた雰囲気のまま、彼女を外に出せるはずがなかった。
「ほら、ね?」
「……っ」
彼女の顔を覗き込むと、気恥ずかしそうに瞼を伏せて俺から目を逸らす。
その紅潮した頬に触れると、ぴくりと肩が跳ねた。
顔の輪郭をなぞれば薄く唇を開いてくれるから、ゾワっと期待が昂っていく。
「だから、もう少しだけ俺の推したちに囲まれて休んでください」
「ん……っ」
少しだけ赤く荒れてしまった彼女との甘い現実を、そっと啄んだ。
『夢じゃない』
どうしたって心はいつも迷ってしまうが、俺の目はもう迷うことはない。
間違えたくなくて正解だけを求めて彷徨っていても、手に取った正解が間違いだったとしても、この目は磁石のように彼女を捉え続ける。
黒を白に、白を透明に、透明の上に虹を描いてしまう彼女から、とっくに目を離せなくなってしまった。
*
人でごった返した駅。
駅のホームはそこそこ大きいのに、なぜか改札口付近は狭い構造になっていた。
駅からさほど離れていない書店での待ち合わせ。
待ち合わせスポットとしてよく使われているのか、ここでも多くの人で溢れていた。
体の小さな彼女は人混みに紛れやすい。
それでも俺の目は、新刊コーナーで彼女を捉えた。
この目はすぐに彼女を指し示す。
当の彼女はこれから出かけるというのに、ハードカバーの本を何冊も買い物カゴに入れていた。
「今日は大収穫ですね?」
「あ、もうそんな時間?」
「いえ。まだ5分前です」
青銀の髪は紺色の深い帽子に隠し込み、レンズの大きなサングラスにベージュのマスクをして顔を隠していた。
流行りのUV加工されたグレーのパーカーに涼しげな水色のワイドパンツ。
振り返った彼女は、相変わらずボーイッシュな装いでまとめていた。
「ねえ。この中から2冊くらい選んで」
「厳選するんですか?」
ハードカバーの本はすぐに書店からなくなってしまうからと、文芸書、自伝史、写真集、絵本、たまに出る謎の専門書や辞典まで買い込んでくるくらいだ。
そんな彼女がしょんもりと肩を落としながら、選別を決意するとは意外である。
「まだ本棚の整理ができてない」
「なるほど」
彼女の家のリビングの隅っこに、彼女は小さな本棚を置いていた。
本を乱読するが手元に置いておきたいというわけではないらしい。
小さな本棚にはいつもスペースにゆとりがあった。
だが、確かに今は本がギチギチと詰まっていた気がする。
「でも、整理って、どうせいつもみたいにごっそり手放すんでしょう?」
知的好奇心を満たすことができれば満足するのか、彼女は本そのものに対して執着がない。
読み終えた本は実家に送ったり、図書館に寄贈したり、絵本であれば近所の保育園に寄付をしていた。
「うん。そのつもり」
顔が隠れているとはいえ、カゴに入っている本を手放す行為が彼女の本意ではないことは明白である。
背表紙を確認しては悶々としているのだ。
彼女は俺がどんな本を選んでも受け入れる。
間違いではないが、正解でもない。
行ったり来たり、ぐるぐると背表紙を追う指先が、俺の気まぐれで止まるだけだ。
俺に選べと言われても、正直どれも小難しそうな本ばかりで興味が持てない。
それならば、不要になった本を手放す手伝いをするほうが、彼女の求める正解に最も近づけるはずだ。
導き出した解答に赴くまま、彼女の抱えるカゴを引き取る。
真っすぐレジに向かおうとしたとき、彼女の右手が俺の腕を掴んだ。
「えっ。なんで?」
「だって、どれを選んでも後悔しそうな顔してますよ?」
小さな指先を絡め取って、ためらう彼女にかまうことなくレジに並ぶ。
そろそろ我慢の限界だ。
早くその大きなサングラスを取って、大海原のように広大な瑠璃色の瞳で、直接俺を映してほしい。
早くマスクを取って、薄い桜色の唇で俺の名前を呼んでほしい。
「明日大学休みなんで、俺が本棚にある本を図書館に持っていきます」
「それは助かる、けど……」
素直に甘えていいものかと、ソワソワし始める彼女がかわいい。
早く帽子を取ってサラサラの髪の毛を撫でながら、小さな背中を抱きしめたくなった。
「これで、本棚の問題はなくなりました」
「……そうやってすぐ私のこと甘やかす」
誘惑に負けて悔しいのか、ぷっくりと彼女のほっぺたが膨らむ。
俺も誘惑に負けて、マスクの隙間からそのほっぺたに詰まった意地を押し出してやった。
「それはそうでしょう。俺なしでは生きていけなくなってもらわないと困りますから」
もちろん、そんな未来は一生をかけても来ない。
例え俺がいなくても、彼女は幸せに生きていけるし、向かうべき未来を見失うこともしない。
だから俺は、彼女を捉える目と彼女を想う羅針盤を携えて追いかけるのだ。
ひとりで生きていける彼女に、それでもふたりで歩んでいくことは矛盾しないと、俺なりに証明するために。
「え、怖っ」
「え、なんてこと言うんですか。怖くないです」
チラッとサングラスをずらしてくれたのはうれしいが、訝しんだ視線を求めていたわけではない。
もっと蕩けた瞳で俺を映してほしかったのに。
ずっしりと重たくなった彼女の愛(本)を自分のカバンに詰め込み、しょぼしょぼと本屋を出るのだった。
『心の羅針盤』
彼女と過ごした1日の終わり。
締めくくる言葉は「じゃあ、またね」ではなく「おやすみ」でありたかった。
*
ひとりで生きると決めた彼女の心を、ゆっくりと時間をかけてほぐしていく。
彼女から初めて「お疲れさま」や「気をつけて」をもらったときは心が震えた。
ささやかな気遣いのなかに「じゃあね」と、ほんのわずかな気軽さが加えられる。
思慮深く警戒心を怠らない視線を向けるのに、期待してしまいたくなる控えめな距離感。
もどかしくて夜も眠れぬほど胸が苦しくなった。
「……おやすみ」
いつもの公園での別れ際、少し言い淀んだその言葉を聞いたとき、咄嗟に彼女の手を掴む。
驚いた表情。
無理もない。
彼女にとって今のは別れのあいさつだ。
俺に対して特別な意味なんてきっと込められていない。
わかっていた。
彼女の言葉はいつも、驚くほど軽い。
そして彼女の心も脆くて繊細だった。
子どもながらに精いっぱい育んでいたとはいえ、拙い恋を引きずっていたなんて彼女自身も自覚していなかったのだろう。
だからこそか。
色がつかないほど純粋すぎる雫を溢した瞳は、枯れっぱなしだった恋の根っこをためらいもなく引っこ抜いた。
散って色褪せた花びらも。
培養土も小さな植木鉢も。
彼女は俺に「おやすみ」と言葉を捨てた瞬間、心ごと、いたいけな恋を放り投げた。
どうせ捨ててしまうつもりの心なら。
少なくとも彼女よりかは大切にできるはずだから。
いっそのこと、全部丸ごと俺に託してほしい。
「その言葉。どうせならもっと近くで聞かせてくれませんか?」
「え?」
純真な恋が割れたところにできた大きな隙間。
安いだけでクソみたいなシャビシャビの酒と、耳触りだけはよさげな薄っぺらな言葉でつけ込んだ。
「ちゃんと家まで送りますから。……ね?」
俺史上、最低な行為だった。
*
最悪極まりないきっかけで、彼女と俺は交際を始める。
新しい植木鉢を用意して、土を入れて種をまいた。
重すぎる肥料と十分すぎる量の水を一心不乱に注ぐ。
互いにむちゃをしている自覚はあった。
それでも、俺の想定していた以上に彼女が身を委ねてくれるから、どんどん欲張りになっていく。
求めて、応えて、また求めるから。
すぐに「おやすみ。またね」だけでは満足できなくなってしまった。
寂しげに響く彼女の「またね」に、何度も後ろ髪を引かれる。
引き止める術も資格も、学生の俺には持ち合わせていなかった。
だから大学を卒業してすぐに同棲を始められるように奔走する。
新生活の不安や焦りなんてどうでもよかった。
唯一懸念があるとすれば彼女の気持ちである。
彼女の家に押し入ったある日、緊張しながら同棲の件を切り出した。
「あの、……俺が大学を出たら、同棲しませんか?」
「ん。いいよ」
相変わらずの軽々しさで彼女はうなずく。
彼女の立場ではきっと難しいはずだ。
それでも彼女はどうにかして同棲という俺の望みを叶えてくれるらしい。
大きく育った彼女の愛にたまらず抱きしめた。
照れくさそうにしながら彼女も腕を回してくれたとき、眉を下げながら俺を見上げる。
「……でも、パパが許してくれるかな?」
あっさりと了承したくせに、最高難易度ともいえる高くてデカい障害を、彼女自身が軽々しく目の前に突き立ててきた。
「…………がんばります……」
「ふふ。期待してるね」
あのときうれしそうに破顔した彼女の表情は、今でも胸に刻まれている。
最難関の壁である彼女の父親への説得をめちゃくちゃがんばることを誓った。
なんとしてでも同棲の権利をもぎ取ってやる。
彼女と過ごす1日の始まりは「お待たせ」ではなく「おはよう」でありたい。
『またね』