時刻は朝の4時。
俺の家、俺のベッド、俺の毛布。
枕だけは彼女が愛用しているブランドと同じものを用意した。
目覚まし時計のベルが鳴る前に、彼女は目を覚ます。
「……は? ウソでしょ?」
寝起きにしてはずいぶんハッキリとした口調だ。
天井を見上げたまま何度も瞬きを繰り返す。
「どうしました?」
「……爆睡した」
「それはよかったです」
昨日、俺は初めて彼女を自宅に招いた。
俺の家で過ごす夜に緊張して眠れないかもしれない。
ためらいがちに打ち明けた彼女の姿はいじらしくて、胸をときめかせた。
下心なんて当たり前にあったから、しっかりと理性を吹き飛ばす。
そんな彼女は意識を手放すように5時間ほど眠り、あどけない寝顔を無防備に晒した。
彼女が自分のベッドにいるという夢と見紛うばかりの現実がいまだに信じられずにいる。
おかげで5時間、俺は彼女の小さな寝息を堪能できた。
「なんにもよくない」
朝から頭を抱えてうんうんと彼女は唸っていた。
「こんな部屋で熟睡できるとか人として終わってる。全部夢でありたい」
「ふふ。俺のかわいい推したちに囲まれて安心してくれたということですね? うれしいです」
「おい。ちゃんと私と会話しろ」
「ええ。もちろん、喜んで♡ というよりしてるじゃないですか。今、俺の推したちに安眠効果があるという新たな発見に感動しています」
俺の推しは、もちろん当然言わずもがな彼女である。
ベッドボードには、かわいいフォトフレームに入れた彼女の写真を飾った。
写真だけでは味気ないので、大きさや形が異なる缶バッチもアクセントとして置いてみる。
壁には彼女のタペストリー、ガーランド、フォトスナップを所狭しに掛け、彼女のアクスタを立てるためにレイアウトにこだわった。
現在は様々なデザインで、彼女のぬいぐるみを少しずつ増やしているところである。
これらが図らずも癒し効果が彼女自身によって証明されたのだ。
最高でしかない。
「帰る……」
「えっ!?」
リビングには彼女の写真を入れたカーテンを広げているからぜひ見てほしい。
トイレには彼女の格言と写真を入れたとっておきのカレンダーもあるのだ。
見てほしい俺のコレクションが、まだまだたくさんあるというのに。
「帰っちゃうんですか!?」
俺の推したちに囲まれている彼女の姿をもっと写真に収めたかったのに。
やんわりと引き止めてみると、彼女は両手で顔を隠してしまった。
「だって、どこ見ても私の顔ばっかりで逃げ場ないんだもん……っ」
逃げるなんて信じられない言葉が聞こえて、己の耳を疑う。
枕元に雑に置いた眼鏡をかけて、彼女の上にのしかかった。
「ちょっと。どこに逃げ込むつもりですか」
「自分の家だがっ!?」
眉毛を吊り上げてキャンキャンと吐き捨てた最強のワードに、言葉につまる。
「…………さすがに、聖地には敵いません……」
「あ? 聖地って、もしかして私の家のこと言ってる?」
「ええ。いつも巡礼させていただいてます」
「出禁にしてやろうか」
「なんでそんなひどいこと言うんですか」
調子に乗ったら眼光がさらに鋭くなった。
しかし俺の推したちが余程気になるのか、彼女はうつ伏せになって顔面を枕に押しつける。
「あああああ、なんでこんな、……夢であってほしい光景が夢じゃないんだよぉ……」
「俺は夢心地です」
ぺしょぺしょと声を萎ませる彼女には申しわけないが俺はそれどころではなかった。
幸せをこすりつけたこの枕は、あとで絶対に吸わせてもらう。
俺は鼻息を荒くしながら誓った。
「でも、外に出るなら一度シャワー浴びて、朝飯をすませて、……そうですね。今日の蠍座の運勢を確認して、3分間クッキングの料理レシピをメモしてからにしてください」
「……それ、帰す気ある?」
「ええ。それはもちろん」
彼女を帰さない権利は今の俺には持ち合わせていない。
それでも、今日が休みである彼女を帰すタイミングくらいなら選べるはずだ。
「……でも、まだ体に違和感があるでしょう?」
「ひぁっ!?」
俺の家に彼女がいるという現実に我を忘れ、彼女には無理を強いた。
昨夜の甘やかな余韻が、まだ彼女の皮膚に残っている。
自宅に送り届けるにしても、柔らかく蕩けた雰囲気のまま、彼女を外に出せるはずがなかった。
「ほら、ね?」
「……っ」
彼女の顔を覗き込むと、気恥ずかしそうに瞼を伏せて俺から目を逸らす。
その紅潮した頬に触れると、ぴくりと肩が跳ねた。
顔の輪郭をなぞれば薄く唇を開いてくれるから、ゾワっと期待が昂っていく。
「だから、もう少しだけ俺の推したちに囲まれて休んでください」
「ん……っ」
少しだけ赤く荒れてしまった彼女との甘い現実を、そっと啄んだ。
『夢じゃない』
8/8/2025, 11:47:07 PM