すゞめ

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 どうしたって心はいつも迷ってしまうが、俺の目はもう迷うことはない。
 間違えたくなくて正解だけを求めて彷徨っていても、手に取った正解が間違いだったとしても、この目は磁石のように彼女を捉え続ける。

 黒を白に、白を透明に、透明の上に虹を描いてしまう彼女から、とっくに目を離せなくなってしまった。

   *

 人でごった返した駅。
 駅のホームはそこそこ大きいのに、なぜか改札口付近は狭い構造になっていた。
 駅からさほど離れていない書店での待ち合わせ。
 待ち合わせスポットとしてよく使われているのか、ここでも多くの人で溢れていた。

 体の小さな彼女は人混みに紛れやすい。
 それでも俺の目は、新刊コーナーで彼女を捉えた。
 この目はすぐに彼女を指し示す。
 当の彼女はこれから出かけるというのに、ハードカバーの本を何冊も買い物カゴに入れていた。

「今日は大収穫ですね?」
「あ、もうそんな時間?」
「いえ。まだ5分前です」

 青銀の髪は紺色の深い帽子に隠し込み、レンズの大きなサングラスにベージュのマスクをして顔を隠していた。
 流行りのUV加工されたグレーのパーカーに涼しげな水色のワイドパンツ。
 振り返った彼女は、相変わらずボーイッシュな装いでまとめていた。

「ねえ。この中から2冊くらい選んで」
「厳選するんですか?」

 ハードカバーの本はすぐに書店からなくなってしまうからと、文芸書、自伝史、写真集、絵本、たまに出る謎の専門書や辞典まで買い込んでくるくらいだ。
 そんな彼女がしょんもりと肩を落としながら、選別を決意するとは意外である。

「まだ本棚の整理ができてない」
「なるほど」

 彼女の家のリビングの隅っこに、彼女は小さな本棚を置いていた。
 本を乱読するが手元に置いておきたいというわけではないらしい。
 小さな本棚にはいつもスペースにゆとりがあった。
 だが、確かに今は本がギチギチと詰まっていた気がする。

「でも、整理って、どうせいつもみたいにごっそり手放すんでしょう?」

 知的好奇心を満たすことができれば満足するのか、彼女は本そのものに対して執着がない。
 読み終えた本は実家に送ったり、図書館に寄贈したり、絵本であれば近所の保育園に寄付をしていた。

「うん。そのつもり」

 顔が隠れているとはいえ、カゴに入っている本を手放す行為が彼女の本意ではないことは明白である。
 背表紙を確認しては悶々としているのだ。

 彼女は俺がどんな本を選んでも受け入れる。
 間違いではないが、正解でもない。
 行ったり来たり、ぐるぐると背表紙を追う指先が、俺の気まぐれで止まるだけだ。

 俺に選べと言われても、正直どれも小難しそうな本ばかりで興味が持てない。
 それならば、不要になった本を手放す手伝いをするほうが、彼女の求める正解に最も近づけるはずだ。

 導き出した解答に赴くまま、彼女の抱えるカゴを引き取る。
 真っすぐレジに向かおうとしたとき、彼女の右手が俺の腕を掴んだ。

「えっ。なんで?」
「だって、どれを選んでも後悔しそうな顔してますよ?」

 小さな指先を絡め取って、ためらう彼女にかまうことなくレジに並ぶ。
 そろそろ我慢の限界だ。
 早くその大きなサングラスを取って、大海原のように広大な瑠璃色の瞳で、直接俺を映してほしい。
 早くマスクを取って、薄い桜色の唇で俺の名前を呼んでほしい。

「明日大学休みなんで、俺が本棚にある本を図書館に持っていきます」
「それは助かる、けど……」

 素直に甘えていいものかと、ソワソワし始める彼女がかわいい。
 早く帽子を取ってサラサラの髪の毛を撫でながら、小さな背中を抱きしめたくなった。

「これで、本棚の問題はなくなりました」
「……そうやってすぐ私のこと甘やかす」

 誘惑に負けて悔しいのか、ぷっくりと彼女のほっぺたが膨らむ。
 俺も誘惑に負けて、マスクの隙間からそのほっぺたに詰まった意地を押し出してやった。

「それはそうでしょう。俺なしでは生きていけなくなってもらわないと困りますから」

 もちろん、そんな未来は一生をかけても来ない。
 例え俺がいなくても、彼女は幸せに生きていけるし、向かうべき未来を見失うこともしない。
 だから俺は、彼女を捉える目と彼女を想う羅針盤を携えて追いかけるのだ。
 ひとりで生きていける彼女に、それでもふたりで歩んでいくことは矛盾しないと、俺なりに証明するために。

「え、怖っ」
「え、なんてこと言うんですか。怖くないです」

 チラッとサングラスをずらしてくれたのはうれしいが、訝しんだ視線を求めていたわけではない。
 もっと蕩けた瞳で俺を映してほしかったのに。

 ずっしりと重たくなった彼女の愛(本)を自分のカバンに詰め込み、しょぼしょぼと本屋を出るのだった。


『心の羅針盤』

8/8/2025, 3:54:39 AM