彼女と過ごした1日の終わり。
締めくくる言葉は「じゃあ、またね」ではなく「おやすみ」でありたかった。
*
ひとりで生きると決めた彼女の心を、ゆっくりと時間をかけてほぐしていく。
彼女から初めて「お疲れさま」や「気をつけて」をもらったときは心が震えた。
ささやかな気遣いのなかに「じゃあね」と、ほんのわずかな気軽さが加えられる。
思慮深く警戒心を怠らない視線を向けるのに、期待してしまいたくなる控えめな距離感。
もどかしくて夜も眠れぬほど胸が苦しくなった。
「……おやすみ」
いつもの公園での別れ際、少し言い淀んだその言葉を聞いたとき、咄嗟に彼女の手を掴む。
驚いた表情。
無理もない。
彼女にとって今のは別れのあいさつだ。
俺に対して特別な意味なんてきっと込められていない。
わかっていた。
彼女の言葉はいつも、驚くほど軽い。
そして彼女の心も脆くて繊細だった。
子どもながらに精いっぱい育んでいたとはいえ、拙い恋を引きずっていたなんて彼女自身も自覚していなかったのだろう。
だからこそか。
色がつかないほど純粋すぎる雫を溢した瞳は、枯れっぱなしだった恋の根っこをためらいもなく引っこ抜いた。
散って色褪せた花びらも。
培養土も小さな植木鉢も。
彼女は俺に「おやすみ」と言葉を捨てた瞬間、心ごと、いたいけな恋を放り投げた。
どうせ捨ててしまうつもりの心なら。
少なくとも彼女よりかは大切にできるはずだから。
いっそのこと、全部丸ごと俺に託してほしい。
「その言葉。どうせならもっと近くで聞かせてくれませんか?」
「え?」
純真な恋が割れたところにできた大きな隙間。
安いだけでクソみたいなシャビシャビの酒と、耳触りだけはよさげな薄っぺらな言葉でつけ込んだ。
「ちゃんと家まで送りますから。……ね?」
俺史上、最低な行為だった。
*
最悪極まりないきっかけで、彼女と俺は交際を始める。
新しい植木鉢を用意して、土を入れて種をまいた。
重すぎる肥料と十分すぎる量の水を一心不乱に注ぐ。
互いにむちゃをしている自覚はあった。
それでも、俺の想定していた以上に彼女が身を委ねてくれるから、どんどん欲張りになっていく。
求めて、応えて、また求めるから。
すぐに「おやすみ。またね」だけでは満足できなくなってしまった。
寂しげに響く彼女の「またね」に、何度も後ろ髪を引かれる。
引き止める術も資格も、学生の俺には持ち合わせていなかった。
だから大学を卒業してすぐに同棲を始められるように奔走する。
新生活の不安や焦りなんてどうでもよかった。
唯一懸念があるとすれば彼女の気持ちである。
彼女の家に押し入ったある日、緊張しながら同棲の件を切り出した。
「あの、……俺が大学を出たら、同棲しませんか?」
「ん。いいよ」
相変わらずの軽々しさで彼女はうなずく。
彼女の立場ではきっと難しいはずだ。
それでも彼女はどうにかして同棲という俺の望みを叶えてくれるらしい。
大きく育った彼女の愛にたまらず抱きしめた。
照れくさそうにしながら彼女も腕を回してくれたとき、眉を下げながら俺を見上げる。
「……でも、パパが許してくれるかな?」
あっさりと了承したくせに、最高難易度ともいえる高くてデカい障害を、彼女自身が軽々しく目の前に突き立ててきた。
「…………がんばります……」
「ふふ。期待してるね」
あのときうれしそうに破顔した彼女の表情は、今でも胸に刻まれている。
最難関の壁である彼女の父親への説得をめちゃくちゃがんばることを誓った。
なんとしてでも同棲の権利をもぎ取ってやる。
彼女と過ごす1日の始まりは「お待たせ」ではなく「おはよう」でありたい。
『またね』
8/6/2025, 11:27:30 PM