すゞめ

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 ……ん?

 真夏の雨の日のカフェ。
 彼女の姿を見つけたのは偶然だった。

 コーヒーよりもほろ苦い記憶が蘇る。

 雨に降られたのか濡れた服をタオルで拭いながら、店内のメニュー表を困ったように見つめる小柄な女性がいた。
 俺の通う大学から然程遠くない場所に、体育会系大学の敷地がある。
 彼女はその大学に通っていた。
 大学名が大きく入ったジャージ姿は、このしゃれ込んだカフェでは少し浮いている。
 居心地悪そうにして焦る彼女に俺は声をかけた。

「あの……」
「んえっ!?」

 ビクッと勢いよく振り返る彼女は目を白黒させて俺を見上げる。

「すみません。驚かせました」
「いえ……。なにか?」
「注文、困っているようだったので」
「あー、おかまいなく」

 警戒心を露わにしたまま、彼女は俺からすぐに顔を逸らしてメニューと睨み合う。
 俺はメニューの右端のほうを指差した。

「……余計な世話ですみません。メインメニューのドリンクはハイカロリーな物ばかりですけど、こっち。レモネードとか、カフェインが平気なら紅茶とかコーヒーが選べます」
「……ども。ありがとうございます」

 ひょこひょこと小さくポニーテールを揺らし、彼女はレジカウンターで温かいレモネードを注文した。
 商品が提供されるのをレジ前で待つ間、声を落として話しかける。

「雨宿りなら俺の隣が空いてるので、よければ来てください」
「は? なんで?」
「居心地悪そうにしてたんで。俺の隣に来れば待ち合わせっぽくなると思いますから」

 警戒心と居心地の悪さ、どちらを優先されてもかまわなかった。
 選択を彼女に委ね、軽く手を振ったあと席に戻る。

「……お気遣いありがとうございます」

 澄ましているイメージを持っていたが、意外と顔に出るらしい。
 不服そうに眉をひそめながら俺の隣のテーブルにトレイを置いた。

「いえ、こちらこそ不躾にすみません。でも、あなたの彼は誤解するような人でもないでしょう?」
「彼……?」

 人伝てではあったが、彼女とは何度か顔を合わせたことはあるし、直接言葉を交わしたこともあった。
 しかし、全く認知されていなかったらしい。

「……高校のとき夏合宿でお世話になったんで顔見知りですよ。心配なら俺からも連絡しますけど……」

 携帯電話を取り出した俺に、彼女は慌てて首を横に振った。

「え!? 大丈夫っ、です!」
「そっすか?」

 切な気に黒い瞳を揺らしたあと、静かに声を溢す。

「……その、もう、別れてるんで……」
「はあ!?」

 耳を疑う発言に、思わず声をあげてしまう。
 カフェ内は賑やかだったため俺のは掻き消され、視線がこちらに集まることはなかった。

「す、すみません。すげぇお似合いだったから、……意外で」
「そう見えてました?」
「え? ええ。まあ……」

 憎らしいくらいにお似合いだった。
 おかげで俺の恋は一瞬で散るハメになったのだが、それは彼女には関係のないことである。

 でも別れたのか……。
 なんで?
 いや、理由なんてどうでもよかった。

 以前はもっと冷ややかで……それこそ、声をかけようなんて思わせる隙すら見せなかったはずだ。
 俺のことを警戒しているとはいえ、ガードが固いのか緩いのか、目を離せない程度には危なっかしい。

「なら、よかったです」

 どこか寂しそうにしながらも、フワッと口元を緩める彼女を見て確信した。
 彼女はまだ、彼のことを思い慕っている。
 関係を終わらせてもずっと彼への気持ちを捨てずに、大切に抱えていた。

「折りたたみでよければ俺の傘、使ってください」
「え? なんで……」
「雨、しばらく止まないみたいですよ?」

 携帯電話に表示された天気予報によると、夜までずっと振り続けるらしい。

「気が向いたときでいいです」

 折りたたみ傘しか貸せない俺には、連絡先を渡すどこらか、名乗る資格すらない。
 自己紹介や確実に会える約束なんて、今はまだ求める段階ではなかった。
 会える可能性だけ。
 ささやかな期待を、ひとりで勝手に抱くだけで十分だ。

「晴れた日の木曜日、16時からここにいます」
「え?」
「今日って木曜日ですよね? このくらいの時間ならいつも空いてるのかと思ったのですが、違いました?」
「それは、まあ……」

 カバンの中から折り畳み傘を取り出して彼女のテーブルの上に置いた。

「では晴れた日は待っています。そのときに俺の傘、返しにきてください」

 まだ口もつけていない、冷めたコーヒーをミルクも砂糖も入れずに一気に飲み干した。
 傘を持って席を立つ俺に、彼女は慌てるようにぺこりと頭を下げる。

「わ、わかっ、りました」

 ……かわいい。
 意外と押しに弱いんだ。

 彼女のことをひとつ知れただけで目元が綻ぶ。

「ではまた」

 雨の日の真夏の記憶。
 コーヒーよりもほろ苦い日常に、夏というこれ以上ないきらめいた一色を与えてくれた。
 まろやかに馴染んでいくミルクのように、色が染まるのを待てばいい。
 関係を進めるための砂糖を入れるタイミングは、次にまた会えたときでもきっと遅くないはずだ。


『真夏の記憶』

8/13/2025, 6:41:38 AM