すゞめ

Open App

 帰宅した彼女の姿を見た瞬間、俺の目から涙がボロッと溢れた。
 こんなふうに泣けたのは何年ぶりだろうか。
 俺の姿を見るなり彼女はギョッと目を見開く。

「なんで泣いてんの?」

 なんで? ではない。
 そもそもの原因は彼女だ。

 抱きしめた彼女の頭頂部から普段よりも強い、ウッディ系の爽やかな香りがする。
 彼女はあからさまに香りを残す人ではなかった。
 いつもより艶が増し、サラサラに整えられた青銀の髪。
 るんるんとテンションを上げた彼女が、俺の知らない香りを纏って帰ってきたのだ。
 突然変わってしまった彼女の様子に黙ってなどいられない。

「あなたの表面積が減ったからです」

 昨夜、2時間もかけて俺は反対したのに。
 俺の想いはなにひとつ彼女に届いていなかった。

「……ぐずっ。ぐずっ。……毛先だけって言ったのに」
「ごめんて」

 俺の見立てだが、彼女は髪の毛を5.2cmも切ってくる。
 彼女が使っているシャンプーの減りが早くなってきたから、そろそろ美容院に行きたがる頃合いだろうとは予測していた。

『しばらく美容院に行けないし、バッサリいこうかなぁ』

 うきうきしながらつぶやいた彼女にしがみついて、俺は猛反対したのだ。
 それから2時間、彼女の髪の毛の魅力について力説する。

『わかったわかった。前髪だけ切って、あとは毛先を整えるだけにするから』

 雑ではあったが、最終的に彼女は和解に応じた。
 俺と仲良く一夜を過ごしておきながら、この裏切りはあんまりである。

「うゔっ。……せめて切った髪の毛をください」
「…………うーん。そうくるかぁ……」

 歯切れの悪い声にイヤな予感がした。
 彼女の肩をガバっと掴んで距離を取り、大きな瑠璃色の瞳を恐る恐る見つめる。

「まさか、ないんですか……?」
「あるわけないよね?」
「うぁあぁぁっっっ!」

 一方的に和解条約を破っておきながら、詫びの手土産ひとつないとかとんだ暴君である。

「5cmも切れば筆が作れちゃうでしょうが!? もったいない!!」

 切るだけでも我慢できないのに、捨てただとっ!?
 ちょっとくらい持ち帰ってきてくれれば、もしかしたら許せたかもしれないのに……っ!

「私、……赤ちゃんかなんかだと思われてる?」
「なに言ってるんです? 俺はあなたの恋人に決まってるでしょう」
「認識……は、あってるねえ?」

 あ、ちょっと照れた。
 かわいい。

「……もしかして髪の毛を切る代わりに俺と結婚してくれるつもりでいました? 気がつかなくてすみません。夫婦になるのであれば許します」

 小さく折りたたんだ婚姻届の用紙をズボンのポケットから取り出した。

「全然違うから、その用紙はしまってね? いつでもどこでも持ち歩くのは怖いからやめようか」

 彼女は顔を引きつらせたものの、どこまでも冷静に俺を諭そうとする。

「ってか、なんでもかんでも欲しがるのやめて?」
「え? だって推しの髪の毛が落ちていたら作るでしょう。筆」
「仮にれーじくんの髪の毛が落ちていても、筆を作るなんて発想はできないかなー……」
「!? 俺、そんなに抜けてますっ!?」
「もし抜けてたらそれは絶対に円脱に決まってるから、そうなる前にきちんと生活習慣整えてくれる?」

 優しかった彼女の口調が急に厳しくなり、低くなった声音に対し薄い桜色をした唇は、不自然なほどきれいな弧を描いた。

 圧えぐぅ。

 美人が微笑みながら怒るとここまで恐ろしくなるらしい。

「…………はい……。あの、それは……肝に銘じます」

 無駄な抵抗はしないほうがいいと判断した俺は、おとなしくうなずいた。

「と、とにかくっ! 次回からあなたの表面積の管理は俺がします! 勝手に切ったらダメです! 約束してください!」
「……えぇー……」
「なんでですかぁぁああぁぁぁ!!」

 約束を渋る彼女に俺は膝を折る。

「そんなに切るのダメだった? 似合ってない?」

 ため息をついた彼女は、へたり込んだ俺の頭をポンポンと撫でた。

「似合ってるに決まってます。そこは大丈夫です」

 ロングでもショートでも彼女のかわいさが髪型で左右されるわけがなかった。
 銀河一かわいいに決まってるし、そもそもにおいて俺が問題としているのはそこではない。
 問題なのは、わざわざ俺との約束を破ってまで5.2cmも髪を切ったことだ。

「だからって、なんで勝手に切っちゃうんですか……」
「だって……最近ずっと毛先にばっかりキスするんだもん……」
「はい?」

 顔を真っ赤にして、彼女は口元に指を当てがう。
 もじもじと落ち着きをなくす彼女の姿が妙に扇情的でごくりと喉が鳴った。

「ちゃんと、その……」

 言い淀む彼女を前に己の行動を振り返れば、確かに、すぐに手を伸ばせば届く毛先に口づけていた。

「もしかしてお口のキスの回数が減って寂しかった……とか?」
「……」

 こくり。
 素直にうなずいた彼女を、俺は秒で許した。
 これはむしろ、俺のほうが悪いまである。

 涙は引っ込んだし、彼女にいっぱいキスをした。


『なぜ泣くの?と聞かれたから』

8/20/2025, 6:00:32 AM