すゞめ

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 気晴らしを兼ねて出先で作業をしていると、不意に耳だけの世界が広がることがある。
 目と手はしっかりパソコン作業に意識が向いているに、耳だけは意識の行き場をなくして不安定に周りの音を拾っていくのだ。
 集中できるときはその不安定さが心地よく感じられる。
 逆に不快感を抱いたときは、イヤホンをして耳の意識が曲へ向くようにコントロールしていた。

 今日は、その音楽が邪魔になりそうな日である。
 彼女とカフェで合流するついでに、俺はパソコンで執筆作業を進めていた。
 自分の指先で立てるタイピングの音に紛れて聞こえる周りの足音。
 他人の足音を聞くのは嫌いではなかった。
 疲れていたり、軽やかだったり、すり足だったり……見た目以上に年齢や感情が足音に出る。

 足音を傾聴しながら作業を進めていると、隣のテーブルが埋まった。
 誰が座ったかなんて、確認しなくてもわかる。
 パソコンから目を離さずに、俺は声をかけた。

「今日は遅かったですね」
「は? 怖」

 声を潜めつつもいつも通りの第一声に、いつも通り傷つく。
 怖い、気持ち悪い、嫌いはNGワードだと伝えているのに、彼女は全然聞いてくれなかった。

「あなたの彼氏ですよ? 俺。ナンパではありませんので怖がらないでください」
「そっちの怖さじゃねえよ」

 隣のテーブルに近づくまでの足音は控えめ。
 音を立てずにグラスを置き、椅子を引く音すら最低限だ。
 荷物を丁寧にカゴに入れる周りに気を遣った几帳面な所作は、音だけで美しいとわかる。

「……っと、すみません。今、筆が乗っていて。少し待ってもらってもいいですか?」
「え、うん。……それは大丈夫」
「スペース狭いでしょう。テーブル、くっつけてください」
「あ、ありがとう」

 戸惑っているのかいつもより歯切れを悪くしつつも、彼女は静かにテーブルをつけた。
 瞬間、グラスと氷がぶつかり合う涼し気な音を立てる。
 リンゴの果汁がほのかに鼻を掠めていった。

   *

 ……夢中になりすぎた。

 区切りのいいところまで作業を進めること25分。
 予定よりも時間が押してしまった。
 待たせている彼女の機嫌の良し悪しを伺うため、横目で盗み見る。
 彼女はハードカバーの本を1枚1枚、小気味のいいリズムで捲っていた。
 乱読家の彼女は本を読むペースが速い。
 速読……と称するにはもしかしたら大袈裟かもしれないが、そのスキルは素直に羨ましかった。

 氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを口に含んだとき、彼女と目が合う。

「終わったの?」
「ええ。お待たせしました」
「それはいいけど……」

 彼女は内緒話でもするように顔を寄せて声を潜めた。

「ねえ。パソコンばっかり見てたクセに、なんで私だってわかったの?」
「なんでって、あなたの足音ってわかりやすいじゃないですか」

 彼女は他人の歩き方や足音で、体勢の崩し方や相手がどこを痛めているかがだいたいわかるらしい。
 以前そんなようなことを聞いて以降、俺も人の歩き方や足音を意識するようになったのだ。
 人の重心なんて全くわからなかったが、人を観察する視点がひとつ増えたのは物書きにとって貴重な収穫である。

「足音?」

 自分で言ったことなのに忘れているのか、小首を傾げて目を瞬かせた。
 彼女の言葉にうなずいた俺は鼻を鳴らす。

「知ってました? あなたって足音までかわいいんですよ? 歩くたびにシャララワーンとか、キュルルラーとか、キラキラパラララーンってするんですから」
「……それ、言葉を扱う生業の人が使う語彙で大丈夫?」

 あきれて肩をすくめるが、彼女のかわいさを言葉ごときで表現しきれるとでも思っているのだろうか。
 本人が本人の魅力を全く理解できていないとは由々しき事態だ。

「そうは言われましても。あなたの足音が特別仕様すぎて言語化が難しいです。耳に届けばすぐにわかります。さっきだって、周りに気を遣って足音を立てないように静かに歩いてきたでしょう? 淑やかなあなたに相応しい上品なエフェクトが足元からかかっていて胸が高鳴りました」
「ちょっと、……そこまでわかられると気持ち悪い」

 彼女の足音の魅力についてわかってもらおうと力説したら、なぜか距離を取られた。
 しかも本日、まさかの2度目のNGワードである。

 え。
 もしかしてこのままNGワード全てコンプリートされてしまう!?
 NGワードを2回も使われてただでさえ精神が削られているのに、追い討ちで彼女に『嫌い』なんて言われたら立ち直れないがっ!?

 俺は慌てて彼女と認識した情報を全て開示した。

「すみません。ウソです。冗談ですから気持ち悪いは取り消してください。本当はチラッとあなたのカバンについてるハムスターの防犯ブザーが視界に入ったんです。テーブルに置かれたリンゴジュースの香りと、あなたの通う大学の指定ジャージ。待ち合わせしてるとはいえ、ふたりがけのテーブルで作業してる俺の真向かいには座らないだろうなと、総合的に判断しましたっ」
「……その、総合的な判断基準もちょっと……好きじゃない」

 NGワードをコンプリートされずにすんだ安堵感。
 いや、それよりも。

「……俺は……」

 行き場を失った彼女の視線は、最終的に結露のたまったグラスに向かった。
 真っ白な紙ストローに薄い桜色の唇が乗る。
 不器用な照れ隠しに口元が緩んだ。

「あなたの、冗談でも軽口でも反射でも俺に『嫌い』って言えない正直なところ、かわいくてたまらないくらい大好きですけどね?」

 頬杖をつき彼女の横顔を真っすぐ見つめ、似合いもしないあざとさを演出する。
 視線は絡んでいないのに、彼女の横顔は徐々に赤らんでいった。
 照れくささをごまかすためか、リンゴジュースのかさが勢いよく減る。

「っさいな」

 最後は口に含んだストローでわざとらしく音を立てた。

「事実を伝えてるだけですよ。その真っ赤になったお顔は早くしまってください」
「むちゃ言わないでよ」

 両手に頬を当てる彼女を尻目に、まだ切っていなかったパソコンの電源を落とす。
 予定より押してしまったとはいえ、時間もいい頃合いだ。
 改めて待たせてしまったことを謝罪する。

「待たせてしまってすみません」
「別に。それは怒ってない」
「なら、夕飯は? 回転寿司行きたいなんてかわいいこと言うから、俺、腹空かせて楽しみにしてたんですけど」
「!」

 小さく肩を揺らしたあと、彼女は膝を擦り合わせて落ち着きをなくし始めた。
 瞬きと目配せも増え、わかりやすく『回転寿司』に心を躍らせている。

「それは、行くっ。私もちゃんと、楽しみにしてた」
「では、仲直りしてくれますか?」
「仲直りって……。別に私、なんも悪くなくない?」

 不貞腐れて不満がつめられた彼女の頬を指で突く。
 頬の空気はすぐに抜けて、今度は唇を尖らせた。

「確かに、一方的に俺が悪いですね。自分のかわいさを全く理解できていないあなたに、少しムキになりました」
「悪いと思ってるならちょっとくらい悪びれろよ。わけわかんない責任をこっちに押しつけてこないで」
「ははっ。すみません。こんなことで感情を揺さぶられてるあなたが新鮮なんですよ」
「舐めやがって」

 いつもの軽口のひとつだった。
 しかし、急に彼女のまとう雰囲気に緊張感が増す。
 獲物を捉えたネコのように、彼女は大きな瞳を鋭く光らせた。

「その余裕、いつか絶対に剥ぎ取ってやるからな?」

 脈が強く拍動したあと、呼吸の仕方を忘れる。

 負けず嫌いな彼女らしい宣戦布告とも取れる言葉に、パソコンをしまう手が止まった。
 最初から、彼女以外見ていない。
 余裕など、彼女と出会って以降ずっとなかった。

 止まっていた息を吸えば、苦しいくらいに胸の鼓動が速くなる。
 耳の奥で響く脈拍を煩わしく思いながらも、彼女からの宣戦布告を受け入れた。

「……それは、楽しみです」
「そういうところ、本当に生意気」

 不服そうに吐き捨てて、彼女は立ち上がって荷物を肩にかけた。
 それでも彼女は軽やかな足取りで、少し浮ついた足音鳴らす。
 カフェを出て不揃いな足並みを互いに揃えていった。


『足音』

8/19/2025, 12:07:26 AM