これが夢だということは、彼女の姿を見てすぐにわかった。
黒髪のショートカット。
真っ白なブレザーに……。
ひどく解像度の悪い、目を逸らし続けた高校生時代の彼女だ。
そんな彼女と隣に並んで歩いていた。
一目惚れしたくせに、始まりでもあったくせに、あまりにも強い光のせいで顔が影で塗りつぶされた。
隣に並んでいるのに、声だって、俺の耳には届かない。
楽しそうに弾ませる足。
足元は、スニーカーなのかローファーなのか、それどころか靴下の色すらわからない。
無邪気に揺れる肩。
こんなに近くにいるのに彼女の甘く爽やかな匂いや、体温がなかった。
それでも彼女の隣は居心地が良くて、もう少し一緒に歩けば彼女の声が聞こえるかもしれない。
ありもしない可能性に縋りついて生暖かい沼に浸かった。
彼女と高校が違っていてよかったと、確かに当時は感じていたのに、今はそれがもどかしい。
顔が見たい。
声を聞きたい。
体温を感じたい。
自分の中での欲求が確実に大きくなる。
だからこそ、遠くから聞こえてくる声が煩わしかった。
*
「……ん、……くんっ」
……る、せ。
邪魔すんな。
今いいところ……。
声を払いのけたくて、しかし目は開けたくなくて、手を出した。
ふに、と温かくて、柔らかくて、滑らかな感触に指先が固まる。
あ。
これだ……。
求めていた感触、体温、匂い、彼女の全てがここにある。
「ちょ、どこ触ってんの! ねえ、起きろってば」
「やだ、起きたくない」
「はあっ!? いや、なに言って」
「じゃあギューしよ?」
「ちょ、苦し……っ。あぁぁあー! もう、はいはい」
小さな彼女の両手が、ぎゅっと控えめに脇腹の服を掴む。
「……かわいい」
抱き締め返してくれるとは思わなくて、たまらずに声が溢れた。
シトラスの香りをすう、と彼女の肩口から吸い込む。
「え」
当時の黒髪ショートカットの彼女はもういない。
目の前にいるのは青銀の髪を後ろで小さく束ねたひとつ年上の女の子だ。
「こんなかわいい顔をこんな近くで見られるなんて最高だな」
「そ、っちが! 顔! 近づけてきてるだけだからっ! マジで起きろってば!」
ジタジタと暴れる彼女の手のひらが俺の体に当たって、霞がかった意識が色づいていく。
……ん?
なんで、彼女は俺と抱き合ってるんだ?
まあ、なんにしてもこのおいしそうなシチュエーションを逃す手はないはずだ。
「なら、チューしたら起きる」
「……おい。調子乗るなよ? もう起きてるだろ」
抱き合いながらも距離を取った彼女は、まぁ、本当に、見事に、あきれ果てている。
ほんのり頬を染めているからつけ入る隙はありそうだ。
なんて考えるあたり、俺はどうしようもなく煩悩に塗れている。
「バレました?」
「ていうか、ここ、家じゃないから」
「あ」
知り合いが念願であった自分の店を開いたからと、記念と称して昼間から騒いでいた。
言われてみれば、帰宅した記憶がないし、周りの視線が痛いような気がする。
彼女から視線を離して店内を見回す。
俺と視線が合わないようにしているのか気づいていないのか、目が合う人はいなかった。
気まず……。
なんて思ったのは一瞬だ。
「……せっかくですし、見せつけてやりましょう」
艶を帯びた桜色の唇を指で撫でる。
崩れていないリップの感触。
どうせ怒られるならその唇を重ねてからがいいと、遠慮なく距離を埋めようとした。
「ふざけんな」
だが、大げさなため息とともに俺の唇は彼女の手で塞がれてしまう。
「私の男なら、そんな品のない牽制しようとしないで」
「しかたないじゃないですか。あなたの男は、我慢がきかない男なんで♡」
唇を押さえている彼女の手のひらをペロリと舐める。
混乱した彼女に、パシンッと顔面に平手打ちをかまされた。
意外と手やら足やらが出てくることを知ったのは、つき合い始めてからである。
もっと彼女のことが知りたい。
その想いはとどまるどころか積もるばかりだ。
幸福感に満たされながらヘラヘラとニヤついていたが、そんな自分に後悔することになるなんて俺はまだ知らない。
帰宅したのち3日間、俺は彼女と口を聞いてもらえなくなり、泣いて喚いてしがみつきながら土下座して謝り倒すこととなった。
だがそれは、また別の話である。
『真昼の夢』
ゆっくりなんて、そんな悠長なことを言っていられる余裕はなかった。
想いを打ち明け続け、彼女が学生のうちになんとか交際に持ち込んだ。
俺が大学を卒業したあと、強引に同棲を始める。
そして同棲に慣れたころ彼女からプロポーズを受けた。
完全に先を越されてしまい泣き喚いて暴れ散らかす。
結論、結婚はした。
彼女からのプロポーズなんて「はい♡」か「イエス♡」か「喜んで♡」しか選択肢はないのだから、当たり前である。
しかし、俺がいろいろとやらかしたせいで指輪を一緒に選ぶことは叶わなかった。
結婚2年目を迎える彼女の誕生日に向け、改めてふたりで一緒に指輪を選んで記念に残したい。
……そう、提案したところまではよかった。
「なあ! 予算どうなってんだよ!? 桁も頭の数字もおかしいだろうがっ!? なにをどうしたら指輪でこんな値段が跳ね上がるんだよ!!!!」
リビングに彼女の怒号が響き渡った。
座椅子の上で正座をし、彼女を怒らせてしまったことについては反省しつつ、予算に関してはギリギリまで反論を試みる。
「予算は俺の分を上乗せしました」
「え、なんで?」
怒りで吊り上がっていた目をまるまるとさせて、驚いた表情で瞬きを繰り返した。
忙しなく変わる彼女の表情に愛おしさで胸をいっぱいにしながら、左手を掲げる。
「俺はこれで十分ですから」
「……」
伝家の宝刀よろしく、颯爽と左手の薬指にはめられた指輪を見せつけた。
「やっぱり指輪いらない」
「え!? なんでですかっ!?」
「私だけならヤダ。私だってこの指輪、ずっと大事にするって決めてる」
宝物を取られまいと子どもみたいに左手を隠した。
チラッと、俺の様子を伺う仕草があざとくて目眩がする。
「一緒に選ぼうって言ったから……一緒にふたりの指輪を選ぶと思ってた」
瞳も声も左手を隠す右手も、しょんもりと寂しげに揺らすから、俺は慌てて手のひらをひっくり返した。
「予算を5分の1にしてふたりだけのおそろいの指輪、買いましょう。ね♡」
「最低でも半分は削って桁を減らせ」
「……」
2割削れば桁はギリ減るのに、そこは受け入れてもらえなかった。
「俺の誕生石を入れまくって派手にしたかったのに」
「え、なんで?」
「あなたの瞳と同じ色できれいだなと思ったので」
「……本音は」
「本音ですが?」
さっきまでのいじらしい態度はわざとなのかというくらい、対応にトゲがある。
俺の情緒がジェットコースターなら、彼女の圧はフリーホールだ。
「言い方を変えようか。本心は?」
「……ぐぅ」
あっさりと建前がバレたし、声が氷のように冷ややかになる。
俺の言葉によっては彼女が寝室か風呂にでも逃げてしまいそうだったから、急いでその腰にしがみついた。
「やっとあなたの左手に触れることを許されたので、今までの分も含めてあなたは俺のものでもあるんだと、周りに見せびらかして自慢して牽制したいです……っ!」
「そう」
俺の魂の叫びをたったの2文字で流しやがった……!?
「……許してなかったの、結婚だけなのに」
過ぎたことだからってよく言う。
学生時代に婚約指輪なんて贈ろうもんなら、絶対に重たがって逃げてしまっただろうに。
「そういうことにしておいてあげます」
「本当だってば……」
本格的にいじけてしまう前に、彼女の隣に移動してカタログを広げた。
きらびやかなデザインの指輪に指をさしては、彼女は目を輝かせる。
シンプルなデザインから華やかなデザインまで、彼女の好みは意外と幅が広い。
はしゃぐ姿に癒されながら、俺は相槌を打ってはこの緩やかな時間を噛み締めた。
手入れのことを考え、結局、結婚指輪と同じブランドで指輪を揃えることにする。
デザイン、色、宝石、刻印、こだわりながらふたりでイメージを固めた。
「お店に行くのは……、この日でいいの?」
「ここだとあなたのスケジュール的にキツくないですか?」
「じゃあ、ここは……? ちょっと離れちゃうけど」
「かまいませんよ。どうせなら時間かけていろいろ見させてもらいましょう。目の保養も大切ですし?」
「ん」
これからは勢いにまかせるだけではなく、かけられる時間を大切にしながらゆっくりと進むのだろう。
お互いに命尽きるまで、生涯ともにあることを誓ったのだ。
俺とあなたの、ふたりだけの。
『二人だけの。』
夏の太陽は輪郭と色を明確にする。
そのあまりにも強い日差しを受けて、目と肌がジリジリと焼かれた。
日曜日のカフェは騒然としている。
屋外での明暗の差についていけず、視界がチカチカと点滅した。
目が慣れないまま、適当にアイスコーヒーを注文して彼女を探す。
空港から少し離れている駅。
たったそれだけの理由で待ち合わせ場所として指定された。
ブラウンを基調にした開放的で広々とした落ち着きのある内装とは裏腹に、慌ただしく人が流動している。
外で照りつける強い日差しはブラインドで穏やかに遮られた。
それでも店内はまろやかな光に包まれており、いたるところに飾られている大小の観葉植物の緑をくっきりと縁取っている。
どの店でも彼女は出入り口から一番遠い壁際の席を選んでいた。
サングラスで顔を隠したまま、彼女はストローでグラスの中の氷を突く。
エアコンの涼風で揺れる彼女の柔らかな横髪は、日差しの余熱を受けて輪郭を強くとらえた。
「めずらしい。ジャスミンですか?」
「……」
驚かせないようにそっと声をかける。
目の前のイスに座れば、彼女は俺を一瞥したあとサングラスを外した。
「……キラキラしててきれいだなって」
カラン、とグラスの中で氷のバランスが崩れた。
淡い黄金色のジャスミンティーが氷とともに透明に揺蕩う。
結露を浮かせた狭いグラスの中で緩慢に円を描いたストローは、まるでタクトのようだった。
店内はざわついているのに、その控えめな音は俺の耳に心地よく響く。
だからこそ、先ほどの不自然な間が気になった。
「……なんです? 今の間は」
「別に。いつもと匂いが違ったから、ちょっと混乱しただけ」
「匂い? あぁ。少し前にコロンを新調したんです」
まだ残っているのかはわからないが、彼女の鼻先に手首を近づけた。
「……っ」
「苦手でした?」
歯切れの悪い彼女の反応に腕を引っ込めた。
クセのないグリーン系の香りを選んだし、量も控えめにしたのだが彼女にはキツかったかもしれない。
「香りは……平気。好き……」
思いがけない彼女からの告白に、一生このコロンを使い続けると決めた。
夢見心地で彼女からの「好き♡」を反芻する。
「ただ、手が……」
「え、手?」
遠慮がちにポツリと形のいい桜色の唇が動いた。
「手がおっきくてビックリしたっていうか、ドキドキしたっていうか……」
くるくると、彼女が回すストローの速度が速くなった。
「早く、その手に触れられたいなって……」
「……は?」
急になにを言われた?
こんな往来のあるところでお誘い……は、いくら久しぶりの逢瀬とはいえあり得ないだろう。
彼女の言葉の真意を探っていたとき、その本人が急にキャンキャン吠え始める。
「え? …………は!? はあっ!?」
自分の発言と俺の反応を照らし合わせて、彼女自身が大胆な発言をしたことを自覚した。
とてつもなくデカい爆弾を落とされたのは俺のはずなのに、なぜか彼女のほうが顔を真っ赤にして慌てている。
「ち、違っ!? へ、変な意味じゃなくてえっ!?」
あまりにもわかりやすく自滅する彼女がかわいくて、つい声を弾ませてからかってしまった。
「そんなに早く俺を感じたいんですか?」
「だからっ、そうじゃなくてっ!?」
「そうじゃなくて? なんですか?」
「なにって、だから、…………本当に、違くて、ヤダ。こんなこと言うつもり……」
一生懸命に的を得ない言いわけを重ねても逆効果だとようやく察したのか、彼女は諦めてジャスミンティーを口に含む。
今日みたいに大きな荷物を引き取るとき。
手を繋ぐとき。
室内へ促し背中を押すとき。
すぐに離れてしまう彼女に俺の存在を覚えてほしくて、彼女といるときはできるだけ多くスキンシップを取っていた。
奥ゆかしい彼女に合わせて外での過度な触れ合いは控えている。
だからこそ、こんなかたちで彼女から求めてくれる日が来るとは思ってもみなかった。
カコン、と小さくなった氷が空になったグラスとぶつかる。
彼女のストローのタクトが止まったとき、俺も一気にアイスコーヒーを飲み干した。
「そろそろ行きましょうか」
わざとらしく差し出す俺の手を見て、彼女は頬を膨らませて不貞腐れてしまった。
外に出ればすぐ、手を繋いだ俺たちの体温は汗とともに混ざり合う。
この汗のように早く、彼女との輪郭を曖昧にしてしまいたい。
夏の暑さにあてられて、煩悩まで掻き立てられてしまうのだった。
『夏』
今日という日を無事に終え、カップアイスとビールで締める。
内蓋のフィルムを剥がし、空気の入った窪みにスプーンを差し込んだところで、彼女が声をあげた。
「あっ……」
気まずそうに視線を泳がせるから、もしかして食べたいのかなと思って伺ってみる。
「……えっと、食べますか?」
「や、……いらない」
食べたいわけではなかったか。
連日続く暑さに、冷たいものが恋しくなったのかと思ったのだが、どうやら違うらしい。
「ええと……ごめん……」
「え!? なにがです!?」
彼女に謝られる理由に心当たりがなくて焦り散らかす。
「今日、買い物頼まれたじゃん?」
「あぁ、はい。すみません、どうしても立て込んでて」
「や。それはいいんだけど、普段、買い物とか全然しないから、さ……」
居心地悪そうにしながら、彼女はポツポツとありのままを吐露していく。
「お風呂から出たあと、冷凍品を全部冷蔵しちゃってたことに気づいて……」
冷凍品、を……冷蔵庫……。
「ぶっ」
顔を真っ赤にしながら真実を打ち明ける彼女の姿が愛おしすぎて、我慢できずに吹き出した。
俺のリアクションのせいで、彼女はそのかわいらしい顔を両手で覆い隠してしまう。
「急いで冷凍庫に突っ込んだんだけど、アイス、だいぶふにゃふにゃしてたから。……大丈夫なのかなって……」
「まぁ、アイスは大丈夫です」
「そ、そっか……よかった」
普段しっかりしてるのにこういうところ、抜けていてかわいいよな。うん。
「ごめんね?」
「言われても味とかわかんないんで、気にしなくていいですって」
「でも……」
本当に気にしていないのだが、彼女はうまく折り合いがつけられないらしい。
このままではコンビニまでアイスクリームを買いに、家を飛び出してしまいそうな勢いだ。
さすがにそんなことはさせられないため、ひとつ提案をしてみた。
「そんなに気になるならこれでチャラにしましょうか?」
ぽんぽん、と自分の太ももを軽く叩いて彼女を催促する。
「えぇ……」
少しでも罪悪感が減るならと膝枕を要求したら、ものすごく嫌そうな顔をされた。
無理強いしたいわけでもないため、逡巡する彼女を横目にビールを飲む。
すると、彼女が寝っ転がって遠慮がちに俺の太ももに頭を預けてきたから、脳内に銀河が展開されていった。
視界の真下にこんなにかわいい顔があっていいのだろうか。
いつもは頭の位置が高すぎるとか、低反発すぎるとか、どこに視線を置いたらいいかわからないとか文句が止まらないくせに、今回はおとなしく従ってきた。
まさに至福……!
「……」
「……」
彼女との沈黙に温度差があるように感じたが、きっと、絶対、確実に、気のせいに違いない。
彼女の頭部を撫でながらアイスクリームを食べ進めた。
「眠たかったら寝ちゃってもいいですよ。ちゃんと運びますから」
「それは遠慮したいなあ」
まろやかな声で笑うが、すでに彼女の瞼は重たそうにしている。
長い睫毛が小さく上下に動いているが、目はほとんど開いていなかった。
実はもうつひとつ、隠された真実があることに、彼女は気づいているのだろうか。
その真実を打ち明かし、俺が膝枕以上の行為を求めた場合、彼女は眠気を飛ばして応えてくれるのだろうか。
急にむくむくと顔を出す下心をごまかすようにビールをあおった。
体温が高くなり、呼吸が規則的になっていく彼女をチラリと盗み見る。
たぶん、気づいていないよなあ……。
木綿豆腐と生卵。
それらがパックごと、なぜか冷凍庫に眠っているのだ。
冷凍された豆腐の活用の仕方なんて知らないから、そちらのほうが問題だった。
最終手段として、そのまま解凍してしまおうと思っている。
一方、卵は体積の限界を迎えて殻が割れてしまっていた。
目玉焼きとか温泉卵にするといいようなことを聞いたことがあるので、あとで試してみるつもりでいる。
この隠れた真実を、今この場で伝えるか否か。
今度はアイスクリームを掬いながら、しばし迷うのだった。
『隠された真実』
ツンと耳を刺すガラス音。
光を貫通させた影は揺蕩う。
音が鳴れば探してしまうし、影が走れば追いかけた。
強制的に涼という世界に引きずり込まれ、酔いそうになる。
物心ついた頃には、風鈴という夏の音が苦手だった。
年齢を重ねていくにつれ、誰が住んでいたか、どんな外観をしていたかわからない戸建てがどんどん立て壊されていく。
跡地には集合住宅やコインパーキングが入れ替わるようにして建てられた。
親元を離れれば喧騒と雑踏で圧倒される。
金と時間と睡眠の管理に毎日を追われ、気まぐれに囃し立てる蝉噪(せんそう)で、ようやく夏を意識した。
夏を意識した途端、電車の液晶ディスプレイで夏の祭事として風鈴が映し出される。
几帳面に整列している丸いビードロが音もなく不気味に揺れていた。
画面を見上げながら楽しそうに「きれい」、「涼し気」、「風流」なんて会話を弾ませる、近くにいた幸せそうなカップルを横目に、電車を降りる。
*
家に着くなり聞こえてきたのはシャワーの水音。
先に帰宅した彼女が浴びているのだろう。
風呂場を聖域としている彼女の邪魔をしては悪いから、リビングに直行した。
夏の風物詩といえばキンキンに冷えたビール一択である。
冷蔵庫から一番奥にある、冷えたビールを取り出した。
プルタブを立てた瞬間の、粟立つ音の爽快感がたまらない。
銘柄によって立てる音の微妙な違いがわかるようになるくらいには、酒を楽しめるようになっていた。
ごくごくと喉を鳴らしながらビールを流し込む。
そういえば、そのビールの嚥下音も最近では耳にしなくなった。
音が溢れるこの世界で、淘汰されていく音があるのも不思議な心地だ。
感傷に浸りながらちびちび缶ビールに口をつけていれば、風呂を終えた彼女がリビングに戻ってくる。
「あ!? もぉーっ。お酒飲むならお風呂先に入ってって言ってるのに」
彼女のツンツンした声音に、一気にリビングが華やいだ。
先に風呂に入っていたのは彼女だというのに、無茶を言う。
「おや。今日は乱入しても大丈夫な日でした?」
「そんな日は1日たりともないねっ」
顔を梅干しみたいにしわくちゃにして、本当に嫌そうに拒否をしてきた。
缶ビールに口をつけたまま、彼女の眉間に寄った皺を指で伸ばす。
「なら、どうしろと」
「ちょっとくらい我慢しろって言ってんの」
ペシッと手を払われてしまったから、今度は幸せのつまった頬を指で突いた。
「え。ただいまのキスは我慢してるじゃないですか」
「……バカなんじゃないの?」
彼女の風呂上がりで紅潮した頬なんて最アンド高だというのに、冷ややかな声で一蹴されてしまった。
キスが好きな彼女のことだから、頬じゃ物足りなかったかもしれない。
言葉を都合よく捉えて、桜色の薄い下唇を指でなぞった。
「おかえりのキスも加えてくれるってことですか?」
「んだぁーっ!? お酒の話をしてるつもりなんだが?」
俺の手から缶ビールを取り上げて、ごくごくとわざとらしく嚥下音を鳴らしながら、中身を一気にあおる。
普段見ない彼女のその姿は、風呂上がりということま相まって艶っぽい印象を与えた。
上下する喉に目を奪われていれば、中身を飲み干したらしい彼女が、プハーッなんてニコニコしながら缶を天井に突き上げる。
風呂上がりの一杯を楽しんでいるように見せたが、そもそもビールは苦手のはずだ。
「ちょ、なにしてんですか」
「さっさとお風呂に行かないからでしょ」
空っぽになった缶を俺の胸に押しつける。
ペコン、とアルミ缶が頼りなく潰れた。
「……お風呂、してくれたあとなら大丈夫、だから……」
「速攻で入ってきます」
空き缶をシンクの中に放り込み、急いでリビングから出た。
ほのかに熱を持った鼓動と体温が揺れる。
彼女の凛と澄んだ声は夏を心地よく響かせてくれるのだった。
『風鈴の音』