互いの左手の薬指にあてがわれた小さなリング。
たったこれだけで、彼女は俺と離れて生きていくことができなくなった。
全てが俺にとって甘くて都合がよくて心地がいい。
彼女の気持ちが不安定なまま、勢いで進めた関係性だ。
これからは彼女の複雑に絡まった気持ちの糸を、丁寧に整えていかなければいけない。
目を逸らし続けた現実を見るのは少し怖かった。
寂しがりやで甘えたのくせに、彼女は孤高であろうとする。
俺はその中に無理やり入り込んだ。
考える隙を与えないように、温くて重すぎる愛情を注いで、ただでさえ不安定な彼女のバランスを悪くした。
彼女の恋愛感情に嘘はない。
だが全てでもないはずだ。
感情が乗った涙の溢れる瞬間を、いまだ俺には見せてくれない。
彼女の背中に手を回しながら体をベッドに沈めていけば、スプリングが不穏に軋んだ。
耳朶の裏側を指で撫でたとき、彼女は顔をしかめる。
「ねえ。またごちゃごちゃよくわかんないこと考えてるでしょ?」
「……」
その「ごちゃごちゃよくわかんない」部分が重要だというのに。
雑に不信感だけ暴いてきたため、素直に観念した。
「……あなたのことしか考えていませんよ?」
「ふうん?」
彼女の瞳が鋭く光る。
その目は正に捕食者で挑発的で傲慢だ。
「……その割りに、これから私を抱こうって男がする顔じゃないんだけど、大丈夫?」
俺の言葉になにひとつ納得しない彼女は、俺を見上げてあざ笑う。
明確に焚きつけてきたくせに、首をもたげて乱れた髪を整えた。
冷え切った眼差しで一瞥したあと、眠る体勢に入ってしまっためさすがに息をつく。
俺が作った原因だが、寝かせるつもりは毛頭ない。
「……そんな煽り方して、あとでひんひん泣いても知りませんよ?」
「へえ。じゃあ、泣かされる前にがんばってみよっかな?」
「……は?」
唖然としていると、楽しそうに声を弾ませる彼女は俺を押し退けて上半身を起こした。
いつも恥ずかしがるくせに今日は腹を括っているのか、Tシャツとハーフパンツを下着ごと脱ぎ捨てる。
「そんな浮ついたぬるい目で好き勝手されるとか冗談じゃないし?」
首に手を回されたのかと思えば、ゆるゆると彼女と一緒にベッドへと沈み込んだ。
俺の眼鏡のフレームに手を伸ばすから、反射的に目を細める。
「私を泣かすつもりなら理性も余裕も剥ぎ取って、もっとギラついてくれないと困る」
外した眼鏡をベッドボードに静かに置く。
ひどく煽惑的な視線を送りながら、彼女はしどけない姿のまま俺の下腹部に跨った。
口元はきれいな弧を描いて、わざとらしくその薄い唇に舌を這わる。
ひとつ、艶かしい水音が控えめに響いたあと、彼女の細い指が脇腹を伝った。
「誰を抱くつもりでいるのか、ちゃんとわからせてあげる」
「ちょ!? 待っ、はぁ!?」
マジで……、ちょっと止まってくれっ!?
今になって心臓が激しい鼓動を刻む。
静かに凪いでいた熱が一気に暴れ出した。
彼女からこんなふうに迫られれば、俺の理性なんて簡単に瓦解する。
そして宣言通り、彼女はがんばってくれた。
がんばりすぎて散々焦らされるし、惑わされるし、弄ばれるしで、なかなか主導権を握らせてくれない。
あぁぁあああぁぁあ!
もうっ!!!!
切なさで揺れる彼女の呼吸を強引に奪って押し倒した。
最初は主導権を握られまいと抵抗していたが、少しずつ俺に身を委ねてくれる。
彼女の気持ちを先送りにしてしまったことは紛れもなく現実だ。
だが、そんな現実から目を逸らしている隙を、彼女は一切与えてくれない。
俺の中の都合のいい幻想よりも、彼女からくれる現実のほうが、甘くて都合がよくて心地がいいのだから。
『心だけ、逃避行』
宿を出て、いつも通りの朝を迎えた。
しかし今日は少し違う。
隣には新しい仲間が加わったのだ。
彼らとともに依頼された任務を完遂させるため、鬱蒼とした森へ向かう。
これが陳腐な冒険譚なら、こんな冒頭から新章が始まるのだろう。
少し窮屈なベッドサイズ。
柔らかすぎる枕。
肌触りのいいタオルケット。
高級旅館にでも泊まりに来たのか、と思うくらい上質な素材であつらえた寝具だ。
持ち主は隣で健やかな寝顔を浮かべている彼女だ。
普段隠れている前髪が跳ね上がって、まんまるとした額があらわになっている。
記念に写真でも撮っておこうかと携帯電話に手を伸ばした。
すると、無防備になった額ですりすりと俺の脇へ擦り寄ってくる。
甘え慣れたその仕草に少しだけ胸が軋んだ。
「……」
起こした……?
不自然に彼女の体が硬直したため、俺も少し体勢を整えた。
体温か、感触か、匂いか。
彼女は俺のどこに違和感を抱いたのだろうか。
臭……くはないと信じたい。
気まずさか、照れからか、静かに彼女は寝返りを打とうとした。
せめて寝起きの彼女の顔をひと目見たくて、背中に腕を回す。
「おはようございます」
「はよ……」
掠れた彼女の声に心臓が高鳴る。
「ご、ごめん……。甘えすぎた、ね?」
「いえ。ふにゃふにゃしててかわいいです」
「し、知らない……」
「自分のことなのに?」
俺の肌の上で、きゅうっと、小さな手を握り込む。
遠慮がちなこの距離感が俺にはくすぐったくて、つい声を漏らした。
「俺の体温にも、早く慣れてくださいね?」
「んなあっ!?」
からかい気味に出した言葉に、彼女は勢いよく顔を上げて反応した。
普段の凛とした姿とは打って変わった、緩んだ彼女の表情が愛おしい。
俺としてはいつもより幼くてぽやぽやしている彼女と贅沢な微睡みに浸りたいが、彼女のほうはそうもいかないだろう。
はりぼてには違いないが、俺としても格好はつけたかった。
無造作に置かれた眼鏡を手繰り寄せ、体を起こす。
彼女によって色づいた日常。
今度は二度と手放さないと誓う。
当たり前のように彼女と毎日を過ごして、いつか、この控えめな距離をぴったりと埋められるように。
『冒険』
普段から、彼女はシンプルなデザインの物で身を固めている。
洋服やカバンといった身につける物から、家電や家具にしたってそうだ。
筆記用具やタオルといった小物にも特にこだわりがないのか、手近ですませることも多い。
そんな彼女だが好みはある。
明確な統一感はないが、家具は白で基調して差し色で紫を入れるのが好きだ。
使い心地を優先するが、意外とかわいいものを集めたがる一面もある。
木製の高級感あふれる食器とともに、ハムスターの箸置きを出してきたこともあった。
バスボールの中に入っているハムスターのマスコットが出揃うまで買い続けたことも、一度や二度ではない。
彼女と同棲を始めて、少しずつそのハムスターのグッズを増やしていった。
そして今日も、リビングにハムスターの仲間が増える予定である。
が。
休みだからと配達時間を午前指定にしていたのだが、見事に寝坊した。
アラームを設定していなかったとはいえ、さすがに正午過ぎまで惰眠を貪るとか寝汚さすぎる。
「すみません、午前中に俺宛の荷物が届いて……」
「あ。お、おはよっ」
そわそわと落ち着きなく俺の様子を伺う彼女の瞳は、キラキラと期待に満ちていた。
リビングのローテーブルには段ボール箱が置かれている。
「……ましたか。よかったです」
「これさ。この間、一緒に選んだヤツだよね?」
「ええ。受け取りありがとうございます。開けていいですよ?」
「うん」
ワクワクと楽しそうに声を弾ませ、彼女は段ボールを開封していく。
そんな無邪気な笑顔で宅配業者の対応をしたのかと思うと、少し複雑にはなった。
中身はなんてことのない日用雑貨。
ハムスターのティッシュカバーと、トイレットペーパーのストックホルダーだ。
「かわいい」
ポツ、とつぶやく彼女の表情は本当にうれしそうにしている。
肌触りも相性が良かったらしく、無意識だろうがおがくずを再現したタオル生地を確認したり、ハムスターの頭を気持ちよさそうに撫でていた。
彼女にここまで慈愛に満ちた顔をさせるハムスターが羨ましい。
「そんなにソワソワするくらいなら先に開けるか、俺を起こしてくれてもよかったのに」
彼女の隣に座り、軽く束ねられた小さなポニーテールの毛先に触れる。
くすぐったさそうにしながらも、彼女は俺の手を受け入れながら、口を開いた。
「や、なんか……。なんて言ったらいいのか、うまく言えないけど、その、……うれしくて……?」
「え?」
「私がいることに、慣れてきてくれてるっていうのか、さ」
もじもじと指を遊ばせながら頬を染めていく彼女に、釘づけになる。
「ずっと気を張ってくれてたでしょ? だから、気を抜いてくれてうれしい……んっ!?」
彼女につられて胸の奥から熱が滾っていく。
不意打ちともいえる彼女からの告白をこれ以上は聞いていられなくて、その桜色をした薄い唇を手で塞いだ。
「……昼飯の選択肢を与えてやれなくなるのでこれ以上かわいいこというの、一旦やめてください」
「え、ヤダ。待ってたから、お腹空いてる」
「なら、黙ってください……」
わざとらしく喉を鳴らしてソファから立ち上がる。
「出前でピザ取るか、自宅でカップ麺か、外でランチデートか……選ばせてあげます」
「……全然、選ばせる気ないヤツじゃん」
さっきまでの甘い顔は幻かと思うほど、彼女は冷めた顔で俺を見上げた。
微塵も余韻に浸らせてくれない彼女に、俺もため息をつく。
「仕方ないじゃないですか。家にいると負けちゃいそうなんです」
「ん? なにが?」
「俺の理性です」
「それは困るな。急いで準備してくるね」
困るのかよ。
ワンチャン乗ってきてくれないかなと思ったのに、さすがに無理か。
とはいえ、ランチデートにこじつけることができたのでよしとする。
「あ、洗面台は先に貸してくださいよ?」
「んー」
間延びした彼女の返事に口元が緩むのを感じながら、俺たちは出かける準備を始めるのだった。
『届いて……』
視界いっぱいに広がるヒマワリ畑。
太陽に向かって力強く咲き誇っているのに、鼻を掠めるのは爽やかな草と、土の心地いい匂いだ。
天候にも恵まれ、青々とした空は鮮やかにヒマワリ畑を彩っている。
目の前に展開された広大な夏のパノラマに圧倒された。
意外、なんて言えば怒られてしまいそうだが、彼女は意外にも四季の移り変わりを楽しむ。
ヒマワリの見頃としては少し時期は早かったが、ドライブも兼ねて遠出することにしたのだ。
「おぉー。見事に咲いてるねー」
つばの大きな麦わら帽子をかぶった彼女が、太陽よりもヒマワリよりもきらめいた笑顔を浮かべて声を弾ませた。
黒いTシャツとショート丈のデニムパンツでシンプルにまとめた彼女は、いつもより露出が多い。
「日焼け止め、ちゃんと塗り直しました?」
普段から長袖ウェアとロングパンツで肌を隠している彼女の肌は、いざ夏空の下に晒してみると驚くほど白い。
普段使いしている日焼け止めスプレーでは俺の気持ち的に心許なさすぎて、肌に負担の少ない低刺激の日焼け止めを道中で買い足して彼女に押しつけたのだ。
そんな俺に対して、彼女は心の底から鬱陶しそうに顔をしかめ、面倒くさそうにため息をつく。
「……せっかくヒマワリに囲まれてんのに第一声がそれで大丈夫?」
「日焼けで赤くなったら大変じゃないですか」
「ちゃんとやったから安心して。でも、なんで急にヒマワリ? そんな趣味あった?」
……人が遠慮した本音をコノヤロウ。
まさか彼女から言われるとは心外である。
「……どういうことですか」
「変なポーズ指定しては写真を大量に撮られるのかとばかり」
「変なポーズってなんですか」
「んー……」
考えるそぶりを見せたあと、彼女はとてとてと俺から数歩距離を取った。
指先で麦わら帽子のつばを摘んで振り返る。
「例えば、こんな感じ?」
腰をくねらせわざとらしく唇を突き上げてはにかんで目元を緩めながら俺を見上げた。
「は? 被写体の天才ですか?」
ヒマワリの群生を背景に、まさかのサービスショットを彼女自ら提供してくれた。
立っているだけでもこんなにかわいいのに、こんなあざとい表情と立ち方をすればさらにかわいくなるに決まっている。
携帯電話のシャッター音をけたたましく鳴らし続けた。
「とはいえ、逆光なのでやるならこっち来てやってください」
「散々連写しておいてから言う?」
俺の言葉を一蹴したあと、彼女は大きな麦わら帽子を最大限に活用して歩き出した。
しばらく写真は撮らせてくれそうにないだろうと、諦めざるを得ない。
ゆっくりと、彼女の気分のままに、晴れ渡る夏空とヒマワリを堪能したのだった。
*
帰路の途中、空は徐々に茜色に染まって夜の帷を下ろす準備をする。
飲み物がなくなってしまったから休憩がてら道の駅にでも寄ろうかと声をかけるが、彼女からの返事はなかった。
「……寝ちゃった?」
つばの大きな麦わら帽子を抱えて、助手席で彼女は肩を上下に揺らしていた。
小さく寝息を立てる彼女の無防備な姿を横目で捉えたあと、アクセルを踏む。
今は俺の中で新鮮で特別なこの光景も、たくさんの小さな日常となって長い人生の一部に溶け込んでいくのだろうか。
ヒマワリ畑の景色や、彼女の寝顔。
今日というこの日を大切に刻んだ。
そしていつか、今日の出来事を思い出にして懐かしみたい。
たくさんの「特別な景色」を作っては「あの日の景色」と振り返り、かけがえのない過去にしながらふたりで時を重ねていけるように。
そう、なれたらいいと願った。
『あの日の景色』
二日酔いでズキズキと痛む頭を押さえながら、リビングのローテーブルに突っ伏した。
「……最っ悪」
「かわいかったよ♡」
うるせー……。
その言葉は俺の専売特許だ。
声の弾ませ方から、彼女がニヤニヤといやらしく笑っているのが手に取るようにわかる。
ことの発端は、酔った俺が彼女に『3つだけ、なんでも願いを叶える酔っぱらいの妖精さんです』とかなんとか言ったからだ。
普段、彼女は酒を飲まないし、たとえ俺が相手でも酔っぱらいの相手はしない。
しかし、昨夜はめずらしく俺の戯言にノってきて、きっちりしっかり願い事を3つ、要求していった。
ひとつ目はスーツを着ること。
いつも仕事で着ているし見慣れているはずなのになんでわざわざ?
もしかしてスーツを着た俺とセッッッしたいってことか!?
なんて期待した俺の純情を返してほしい。
ふたつ目の願い事で一気に雲行きが怪しくなった。
彼女は俺の髪の毛を結びたいという。
しかもツインテール。
頭皮が引きちぎられるが!?
髪の毛はまだ大切にしたいから、ちょっとだけ抵抗した。
抵抗したら彼女がすりすりと寄ってきて、俺の手の甲を細い指先で意味深に撫でる。
「なんでも叶えてくれるんだよね? 妖精さん?」
あの最強の顔面を使って扇状的に微笑み、耳元で艶を含めて囁くもんだからひとつも抵抗できなかった。
そんなけしからん色仕掛けはどこで覚えた!?
あとで押し倒してグズグズにしてやるっ!
と、決意を胸にしていたら、いつの間にか頭上でふたつの触覚が完成した。
嫌な予感を抱いたまま残した最後の願い。
酔っぱらいの妖精さんの酔いがさめそうだったので、一旦インターバルを挟んで缶ビールを2本空けた。
酔いを無事チャージしたところで、彼女からの最後の願い事を聞く。
どうせぶっ倒れるならここでぶっ倒れたかった。
彼女の最後の願い事は、ネット動画ではやっている短い楽曲を、俺に歌いながら踊れというものだった。
鬼畜の所業である。
スーツを着たデカい男がダミ声を響かせ、見様見真似にもならない奇妙な動きでツインテールを揺らし、あまつさえ動画に残されたのだ。
恥でしかない。
動画を確認させてもらったが、彼女が笑いを堪えているせいでブレッブレだ。
撮るならちゃんと撮れ。
酒も入れてないくせに酔っぱらいみたいなこと願ってるんじゃねえよ。
胸中で悪態をつきつつも、画面の中からでも彼女が心底楽しんでいる様子が伝わってくるのだからなにも言えるわけがない。
どこまでもかわいいの天才である。
「願いは叶えてやりました。愛してます〜」
最後はくるくる回りながら何度も投げキスをしたあとリビングから移動した。
そのあとの記憶がない。
ハッと目を開いたらそこは玄関だった。
まさかの寝落ちに、体はバキバキに悲鳴をあげている。
完全に意識を飛ばした俺を彼女が抱えられるわけもなく、枕を頭に敷いて、タオルケットを被せてくれていた。
……そして今である。
酔って記憶が残るとか、タチが悪すぎる。
ついでにツインテールの寝癖も残った。
死にたいの極み。
「絶対にベッドで泣かせてやると思ってたのに、寝落ちとか不覚すぎる……」
「あ? どこでどうしてそうなった?」
は?
思わず顔を上げたら、彼女はあきれて顔をしかめていた。
「……ウソでしょう?」
あんなあからさまに仕掛けておいて覚えてないとはどういう了見だ。
ズキズキと二日酔いとは別の原因で痛み出した頭を抱え、再びテーブルに突っ伏したのだった。
『願い事』