『束の間の休息』2023.10.08
事務所の一階には、後輩の友人が経営するカフェがある。特に名物があるわけでもない。マスターの女性と黒猫が一匹いるありふれたカフェだ。
壁には俺たちのポスターやサインが張られていて、ファンの子たちの聖地となっている。
そんなカフェで、のんびりとコーヒーを飲むのが好きだ。猫は可愛いし、マスターは放っておいてくれる。ぼーっとするのにはピッタリである。
最近は忙しかった。舞台やドラマの撮影、雑誌のインタビューなどなど。
今はエッセイの執筆で締め切りに追われている。ノートパソコンを取り出して、続きを執筆しようとしたがやめた。
今日はのんびりすると決めた。
パタンと閉じて、外を見る。街路樹に鳥が羽休めをして、小さく鳴いている。それに気づいたのか、黒猫が俺のテーブルの上に飛び乗って、カカカッとクラッキングをしている。猫の狩猟本能からくるものらしい。
今まで放っておいてくれたマスターはさすがに、見過ごすことができないのかこちらに寄ってきた。
いかんよと訛りをのせて黒猫をテーブルから降ろした。
抱っこが嫌いなのか黒猫はマスターの腕の中でグネグネと動いている。そして、ぴょんと腕から逃げて俺の膝の上に乗ってきた。
「すみません」
「気にすんなって」
申し訳なさそうにするマスターに笑って答えて、黒猫の好きなようにさせてやる。
コーヒーと軽食を楽しみながら、膝の上の猫を撫でる。
たまにはこうやって、のんびりするのもいいかもしれない
さしずめ、
「束の間の休息ってやつかい」
独り言ちて、コーヒーを一口飲んだ。
『力を込めて』2023.10.07
絶対に離さないでよ、と息子が叫ぶ。わかったわかったと返事をして、自転車のサドルを押した。
息子は最近、補助輪を外したばかりだ。周りの友だちはみんな補助輪無しで乗れるようになったらしく、自分もそうなりたいと彼は言う。
懸命にペダルを漕ぐ彼を、俺の仲間たちが応援する。
最年長の彼なんて、自分のことのように感動して泣いている。まだ乗れてないのに。
最年少でメンバー一の健脚の持ち主である彼は、並走しながら器用にスマホを構えている。
後ろをもって支えているとはいえ、息子の自転車は右へ左へとふらふらしている。危なっかしくて仕方がない。
しかし、それも最初のうちだけ。息子も慣れてきたのか安定してきたような気がする。
これなら手を離してもいいかもしれない。他のみんなも離せと頷いている。
「いいか、前だけを見るんだぞ。足元を見んな」
そう声をかける。息子はうんと頷いた。
ペダルを漕ぐ足は止まらない。力強く、前へ前へ、進む。
他のみんなも、行け行けと拳を突き出している。
もう大丈夫だ。
俺は力を込めて、息子の自転車を前へ押し出した。
一瞬、自転車がぐらつく。危ない、転ぶ!
しかし、息子は耐えた。頑張って前へ進む。
俺の息子は、また少しだけ、お兄ちゃんになった。
『過ぎた日を想う』2023.10.06
あれはいつのことだったか。そう確か、高校の卒業式のあと日本一周の旅に飛び出した日のことだ。
スタートは京都駅。両親はこれも想い出だと言って送り出してくれた。毎日その日に食べた食事と今、どこにいるかを連絡することを条件に。
それ自体は楽しかった。両親に心配をかけたくなかったし、各地の美味しいものを自慢するもの気分がよかった。
高校を卒業したばかりの若者が、一人で旅をしているといろんな人が優しくしてくれた。ごはんをごちそうしてくれたり、これで美味しいものでも食べなさいとお金を渡してくれることもあった。時には警察に職務質問をされることもあったが、それもいい想い出だ。
しかし、いい想い出だけとはかぎらない。
ある県のある灯台にきたときだった。そこは夕日が有名で、せっかくだから拝んでいこうかと立ち寄ったときだった。
悲鳴となにか質量のあるものが落ちる音が聞こえたのだ。そこには一組の家族と警察官がいた。話を聞くとどうやら人が落ちたらしい。
警察はそうだとは言わなかったが、察してしまった。事情聴取を受けたあとはキャンプ場に向かったのだ。
その時のことは、今の今まで忘れていた。番組のロケで今はその灯台にいる。時刻もあの時と同じ。
灯台から下を見下ろす。高い。ここから落ちたらひとたまりもないだろう。
脳裏には並べられた靴がよぎる。当たり前だが、今はない。
無意識に手を合わせてしまった。他のメンバーがどうしたのかと聞いてくるので、なんでもないとごまかした。
『星座』2023.10.05
昔から星を見ることが好きだった。故郷から見えるのは南十字星座、みずがめ座、みなみのうお座、はくちょう座も見える。宝石を散りばめたという表現がふさわしいぐらいに美しい星々が見ることができる。
見るだけでも楽しかった。あれはなになにという星で、と勉強するのも好きだった。だから、オレは宇宙飛行士になった。
宇宙飛行士になったのは単純に星が好きだからという理由と、地上で見ているだけだった星座を近くで見たかったから。
「子どもの頃、星座は星座の形をしていると思ってたんですよ」
そう音楽家と同じ名前を持つ先輩宇宙飛行士に話かける。
「線で結ばれてて、わかりやすい形をしてるのだと思ってました」
「それはなかなかメルヘンだなぁ」
彼は微笑ましそうに笑って、計器の数値をチェックしている。今は、火星への航海の真っ最中だ。他のクルーたちはすっかり眠ってしまっていて、今起きているのは自分たち二人だけだ。
「ということは、土星もサークルがあると思ってたりしたクチだな?」
「イエス。天体望遠鏡で見るまで知らなかった」
彼はオレの言葉にそうかそうかと頷いて、すっと指を指した。
「あれは何に見える?」
彼の指した方向には、火星とは違う赤い星と、明るい星が三つ並んでいた。
「オリオン座ですね」
「そう、オリオン座。大きく見えても火星より遠くにあるんだ。それでも星座と認識できている。なぜだかわかるかな」
「知識として知っているからですか?」
オレがそう言うと、彼はおおげざに肩を竦めて、ハズレとでも言いたそうな顔をした。
「ロマンを忘れたら宇宙飛行士失格だよ。いいかい、なんであの星たちを星座と認識できるか。それは簡単なことだ。俺たち宇宙飛行士は生粋の星座オタクだからだ」
得意げに彼は言って、目じりの皺を深くした。
おそらく渾身のジョークのつもりなのだろうが、残念ながらオレは彼と同じ宇宙飛行士だ。それはそうかも、と頷くことしかできない。
窓の外に広がる星々。あれはふたご座、あれはおうし座、あれはぎょしゃ座。
一つひとつ指を差していき、無いはずの線を結んでそこに星座を作った。
『踊りませんか?』2023.10.04
ダンスを教えてくれ、とあの人にそう請われた。いつものようにのほほんとした顔で。
何を言うのか、とツッコミたくなった。彼は謙遜するが、芝居も上手ければ歌も上手い。そしてダンスもそこら辺の役者と比べるとかなり上手いほうだ。
しかも、アメリカの演劇のメッカにいたのだから、実力もある。それなのに、出演する作品にダンスがあるたびに彼はオレにダンスを教えてくれと請うてくる。
今回はどうやらワルツらしい。彼はオレをダンスのプロかなにかだと勘違いしているのではなかろうか。すぐに踊ってくれと言われても踊れるわけではない。
「簡単なステップでいいから」
お礼に飯をおごるからと言ってくれたので、了承するしかないだろう。
「よければ踊りませんか?」
そうセリフを口にして、彼はオレの手を取った。話が違う。ステップを教えるはずじゃないのか。
「さすがに相手役いないとつまんないでしょ。女性側のステップ踏んで」
彼はそう言って、迷いなどないようにAのステップを踏んだ。ワルツのなかでも基本中の基本だ。踏み込んでくる足に合わせて、こちらは足を下げる。
背中に触れる彼の手の武骨さ。強引さはなく、リードしてやるという気概が感じられた。
教えてくれという割りに、少しも不安要素が感じられない。
何を教えてくれというのかわからず、素直にそう口にすると彼は、
「たんにお前と踊りたかっただけ」
といつも通りに、のほほんとした笑顔を見せた。