『巡り会えたら』2023.10.03
もし、来世というものがあるのだとしたら、もう一度あの方に逢いたいと思った。
こんな自分を受けていれてくれて、愛してくださった方。隠居されてからも、何かと気にかけてくださって、よく逢いにきてくださった方。
お互いの立場上、そうだとは言えなかったけれども、確かにそこに愛というものはあって、それは揺るぎないものだった。
あの方が身罷られたとき、その死を悼む詩文を贈らせてもらった。それとは別にただひたすらの愛を込めた詩文も。
世子殿は賢いお方だ。こちらがどんな関係だったのかも理解したうえで、それらを受け取ってくださった。もちろん、後者のほうは誰にも見せずに、墓の奥にしまい込んた。
「父を愛してくださってありがとうございました」
世子殿の言葉が、今でも耳に残っている。と同時に、あの方と過ごした日々が思い起こされた。こういうのを走馬灯というのだろう。
あの方はいついかなる時も、オレを励まし支えて愛してくれた。同じ、次男坊同士、通じるものがあったのかもしれない。
幼少の時、初めてあの橋で逢ったときから、あの方はいつだって優しかった。
残念ながらあの橋は先の大火で焼けてしまい、今は残っていない。天に還ってしまったのだ。
ふう、と深くため息をつく。自分を取り囲む家族が、目に涙をためてこちらを見下ろしている。なぜと思う前に、強烈な眠気に襲われて瞼が閉じた。
次に目を覚ましたときはどこかの部屋だった。放課後の職員室で、オレはなにか書き物をしていて眠ってしまったのだ。長い永い夢を見ていた気がする。
体を起こし、凝り固まった筋肉をほぐしていると、ガラリと音をたて、扉が開く。
「あ、起きたんすか?」
こちらを茶化したような声が聞こえた。その声に、なぜが胸が締め付けられた。いつも逢っているはずなのに、もう何年も逢っていない気がした。
自分のなかの誰かが喜んでいる。それが誰かはわからないが、その感情が乗り移ったかのように、目からぼろぼろと涙が溢れた。
また、巡り会えた――
『奇跡をもう一度』2023.10.02
本日もますますのお運びをもって、恐悦至極に存じます。ありがとうございます。
などと、かたっくるしい挨拶をしなければならないのが、私ども落語家でございます。本当は、今流行りのお笑い芸人のネタを拝借してご挨拶をしたいところではありますが、同じ芸人としてそれはどうよと思ってしまいますので、今回が遠慮しておきます。でも、言ってみたいですよね。おっはよろりーん!
はい、やめておいて正解でしたね。若い頃ならもしかしたら許されたかもしれませんな。こう見えて若い頃はそれなりにヤンチャをしておりました。何人か頷いてらっしゃる方も、ひのふの……。ええ、私の若い頃のことは内緒にしておいていただけると嬉しく思います。……フリではございませんよ。
しかしながら、そんなヤンチャをしていた私がこうして今も高座に上がらせていただいているのも、奇跡としか言いようがありませんな。普通の師匠なら即破門ですよ。嫌でしょう、仮にも真打が髪を紫に染めてピアスを二個だ三個だ開けてたら。それをうちの師匠は個性だからいいんじゃない、と言って許してくださったのだから。私だったら、そんな弟子は即破門にしていますよ。
奇跡といえば、博打があります。博打というと賭け事ですな。パチンコやスロット、競馬などのことを言います。私も社会勉強の一環として、これまでいろいろやってきましたが、この博打というものは恐ろしいもので、一度当たるともう一度、当たると信じてしまうわけですな。「あの奇跡をもう一度」というやつです。
のめり込みすぎると身を亡ぼすのが、この博打の恐ろしいところ。昔は花札やサイコロを使った遊びが流行っていたというわけです。サイコロはお釈迦様が説教のとき、人集めのために賭博場を思いつきその道具として考案したものだそうで。みごとその企ては成功。そしてお釈迦さまはそのお金で、祇園精舎というお寺を建てたそうでございます。このことから、博打で使うお金のことを「寺銭」と言い、負けることを「お釈迦になった」というようになったとか。
まぁ、私はお釈迦になったことはないですけどねぇ。
『たそがれ』2023.10.01
たそがれ。薄暗くなった夕方、人の顔が判別できなくなり、あのひとは誰かしらと思う「誰そ彼は」と言うことから「たそがれ」というようになったという。
そんなことをパソコンを操作しながら、劇作家の彼は呟いた。
「よく知ってるね」
褒めてやると彼はふふんと得意そうに笑って、俺が作ったキノコツナパスタを食べる。すこしお行儀が悪いが、締め切りも近いということで、大目に見てやっている。
「今回の演目はたそがれがテーマやけんね」
たそがれにはじまり、たそがれに終わる悲恋を今回は描くというのだ。
彼の作風は日本語の持つ美しさを表現したものが多い。なので彼の演目のほとんどが和モノである。
今回は元禄江戸時代を舞台に身分違いの男女の恋を描くにあたって、高校で教師をしていた友人にいくつか史料を用意してもらったという。
「今ほどインフラも発達していないから、夕方とかなったら誰かもわからんよね」
「電気もないもんなぁ」
「たそがれどきに身分はないよね。……あ、今のいい。登場人物に言わせよう」
彼は喜々として自らが発した言葉をパソコンに打ち込んだ。
脚本を書くとき、彼は実に楽しそうにしている。そういう彼を見ていると、あったかい気持ちになるし、微笑ましく思うのだが、せっかく美味しいパスタを作ったのだからそっちに集中してほしくなる。
「なぁ。それおいてさ、一緒に食べようよ」
そう声をかけると、彼は名残惜しそうにパソコンを脇にどけてちゃんと向き合ってくれた。
こういうところが素直で好感が持てる。
「食べながらだと、上手く頭まわんないっしょ」
「それはそう」
ちょっと嫌味ったらしく言ってやると、彼は真面目な顔でうなずいた。
それがかわいくて、一緒に出したサラダからプチトマトを一つ彼のお皿に乗せてやった。
「おれ、トマト嫌いっちゃ」
「うん、知ってる」
これはちょっとした俺からの抗議。
二人きりのときぐらい、俺に集中してほしいというささやかな抗議だ。
『きっと明日も』2023.09.30
きっと明日もいい日になる。だなんて、誰が最初に言い出したんだ。クソが。
と、あまりお上品でない言葉がぽろりと口をついて出てしまった。自分の内に秘めていたはずなのだが。
しかし、目の前の図体がデカい男は、とくに表情を変えることはない。だとしたら、やっぱり口からは転がり出ていなくて、内の声が大きく響いただけだと思いなおした。
図体のデカい男はこちらには目もくれず、ナマイキにもスマートフォンを弄っている。こちらは先輩だぞ。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、途端にめんどくさくなり、放っておくことにした。
すっかり中身の無くなった缶コーヒーを持て余し、それを少し離れたゴミ箱に捨てようとしたとき、図体のデカい男がふいに言葉を漏らした。
「それ、こっから投げてゴミ箱に入ったら、明日はいい日になりますよ」
唐突に言われてどんな反応をすればいいのか。
「どう考えても無理でしょ。フタがあるんですよ」
「じゃあ、俺が開けてりゃ問題ないっすね」
図体のデカい男は一人で納得した顔をしてから、ゴミ箱のところまで行くと、フタを遠慮なく開けた。そして、どうぞと言わんばかりに指を指す。
めんどくさい。非常にめんどくさい。
こうなった彼はテコでも動かないので、仕方なく付き合ってやることにした。
空き缶を雑に投げてやると、いとも簡単にゴミ箱に入った。
それはそうだ。なぜならそのゴミ箱は隣にあるのだから。
「入ったけど」
「じゃあ、明日もいい日になりますね。だって今日、ゴミ箱に空き缶投げて入っていい日になったし」
「屁理屈っていうんですよそれ」
「屁理屈でも理屈は理屈。何があったかは知らないっすけど、こういうちっちゃいことで、嫌なことを上書きしていきましょ」
そう言って図体のデカい男はバカみたいに満面の笑顔を見せた。
毒気が抜けていく。
「それもそうですね。きっと明日も、いい日になりますよね」
図体ばかりデカい男にしては良いことを言う。
気分がいいので、飲み物ぐらいは奢ってやってもいいかもしれない。
『静寂に包まれた部屋』2023.09.29
俺が脚本を書くときは、必ず自室に籠り、音楽もかけないで執筆している。なぜならば、そのほうが自分の世界を展開できて筆が進むからだ。
まだ書き始めて間もない頃は、音楽をかけたり、子どもたちのにぎやかな声を聴きながら作業することもある。
しかし、締め切りが差し迫ってくると、自室から子どもたちを遠ざけたり耳栓をしたり、時にはわざわざホテルをとってそこで執筆している。
どちらかと言えば、俺は無音のなかで執筆するほうがいい。
余計な雑音が入るのが嫌というのもあるし、静かなほうが筆が進むというものある。
だが、前述したとおりに、俺には俺の世界がある。
セリフを書くたびに、脳内ではやつらが喋っている。あてがきがほとんどだから、当然である。
物語を展開させる一方で、セリフを再生する。
外部でなにかしらの音が鳴っていると、それに邪魔をされてしまうので、書きたいものが書けないのだ。
静寂に包まれた部屋は、俺の劇場。
目まぐるしく場面が展開し、セリフが聴こえ、音楽や効果音が鳴っている。
静寂であって静寂でない。
それが、俺の執筆スタイルだ。