『踊りませんか?』2023.10.04
ダンスを教えてくれ、とあの人にそう請われた。いつものようにのほほんとした顔で。
何を言うのか、とツッコミたくなった。彼は謙遜するが、芝居も上手ければ歌も上手い。そしてダンスもそこら辺の役者と比べるとかなり上手いほうだ。
しかも、アメリカの演劇のメッカにいたのだから、実力もある。それなのに、出演する作品にダンスがあるたびに彼はオレにダンスを教えてくれと請うてくる。
今回はどうやらワルツらしい。彼はオレをダンスのプロかなにかだと勘違いしているのではなかろうか。すぐに踊ってくれと言われても踊れるわけではない。
「簡単なステップでいいから」
お礼に飯をおごるからと言ってくれたので、了承するしかないだろう。
「よければ踊りませんか?」
そうセリフを口にして、彼はオレの手を取った。話が違う。ステップを教えるはずじゃないのか。
「さすがに相手役いないとつまんないでしょ。女性側のステップ踏んで」
彼はそう言って、迷いなどないようにAのステップを踏んだ。ワルツのなかでも基本中の基本だ。踏み込んでくる足に合わせて、こちらは足を下げる。
背中に触れる彼の手の武骨さ。強引さはなく、リードしてやるという気概が感じられた。
教えてくれという割りに、少しも不安要素が感じられない。
何を教えてくれというのかわからず、素直にそう口にすると彼は、
「たんにお前と踊りたかっただけ」
といつも通りに、のほほんとした笑顔を見せた。
10/4/2023, 12:27:39 PM