『心の灯火』2023.09.02
またやられてしまった。
ただ、歩いていただけなのに、古巣に近しい連中に絡まれて、ボコボコにされた。
抵抗したところで、オレが勝てるはずもない。だから、その嵐が過ぎるまで耐えた。
連中はオレをしたたか打ち据えて満足したのか、どこかへ行ってしまった。
痛む体を引きずりながら、いつもの公園までやってくる。
いつの間にか雨が降っていて、ずぶ濡れになったオレはトンネルの中に隠れることにした。
オレには狭すぎるから膝を抱えて縮こまる。
今になって痛みがやってきた。
痛くて、悲しくて、みじめで。
足を洗ったはずなのに、どうしてこんな目にあうのか。
彼らからすれば、オレは裏切り者なのかもしれない。言われなくてもわかっている。
オレはただ、普通に暮らしたいだけ。
オレとして産まれた時点で、それすらも許されないのか。
憂鬱な気持ちが、のしかかってくる。
涙がこぼれそうになったとき、ぱっと明るくなった気がした。
「こんなところにいたのか」
呆れたような驚いたような、でも優しい声が聞こえた。
顔を上げると彼がいて、目尻のシワを深くしながら微笑んでいる。
「帰ろう」
差し出す手。大きくて指先にタコができている。武術をやっている男の手だ。
手を取った瞬間、安心して涙がボロボロ零れた。彼は苦笑いをして、よしよしと頭を撫でてくる。
「君の選択は間違っていない。だから、気にしなくていい」
全てを理解し受け入れてくれる彼の言葉は、暗闇にいるオレの心に、優しい火を灯してくれた。
『開けないLINE』2023.09.01
自分はこんなにも小心者だったかと思う。
たかが、メッセージアプリひとつで、気もそぞろになってしまうのだから、やっぱり小心者なのかもしれない。
連絡先を教えてもらったものの、こっちからメッセージを送ることすらできていなくて。
送ろうとすると、ドキドキして手汗が吹き出てくる。
まだ電話のほうがマシかもしれない。
もっとも、電話すらドキドキしてかけれずにいるのだけれど。
さて、困ったことになった。
今度のオフの日に、二人で出かけることになった。だから、その打ち合わせをしなくてはないけない。
何時にどこに集合するのかだとか、どこにいくのかだとか。その他、いろいろ。
誘ったのはこっちだ。だから、こっちから連絡をとらなければいけない。
メッセージアプリのトーク画面を睨みながら息を吐く。
友人たちや先輩方の名前が並んだその画面に、あの人の名前はない。
『こんばんは』の五文字が打てない。
どうしようなどと考えていると、その画面に、
『こんばんは』の五文字とあの人の名前。
思わずスマートフォンを取り落としそうになった。
次いで、
『いま大丈夫?』
とこちらを伺う文面。
口から心臓が飛び出そうになった。
あの人の名前だ。あの人の名前が仲間に加わった。
早く返さなければと思うが、あの人のトーク画面を開く勇気がない。
おれはしばらくの間、その画面から先に進むことができなかった。
『不完全な僕』2023.08.31
家を継いだからには、完璧でなくてはならない。
三代目として、この家を護らなくてはならない。
本来なら兄が家督を継ぐはずだったが夭折してしまい、次男である自分が跡目を継ぐこととなった。
祖父の代からの悲願である、地位の向上を目指すため、今日も大名方に講義をする。
しかし、元々、病がちで憂鬱気味な自分に、そんな重圧に耐え切れるはずもなく。
講義のあと、ゲェゲェとえずいていると、あの方が声をかけてくれた。
「大丈夫か?」
上様の側仕えの彼は、優しく背中をさすってくれた。
「具合が悪いなら、断ってもよかったのだぞ」
そんな気遣いに申し訳なく思ってしまう。
完璧でない自分は、完璧であらなくてはいけない。
弱音が口をついて出てしまったら、
すると彼は、穏やかに笑って、
「この世に完璧な人間なんていない。俺だって、完璧じゃないからな」
そう言った。
何事もそつなくこなし、剣術も一等級で、頭がよく人当たりも良い彼がそう言った。
意外だと思ったが、なんとなく納得してしまい、心が軽くなった。
彼もまた、完璧ではないのだ。
『香水』2023.08.30
彼が傍に来るたびに、オトナの香りを感じる。
華やかな香りをひきたてるような、控えめだけど存在感を感じるその匂いが、おれはすきだ。
「ねぇ、あの匂いなんの匂い?」
すっかり女友達になってしまった嬢に問う。彼女はおかしそうに笑いながら、なんというブランドでなんという名前の香水か教えてくれた。
スマホで教えてもらった香水を調べる。変わったかたちのボトルに入ったそれは、おれの使っている香水よりも高くて驚いてしまった。
「一応、ここキャバクラなんだけどね」
そういう話は外でやらないか、と彼女にたしなめられる。
そんなことを言われても、この事情を知っているのは彼女だけだ。ましてや、おれの職業上、同伴をするわけにもいかない。
彼のことは、彼女のほうがよく知っている。嬢と黒服。毎日顔を合わせていれば、自然とその人のことが分かるのだ。
「本人にきいたら?」
と、彼女はやや呆れたように言う。
もちろん、そうしたいのはやまやまだ。しかし、彼はパーソナルなことを聞くと、のらりくらりとかわすのだ。
それが、目下の悩みであると言うと、ふわりとオトナの香り。
「ご指名が入りました」
彼が彼女にそう伝えにきた。じゃあね、と手を振る彼女に手を振り返すと、おれと彼だけが残った。
いつもなら会計のためにすぐに立ち去る彼だが、今日はすこし違う。
どうしたのだろうと不思議に思っていると、彼は名刺を渡してきた。彼の名前が書かれたそれから、オトナの香りを強く感じた。
「俺のことは俺に聞いてね」
自然に見えるしぐさで、耳打ちされる。
カッと熱くなる頬。彼はにこりと笑顔を貼り付けて、今度こそ会計の準備のために立ち去った。
残ったのは、耳に落とされた彼の囁き声と、オトナの香りだけ。
『言葉はいらない、ただ……』2023.08.29
俺の奥さんはどこにでもいる奥さんだが、よく俺たち家族をまとめてくれていると思う。
俳優だなんて、どっちに転ぶか分からない仕事をしている俺を気遣ってくれるし、やんちゃ盛りの息子二人の相手をしているし、そのうえ、産まれたばかりの娘もあやしている。
全国公演や地方ロケとなると家にいない俺にかわって、我が家を護っているのは彼女だ。
だから、家にいるときは家事全般を引き受けているし、母の日には毎年贈り物を贈っている。
彼女は弱音を吐かない強い人だ。俺の悩みはもちろんのこと、同じ演劇ユニットのメンバーの話もよく聴いてくれる。うちの最年少のアイツなんて、彼女のことを「ママさん」と呼んでいる。
ことさら懐いていた彼を、彼女もかわいがっていた。
トラブルに巻き込まれた彼を、誰よりも心配していた。
「元気にしているかな」
と寂しそうにこぼしている。
だから、彼が空に行った「ほんとう」を知ったとき、彼女はたいそうショックを受けて寝込んでしまった。
二十年越しに開かれた「お別れ会」に、彼女も出席した。祭壇に飾られた彼の姿は、最後に会ったときの若々しいまま。記憶に残る、彼だった。
「うちに来てくれたらよかったのに」
彼女は、それを強く強く後悔した。
助けてだとかつらいだとか。そんな言葉はいらない。
ただ、うちに来てくれるだけでよかった。