『突然の君の訪問』2023.08.28
「あれま、おどろいた」
部屋の中に彼がいた。電気もつけず、暗がりのなかでソファの上で膝を抱えている。
電気をつけると、彼はまぶしそうに目を細めた。
「不法侵入だよ」
「ちゃんとカギで入りました」
「それは失礼」
合鍵を渡しているのだから、彼の突然の訪問に疑問は抱かない。
スーツから部屋着に着替えようとすると、背中に彼がへばりついてきた。
「着替えにくいなあ」
ジャケットも脱げないと文句を言うが、彼は答えない。
どうやら、元気がないようだ。だから、俺に甘えたくてしかたがないらしい。
へこんでいる子を慰めるすべはひとつしか知らないが、あいにく、こちらもそんな元気はない。
店の女の子に狼藉を働いた客を警察に突き出したり、女の子のメンタルケアをしたりと神経をすり減らしたのだ。
むしろ慰めてほしいのはこちらである。
包み隠さずにそのまま伝えると、彼はグズグズと泣き出す。
「しょうがないな」
ため息とともに吐き出す。
泣く彼をソファに座らせて、グッと抱きしめた。
『雨に佇む』2023.08.27
雨の降りしきる江戸の街。いつもは賑やかな街も、雨が降ると静かになる。
どこの店も早々に閉めており、こんな日に往来に出ているのは飛脚ぐらいだろう。むろん、登城帰りの自分も含まれる。
傘を借りて帰る道すがら、雨に佇む男を見つけた。
今、うちに用心棒として逗留してくれている足軽である。
そのうえ、上様の間者というややこしい立場の男だ。
「なにしてんの」
ずぶ濡れの彼に声をかける。傘をさしかけてやると彼はいつもの慇懃な態度で断った。
「当主様をお待ちしておりました」
関係者なのだから中に入ればいいのにと伝えるが、彼はゆるく首を振るだけだった。
「帰りましょう」
彼に促されては、仕方がない。素直に歩みを進める。
こんな雨だというのに、彼は足音を少しも立てない。本当に着いてきているのか不安になったので、ちらりと振り返ると、彼はちゃんと着いてきている。
「どうされましたか?」
不思議そうにする彼に、なんでもないと首を振った。
帰宅すると家人がすっ飛んでくる。ずぶ濡れの彼に体を拭く布を差し出した。
そうすると、彼は素直に受け取る。表情も幾分か柔らかくなった。
傘が差せないのは彼の身分ゆえ。
自分が出てくるまでの間、雨にうたれていた彼を思うと、難儀で仕方がないと思った。
『私の日記帳』2023.08.26
意外そうに見えるかもしれないが、俺は日記を付けるのが趣味である。
事務所のブログとは別に、個人的に付けている日記。
日記帳だなんて仰々しいものではなく、大学ノートにその日のできごとを綴っている。
それは小学生の頃からの習慣で、一年区切りで一冊というものだから、冊数にして二十冊ほどになる。
長々と書く日もあれば、一行だけの日もある。一行で一ページ。なんと贅沢なことか。
最近はもっぱら、レッスンのこと。ダメだしだったり、振り付けのメモだったり。
それらの書かれた大学ノートは、ほかのメンバーにも共有しているので、日記と呼べるかは怪しいところではあるが、俺が日記だといったら日記なのだ。
「あれの取材っていつだっけ」
メンバーに聞かれる。俺は日記帳を開き、質問に答える。
伝えられた日の日記を見れば、その答えが書いているのだ。
先輩方は頭のいい使い方だと褒めてくれる。
ありとあらゆることが書かれた、俺の日記帳。
ただの大学ノートだが、そこに俺の生きた証が綴られている。
さあ、今日のできごとも書かないと。
『向かい合わせ』2023.08.25
「さぁ、お稽古をはじめましょう」
うちの師匠は面白いお方だ。普段はあんなにおちゃらけているのに、稽古になると雰囲気がガラリと変わる。
身も蓋もないことを言ってしまうと、師匠はチャラ男だ。ピアスはいくつも空いてるし、髪は襟足をパープルアッシュに染めたツーブロック。さすがに着物は落ち着いたものを身につけているが、それでも煙たがる大師匠方も多い。
そんな師匠だが、落語にかける熱意は人一倍で、厳しいお人だ。
「今日は平林を教えます。よく聴いて、よく覚えるように」
普段は「うぇーい」だの「よろしくちゃーん」だの、パーリーピーポーのような師匠が、落ち着いた敬語で言い聞かせる。
このギャップに風邪をひきそうになるが、少しでも茶化そうものなら、ものすごく怒る。その証拠に、はじめて稽古をつけてもらった時に茶化したら、ものすごく怒られたのだ。
なので、素直によろしくお願い致しますと頭を下げる。
師匠は軽く頷くと、またガラリと雰囲気が変わる。
それは、師匠であっては師匠ではない。定吉であり、番頭であり、隠居であるのだ。
手を伸ばせば届く距離。向かい合わせで、そんな師匠の妙技を見れることは、これ以上ないくらいの贅沢だ。
『やるせない気持ち』2023.08.24
「まず何から話せばいいのか……」
動画配信サイトのRECボタンを押して、カメラに向かって話しかける。
すると瞬く間にコメントが流れる。
六十もすぎたいいオヤジの生配信に、これだけのリスナーが興味を持ってくれるなんて、物好きだなと思う。
この配信は事務所を通していない、完全に個人的なものだ。
「オレの親友の」
名前を出すと、コメントがにわかにざわつく。何十年経っていても彼のことを覚えている人はいるようで、すこし嬉しい。
しかし、今はそんな事はどうでもいい。
「ある人から、今どうなっているか教えていただきました」
この先のありのままを告げれば、きっと明日には大騒ぎになっていることだろう。しかし、彼の家族のことを考えると言わないほうがいいのかもしれない。
それを思うと、言葉が続かない。喉が締め付けられ、心臓がバクバクと早鐘をうつ。
黙ってしまったオレに、リスナーが心配の言葉をかけてくる。
言うか、言うまいか。
流れるコメントのなかに、ある名前を見つける。その名前は、彼の口癖だった。
『話してください。ありのまま』
その人からのコメントは、呪詛のように思えた。きっと彼の家族だろう。
オレは意を決して言葉を続ける。
「亡くなっているそうです。今から二十年前、あの事件の後に」
そこから先は、とにかく自分でもめちゃくちゃだった。
事務所や友人たちから電話が鳴りまくり、コメントも荒れに荒れた。
それでも、オレは止まらなかった。このやるせない気持ちを、八つ当たりのようにぶつけ続けたのだった。
明日はメディアが荒れる。
だからどうした。オレの知ったことでは無い。