夏祭りの夕暮れに、出見世の熱気。首から伝う汗が、浴衣の衿にするりと逃げる。
私があなたにねだったのは、瓶ラムネのビー玉だった。カラカラと、飲み干した瓶の口を開け、あなたが神社の手水舎でちょいと洗えば、町も花火も逆さま模様。
あなたの手のひらから、親指と人差指でつまんで空にかざす。ドォン、と音をひびかせる大きな花火を閉じ込めて、見物客の歓声に浸す。
きれいですね、と言うあなたに、そうですね、と返事して、また、ドォン、と大きく空を彩る花火に、あなたが目を向けているすきに、私は、この夏を閉じ込めた小さなビー玉に、さっきまで、あなたの唇が触れていたガラスの肌に、そっと接吻する。
冷たい感触と、急にほてる肌。
あなたがそれを見ていたなんて、私が知るのはもう、ずっとずっと、後のこと。
【視線の先には】
ぼくの先生は、また女の人と心中しようとした。けっきょく失敗しちまって、女の人は死んじまったのに、先生は奥の座敷で寝込んでらっしゃる。
先生は、ここ三日、しきっぱなしの布団の上で、しくしく泣いたり、ウンウン唸ったり、わるい夢でもみてらっしゃるのかもしれませんが、目が覚めたって、現は夢よりもっと悪いことでしょう。泣き枯れた細い声でときどき、ぼくのことを呼びつけます。
「おい、おい、そこにいるか。」
「、はい。なんでございましょう。」
一拍おくと、先生のほうには、奇妙な焦燥感がただよいます。ふすま越しに返事をすれば、本当に小さな声で「なんだ、いるのか。」と、安堵か諦めかしれないため息をこぼすので、ぼくは、こんなどうしょうもないことを繰り返す先生への腹立たしさを、こうやって当てつけているのです。
だって、ひどい話じゃありませんか。書きかけの原稿を小机に置きざりに、あっちの生娘、こっちの芸者と、ふらふら、ふらふら、酒やらタバコだか鎮痛剤だかしりませんけど、色んなものにおぼれては、ついには川の水にまで飛び込むのですから。
筆を執らない先生など、ぼくにとっては本当にたいくつで、気晴らしにと、広がったままの、先生の書きかけの原稿用紙を手にとって眺めておりましたら、なにかすっと気持ちのすくような、それでいて仄かに、腹の底に火の点るような、妙な気持ちになるのです。
先生の文章の、編集、校正を請け負って、もういくつの季節をともにしたでしょう。本もいくつか出しましたが、製本されて書店にならぶ先生の本を手に取る人は、誰ひとり、ほんとうの先生を知りません。先生の手つかずの言葉の連なりは、当の先生以外じゃぼくだけが知るもので、くわえて、ぼくだけが、先生の原稿に赤インクでペンを入れることができるのです。
ええ、まだ世間を知らない先生の文は、ぼくだけのもので、先生の原稿をよごしてよいのも、ぼくだけなのです。
それだのに、先生は筆を握るより、先生の本を読んだこともない女の人の、やわらかい膝で昼寝をするほうが好きだといって、ぼくの訪問などすっぽかし、着物の抜け殻をおいて部屋を抜け出すようになりまして、いまじゃすっかり、一度ならぬ心中沙汰で、世間の耳目を集めてしまっているのです。
相手ばかりを死なせてしまって、自分は生きのびるなどとはなんとも不届きなやつだと、世間様は先生を責めるのですが、まぁ、あの女の人たちが先生の筆の肥やしになってくれるのなら、ぼくはもう、どうだってよいのです。けっきょく、あの人たちは、先生を連れていけなかったじゃないですか。
それで、ぼくはふすまを開けて、寝込んでいる先生のそばへ小机を運び込み、万年筆とインクと、原稿用紙を置きまして、布団をかぶって、まだ泣いている先生に声をかけましたが、先生は返事をなさいませんでしたので、布団をひっぺがして、腕をつかんで起き上がらせて、万年筆を握らせましてね、
「先生、〆切が近いんですよ。」
そう言って、レコード盤に針を刺すように、ペン先を原稿用紙の上へと、先生の手を持ち上げましたら、先生は、鬼火でも見るような顔でぼくを見つめるのです。
お気持ちはお察ししますが、というぼくに、「おまえなんぞに、分かるもんか。」と、先生が悪態をつきましたので、ぼくは胸の内で、そんなことないですよ、と返事をしました。なぜって、先生はきっと、ぼくと同じだと知っていたからです。
先生はね、最初から死ぬ気なんてないんです。あの女の人たちが、自分から去ってしまう前に、自分だけのものにしてしまうために、つまらない口約束と軽薄なロマンスを囁いて、自分なんかの甘言に体も魂も捧げてくれる、あの純真さが、どんな酒やタバコや鎮痛剤より、先生の痛みをやわらげてくれる、って知っちまったんですよ。
でもね、今この座敷に、先生がすがれるのはぼくだけなんです。先生が手をかけなくたって、ぼくは逃げたりしませんよ。いつもお側にいるじゃあないですか。あの女たちは先生の体を知っているけれど、魂までは知らないでしょう。だって、先生の魂は、この小机の上にあるんですから。
ねえ先生。これは、こればっかりは、ぼくのものです。ぼくの痛みをやわらげてくれるのは、これだけなのです。だから、先生、
「書いてください。」
どうしてぼくじゃあ駄目なんですか。先生のペン先に足りないインクがあるんなら、酒もタバコも鎮痛剤も、ぼくがご用意いたします。新しい女だって、今すぐに。
ぼくはひどい顔をしていたんでしょう。ぽかん、としばらくぼくを見ていた先生は、ペン先の落ちた原稿用紙に広がっていくインクの染みに目を移すと、深い溜め息をついてから、つらり、と筆を動かしました。ぼくの手の中で、先生が文字を書いたのです。その瞬間、ぼくの胸には、熱いものがぞくりと流れたのを、忘れることができません。
ああやっぱり、ぼくはあなたと一蓮托生。あなたの筆と心中できるのは、あとにも先にも、ぼくひとりだけなのです。
【優越感、劣等感】
【手を取り合って】
お前の仕事は糸紡ぎだと、糸車の前に座させられたのはいつだったでしょう。何千何万何億の、糸を紡いで紡いで、今日も紡ぐ。それでも覚えているのです。初めて紡いだあの糸を。
指をすり合わせて作った糸端を、糸車に掛けたのは穏やかな春の日でした。芽吹いた緑に綻んだ花。母親はその幸せを抱きしめ、父親はその歓びに絶え間なく語りかけました。ようこそ、ようこそ、僕らの元へ。
カラカラ回る糸車。すくすく育つ可愛いあなた。まるで夏の若木のようにまっすぐに。
トンボを追いかけ水たまりで転んで泣いて、初めて乗る船の汽笛の音にびっくり跳び上がる。同じ歳の子たちと出会って学び、居眠りを叩き起こされ、開いた教科書は逆さまだなんて。
いつも周りに笑顔があふれている。だってみんな、あなたを愛しているから。
回る回る糸車。巡る月日が育てる強さ。まるで秋の空に鳴る、澄み切った鐘の音のよう。
使命があると袖を通した服に連れられて、肩に背負った銃を選んで故郷を離れれば、塹壕の片隅で飲むウヰスキーに漂うのは硝煙ばかり。昨日出会った隣町の―――は、婚約者への手紙だけを残して土の下。明日は我が身と笑っていたのは、あなただけじゃなかったのに。ああ、轟音の雨があなたを襲う。
お母さん、死なせてください。
あなたの首に伸ばしかけた手を床につき、あなたの母は崩れて泣いた。だって、あなたを愛しているから。
お父さん、死なせてください。
あなたの頭に短銃を向け、引き金を引けずにあなたの父はすがって泣いた。だって、あなたを愛しているから。
友よ、友よ、死なせてください。
ある者はいつまでも傍にいると誓ったし、ある者は置いていくなとあなたに怒った。だってみんな、あなたを愛しているから。
誰か、誰か、この苦しみを終わらせてください。
糸が震える。震えて叫ぶ。まるで冬のつららのように、涙ばかりが冷たく落ちる。故郷に戻ったあなたの胸に、勲章だけが輝いている。それを触る手も、見せに回る足も、自ら愛でる目もなくしたあなたの、明日を私は紡ぎ出す。だって、あなたを愛しているから。
けれど、糸が震える。私の指の中で、糸が震えて叫ぶ。泣いて泣いて、まるであの日、転んで膝を擦りむいたときのよう。糸を紡ぐだけの私は何もできずに、あなたの母が優しいおまじないをかけたのを、羨ましく眺めていたのを思い出したのです。
誰も、誰も、その苦しみを取り除けない。
誰も、彼も、あなたの明日を望むから。
あなたの糸を手繰り寄せ、あなたの母の真似をする。ずっとずっと、羨ましかったあの日に思いを馳せて、同じ呪文を唱えてあげましょう。
私が、私が、叶えてあげる。他の誰にも叶えられないあなたの願いを。
だって、あなたを愛しているから。
そうして、指をすり合わせて私が作った糸端が、糸車に巻き取られていったのは、ある穏やかな春の日でした。
【これまでずっと】
こんにちは。そこの椅子に座るんですね。私とお話してくれるなんて、あなたは親切な人だ。
私は小鳥と暮らしています。黄色い小鳥だったと思うが、青色だったかもしれない。こんにちは、と良く鳴く鳥で、勝手に鳥かごの外を飛び回るんです。
家族は娘が一人います。目に入れても痛くない、本当にかわいい息子で、昨日は公園で鉄棒と追いかけっこをしていたっけ。だっこが好きだというので、よくピザを焼いてやりまして、美味しそうに食べるので、私も美味しかったし、家の中はいつも掃除が大変でした。
ところでお聞きしたいのですが、このキャンディーは何ですか。頂いてよろしいのですか。あなたは本当に親切だ。ああ、美味しいですね、次はロケットに乗りたいなぁ。
―――***―――
「お加減いかがですか。快方に向かっていますね。」「先生、小鳥は。」
鉄格子のはまった窓から差し込む陽光が、ちらちらと白い壁に反射する。
「薬の量はちょうどよかったですね。」
「先生、私の子は。」
膝の上に抱いていたのは、丸まったシーツだけ。
「このままなら、きっと退院できますよ。良かったですね。」
私とあなた以外、誰もいない狭い部屋。白衣を着たあなたが、サラサラと紙に何かを書き連ねる。白っぽい部屋の白っぽいベッドに座った私に、ノックとともに入ってきたあなたの助手が、口を開けるようにと言う。
「先生、私は、幸せだったんですよ。」
あなたの微笑みに、口の中が苦くなる。
【目が覚めると】
歩道橋の上で夜風に吹かれていた。上るテールランプと、下るヘッドライトとの間に立てば、眠らない信号機の青色に、押し流されたい孤独感。
上京した日は、何もかもがうまくいく気がしていた。花が咲くどころか、芽生えもない日々に、いつしか朝日とともに、自分自身への不信がめざめていった。
今日も今日とて、路上の歌にギターの音色、就活スーツに自己啓発本。野望を、野心を、星の光ごと食らって爛々と光る街。生ぬるい夏の風に滴った汗は、アスファルトに飲み干されて、跡形もなく消えた。
もっとよこせ、と街がざわめく。裸一貫、失うものなど何もなかったはずのこの身から、時間のジャックを、若さのクイーンを、情熱のキングを、切り捨て、切り捨て、皿の上に投げ出せば、ナイフとフォークで味わい奪う、上品ぶった奇術師の唇。
なあ、明日はうまくいくかもしれないだろう。
舌なめずりの甘い響きに、手に入らない夢がくゆる。食い散らかされた残骸が、夢の続きを求めてすがっていた。探る眼が、握りしめて差し出せない手札をチラリと見遣るが、躊躇う姿に興味を失い、ため息をこぼした。引き止めなければ。脂に濡れた、酷薄そうな唇を拭うこの奇術師が、席を立つ前に―――
食後のワインを飲まないか。
絞り出す声で呼び止める。ふと、驚きを瞬かせた唇が、にまりと微笑んだ。差し出されたグラスの縁に、ひしゃげたハートのエースを投げ入れる。ぐるり、くらりと奇術師が回す、グラスの艶を両目で追えば、カードがワインに変わりゆく。ゆらゆらと、眼前に立ち昇る夢、夢、夢。
燃える火ならばこの身をもろとも、けれど街の明かりはガラスの中に。誘われるままに恋い焦がれ、手を伸ばすたびに阻まれて、弄ばれる羽虫が嘆く。こんなはずじゃあなかった、と。
【街の明かり】