noname

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 ぼくの先生は、また女の人と心中しようとした。けっきょく失敗しちまって、女の人は死んじまったのに、先生は奥の座敷で寝込んでらっしゃる。
 先生は、ここ三日、しきっぱなしの布団の上で、しくしく泣いたり、ウンウン唸ったり、わるい夢でもみてらっしゃるのかもしれませんが、目が覚めたって、現は夢よりもっと悪いことでしょう。泣き枯れた細い声でときどき、ぼくのことを呼びつけます。
「おい、おい、そこにいるか。」
「、はい。なんでございましょう。」
 一拍おくと、先生のほうには、奇妙な焦燥感がただよいます。ふすま越しに返事をすれば、本当に小さな声で「なんだ、いるのか。」と、安堵か諦めかしれないため息をこぼすので、ぼくは、こんなどうしょうもないことを繰り返す先生への腹立たしさを、こうやって当てつけているのです。
 だって、ひどい話じゃありませんか。書きかけの原稿を小机に置きざりに、あっちの生娘、こっちの芸者と、ふらふら、ふらふら、酒やらタバコだか鎮痛剤だかしりませんけど、色んなものにおぼれては、ついには川の水にまで飛び込むのですから。
 筆を執らない先生など、ぼくにとっては本当にたいくつで、気晴らしにと、広がったままの、先生の書きかけの原稿用紙を手にとって眺めておりましたら、なにかすっと気持ちのすくような、それでいて仄かに、腹の底に火の点るような、妙な気持ちになるのです。
 先生の文章の、編集、校正を請け負って、もういくつの季節をともにしたでしょう。本もいくつか出しましたが、製本されて書店にならぶ先生の本を手に取る人は、誰ひとり、ほんとうの先生を知りません。先生の手つかずの言葉の連なりは、当の先生以外じゃぼくだけが知るもので、くわえて、ぼくだけが、先生の原稿に赤インクでペンを入れることができるのです。
 ええ、まだ世間を知らない先生の文は、ぼくだけのもので、先生の原稿をよごしてよいのも、ぼくだけなのです。
 それだのに、先生は筆を握るより、先生の本を読んだこともない女の人の、やわらかい膝で昼寝をするほうが好きだといって、ぼくの訪問などすっぽかし、着物の抜け殻をおいて部屋を抜け出すようになりまして、いまじゃすっかり、一度ならぬ心中沙汰で、世間の耳目を集めてしまっているのです。
 相手ばかりを死なせてしまって、自分は生きのびるなどとはなんとも不届きなやつだと、世間様は先生を責めるのですが、まぁ、あの女の人たちが先生の筆の肥やしになってくれるのなら、ぼくはもう、どうだってよいのです。けっきょく、あの人たちは、先生を連れていけなかったじゃないですか。
 それで、ぼくはふすまを開けて、寝込んでいる先生のそばへ小机を運び込み、万年筆とインクと、原稿用紙を置きまして、布団をかぶって、まだ泣いている先生に声をかけましたが、先生は返事をなさいませんでしたので、布団をひっぺがして、腕をつかんで起き上がらせて、万年筆を握らせましてね、
「先生、〆切が近いんですよ。」
 そう言って、レコード盤に針を刺すように、ペン先を原稿用紙の上へと、先生の手を持ち上げましたら、先生は、鬼火でも見るような顔でぼくを見つめるのです。
 お気持ちはお察ししますが、というぼくに、「おまえなんぞに、分かるもんか。」と、先生が悪態をつきましたので、ぼくは胸の内で、そんなことないですよ、と返事をしました。なぜって、先生はきっと、ぼくと同じだと知っていたからです。
 先生はね、最初から死ぬ気なんてないんです。あの女の人たちが、自分から去ってしまう前に、自分だけのものにしてしまうために、つまらない口約束と軽薄なロマンスを囁いて、自分なんかの甘言に体も魂も捧げてくれる、あの純真さが、どんな酒やタバコや鎮痛剤より、先生の痛みをやわらげてくれる、って知っちまったんですよ。
 でもね、今この座敷に、先生がすがれるのはぼくだけなんです。先生が手をかけなくたって、ぼくは逃げたりしませんよ。いつもお側にいるじゃあないですか。あの女たちは先生の体を知っているけれど、魂までは知らないでしょう。だって、先生の魂は、この小机の上にあるんですから。
 ねえ先生。これは、こればっかりは、ぼくのものです。ぼくの痛みをやわらげてくれるのは、これだけなのです。だから、先生、
「書いてください。」
 どうしてぼくじゃあ駄目なんですか。先生のペン先に足りないインクがあるんなら、酒もタバコも鎮痛剤も、ぼくがご用意いたします。新しい女だって、今すぐに。
 ぼくはひどい顔をしていたんでしょう。ぽかん、としばらくぼくを見ていた先生は、ペン先の落ちた原稿用紙に広がっていくインクの染みに目を移すと、深い溜め息をついてから、つらり、と筆を動かしました。ぼくの手の中で、先生が文字を書いたのです。その瞬間、ぼくの胸には、熱いものがぞくりと流れたのを、忘れることができません。
 ああやっぱり、ぼくはあなたと一蓮托生。あなたの筆と心中できるのは、あとにも先にも、ぼくひとりだけなのです。
 

【優越感、劣等感】
【手を取り合って】

7/15/2023, 2:11:09 PM