北風吹きすさぶ夜の街。コートの襟を立て、首をすくめて背を丸め、
「ああ、寒い。」
晴れた夜空に冷たいオリオン座。輝かしいほど恨めしい。
「寒い。」
苛立ち紛れに吐き捨てる。はぁ、と零れた息は、白さも残さず風に払われ、カチカチと打ち鳴らす歯の音が頭蓋に忙しい。
なんだって、なんだって冬など来るのだろう。去年も一昨年も一昨々年も、葉の落ちた枝、地肌も露わな街路樹の脚。目にも寒々しく繰り返される季節。
冬眠できない猿の成れの果ては、失った毛皮の代りに、綿や獣毛、水鳥の羽、あれもこれもと体に巻き付けて震えるばかり。これじゃあまるで退化じゃないか。道をすれ違う犬の背に、わずかな羨望を投げかける。
キン、と冷たい空気に胸が沁みる。嘲るように咲いた椿の、塗りつぶすような色香に目を背け、まだ遠い薄紅色に思いを馳せる。
この冬に終わりをもたらし、新たな季節の到来を告げ、誇るように咲く花々。まだ、瞼の裏にしかないけれど。
待っている。去年も一昨年も一昨々年も、その季節の来るのを知っていた。だから今年も、
「寒い。」
耐えている。確信的なデジャ・ビュ。幾度も巡り合う、春。
【未来の記憶】
美味しいものを食べること
温かい布団で寝ること
好きな服を着ること
仕事や勉強を頑張ってみること
思いっきり体を動かすこと
気になっていた店に行ってみること
丁寧な字で書いてみること
座席を譲ってみること
思い立って旅行してみること
お気に入りの傘を差すこと
猫を撫でてみること
犬と散歩すること
「今日」にちょっぴり満足するために、
誰かに おはよう と声をかけること
「扉」を開けたいと思える今日を作ろう
【未来への鍵】
春の遅くに故郷に戻った。期待もなく、求めることも特になく。
初夏の頃に、懐かしくなり始めた彼らが集う。私は行かず、行きたくもなく。
盛夏の頃に穴埋め作業。淡々と担々と、つまらない日々とうとうと。
秋には再び仲間が集う。私は行かず、行きたくもなく。
初冬の頃、埋めた穴から離れては、また別の穴を埋めに行く。淡々と、坦々と、相変わらずのとうとうと。
師走の終わりに忘年会。週末ほとんど年忘れ。私は一体何者か、何をしにここにきたのだろう。
私が触れればすぐさまに、花の全てが色褪せる。
ただただずっと、楽しいふりをしていた。
【1年間を振り返る】
「それで結局、どうなったの」
彼女の目は挑発的に僕を見る。終わってしまった物語。本のページに挟まれ、閉じてしまった幸せについて語る僕の舌が乾いていく。
「私ね、"今"が好き」
淡い色合いのリップに喰まれて、ストロー越しのストロベリージュースだけが、赤く赤く高まっていく。つばを飲み込んで、作った苦笑いで平静を演じながら、僕は彼女に問いかける。だったら、君にとって幸せってなんなのか、って。
「そうね、」
大げさに首を傾げて、考えるふりした彼女の伏せた目が、すっ、と視線で僕を射抜く。
肌が、ざわりと熱くなる。まっすぐに僕の目を見たまま、彼女の顔が近くなる。とっさに背けた僕の頬に、くすっ、と彼女の笑みがこぼれてそして、
「続きが欲しくなる、こと」
耳の奥底へ熱が染み広がる。まっさらな裏表紙に、彼女はまだ、物語を書き足すつもりだ。
綺麗な終わりじゃなくていい、余計な飛躍があっていい。その内容で、『読者』を喜ばせる必要もない。
「勝手に終わりにしないで」
貪欲に求めるその瞳に、僕は続きを願っていた。
【ハッピーエンド】
淡い花の色とか晴れた空とか。澄んだ空気や行き交う人々の希望に満ちた顔だとか。
愛しいものの多い春。ニヒリストもペシミストも、毒気を抜かれて調子も乗らず、ぼんやり泳ぐ淡水魚のようだ。
コーヒーショップで窓に面したスツールに座って、眺める風景はシェードのお陰で眩し過ぎずにすんだ。控えめな湯気を上げる無糖カフェオレの苦みを渋々と味わいながら、自分の選択眼の良さに安堵する。
『大嫌いだ。』
胸の内でつぶやく。萌黄色に膨らむ木の芽も、どこか同情心を含んだお前の微笑みも。穏やかな季節の中で、ただひたすらに癪に障る。
ろくな会話のない間柄、話す言葉にどれだけの意味があるのか。顔を合わせる回数ばかりが増えて、互いのことは知らないままだ。
それでどうして、親しげに笑いかけるのか。間に合うならば、他人に戻りたいところだ。
『嫌いなんだよ。』
面と向かって言えないのは、それがもたらす関係の終着点が、赤の他人ではなく、相手にとって私が、苦手な知り合いになってしまうからだ。それは私の感情だというのに。
お前の中から、私に関する記憶の一切合切が消えてしまえばいい。名前も、関係も、約束もすべて。
「コーヒーはブラックしか飲まない。美味しくないから。」
淹れたてのコーヒーを片手に、わざわざ私の隣に腰掛け、屈託なくこちらに笑いかける。自然と持ち上がる口角に、湧き上がるのは怒りか憎しみか、それとも他の何かなのかはわからない。
「そうなんだ。」
否定も肯定もせず、できるだけ優しく見える顔をする。他人行儀なハリボテの愛しさを取り繕って。そんな私を見て、お前が眉を潜めながらわずかに笑う。最近良く見る、憐れむような目の色。ああ、吐き気がする。
「たまには、正直になったら。」
お前の言葉に、乾いた笑いをカフェオレで喉へ流し込む。
『お前が嫌いなんだよ。』
淡い花の色とか晴れた空とか。澄んだ空気や行き交う人々の希望に満ちた顔だとか。まるでどれもがお前のようだ。
ここは狭い水槽の、生ぬるい水の中。私はお前の淡水魚。
「そうだね。」
毒の抜けた空っぽな言葉が、虚しくこぼれて泡になる。
【たまには】