墜落の予感。
昇り詰めた指先が空を切る。飲み込んだ塵の一つに体が膨れ、増した質量に重力が襲いかかる。
ゴロリ、ピシャリロロロドガンッ
スピード狂の稲妻が大地へ激突する。叩き割られた木の洞に打ち付けられ砕けた体が、有象無象と綯い交ぜになる。塩辛い砂利を舐め、土の甘い香りに染み込んでいく。張り巡らされた根と根と根をかいくぐり、深く、沈んでいく。
暗がりの粒の壁をひたりひたりとたどる時間は、月も日もない地下で無限から永遠に変わって悠久に重なる。獣の遠吠えが籠もったような、空恐ろしいこの声は何だ。左右の別もつかない闇の中、それでも天地は定まったまま。ぞろりぞろりと濁っては清められ、飲み込んでは吐き出して、ごうごうと吠える方へと、空ろな心を叱咤する。
千の滴の道を這い、万のせせらぎに手を引かれ、幾億もの群像にとりこまれて龍となり、大地に体をうねらせ、ごうごうと吠える。自我の垣根を失ってなお、私は忘れはしない。鱗に反射するキラギラの光を睨みあげて叫ぶ。
会いに行くのだ。私と同じ色をした貴様に。澄まして天に鎮座する貴様の色に。
龍の頭を食らう飛沫が打ち寄せる。丸呑みの腹の底に眠る難破船、空き瓶に封じられた手紙のように渦巻きに弄ばれながら南を目指せば、故郷で嘲笑うのは空っぽないつかの私だ。
ぬるい潮風ざらざらと。
手招く蜃気楼くらくらと。
びりびり痺れるソナーの音に、やがて深淵から立ち昇るクジラの背に乗って、焼け付く日差しにたどり着く。燃えろ、爆ぜろ、全てを脱ぎ去って。幾億千万の私の群像を捨て、私は私に再び別れを告げる。
飛び交う鳥の羽をかいくぐり、遠くでチョークを引く鋼鉄の翼を眺め、重なり合う羊の群れから逃げる。二度も同じ手に乗るものか。
ああ、一面、眼の中いっぱいのブルー。抱きしめても掴めない。貴様を写して私はこんなに青いのに。
空よ、空よ、私をお前の青色にしてくれ。
叫ぶ声は徐々に薄まるブルーの彼方、白くまどろむ月は一瞥たりとも返さない。軽い体が加速する。解放の予兆。一、十、百と増えゆく星の数。何をも掴めない膨らむ暗がりにもがき、振り返れば、焦がれるようなブルーの群青。
上り登りて昇り巡って、しかと、触れたに違いない。その感触はなくとも、交差の瞬間、確かに私は触れたはずなのだ。
浮かび続ける私から、遠くなりゆく空はいつかただの星になる。私は待つ。この暗がりに降る雨を。
透明に煤けていく背中の冷たさに気づかない振りをして、あの日と同じ、この眼を焼き尽くした青色に見惚れている。
ああ、墜落の予感。
【遠い約束】
北風吹きすさぶ夜の街。コートの襟を立て、首をすくめて背を丸め、
「ああ、寒い。」
晴れた夜空に冷たいオリオン座。輝かしいほど恨めしい。
「寒い。」
苛立ち紛れに吐き捨てる。はぁ、と零れた息は、白さも残さず風に払われ、カチカチと打ち鳴らす歯の音が頭蓋に忙しい。
なんだって、なんだって冬など来るのだろう。去年も一昨年も一昨々年も、葉の落ちた枝、地肌も露わな街路樹の脚。目にも寒々しく繰り返される季節。
冬眠できない猿の成れの果ては、失った毛皮の代りに、綿や獣毛、水鳥の羽、あれもこれもと体に巻き付けて震えるばかり。これじゃあまるで退化じゃないか。道をすれ違う犬の背に、わずかな羨望を投げかける。
キン、と冷たい空気に胸が沁みる。嘲るように咲いた椿の、塗りつぶすような色香に目を背け、まだ遠い薄紅色に思いを馳せる。
この冬に終わりをもたらし、新たな季節の到来を告げ、誇るように咲く花々。まだ、瞼の裏にしかないけれど。
待っている。去年も一昨年も一昨々年も、その季節の来るのを知っていた。だから今年も、
「寒い。」
耐えている。確信的なデジャ・ビュ。幾度も巡り合う、春。
【未来の記憶】
美味しいものを食べること
温かい布団で寝ること
好きな服を着ること
仕事や勉強を頑張ってみること
思いっきり体を動かすこと
気になっていた店に行ってみること
丁寧な字で書いてみること
座席を譲ってみること
思い立って旅行してみること
お気に入りの傘を差すこと
猫を撫でてみること
犬と散歩すること
「今日」にちょっぴり満足するために、
誰かに おはよう と声をかけること
「扉」を開けたいと思える今日を作ろう
【未来への鍵】
春の遅くに故郷に戻った。期待もなく、求めることも特になく。
初夏の頃に、懐かしくなり始めた彼らが集う。私は行かず、行きたくもなく。
盛夏の頃に穴埋め作業。淡々と担々と、つまらない日々とうとうと。
秋には再び仲間が集う。私は行かず、行きたくもなく。
初冬の頃、埋めた穴から離れては、また別の穴を埋めに行く。淡々と、坦々と、相変わらずのとうとうと。
師走の終わりに忘年会。週末ほとんど年忘れ。私は一体何者か、何をしにここにきたのだろう。
私が触れればすぐさまに、花の全てが色褪せる。
ただただずっと、楽しいふりをしていた。
【1年間を振り返る】
「それで結局、どうなったの」
彼女の目は挑発的に僕を見る。終わってしまった物語。本のページに挟まれ、閉じてしまった幸せについて語る僕の舌が乾いていく。
「私ね、"今"が好き」
淡い色合いのリップに喰まれて、ストロー越しのストロベリージュースだけが、赤く赤く高まっていく。つばを飲み込んで、作った苦笑いで平静を演じながら、僕は彼女に問いかける。だったら、君にとって幸せってなんなのか、って。
「そうね、」
大げさに首を傾げて、考えるふりした彼女の伏せた目が、すっ、と視線で僕を射抜く。
肌が、ざわりと熱くなる。まっすぐに僕の目を見たまま、彼女の顔が近くなる。とっさに背けた僕の頬に、くすっ、と彼女の笑みがこぼれてそして、
「続きが欲しくなる、こと」
耳の奥底へ熱が染み広がる。まっさらな裏表紙に、彼女はまだ、物語を書き足すつもりだ。
綺麗な終わりじゃなくていい、余計な飛躍があっていい。その内容で、『読者』を喜ばせる必要もない。
「勝手に終わりにしないで」
貪欲に求めるその瞳に、僕は続きを願っていた。
【ハッピーエンド】