体は大事にしなさい、と。親からもらったものがどうとかと、学籍机の退屈の上に腕組みしながら聞いていた。
せんせー、それって儒教ですよね、日本はセイキョーブンリじゃないんですか。
口答えしか思いつかない。言わないけどさ。エジソンだったらもっと役に立つことを思いつくんだろうとか比べちゃって、天才じゃない自分にため息が出る。
生意気盛りの反抗期、勝手知ったる自分の頭、つまんねーとか、くだんねーとか、声に出さないよう堪える毎日。きっと自分は、何にもなれないなまぐさ修行僧のままだ。
きりーつ、れい、さよーなら。
惰性の日々は夏休みに続く。一目散に教室を出るクラスメイトに、学校を出た速度で休みが増えるわけじゃあるまいに、なんてニヒリズムかまして余裕ぶって、昨日と同じ道草相手の、君と下駄箱で待ち合わせ。
夏休みだね、そんなセリフから始まるいつもの談話。なにしよっか、なんかするの、どうしよっか、からの。
「ピアス開けたい。」
用意周到、カバンからピアスとピアッサー。小粒なダイヤ…じゃなくてただのガラス一粒。
君、先生の話聞いてたかい。むやみに自分の体を傷つけるなんて、親不孝なんだってよ、なんて、欠片も同意してないのに、まともぶって君に説教。自分、物わかりの良い若者なんです。
除菌ウェットティッシュまで用意してる君。財布もないのに立ち止まったドーナツ屋の前。突然ガードレールに腰掛けて、でもさあ、なんて世界の縁に手をかける。
「せっかくもらったんだから、フル活用しないともったいないじゃん。」
頭の中がスパークした。こいつはちゃぶ台返し、未知との遭遇、稀代の発明、新解釈の新時代。こいつ、こいつはエジソンだ。
呆気にとられた眼の前で、情けない悲鳴を上げながら、両目を瞑ったびびりな指が、君の耳たぶに当てたピアッサーを押し抜いた。
いったい、マジいったい
うそつけ、大して血も出てないじゃん
いったいもん、え、ちょっとほんとに開いてんの
うっさい、さっさとつけないと塞がるぞ
きっと、てんやわんや、ってこういう事なんだろう。君だけじゃなく、自分まで慌てふためいて。「わかんない、見えない」と喚く君の代わりに「あぁ、もう貸せよ、」と震える指で摘んだピアス。動くな、揺れるな、やいのやいのと騒ぎ立てながら、薄赤い君の耳たぶにシャフトを通す。余裕ぶったセリフが裏返って恥ずかしい。頭から指先まで激しい動悸が駆け抜ける。二回失敗、三度目の正直、キャッチャーをなんとかつけて、「できたよ!」とバカでかい声が出たのは何なんだ。
白状するよ、羨ましいんだ、正直な君が。
半べそ顔でこっちを向いて、照れくさそうに、嬉しそうに髪を耳にかける仕草を、まだ沈まない太陽が照らす。
どう、似合ってるっしょ
鼻をすすりながらドヤ顔するなよ。どうせ反論の余地なんてないんだから。
安物のピアスと君の笑顔が、キラキラずっと光っている。
【眩しくて】
虹がかかっていた。雨上がりの少しだけ遠い、電車で行ける町の空。
吉兆だっけ、凶兆だっけ、宝があるのは足元だっけ。七色だったり八色だったり、五色だったり二色だったり。国によっても時代によっても、同じものでもバラバラなのに、必ず誰かが虹と呼ぶ。
そういえば、誰が初めに名前をつけたの?
「ねぇ、誰なのかしらね。」
トン、とお腹を蹴り返してくる、虹のたまご。私はあなたを、なんて呼ぶのかしら。
【虹のはじまりを探して】
墜落の予感。
昇り詰めた指先が空を切る。飲み込んだ塵の一つに体が膨れ、増した質量に重力が襲いかかる。
ゴロリ、ピシャリロロロドガンッ
スピード狂の稲妻が大地へ激突する。叩き割られた木の洞に打ち付けられ砕けた体が、有象無象と綯い交ぜになる。塩辛い砂利を舐め、土の甘い香りに染み込んでいく。張り巡らされた根と根と根をかいくぐり、深く、沈んでいく。
暗がりの粒の壁をひたりひたりとたどる時間は、月も日もない地下で無限から永遠に変わって悠久に重なる。獣の遠吠えが籠もったような、空恐ろしいこの声は何だ。左右の別もつかない闇の中、それでも天地は定まったまま。ぞろりぞろりと濁っては清められ、飲み込んでは吐き出して、ごうごうと吠える方へと、空ろな心を叱咤する。
千の滴の道を這い、万のせせらぎに手を引かれ、幾億もの群像にとりこまれて龍となり、大地に体をうねらせ、ごうごうと吠える。自我の垣根を失ってなお、私は忘れはしない。鱗に反射するキラギラの光を睨みあげて叫ぶ。
会いに行くのだ。私と同じ色をした貴様に。澄まして天に鎮座する貴様の色に。
龍の頭を食らう飛沫が打ち寄せる。丸呑みの腹の底に眠る難破船、空き瓶に封じられた手紙のように渦巻きに弄ばれながら南を目指せば、故郷で嘲笑うのは空っぽないつかの私だ。
ぬるい潮風ざらざらと。
手招く蜃気楼くらくらと。
びりびり痺れるソナーの音に、やがて深淵から立ち昇るクジラの背に乗って、焼け付く日差しにたどり着く。燃えろ、爆ぜろ、全てを脱ぎ去って。幾億千万の私の群像を捨て、私は私に再び別れを告げる。
飛び交う鳥の羽をかいくぐり、遠くでチョークを引く鋼鉄の翼を眺め、重なり合う羊の群れから逃げる。二度も同じ手に乗るものか。
ああ、一面、眼の中いっぱいのブルー。抱きしめても掴めない。貴様を写して私はこんなに青いのに。
空よ、空よ、私をお前の青色にしてくれ。
叫ぶ声は徐々に薄まるブルーの彼方、白くまどろむ月は一瞥たりとも返さない。軽い体が加速する。解放の予兆。一、十、百と増えゆく星の数。何をも掴めない膨らむ暗がりにもがき、振り返れば、焦がれるようなブルーの群青。
上り登りて昇り巡って、しかと、触れたに違いない。その感触はなくとも、交差の瞬間、確かに私は触れたはずなのだ。
浮かび続ける私から、遠くなりゆく空はいつかただの星になる。私は待つ。この暗がりに降る雨を。
透明に煤けていく背中の冷たさに気づかない振りをして、あの日と同じ、この眼を焼き尽くした青色に見惚れている。
ああ、墜落の予感。
【遠い約束】
北風吹きすさぶ夜の街。コートの襟を立て、首をすくめて背を丸め、
「ああ、寒い。」
晴れた夜空に冷たいオリオン座。輝かしいほど恨めしい。
「寒い。」
苛立ち紛れに吐き捨てる。はぁ、と零れた息は、白さも残さず風に払われ、カチカチと打ち鳴らす歯の音が頭蓋に忙しい。
なんだって、なんだって冬など来るのだろう。去年も一昨年も一昨々年も、葉の落ちた枝、地肌も露わな街路樹の脚。目にも寒々しく繰り返される季節。
冬眠できない猿の成れの果ては、失った毛皮の代りに、綿や獣毛、水鳥の羽、あれもこれもと体に巻き付けて震えるばかり。これじゃあまるで退化じゃないか。道をすれ違う犬の背に、わずかな羨望を投げかける。
キン、と冷たい空気に胸が沁みる。嘲るように咲いた椿の、塗りつぶすような色香に目を背け、まだ遠い薄紅色に思いを馳せる。
この冬に終わりをもたらし、新たな季節の到来を告げ、誇るように咲く花々。まだ、瞼の裏にしかないけれど。
待っている。去年も一昨年も一昨々年も、その季節の来るのを知っていた。だから今年も、
「寒い。」
耐えている。確信的なデジャ・ビュ。幾度も巡り合う、春。
【未来の記憶】
美味しいものを食べること
温かい布団で寝ること
好きな服を着ること
仕事や勉強を頑張ってみること
思いっきり体を動かすこと
気になっていた店に行ってみること
丁寧な字で書いてみること
座席を譲ってみること
思い立って旅行してみること
お気に入りの傘を差すこと
猫を撫でてみること
犬と散歩すること
「今日」にちょっぴり満足するために、
誰かに おはよう と声をかけること
「扉」を開けたいと思える今日を作ろう
【未来への鍵】