noname

Open App

 歩道橋の上で夜風に吹かれていた。上るテールランプと、下るヘッドライトとの間に立てば、眠らない信号機の青色に、押し流されたい孤独感。
 上京した日は、何もかもがうまくいく気がしていた。花が咲くどころか、芽生えもない日々に、いつしか朝日とともに、自分自身への不信がめざめていった。
 今日も今日とて、路上の歌にギターの音色、就活スーツに自己啓発本。野望を、野心を、星の光ごと食らって爛々と光る街。生ぬるい夏の風に滴った汗は、アスファルトに飲み干されて、跡形もなく消えた。
 もっとよこせ、と街がざわめく。裸一貫、失うものなど何もなかったはずのこの身から、時間のジャックを、若さのクイーンを、情熱のキングを、切り捨て、切り捨て、皿の上に投げ出せば、ナイフとフォークで味わい奪う、上品ぶった奇術師の唇。

 なあ、明日はうまくいくかもしれないだろう。

 舌なめずりの甘い響きに、手に入らない夢がくゆる。食い散らかされた残骸が、夢の続きを求めてすがっていた。探る眼が、握りしめて差し出せない手札をチラリと見遣るが、躊躇う姿に興味を失い、ため息をこぼした。引き止めなければ。脂に濡れた、酷薄そうな唇を拭うこの奇術師が、席を立つ前に―――

 食後のワインを飲まないか。

 絞り出す声で呼び止める。ふと、驚きを瞬かせた唇が、にまりと微笑んだ。差し出されたグラスの縁に、ひしゃげたハートのエースを投げ入れる。ぐるり、くらりと奇術師が回す、グラスの艶を両目で追えば、カードがワインに変わりゆく。ゆらゆらと、眼前に立ち昇る夢、夢、夢。
 燃える火ならばこの身をもろとも、けれど街の明かりはガラスの中に。誘われるままに恋い焦がれ、手を伸ばすたびに阻まれて、弄ばれる羽虫が嘆く。こんなはずじゃあなかった、と。


【街の明かり】

7/9/2023, 9:10:51 AM