夜になると思い出す。
蝉の声、誰もいない音楽室、捲るカウントダウンカレンダー。朝から晩まで、楽器を吹くことしか考えていなかったあの一ヶ月間。
苦手だった後輩と、いざ向き合ってみればすごくいい子で仲良くなれたこと。
なりたい自分を受け入れてくれた空間。
努力は報われるのだと、綺麗事だと思っていた言葉に酷く納得した文月の終わり。
戻りたい。そう毎晩涙を零すのは、楽器を手に取ってからずっと、本気で向き合ってきた訳では無いから。自分が一番理解している。
無情にも私にとって楽器は、車や電車の窓から見る外の景色と同じで、流れ行くもの。そうさせたのは、他でもない自分。
次の駅で降りる。
たくさんの想い出を抱えて、前を向くしかない。泣いてもいいのだと、思いたい。
全身全霊で向き合えるものを、見つけられるだろうか。
秋風
外を出た瞬間感じる匂い、やんわり頬を撫でる冷えた風、違和感があるノド。すっかり冬だな、と思っていた。
秋無いじゃん、冬来るの早すぎ、などと騒ぎ立てるsnsの人間らを見て、無意識のうちにそれが当たり前だと感じてしまうことがよくある。
今日、友人と窓際で軽く話していたとき、灰色の空を眺め私はなんともなしに言った。
「冬やな、寒い」
私の言葉に、友人はあっけらかんと返す。乾燥した空気、そのままで。
「まだ秋やろ」
友人が指さす外の世界には、華やかな紅に染まる木々があった。
自分のことで精一杯になり、季節すら碌に感じられず、周りの言葉そのまま鵜呑みにする自分に呆れる。
夏と冬に挟まれるのが秋ではない。
その日の帰り道、秋の山を見ながら、私は風を飴色に感じた。
自分から背を向けた私に、そんなことを言う権利は無かった。叶うなら、一生顔を見たくもない人だっている。
それでも私は、綺麗事を吐くのが好きだ。彼らの思い出の中の私が、儚く美しく映るように。
「また会いましょう」
皮肉にも、彼らの旅路がきらめきに溢れるよう、私は心の底から祈っていた。
スリル
恐怖や驚き、張り詰める緊張感。
私はそういった類のものが嫌いだ。至って平凡で、平坦な道をぼんやり歩いていきたい。今更それを変えたいと思うこともないし、変える必要もないと思う。
「迷ったら困難な道を選べ」とか、「自分の好きな道を選べ」とか、「安全な道が正しいとは限らない」とか。世間はうるさい。安全であることが一番に決まっている。
心の中でそう思っていても、危険な道を選ぶ人々が輝いて見えるのだ。
私のような植物人間に比べて、彼らはすごく楽しそうだった。羨ましい。
頭の中で凝り固まった固定概念のようなものは中々ほぐれなくて、足が動かない。また崖に背を向けて、安全な道を歩き出す。
だって、あんな高いところから転げ落ちたら。周りに何を馬鹿なことしてるんだって後ろ指さされたら。
もう一度振り向いて、私の方を見向きもせず、自分らの成すべきことだけを据える彼らを見て思った。そういう第三者からの感想を覆すことも、彼らの美徳に入るのだろう。スリルとはそういうものなのだと、彼らの背中は語っていた。
彼らの顔は、いきいきしている。
飛べない翼
空を飛んだとして。
後ろ指さされるなら、飛ばなくていいと思った。誰よりもいちばん高く飛べないなら、飛んでも意味ないと思った。飛ぼうとすることを、やめた。
折角生えている翼も、普段から飛んでいないと衰えていくばかりで、存在すらなかったことになっていた。良い羽を持っているからよく飛べるなんていう方程式は、心の奥で腐っている。
宙を舞ったとして。
いつ落ちるか分からない世界なんだ。安定して舞踊り続けられるものはひと握りしか居ない。自分は、たっぷり人間が入れられた箱の、底の底にいる人間で、神様のひと握りに選ばれるわけがなかった。
神がいた。
私の目の前に、降臨してくださった。
神は仰られた。
「ワタシのことを信じる者は、幸せになれる」
神は全員に、平等な愛を注いでくださった。それは私も例外でなく、初めての愛に深く感動した。
向き合ってくださって、私は初めて、羽を手入れすることにした。
また、神がいた。
私の目の前に、降臨してくださった。
神は舞っていた。
それは、空を舞っているのではなく、地に足つけて、舞踊っていた。
誰も神を見ていなかった。でも、神は楽しそうだった。私は神の後ろを追った。
背中を見せてくださって、私は初めて、自分の足で歩くことを知った。
飛べたとして。
神を信じていれば、いつか報われるという自信があった。神の教によると、自信が大切らしい。私はきっと、大丈夫になった。
舞ったとして。
浮く必要はない。選ばれる必要もない。楽しければ、それでいい。私はそうありたい。
翼が全てではなかった。
道を自分で切り拓くのも、一興であった。
鳥籠は、自分で自分を閉じ込めていた。
そこから出たとき、翼を広げた。