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3/17/2023, 2:50:27 PM

泣かないよ


何てことない一日でした。社会の歯車として働いて、帰る頃にはくたくたで、すぐにソファに倒れ込んだ私にその人は優しくおかえりを言ってくれました。
ただいまぁ、と気の抜けた声で返事をすれば、遠くの方でくすくすと笑う声がします。それと料理を作る音も。
今すぐにでも立ち上がって、その手伝いに行きたいのに、体は言うことをきいてはくれません。次第に落ちてくるまぶたにあらがうことすらできず、私はそのまま寝てしまいました。
かくん、と首が大きく揺れて、目を覚まします。壁に掛けられた時計を見れば、帰って来た時間から一時間ほど経っていました。
寝すぎた、やばい、と慌てて立ち上がると、机の上にはちょっぴり豪華な料理が並んでいました。
美味しそう、と目を輝かせれば、作ったその人は嬉しそうに、照れくさそうに笑いました。何かの日だったかな、と思いつつ、食卓につこうと近づくと、手を洗ってきなさい、と母親のように言われました。
はーい、とキッチンに移動して、さあ、手を洗おうとしたそのときでした。私はようやく気づいたのです。寝る前まではたしかになかった、左手の薬指に指輪がはまっていることに。
え、とその人を見ると、同じような指輪が左手の薬指にはまっているのがわかりました。嬉しいのと驚いたのと、寝起きだから、かもしれません。頭がバグを起こしたみたいに、笑顔なのに泣きたくなって、うまく言葉が出てきませんでした。
泣いてるの、と優しく問いかけられて、首を振って答えます。泣かないよ、ばか。嬉しいだけだよ。そう思いながら、抱きつけば、強い力で返ってきました。結婚してください、と告げられて、はい、と歓喜に震えながらそう言いました。
何てことない日でした。だけど、こんな素敵な記念日になりました。

3/16/2023, 2:11:06 PM

怖がり


ある日、一人の女性が誘拐された。犯人は複数人いるらしく、必死の抵抗も無駄に終わった。
女性は見知らぬ倉庫で目を覚ます。舐めまわすような視線にニタニタと笑う表情、あびせられる言葉は侮辱的で、女性は涙を流した。
震える声で家に帰りたい、とこぼすも犯人たちは笑うだけだった。
怖がる女性に一人の男が近づく。うなだれる女性の頬を掴み、無理やり顔を上げさせた。
涙で潤む瞳に、苦しそうな呼吸音、どちらも男を興奮させるようなものだった。自分が優位になった気がした男はニヤリと笑い、女性に近づこうと顔を寄せた。そのときだった。
男は腹のあたりに違和感をおぼえ、ゆっくりと視線を下げる。そこには小柄なナイフがしっかりと刺さっており、赤黒い血がにじんでいた。
うわぁ、と情けない声が倉庫に響き、男は後ずさる。女性は苦しげに涙を流したまま、男に近づき、そのナイフを引き抜いた。そして、何かを耐えるように目をつむって、男の体に突き刺した。何度も何度も。淡い色したワンピースもいつの間にか血だらけで、女性は突き刺したナイフを引き抜いて、ゆっくり立ち上がる。
女性を連れ去った男たちは目の前の光景に思わず動けないまま、中腰で立っていた。
ゆらり、ゆらりとおぼつかない足取りで女性は男たちに近づく。恐怖でうまく動けない男たちは女性が泣きながら、自身の体にナイフが突き刺さるのを見ていることしかできなかった。
最後の一人が途切れ途切れにこう言った。
「こ、んなことが、でき、るのに、な、ぜあんな、にこわ、がっ、てい、た?」
頬にあびた返り血が涙に混じって、こぼれ落ちる。女性はもう泣いてはいなかった。ただ、悲しげな表情で答える。
「……こうなることを、恐れていたのよ」

3/15/2023, 2:05:37 PM

星が溢れる


濃い藍色の夜空を背景に、一人の少女が立っている絵があった。少女はその満天の星空から降ってきた星を両手の手のひらで受け止めて、その星たちをつぶらな瞳で見つめていた。
その絵には『星が溢れる』とタイトルがつけられていた。
それを見たある人は言った。
「星があふれているのか。この子の手には乗り切らないほどの星が降ってきているから、手のひらいっぱいいっぱいになっていて、あふれているんだね。そう思うとこの少女の顔もどこか嬉しげに見えないかな?」
無表情だった少女の顔が何故だか嬉しそうに見えてきて、満たされているような少女の顔はさっきよりも優しく見えた。
すると、別のある人はこう言った。
「星がこぼれているんだ。この子の手のひらならまだまだ乗せられるのに、傾けてしまったり、バランスを崩してしまったりするから、だからこんなにも地面に星が落ちているんだ。もちろんいっぱいになってもこぼれてしまうけれど、いっぱいになる前にこんなにもこぼしてしまったんだね。そう思うと、なんだかこの子も悲しそうに見えないかい?」
先ほどまで嬉しそうに見えていた少女の顔が、どこかもの悲しげで、少し視線を下に向けたそれさえもうつむいてしまったように見えた。
どちらも同じ文字を書くのに、どちらも同じような意味合いではあるのに、こんなにも見方が変わってしまうなんて。
同じようにその絵を見ていた君に問いかける。
「君なら、何をあふれさせて、何をこぼすんだろう?」

3/14/2023, 1:42:42 PM

安らかな瞳


その人はあまり笑わない人だった。華やかなドレスをまとい、みんなが羨むような人の婚約者になっても、その表情は崩れることなく、石のようだった。
僅かな表情の差異を見つけ、彼女の気持ちを読み取るのは決して簡単ではないが、それができるくらいには隣に長くいたはずだ。
だから、その日、初めて見たんだ。いつもは無感情なその瞳が、少しだけ柔らかく色付いて、穏やかになったのを。
その表情に気づくことができたのは、きっと自分しかいないだろう。すべてを許すような、そんな穏やかな瞳で、断頭台に立つ彼女と目があったような気がした。
「やっと、終わる……」
そう呟いた彼女の声は怒号にかき消され、誰の耳にも届かなかったけれど、たしかにそう言ったことだけはわかった。




3/13/2023, 2:29:51 PM

ずっと隣で


その人は夜が嫌いだと話した。理由を聞けば、彼女は優しく微笑んで教えてくれた。
「だって、みんな寝ちゃうでしょ?」
ひどく当たり前のことだけれど、彼女にとっては当たり前ではなかった。
彼女は遠い昔にご先祖様が呪いにかけられたと言った。その呪いは100年に一度だけ眠ることのできるもので、それ以外はずっと起きておかなければいけないものだった。さらにはその眠りもいつ目覚めるかは誰にもわからない。たった数日のこともあれば、何千年と眠り続けることもあるのだ。
そんな呪いが彼女にも受け継がれているようで、実は数えるのが億劫になってしまうほど長生きをしているらしい。見た目はあまり年を取っていないから、まだ若いとは思うけれど。
「私は眠らないから、夜は好きじゃないなぁ」
そんな寂しそうな声が夜空にとけて、思わずその手を握った。
「じゃあ、ずっと起きてるよ。君が寂しくないように。たとえ君が眠りについても、ずっとそばにいて待ってるから」
そう真剣に言えば、彼女は楽しそうに笑った。
「無理だよ。きっと眠っちゃうし、人間はそんな長生きできないだろ?」
その言葉に少しだけムッと顔をしかめれば、彼女はやっぱり笑った。
それからは、ずっと眠らずに彼女と話をしていた。優しい朝焼けを見ながら、青空に手を伸ばしながら、夕暮れに懐かしさを感じながら、月と散歩をしながら。来る日も来る日も彼女と共に過ごしていた。
そんなある日、彼女はゆっくりと目を閉じて眠りについた。いつ起きるかなんて、誰にもわからないから。彼女が眠る横でずっと待っていた。その瞼が開くまで、その瞳でこちらを見てくれるまで、ずっと待ち続けた。

日を数えるのが億劫になってしまうほど、月日が経ったある日、彼女はようやく目を覚ました。おはよう、と声をかければ、その目を大きく開かせて驚いた。そして、その瞳から涙が流れ落ちる。
「なんで、泣くの?」
「……だって、目が覚めたら世界はいつも変わっているから。知っている人はいないし、知っているものも少ない。だから、嬉しかったの。あなたがいてくれて、ずっと隣で待っていてくれて、ありがとう」
泣きながら笑う彼女をそっと抱き寄せて、その涙を拭う。
きっと彼女にはもうバレているんだろう。僕が人間ではないことを。それでもきっと僕らは、互いの隣を選ぶんだろう。


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