Mey

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9/26/2025, 4:36:38 PM

私の母は、1日に2〜3杯はコーヒーを飲むコーヒー好きだった。
ホットのインスタントコーヒーに角砂糖1個とクリープを1杯。
喫茶店ではホットのブレンドコーヒーに付いてくるスティックシュガー1袋とコーヒーフレッシュを1個。
私はコーヒーの香りは良いなと思っていたけど、母が存命中にはまだその苦さを美味しいとは思えず、紅茶ばかりを飲んでいた。
そんな私も30歳を前にして、アイスコーヒーにガムシロとコーヒーフレッシュを淹れて飲むようになり、やがてブラックのアイスコーヒーの苦さを好むようになった。
それから程なくしてホットコーヒーに角砂糖1個とコーヒーフレッシュ1杯を時々飲むようになった。
その数年後、年々増加する体重やぽっちゃり体型が気になって、ブラックコーヒーを飲むようにしている。
…でも。
時々、無性にいつもと違うコーヒーが飲みたくなる。
カップに蜂蜜を入れてからドリップして作る蜂蜜コーヒー。コーヒーをドリップしてからマシュマロの上にシナモンパウダーを振りかけてみたり。今ではコンビニのコーヒーマシンの上に数種類のフレーバーが置いてあるから、お試ししたり。
そんなとき、ふと、母に「こんな飲み方もあるよ」と伝えてみたかったなと脳裏に過ぎる。
ニッキの八ツ橋が好きだったから、シナモンを振りかけたコーヒーを気に入ったかも。でもやっぱり、角砂糖1個とクリープ1杯のコーヒーを飲んでいるような気がするなぁ。
分厚いアルバムを開いた母の笑顔は、スマホで撮影してお気に入り登録した。
それを眺めながら、熱いコーヒーをいただく。
太陽はゆっくりと沈んでいく。




コーヒーが冷めないうちに

9/25/2025, 4:47:32 PM


パラレルワールドで、時計の針が重なって



私は飛行機の窓から、南米の赤い台地を見下ろした。日本を出発し、乗り継ぎを合わせて30時間もの長時間のフライト。やっぱり日本からすごく遠い国だと身をもって実感した。だって地球儀を半回転、おまけに南半球のこの国は、日本から時差13時間で季節も真反対なんだから。
彼は日本人エンジニアとして、この国で働いてもうすぐ1年になる。スペイン語が早口で聴き取れないと嘆いていた彼。だけどわからないままでは仕事に支障をきたすから何度も聞き直して、兎に角辞書を引いていると教えてくれた。
海外で一人きりなんて、私には考えられない。頑張り屋の彼を応援し、もうバッチリだと電話口で彼が笑ったとき、自分のことのように喜んだ。
早く笑顔の彼に逢いたいとずっと思ってた。やっと逢える。私は機内で案内された現地の時刻に時計の針を合わせた。


空港で再会した彼は日焼けし、精悍な顔つきをしていた。やっと逢えた、私たちは嬉しさを噛み締めながら腰に手を回して寄り添った。
空港のバスに乗り、2人きりの観光の始まり。
日本人は私たちだけ。都会的なビル群の景色はすぐに途絶え、荒々しい砂漠地帯の直線道路をバスが突き進む。
旅先であるチリの北部地方は、彼の案内のおかげで南米の自然を満喫できた。アタカマ砂漠の大地を歩き、空に噴き上がるような間欠泉に魅了され、広大なアタカマ塩湖のフラミンゴの大群を望むことができた。地上の光がない高地にあるアタカマ砂漠では、夜空は星の一粒一粒が近く、大きく、星々に彩られていた。
モーテルで彼と1年ぶりに繋がる熱に浮かされて、幸せだよね、と笑いあった。逢いに来てくれてありがとう、と彼は私にキスをたくさんくれた。

2人きりの旅行を終えて、彼はチリ人の友人を紹介したいと私を友人宅へ連れて行った。
仕事仲間から友人となり、今では家族の一員かのように仲良くしてもらっていると言う。
彼らは私のことも歓迎してくれ、市場で仕入れた南国のフルーツや、丸鶏のチキンロースト、この日のために作ったとお手製のケーキをご馳走してくれた。
「グラシアス」カタコトのスペイン語でお礼を言ってそれらをいただく。美味しい。「リコ」と旅行中に覚えた美味しいを伝えると、チリ人の奥さんは笑ってくれた。拙いスペイン語が通じたこと、ほんの僅かでも交流ができて嬉しい。
ほっとしたのも束の間、大きな声のスペイン語が飛び交う会話の中で、私はただ微笑んでいることしかできなかった。時々、私に気を遣って、彼らは彼氏を通訳として私に質問してくれた。一言、二言返事をするのに精一杯の私に彼らの興味が薄れていくのを感じた。
彼はスペイン語で冗談を言ったようで、彼の言葉を受けて爆笑が生まれる。私にはそのジョークが何のことかわからない。その彼の姿は、まるで別世界の人のようだった。私はその世界に入れずに、ただ、微笑みを顔に張り付けていた。
時差13時間分の距離が、彼と私の間に横たわっているようだった。

友人宅を出て、彼が住むアパートに戻る。
彼は笑顔で「楽しかった?」と尋ね、私は微笑んで「楽しかった」と答える。奥さんが笑ってくれたり、楽しかったこともあったから。
楽しくなかった事柄にはそっと蓋をする。ここは、パラレルワールド。私の言葉が通じない異世界。彼はパラレルワールドの住人。


南米チリと彼に別れを告げて、日本への帰国便の機内で、時差の13時間、時計の針を進めた。
窓の外は暗く、機内も消灯され静まり返っていた。
南米の地で陽気な人たちに囲まれて、流暢にスペイン語を話し、陽気に笑っていた彼を思い出す。
あの場で笑顔を張り付けていた私。私がもしもスペイン語を話せるようになったとして、彼のようにあの場に馴染めなかったと思う。
この機内の静けさのように、ただ静かに時が過ぎるのを待っている日本人の私。対して彼は、まるでラテンのリズムで踊るように南米の明るさに溶け込んでいた。
静けさと明るさ。並行世界のような2人。
時差13時間は、時計の針がピッタリと重なることはない。腕時計の文字盤の白さが反射して、細い針が涙でぼやけて見えなくなった。


帰国して、静まり返った住宅街にあるワンルームの窓から夜空を見上げる。星は遠く小さく、微かな光で、あのチリのアタカマ砂漠を旅した星空の夜とは何もかもが違う。
深夜、寂しさに耐えかねて、国際電話をかけた。
南米は今、週末の正午。電話口に出た彼の向こうで、スペイン語で会話する賑やかな声とそれに続く笑い声が聴こえた。
「今、バーベキューしてるんだ。うるさいだろ?」と彼は楽しそうに笑った。
私の部屋で、秒針が控えめに時を刻んでいる。チリとの時差13時間の時計が。
涙が迫り上がる前に、寂しい、と口にしかけた時だった。
「寂しいなんて言うなよ。俺も寂しくなるじゃん」
そんなこと言われたら、何も言えなくなるよ。「寂しい」って私も彼も言い合うことができたら、時計の針が重なるのに。それが今、この瞬間だけでも。
相変わらず、賑やかな声が聞こえる。彼が叫んだ。「ウン、モメント」スペイン語で「ちょっと待って」。チリにいる間に覚えた言葉。
彼はバーベキューに戻りたがっている。私の瞳から頬へ涙がこぼれ落ちた。
「そっち、夜中だから早く寝ろよ。じゃあ、またな」
『うん、またね』といつもの言葉を口にする気にはなれなかった。
きっと何度電話しても、私は彼と時差13時間の距離を感じてしまう。ラテンミュージックが流れ、スペイン語で笑い合う彼に、この細い秒針が聴こえるほど静かな場所に戻ってもらいたいと言う権利はない気がする。
私は何も言わずに電話を切った。

涙が後からあとから流れ落ちる。
彼がプレゼントしてくれたテーブルの上のアイボリーの置時計。その秒針は、13時間の時差を保ったまま静かに時を刻む。
私たちの時計はずっと重ねさせないままに。




パラレルワールドで、時計の針が重なって

9/22/2025, 9:41:12 AM

透明のビニール傘に水滴が次々と流れ落ちていく。
夕焼けに灯る街灯が新緑の街路樹を照らし、霧雨に濡れたアスファルトを輝かせている。
晴天の昼間は暑いが、陽が陰ると気温が下がる。初夏の湿った風が頬を撫でると肌寒いが、神谷先生との約束の居酒屋に向かう。
神谷先生と呑むのは久しぶりだ。あの人は何杯飲んでも顔が少し赤くなる程度。お互い中学校の体育教師として意見を酌み交わすこともあれば、後輩の俺が話を聞いてもらってアドバイスをもらうこともあった。

ふと、雨が止んでいるのに気づき、傘を閉じた。
雨上がりの空は明るく、鮮やかな虹が掛かっている。
綺麗な虹に、思わずスマホで虹の写真を撮ってから我に返る。
「誰に見せるわけでもないのにな」と苦笑いした。
この虹を見せたい米田ひかるは、きっと今頃、「綺麗だね」と、キラキラした笑顔で彼氏と手を繋いで見上げている。
それが俺が望んだ元教え子の米田の幸せだもんな。
フッと息を吐き、居酒屋の店先で神谷先生を待った。


神谷先生が居酒屋に到着し、1杯目、2人ともビールを頼み乾杯する。お通しはもつ煮込み。濃い味付けはビールが進みそうだ。
「早坂先生、さっきの虹見た?俺、思わず写真撮ったよ」
「見ました。綺麗でしたね」
頼んだ焼き鳥、刺身、焼き魚などがテーブルに並び出す。
神谷先生が予約してくれたこの店は、商店街から1本入ったところで、俺は存在も知らなかった。
「良い店ですね。どれ食べても美味しいです」
「だろ?この店、知り合いに合わなくて気軽に来られるんだよ。婚約者の彩花と」
「えっ!?神谷先生結婚されるんですか!?彩花って…まさか、鈴木!?」
神谷先生がさらりと口に出した名前を反芻する。
彩花って、俺の知る彩花は鈴木彩花しか知らない。
神谷先生を凝視する俺に、先生は面白そうに笑った。
「そう、鈴木彩花。早坂先生に教育実習生時代に世話になってるよな。米田ひかる、米ちゃんと親友の鈴ちゃん」

神谷先生が、中学のときの教え子と結婚…!
驚き過ぎて口をあんぐりと開けたままの俺を肴にしてるのか、神谷先生は焼き鳥串を横にして齧りながら引き抜いた。

……米ちゃん、鈴ちゃん。
懐かしい呼び名だ。彼女たちは中学時代から互いにそう呼び合っていた。

俺は鈴木彩花が大学生のときの教育実習で指導教諭として関わり、その後、米田ひかると再会し、淡く恋をした__


今思い返せばあの恋は、カフェのアルバイトをしている女子大生と、週末、ランニング後に訪れる歳の離れた常連客が互いに惹かれ合ったよくある恋だったのかもしれない。
だけど俺は、それ以上に米田が俺の元生徒だったことが気がかりだった。
元教え子に抱く感情じゃない、米田の将来への視野を狭めたくない__

緑地公園のカフェのテラス席の暑い夏の夕暮れ。
告白してくれた米田に未来の約束をした。
「元教え子と今はどうこうなる気はない。だけど米田が色々と経験を積んで、気持ちが変わらなかったら、元教え子の枠を取り払って向き合うよ」
今にも涙がこぼれ落ちそうな米田の頭にタオルを被せた。米田は俺の気持ちを理解してくれた。
「気持ち、持って帰ります」と涙に濡れた瞳で明るく言い切ってくれて、俺は米田の芯の強さ、明るさに救われた。


数年後、緑地公園の緑が秋色に変わりつつある季節。
社会人となった米田に偶然再会し、思い出のカフェで米田本人からその後を聞いた。
「先生の気持ちを大切に持っていました。だけど…大学で知り合った人と交際しています」と。
また涙ぐんだ米田にあの夏のようにタオルを頭から被せる。米田は小刻みに震えて、俺との約束を気にしてくれているのがわかった。今、幸せなら、幸せだと笑っていれば良いのに、馬鹿だな。

「人は成長する。だから永遠は難しいんだ」
米田の優しい心が包み込めれば良いと、諭すようにタオル越しに小さな頭にポンポンと軽く触れる。

……あのとき、タオルを米田に被せて弱さを隠したかったのは、俺の方かもしれない。
胸に刺さった傷は思ったよりずっと深かった。
米田の告白を「色々経験を積んで」と断ったのは俺なのに、その結果が今であり、米田の成長だとわかっているのに。
「米田、元気で」
落ち葉は風に吹かれて足元でカサカサと乾いた音を立てていた。


神谷先生は…元教え子の鈴木と恋愛をしている。
元教え子の手を放した俺と、その手を掴んだ神谷先生。
神谷先生は教え子と結婚を決め、こうして楽しそうに笑っている。
あまり減っていない俺のグラス。ビールジョッキの結露が琥珀色を拡散させる。それはまるで、虹のない夕焼けのようだ。

ふと、居酒屋内で団体客から歓声が上がり、拍手と指笛が鳴り、「おめでとう!」と叫びが響き渡る。
「元気だなー」
神谷先生は声のする方を眺めて、上機嫌でビールのジョッキを空ける。

「神谷先生」
「ん?」
「先生は…元教え子との恋愛に、葛藤はありませんでしたか?」
尋ねずにはいられなかった。
人の何倍も生徒想いで生徒に慕われている神谷先生だからこそ。尊敬し、憧れている、いつか追いつきたい教師像だからこそ。

「彩花ってさ…、真面目なんだよ、すごく。俺は中学3年のときに担任だったからよく知っているけど、宿題の提出、ノートまとめ、予習復習、キッチリやっててさ。模範的な生徒だった」
「ええ、なんとなくわかります。教育実習のときも、質問の多い生徒に初日に答えきれなかったところをカバーする以上に準備してきて、授業が進まなくなるほどでした」
「彩花らしい。あいつ、負けず嫌いだし」
神谷先生は楽しそうに…嬉しそうに顔を輝かせた。
本当に好きなんだな…と俺まで幸せな気持ちになる。

「教師になってもその姿勢は全然変わってなくて、そんな彩花を尊敬してた。このままでいて欲しい気持ちと、その真面目さが中学校の頃の彩花を思い出させた。
1年目は特に、彩花は俺を頼りにしてくれた。アドバイスすると笑顔で感謝されて、いつしか積極的に実践できるようになった。新卒の教員という枠を超えて可愛いなと思い始めたのもその頃だったと思う。けど、俺はそれ以上、自分の気持ちを見つめなかった。彩花の中学時代を思い出す俺も、同時に存在していたから」

呟かれた言葉には心当たりがある。
俺も、米田のバイト先でコーヒーを飲みながら、彼女と話をして楽しいと思っていた。それ以上の気持ちを、見つめようとしなかった。

「彩花と2人で、徒歩で学用品を買いに行ったとき、自転車に突っ込まれそうになって、思わず彩花の名前を呼んで彼女を庇ったんだ。そしたら、彩花が、俺に名前を呼んでくれたって感激して。それ見て年甲斐もなく動悸が激しくなってさ」
「神谷先生が恋を認めた瞬間ですか?」
「ああ。それで小っちゃい小っちゃい声で告白してくれた。普段はさ、陸上部員にどデカい声でアドバイスや声援送ってる奴が、告白のときは緊張して、目の前のおれに聴こえるか聴こえないかのボリュームでさ。それ聞いたら、もう自分が見ないようにブレーキかけてた気持ちとか何もかも取っ払われた。もう、目の前で赤い顔してる女が好きだって認めるしかなくなったよ」

神谷先生の瞳が優しく細められる。
覚悟を決めたその瞬間が、羨ましくなる。

「その後、なんで自分の気持ちを見つめなかったか考えたんだ。そしたら、俺の過去に行き着いた」
神谷先生が窓辺を見る。細かな水滴が照明に照らされて虹色ににじんでいた。

「大学生のとき、スイミングスクールでインストラクターのバイトをしてたときに関わった子だよ。
その子の将来を思って俺は彼女のことが好きだったのに、彼女の告白を受け取らなかった。彼女のためにそれで良いと思ったはずなのに、なんかずっと心に残った」
神谷先生の大学時代の恋と、今の俺がオーバーラップする。
「恋を認めた後の別れは後悔を残す。だったら恋と気づかなければ良い。そんなふうに彩花のことを無意識のうちに考えないようにしたのかってさ。結局、彩花に告白されて、そんなこと全部飛んでいくぐらい彩花のことを好きだって気づいた。こんなに俺のことを好きでいてくれる人を幸せにしてやりたくなって、一緒に走り出したけど」
神谷先生が、届いたビールジョッキを一気に煽る。

「…かっこいいですね。男として、覚悟を決めて、一緒に走って。ホントにカッコいいです」
瞳を伏せてビールを口にする。

やめろよ、って笑っていた先生はふと、真面目なトーンで俺を呼んだ。
「なぁ、早坂先生」
「はい」
「3〜4年前のちょうど今頃の時期だったと思う。早坂先生を緑地公園のコンテナのカフェで見かけたよ。…米田と一緒にいるところ」
「えっ」
「2人、夕暮れのテラス席のテーブルを挟んで笑い合っていてさ。良い雰囲気過ぎて、入っていけなかったよ」
「……」
「彩花から、米田のことを聞いたよ。早坂先生に、彼女は言ったんだってな。『忘れ物を持ち続けてたけど、心が変わった。今、交際している人がいる』って。早坂先生は、米田に言ったんだろ?『彼氏のことを大切に思い続けるのは、米田が成長した証だ』って」
米田の幸せを願った言葉。あの瞬間、それがベストだと思って伝えた言葉。

「教師として、早坂先生の行動は素晴らしいと思うよ。けどさ、教師も人間だから、自分も大切にしてあげたいよな。それができるのは、自分しかいないから」

ああ、そうか。
米田の将来のために、ということばかり優先して、自分の気持ちを抑えたから、今、こんなに未練が残っているんだ。
「米田の方が、俺よりも賢かったのかも」
「ん?」
「彼女は、俺への気持ちっていう忘れ物を持ってたけど心変わりしましたって、俺への気持ちを自分で明らかにしにきたから。そういうケジメが俺にも必要だったのかもしれません」
「そうかもなあ。生徒から学ぶことって、たくさんあるもんな」
「ええ」
「米田、早坂先生が好きになるだけあるな。あいつは繊細だけど、最後には強さを持ってるから」
「ですね」
乾杯、とグラスを鳴らしてビールを煽る。少し温めになってしまったが、今、この瞬間のビールが1番美味しい。
長い間の胸のつかえが取れたようだ。

「やっと明るい顔になった」
「そうですか?」
「ああ。前に進めるか?」
「はい。あっ、神谷先生、ご結婚おめでとうございます」
お祝いを言っていなかったことに今更ながら気づいて慌てて言った。ああ、大失態だ。尊敬する神谷先生の結婚を、すぐに祝わなかったなんて。
「やっとか!祝われてないかと思ったよ」
ニヤリと笑われて、そんなわけないですって!と焦る俺。慌てる俺を見て、ひとしきり俺を揶揄う。
幸せ、だからだろうか。今日の神谷先生はいつも以上に機嫌が良い。

「さて、早坂先生がお祝いを言ってくれたから、やっと頼める」
「なんですか?」
「俺たちの挙式、人前式でやるんだ。婚姻届の証人を、早坂先生にお願いしたい」
「俺にですか…?いえ、もちろん、俺なんかで良ければ喜んでやらせてもらいます」
「ありがとう。早坂先生は、俺にとっても最高の仲間だからな」
「嬉しいっすね。ありがとうございます」
「でさ、彩花が頼む証人だけど」
神谷先生がいったん言葉を区切り、俺を静かな瞳で見つめた。
「米田ですね」
「ああ。大丈夫か?」
少し心配そうな表情をされて、俺は明るく笑った。
「鈴木の親友と言えば、米田でしょう。米ちゃん鈴ちゃん。彼女たちはずっと同じ方向を向いて助け合って励まし合ってきた仲間ですから」
「…そうだな」

中学生長距離継走大会。米田が落とした順位を、次の走者の鈴木が挽回した。指導した神谷先生が驚くような速さで。
俺に鈴木の教育実習はどうだったかと尋ね、合格点を出すと自分のことのように喜んでいた米田も思い出す。

「米田、絶対に神谷先生と鈴木の結婚式、嬉しくて泣くと思います。俺、3枚目のタオルを渡すことになるかも」
神谷先生が爆笑する。
「米田、自分たちに傘を貸した俺が濡れたからって自分のタオルを貸してくれようとしたけど、早坂先生には2枚ももらったんだな」
「彼女、泣き虫だから。そういうところ、可愛いかったな」
「……早坂先生には心を開く場所が必要だったんだな」
ふと、神谷先生が優しく微笑んだ。
「早坂先生は、米田に虹の架け橋を渡したんだよ。米田が幸せになるために。自分の気持ちを抑えてさ。それをやり切るのは簡単じゃないけど、早坂先生は強い自我でやり切った。俺は早坂先生のそういうところ、尊敬できる」
「神谷先生…」
「でもさ、自分を幸せにすることも大切だからさ、俺は今度は早坂先生に虹が架かれば良いなと願ってる。夕方の虹みたいな、美しい虹がさ」
「はい。俺も、次は相手のことはもちろん、自分のことも大切にしようと思います」
「ああ。それで良い」

「おめでとー!三三七拍子ー!」
さっきと同じ団体なのか、三三七拍子が始まって、俺は神谷先生と目を合わせて笑う。
「俺たちの門出を祝福してくれてんじゃねーの?」
「偶然過ぎますって。でも」
俺が掲げたグラスに、神谷先生が飲みかけのグラスを軽く当てて本日3度目の「乾杯」をする。

泡のなくなった琥珀色のビール。
神谷先生と鈴木の結婚式は、きっと琥珀色のシャンパンで「乾杯」をするのだろう。
そこには米田のとびきりの笑顔があって、俺はどんな感情でその笑顔を見つめるのだろう。
米田と並んで婚姻届を目にして、署名するときは、どんな感情になるのだろう。



神谷先生と結婚式での再会を約束して、居酒屋をひとり後にする。
アスファルトは霧雨の名残を残して濡れ、街灯の光がその上に柔らかく反射している。
商店街のシャッターに描かれた大きな虹が、街灯に照らされて鮮やかに浮かび上がっていた。まるで、誰かがこの街に希望の架け橋をかけたかったかのように。

ポケットからスマホを取り出し、夕方の虹の写真を眺める。七色の光が、雨上がりの空に鮮やかに架かっていた。
また、米田の笑顔が頭をよぎる。俺が彼女に架けた虹は、彼女の幸せへと続く橋だった。

ふと、足を止める。シャッターの虹の前に、小さな花屋の看板が目に入った。色とりどりの花に囲まれたその看板には、こんな言葉が書かれている。

「雨上がり、花咲く虹の架け橋へ。光を胸に未来へ歩みませんか?」

胸が熱くなる。米田に架けた虹は、彼女の未来を照らし、花のように咲いた。鈴木彩花もまた、神谷先生と新たな架け橋を築いている。
俺の目の前に広がるこの街の光も、誰かが俺のために架けてくれた虹なのかもしれない。

「ありがとう、米田。ありがとう、鈴木。俺も、ちゃんと前に進むよ。」

満月の光の下、俺は一歩を踏み出す。米田や鈴木のような、しなやかで強い花が、俺の心にも咲く日が来るはずだ。
次に虹を見るときは、誰かと一緒にその光を分かち合える自分でいたい。そう心に誓いながら、初夏の夜の街を歩き出した。



虹の架け橋

9/20/2025, 3:47:31 PM


俺が仕事から帰宅したとき、照明を灯していない和室の襖は、ほんの数センチ開いていた。

細い隙間から覗いた仏間に、父さんが他界して痩せてしまった母さんの小さな背中が見えた。
母さんが持つスマートフォンのブルーライトが、母さんと線香の細い煙を浮かび上がらせていた。

「お兄ちゃん」
静寂を邪魔しないように、妹が俺の背後から囁いた。
「ただいま」
「お帰り」
歳の離れた妹は、まだ中学1年生。
「お母さん、お父さんの仏壇から離れないの」
不安そうな声で妹は目を瞬かせた。
「うん…ご飯は食べた?」
「うん、おばあちゃんが作って持って来てくれたから」
「そっか」
「お兄ちゃんの分もあるよ。温める?」
「ありがとう」
くしゃっと頭を撫でる。
妹は、ホッとしたように少しだけ笑みをこぼした。

夕食を摂りながら、リビングの傍らで宿題をする妹をそっと見つめる。
父の葬儀後、妹は体調を崩して学校を休んだ。
体調はわりとすぐに回復したが、妹は俺たちと離れることを怖がり、俺と母さんはできる限り交代で妹と一緒にいる時間を作った。婆ちゃんも積極的に妹の面倒を見てくれて、妹は自分から通学したいと、制服にアイロンをかけた。
学校では、今、学校祭の練習をしていると言う。
体育大会と文化祭を合わせて学校祭。
丸一日行われるその日を妹は楽しみにしていた。
「母さんも観に行くって言ってた」
「ほんと?」
課題プリントから顔を上げた妹の顔が驚きから喜びの笑顔に変わる。
「良かったな」
「うん!」
妹の笑顔が引き出せて良かった。

ブルーライトが漏れる仏間を妹越しにそっと見つめる。
母さんは微動だにせず、仏間の前でスマホの画面を開き続けている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「お父さん宛てにこれ…」
妹が差し出した封筒を開ける。
父のスマホ代金の引き落としができないという通知と、払込伝票だった。
父さんの銀行口座は手続きをして、今、凍結されている。
スマホの解約手続きは母さんに任せていたが、まだ解約していなかった。父さんのスマホを手離せないんだろう。
「これは兄ちゃんが支払っておくから、大丈夫」
「うん…お母さん、お父さんのスマホをずっと持ってるみたい。エプロンのポケットに入れてたり、画面を眺めたりして」
「そうだね…」
その姿は何度も目にした。
ソファで寝落ちした母さんの手に、父さんのスマホが握られていたことも、何度か。

俺は妹に温かいココアを淹れて、自分にはコーヒーを淹れた。
甘い香りと苦い香りがそれぞれから立ち上る。
カップが重かったのか、妹は取手に右手をかけ、左手で包み込むように持って、ココアを飲んだ。
妹の幼い頃の飲み方を思い出して、懐かしい気持ちになる。
母さんと父さんと俺の3人で妹を眺めながら、可愛いねって笑ったあの遠い日。

「今の母さんはさ、父さんのスマホを通じて、父さんとの繋がりを感じている最中だと思う」
妹はそっと振り返って、母さんの背中を見ている。
「母さんと父さんは仲が良かったから、まだ、父さんがここにいる、って感じたいんだよ、きっと」
声が震える。俺はコーヒーを一口飲んで、咽せた。
咳き込んで涙が滲む。
妹が慌てて俺の背中を叩く。
かっこ悪い。なんか涙が溢れるし。
「大丈夫?お兄ちゃん、大丈夫?」
背中が痛えよ、と思うほど力一杯叩いていた妹は叩くのをやめて、背中を摩り出していた。
かっこ悪い。泣いてるのがバレてる。
妹も泣いてるし。
母さんに気を遣って、声を殺して泣く俺たち。
妹を支えなきゃいけないのに。父さんの代わりに支えなきゃ。
俺は天井を向いて、涙を拭った。
箱ティッシュから数枚、ティッシュを引き抜き、母さんにバレないように静かに鼻を噛む。
もうコレは癖になってしまった。母さんに泣いたのがバレないようにすることを。
嗚咽をこぼさず、妹も静かに涙する。まだ、中学生の妹にまで我慢して泣くことを伝染させてしまった。
「お母さん、お父さんにメッセージを送ってたの。既読になんてならないのに。この前、偶然見ちゃった…」
「既読がつかなくてもメッセージを送ることで、母さんは父さんとの繋がりを感じているんだと思う。ああやって、仏間にずっと居るのも同じことだよ」
妹はティッシュで涙を拭い、少し笑った。
「私も美味しいおやつを見つけたとき、お父さんにお供えしてる。一緒の意味?」
「一緒だよ」
「お兄ちゃん、詳しいね。すごい」
「大学で心理学をかじったんだよ。心理学、面白かったから、意外に憶えてる」
「そりゃそうでしょ。大学卒業したばっかりだし」
「そっか」
「そうだよ。……私も、心理学が勉強できる大学に行こうかなあ。…私って、大学行けれる?」
経済的なことを心配しているのだろうか。父さんの収入が無くなってしまったから。
「行けるよ。奨学金って言うのがあるし。その代わり、働いてローンを返す、借金だけどな」
「お兄ちゃんも借金生活?」
「そう。働いて、地道に毎月返済中。大学なんて、金を借りれば行けるんだから、心理学でも何でも、勉強したい学部の大学に入るのが1番だよ」
妹の前向きな発言が嬉しくて、頭を撫でる。
妹は「うん!」と笑い、シャープペンシルを握った。

食事の洗い物を済ませてトイレへ行くと、廊下で母さんとすれ違った。
「さっき、咽せてたけど大丈夫?背中、バンバン叩かれてたね」
気づいていたんだ、と驚く。俺と妹、泣いてたこともバレていたんだろうか。
「ああ、うん、手加減なしで痛かった」
俺は笑ったが、母さんは目を潤ませた。
「ごめんね、こんな母さんで」
「母さん」
やっぱり、俺と妹が泣いていたのがバレていた。だけど、それは母さんのせいじゃない。
父さんの喪失が、俺たちだって哀しくて寂しいんだ。
涙声の母さんに、俺は低い声で呼びかけた。
「母さんが父さんとの繋がりを持ち続けたいと思うのは、当たり前のことだよ。妹も俺も、父さんと母さんが仲が良かったこと、ずっと見てきた。だから、ちゃんとわかってる」
母さんは俯いて手のひらを顔に当てた。指の隙間から涙が溢れて、服を濡らして濃い滲みを作る。
「大丈夫。まだ、四十九日が終わったばかりだよ。人はそんなに早く、喪失を受け入れられないよ」
母さんに言い聞かせながら、俺は多分、自分にも言い聞かせている。
母さんのエプロンのポケットの膨らみは、父さんのスマホが入っているから。
そこに、母さんが送った既読がつかないメッセージがたくさん入ってる。
メッセージを送る間隔がいつか遠退き、やがて送らずとも笑顔で過ごせる日が来ることを願ってる。
俺自身も、妹も、父さんのことを笑顔で振り返られる日が来ることを願ってる。

「母さん」
俺の呼びかけに頭を上げた。
俺は出来うる限り、優しく微笑む。
「気の済むまで、父さんとの時間を過ごして良いよ」
そこで言葉を切り、でも、と付け加える。
「カウンセリングを受けるっていう方法もあるから。母さんが辛くなりすぎる前に、話を聞いてもらう方法もあるんだよ」
「…そうだね」母さんは小さく呟く。
「さすが、社会福祉士さんだね」
「父さんみたいな?」
「お父さんの域には、まだまだじゃない?」
市役所で保健師と社会福祉士として働いて職場結婚した両親。父さんの仕事ぶりを間近で見て来た母さんは手厳しい。
「ありがとね、色々」
「全然?」
色々に含まれている色々の意味を追求せずに、俺はトイレに入る前だったことを思い出し、「ヤバッ」と言いながらトイレへ駆け込む。
母さんが笑いながら泣いている声を聞いて、俺は嗚咽を堪えた。




既読がつかないメッセージ

9/20/2025, 9:24:49 AM

自宅から自家用車で数分。
この広い緑地公園は、俺が中学生の頃から走り続けた思い出のたくさん詰まった公園だ。
中学校教師になって12年目。
中学の頃、毎日走った陸上部の頃のようにはいかなくなったが、今も週末の夕方、俺は緑地公園で季節の風を受けてランニングを続けている。
走りながら思い出すのは、元教え子、米田のこと――


米田ひかる。
彼女との出会いは彼女が中学校1年生のとき。俺は教師2年目、23歳だった。
長距離走の選手として選抜された米田は、友人の鈴木と共に無駄話をしながら練習に参加し、俺は毎日のように注意していた。彼女たちにとって、あの頃の俺はきっと口うるさい大人だっただろう。

翌年、俺は同じ市内の別の中学校へ転勤した。
それで彼女たちとの交流は途絶えたと思われたが、秋の長距離継走大会で再会した。
米田は選手として走ったが、後半は明らかにバテていて順位を落とし、次のランナーの鈴木に襷を渡した。
相変わらずやる気がなかったんだな。
昨年の彼女の練習態度を思い出して、ポテンシャルを発揮しようとしない米田に苦い想いが込み上げた。
その気持ちのまま、競技終了後の表彰式の前で米田に伝える。
「練習不足だな」
もっと頑張れ、そんな意味を込めて肩をポンッと叩き、米田を置いて競技場へ戻る。
その後、米田や鈴木を引率していた長距離継走部の神谷先生と話していて、米田が大会前に捻挫をして練習が満足にできなかったことを知った。捻挫の前は相当速いタイムだったことも。
大会後、霧雨の降る競技場で、観覧席で鈴木に肩を抱かれて座る米田に気づく。二人はぼんやりとトラックを眺めていた。
神谷先生の計らいで米田と鈴木に謝罪する機会を与えられ、誠心誠意謝ると、彼女は笑って言った。
「もう怪我をしないように、優しい体育教師にストレッチとか教えてもらいます」
瞳が赤い。泣いていたとわかるのに、米田は俺を責めずに笑っている。
その瞬間、米田は俺にとって特別な生徒になったんだと思う。


緑地公園を走りながら、米田を泣かせた日のことを思い出す。
いつか再会する日があれば、泣かせたことを謝りたい――

緑地公園のランニング中に霧雨に降られ、コンテナハウスの前にある屋根付きのテラス席へ飛び込む。
漂うコーヒーの香りに誘われてカウンターへ行くと、そこにはあの米田がいた。
大学生となり、ここでアルバイトしていると言う。
せっかくだからと彼女のオススメのスペシャリティコーヒーをブラックで貰うと、彼女は微笑んで丁寧にドリップしてくれた。
中学生のときとは異なる優しい表情は、確かに女子大生らしく成長していた。
テラス席で紙カップを受け取り、米田と向き合う。
俺は長距離継走大会で米田を泣かせたことを改めて謝った。
まだ気にしていたことに米田は驚き、悪戯っぽく教えてくれた。
あの涙は俺が言ったからじゃない、神谷先生が自分の懸命の走りを認めてくれたからだ、と。
神谷先生の優しさが米田を泣かせてるじゃん……頭を抱えた俺に、米田は本当に楽しそうに笑った。
「また来るよ」
約束して走り出し、俺は週末のランニングごとにコンテナのカフェでコーヒーを飲んだ。
いつしか「いつものですね」と米田が笑顔で淹れてくれるコーヒーが、俺の週末の楽しみになった。


米田ひかる__元生徒。だが、心が揺れなかったと言えば嘘になる。
紙カップを受け取るときに指先が触れ合ったとき。
米田がカフェを辞めると聞いたとき。
動揺して、倒れそうなカップを支えた米田の指先に淹れたてのコーヒーがかかって、水道水で冷やしていて至近距離に近づいたとき。
米田に好きだと告白されたとき。

「米田がいないと寂しくなるな」
「楽しかったよ」
本音がこぼれ落ちる。
だけど、米田は元教え子で、大学生で、これからの未来のために視野を広げてほしい。
「元生徒とどうこうなる気は今はないんだ。だけど、米田が色々と経験を積んでそれでも気持ちが変わらなかったら、そのときは元生徒という枠を取り払って向き合うよ」
涙を堪える米田に、俺が首から提げているタオルを頭から被せた。

米田を置いて、夕暮れの光を、風を、顔に受けて走る。
これで良い。これがベストだ。
まだ学生の彼女に対する元恩師として、これで良い――


週末の緑地公園をランニングする。
年々暑くなる夏の陽射しは影を潜め、秋風が肌に心地良さをもたらす。
もみじの緑が薄れ、足元には乾燥した落ち葉がカサカサと音を立てる。
ふと、前方で小型犬を散歩する女性に、ドクンと胸が大きく鳴る。
米田…?
女性が顔を上げて俺に気づく。やっぱり米田だった。
米田も気づき、俺は走るのをやめて歩き出す。

挨拶し合って、米田は「コーヒー飲みません?」と俺を誘った。
「先生、今もスペシャリティコーヒー飲んでます?」
「ああ。もうすっかり虜だ」
ふふッと笑い合って、テラス席で紙カップを受け取り、互いの近況を報告し合う。
NPOで子どもの教育に携わっていると聞き、嬉しくなる。教え子の鈴木も中学教師として頑張っているし、神谷先生の影響が大きいのだろう。
「早坂先生、今も陸上部の顧問ですか?」
「ああ。それが?」
「鈴ちゃんも陸上部の顧問で、神谷先生と陸上部の指導してるんだって」
「夏の大会で会ったぞ。なんか二人で楽しそうだった。…俺も混ざりたかった」
「そう言えば先生の憧れも神谷先生でしたね」
米田が笑う。俺も笑う。
二人の笑い声が重なり、秋のテラス席に鈴虫の声も重なる。

「私、いつか早坂先生に言おうと思っていたことがあるんです」
「なんだ? あらたまって」
米田は笑いを引っ込めて、真剣な表情で俺を見つめた。
米田はコーヒーを一口飲むと、深呼吸をする。
俺は彼女の言葉をちゃんと受け止めようと心を整えた。
あの夏の忘れ物__元教え子でなく、米田と向き合う約束が脳裏に過ぎる。

「早坂先生。私、あの夏の忘れ物を大切に持っていたんです。先生への気持ち」
「そうか」
覚悟をした言葉に、穏やかに頷く。
米田の真っ直ぐな瞳は、あの夏と同じだ。でも、どこか軽やかで、成長した彼女の強さを感じる。
「でも、」と彼女の声が少し掠れた。
「大学で同じゼミの人と知り合って…それで、その人と交際を始めました…」

その言葉に、胸がズキッと痛んだ。
米田に好きな人ができて、交際している。
頭では、彼女の成長だとわかる。
あの夏、「経験を積んで」と言ったのは俺だ。
彼女が新しい一歩を踏み出したのは、俺が望んだことのはずだ。
なのに、なぜか胸の奥が重い。思っていたよりも、ずっと深いところで心が軋む。
あの夏、彼女の告白を断ったのは正しかったはずなのに。
不意に彼女が誰かと手をつないで笑っている姿を想像してしまった。心が少し空っぽになる。
「そうか…」
言葉を絞り出すように言う。
米田の瞳が、ほんの少し潤んでいるように見えた。
その瞳を見た瞬間、自分の想いに囚われるべきじゃないと思い至る。
米田は大切な、特別な人だ。いや…生徒だ…。

「米田、俺、あの夏に言ったよな? 永遠は難しいって。人は成長する。だから永遠は難しいんだ」
彼女が小さく頷く。
テラス席を秋風が吹き抜ける。池のほとりは夕暮れに溶け、まるで俺の心のざわめきを映すようだ。
米田が連れた小型犬が米田の足に手をかけ、彼女が少し笑って犬を膝に乗せた。
米田は俯いて犬の頭を撫でる。
その優しい仕草を見ながら、俺は教師として、彼女の新しい一歩を祝福しようと決めた。

「米田は成長したんだよ。米田は今、彼氏への気持ちを大切に持ってるんだろ? それが色々な経験をするということだし、米田の成長に繋がる」
あのときのように、俺のタオルを彼女の頭に被せてやると、米田はグズッと鼻を鳴らした。
「全く、2枚も俺のタオルを持って行くのは米田だけだ」
「すみません、前のタオルも返してないのに」
「いらんいらん」
俺が笑うと、彼女も瞳に涙を湛えたまま笑う。キラキラひかる潤んだ瞳の笑顔が、秋の陽射しみたいに柔らかく眩しかった。
「じゃ、俺はそろそろ行くから。元気で。頑張れよ」
「はい。ありがとうございました」
「ああ」


振り返らずにカフェを後にした俺は、緑地公園を走る。
秋風が頬を撫で、木々の葉がカサカサと音を立てる。
夕暮れの空に、ぼんやりと満月が浮かんでいる。
米田が新しい誰かと見上げた月も、こんな風に輝いていたのだろうか。
教師として、米田の幸せを心から願っている。
あの夏、彼女の告白を受け止めきれなかったのは、彼女の未来を狭めたくなかったからだ。
米田が大学生から社会人になって、自分の世界を広げていく。その姿を見守るのが、俺の役目だと思っていた。
でも、米田の「交際を始めた」という言葉が、胸に刺さって離れてくれない。
彼女が新しい誰かと笑い合い、満月の下で、誰かの手を握っている。
そんな自分が作り出したイメージが脳裏から離れない。
「ったく、俺もまだまだだな」
独り言が、秋風に溶ける。
教師として、元教え子の幸せを喜ぶべきなのに、どこかで自分が置き去りにされたような感覚がある。
彼女の告白を断ったのは俺なのに、彼女が前に進んだことをこんなにも強く感じているなんて。


帰宅してベランダから秋空を見上げる。
雲ひとつない夜空にぽっかりと浮かぶ満月は、暖かな光でベランダを明るく照らす。
米田が彼氏と見上げた月も、こんな風に輝いていたんだろう。
彼女の暖かな柔らかな微笑みと真っ直ぐな瞳を思い出す。
米田との時間は俺の週末の楽しみであり、癒される時間だった。
きっとその彼氏も米田とそんな時間を過ごしているのだろう。米田はそれができる女性になった。

「あの夏に忘れ物をしたのは、俺だったのかな」
独り言が、夜風に溶ける。
肌寒さは秋の風だから。
「秋色、か」
米田の新しい一歩を、遠くから見守ろう。
彼女の幸せが、俺の心にも秋の色を添えてくれる。




秋色

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