Mey

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俺が仕事から帰宅したとき、照明を灯していない和室の襖は、ほんの数センチ開いていた。

細い隙間から覗いた仏間に、父さんが他界して痩せてしまった母さんの小さな背中が見えた。
母さんが持つスマートフォンのブルーライトが、母さんと線香の細い煙を浮かび上がらせていた。

「お兄ちゃん」
静寂を邪魔しないように、妹が俺の背後から囁いた。
「ただいま」
「お帰り」
歳の離れた妹は、まだ中学1年生。
「お母さん、お父さんの仏壇から離れないの」
不安そうな声で妹は目を瞬かせた。
「うん…ご飯は食べた?」
「うん、おばあちゃんが作って持って来てくれたから」
「そっか」
「お兄ちゃんの分もあるよ。温める?」
「ありがとう」
くしゃっと頭を撫でる。
妹は、ホッとしたように少しだけ笑みをこぼした。

夕食を摂りながら、リビングの傍らで宿題をする妹をそっと見つめる。
父の葬儀後、妹は体調を崩して学校を休んだ。
体調はわりとすぐに回復したが、妹は俺たちと離れることを怖がり、俺と母さんはできる限り交代で妹と一緒にいる時間を作った。婆ちゃんも積極的に妹の面倒を見てくれて、妹は自分から通学したいと、制服にアイロンをかけた。
学校では、今、学校祭の練習をしていると言う。
体育大会と文化祭を合わせて学校祭。
丸一日行われるその日を妹は楽しみにしていた。
「母さんも観に行くって言ってた」
「ほんと?」
課題プリントから顔を上げた妹の顔が驚きから喜びの笑顔に変わる。
「良かったな」
「うん!」
妹の笑顔が引き出せて良かった。

ブルーライトが漏れる仏間を妹越しにそっと見つめる。
母さんは微動だにせず、仏間の前でスマホの画面を開き続けている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「お父さん宛てにこれ…」
妹が差し出した封筒を開ける。
父のスマホ代金の引き落としができないという通知と、払込伝票だった。
父さんの銀行口座は手続きをして、今、凍結されている。
スマホの解約手続きは母さんに任せていたが、まだ解約していなかった。父さんのスマホを手離せないんだろう。
「これは兄ちゃんが支払っておくから、大丈夫」
「うん…お母さん、お父さんのスマホをずっと持ってるみたい。エプロンのポケットに入れてたり、画面を眺めたりして」
「そうだね…」
その姿は何度も目にした。
ソファで寝落ちした母さんの手に、父さんのスマホが握られていたことも、何度か。

俺は妹に温かいココアを淹れて、自分にはコーヒーを淹れた。
甘い香りと苦い香りがそれぞれから立ち上る。
カップが重かったのか、妹は取手に右手をかけ、左手で包み込むように持って、ココアを飲んだ。
妹の幼い頃の飲み方を思い出して、懐かしい気持ちになる。
母さんと父さんと俺の3人で妹を眺めながら、可愛いねって笑ったあの遠い日。

「今の母さんはさ、父さんのスマホを通じて、父さんとの繋がりを感じている最中だと思う」
妹はそっと振り返って、母さんの背中を見ている。
「母さんと父さんは仲が良かったから、まだ、父さんがここにいる、って感じたいんだよ、きっと」
声が震える。俺はコーヒーを一口飲んで、咽せた。
咳き込んで涙が滲む。
妹が慌てて俺の背中を叩く。
かっこ悪い。なんか涙が溢れるし。
「大丈夫?お兄ちゃん、大丈夫?」
背中が痛えよ、と思うほど力一杯叩いていた妹は叩くのをやめて、背中を摩り出していた。
かっこ悪い。泣いてるのがバレてる。
妹も泣いてるし。
母さんに気を遣って、声を殺して泣く俺たち。
妹を支えなきゃいけないのに。父さんの代わりに支えなきゃ。
俺は天井を向いて、涙を拭った。
箱ティッシュから数枚、ティッシュを引き抜き、母さんにバレないように静かに鼻を噛む。
もうコレは癖になってしまった。母さんに泣いたのがバレないようにすることを。
嗚咽をこぼさず、妹も静かに涙する。まだ、中学生の妹にまで我慢して泣くことを伝染させてしまった。
「お母さん、お父さんにメッセージを送ってたの。既読になんてならないのに。この前、偶然見ちゃった…」
「既読がつかなくてもメッセージを送ることで、母さんは父さんとの繋がりを感じているんだと思う。ああやって、仏間にずっと居るのも同じことだよ」
妹はティッシュで涙を拭い、少し笑った。
「私も美味しいおやつを見つけたとき、お父さんにお供えしてる。一緒の意味?」
「一緒だよ」
「お兄ちゃん、詳しいね。すごい」
「大学で心理学をかじったんだよ。心理学、面白かったから、意外に憶えてる」
「そりゃそうでしょ。大学卒業したばっかりだし」
「そっか」
「そうだよ。……私も、心理学が勉強できる大学に行こうかなあ。…私って、大学行けれる?」
経済的なことを心配しているのだろうか。父さんの収入が無くなってしまったから。
「行けるよ。奨学金って言うのがあるし。その代わり、働いてローンを返す、借金だけどな」
「お兄ちゃんも借金生活?」
「そう。働いて、地道に毎月返済中。大学なんて、金を借りれば行けるんだから、心理学でも何でも、勉強したい学部の大学に入るのが1番だよ」
妹の前向きな発言が嬉しくて、頭を撫でる。
妹は「うん!」と笑い、シャープペンシルを握った。

食事の洗い物を済ませてトイレへ行くと、廊下で母さんとすれ違った。
「さっき、咽せてたけど大丈夫?背中、バンバン叩かれてたね」
気づいていたんだ、と驚く。俺と妹、泣いてたこともバレていたんだろうか。
「ああ、うん、手加減なしで痛かった」
俺は笑ったが、母さんは目を潤ませた。
「ごめんね、こんな母さんで」
「母さん」
やっぱり、俺と妹が泣いていたのがバレていた。だけど、それは母さんのせいじゃない。
父さんの喪失が、俺たちだって哀しくて寂しいんだ。
涙声の母さんに、俺は低い声で呼びかけた。
「母さんが父さんとの繋がりを持ち続けたいと思うのは、当たり前のことだよ。妹も俺も、父さんと母さんが仲が良かったこと、ずっと見てきた。だから、ちゃんとわかってる」
母さんは俯いて手のひらを顔に当てた。指の隙間から涙が溢れて、服を濡らして濃い滲みを作る。
「大丈夫。まだ、四十九日が終わったばかりだよ。人はそんなに早く、喪失を受け入れられないよ」
母さんに言い聞かせながら、俺は多分、自分にも言い聞かせている。
母さんのエプロンのポケットの膨らみは、父さんのスマホが入っているから。
そこに、母さんが送った既読がつかないメッセージがたくさん入ってる。
メッセージを送る間隔がいつか遠退き、やがて送らずとも笑顔で過ごせる日が来ることを願ってる。
俺自身も、妹も、父さんのことを笑顔で振り返られる日が来ることを願ってる。

「母さん」
俺の呼びかけに頭を上げた。
俺は出来うる限り、優しく微笑む。
「気の済むまで、父さんとの時間を過ごして良いよ」
そこで言葉を切り、でも、と付け加える。
「カウンセリングを受けるっていう方法もあるから。母さんが辛くなりすぎる前に、話を聞いてもらう方法もあるんだよ」
「…そうだね」母さんは小さく呟く。
「さすが、社会福祉士さんだね」
「父さんみたいな?」
「お父さんの域には、まだまだじゃない?」
市役所で保健師と社会福祉士として働いて職場結婚した両親。父さんの仕事ぶりを間近で見て来た母さんは手厳しい。
「ありがとね、色々」
「全然?」
色々に含まれている色々の意味を追求せずに、俺はトイレに入る前だったことを思い出し、「ヤバッ」と言いながらトイレへ駆け込む。
母さんが笑いながら泣いている声を聞いて、俺は嗚咽を堪えた。




既読がつかないメッセージ

9/20/2025, 3:47:31 PM