桜の葉が生い茂る川沿いでワンコの散歩をしていると、黒のタンクトップ黒の短パンでランニングする色黒の日本人と思しき男が前から走ってきた。
しなやかな筋肉を持つその男の腕には、アラビア語のような黒い文字の刺青が肩から肘まで一直線に描かれている。
川沿いの遊歩道を私たちに譲り、その男は車道の端へ。
男とすれ違いざま、ふわん、と石鹸の香が強く漂う。
えっ?
石鹸の香りを残し、その男はあっという間に去って行った。
その後も私とワンコはいつもの散歩コースを歩く。
川沿いを離れ、住宅街へ。
ワンコはハイテンションが落ち着き、今は私がゆっくり歩けるペースでトコトコ歩く。
後方から車のエンジン音がする。
道路の端へ避けると、また、あの石鹸がふわんと香る。
えっ!?
黒いハッチバックの運転席の窓は開いており、窓枠に肘が乗っていた。
刺青の腕が見える。
石鹸の香りが強く漂う。
ワンコは変わらず散歩を続ける。
刺青の男は、どこへ向かったのだろう。
あんなに石鹸を強く香らせて。
ワンコに引かれてその場を離れると石鹸の香りは空に溶けてなくなった。
それでも私は刺青の男の行き先が気になっている。
空に溶ける
「どうしても…」
今日は沙希が久しぶりにテニスをしにやってくる。
靴擦れが治るまでテニス禁止令を出して1週間。
昨日の夜「靴擦れ治ったよ。明日からテニス行く!」と沙希から連絡をもらって、俺は心躍らせながら咲希の到着を待っている。
沙希がテニスコートへ向かって歩いてくる。
何て話しかけようかなあ。
靴擦れ治って良かったな、かな?
そう思いながら沙希の姿を目で追っていると、テニスコート入口で同じテニスサークルに参加する1年後輩の女に沙希が捕まった。
過去にテニス仲間から揶揄われたことがある。
「1年のあの子って、祐樹のこと絶対好きだろ。めっちゃ羨ましい。付き合っちゃえば?」って。
「何とも思わねー奴と付き合えねーだろ」って返したけど、その子が沙希に個人的に話しかけてるっぽいのは胸騒ぎがする。
後輩の女と連れ立っていく沙希を慌てて追いかけた。
近づくと声が聞こえた。
「付き合ってないよ」
沙希の声音は硬く緊張していた。
後輩の女が、沙希に絆創膏を貼ったのを見て、俺たちが親密な感じがしたと告げている。
そう見えたのか。
靴擦れが痛そうで心配して、なのにキュッと締まった白い肌の足首が女らしくてどうしようもなくドキマギしていたあの時。
幼馴染がただの幼馴染じゃなくなったあの時。
「ただの幼馴染だよ。…祐樹もそう言ってたし」
言った。言ったよ。俺は沙希に幼馴染だって。タクシー代を折半なって笑いながら。
けどアレは俺の照れ隠しで、沙希はわかれよ!
後輩が遠去かり、沙希は用品庫の方に体を向けて、リストバンドで目元を覆う。
また何でもないフリしやがって。
足元で砂利を踏み締める音がする。
俺の苛立ちのような荒い音。
沙希の頭のてっぺんを拳で小突く。少し痛い。
「何でもないフリは禁止って言ったじゃん」
「だって、幼馴染じゃん…祐樹もそう言ったし…」
言った。言ったよ。だけど!
「ただの、なんて付けることないじゃん。無理、してるじゃん」
何も言わない沙希の後ろ姿。
こんな時でも黒いウェアの華奢な肩や目元を覆うように伸びた細い腕が綺麗だと思ってる。
「俺、言ったよな。誰かに何か言われるなら、2度と言えないように言い返してやるって」
「だって、言われたわけじゃないから」
「沙希に泣かれるのは何か言われたのと俺にとっては同じだよ」
怒り口調になってる。だって、苛立っているから。
沙希にただの幼馴染だなんて言わせたくない。
言わせないためにはどうすればいい?
俺の気持ちを話せば、沙希は信用してくれる?
「俺さ、あの子のこと、何とも思ってないから」
「祐樹?」
沙希が驚いて振り向く。
マスカラは滲んでパンダみたいな目をしてる。でも、瞳は潤んで可愛い。
自分のリストバンドを外して、沙希の目元をリストバンドで傷つかないように優しく拭いた。
「…沙希」
顔を覆わず俺を見つめる沙希が眩しい。
「実は俺もさ、あの絆創膏を貼った日、何でもないフリをしてたんだ」
「えっ?」
「絆創膏を貼りながら、沙希って……」
そこまで言って、緊張していることに気づく。
沙希が俺を見つめて続きの言葉を待っている。
続きを早口で言い初めて、どんどん口調が早くなった。
「綺麗だなって思ってた。俺は咲希の特別でいたいかもしれないって。でも、言えなくて。もっと気持ちが固まったら言おうって」
恥ずかしくて腕で顔を覆う。
でも恥ずかしさと沙希に本音を伝えられた安堵や嬉しさが同居する。
まともに沙希の顔は見られない。
だって驚いている顔が、どんどん破顔していってるから。
ほんと…?
沙希が呟く。
しっかりと頷いて、俺はテニスコートへと体を反転させた。
「じゃあ、そういうことだから。先に行ってるから」
沙希の返事を待てずに俺はテニスコートへ走って行く。
伝わったよな?
あんなに嬉しそうに笑ってたし。
心のモヤは晴れている。
テニスコートで、サークル仲間と準備運動をしながら、心は沙希が合流するのを待っている。
沙希が後輩の前を通る時、互いに会釈してすれ違った。
その後、小走りで沙希は俺の元へ駆けてくる。
その顔は、可愛い笑顔。
俺も笑顔で、隣に来なよと手招きした。
(どうしようもなく恋が加速する)
ただ君だけ
抑えきれなかったなぁ…
僕は宮島さんがマンションのエントランスに入って行くのを、車内から見えなくなるまで見送った後、車を静かに発進させた。
僕は総合病院に勤務する小児科医で、宮島さんは同じ小児科病棟の看護師。
宮島さんを知ったのは、小児科の改装工事のために外科病棟が一時的に外科小児科の混合病棟になったことからだった。
外科病棟勤務の看護師も小児看護をせざるを得ず、小児看護の経験のない宮島さんは戸惑うことも多かったと思う。
それでも、小児と接するときの楽しげな笑顔、自閉症児にそっと寄り添う優しさ。
宮島さんは看護師として責任感を強く持ち、自分にできることを懸命に行ったし、小児科経験のある先輩看護師や僕からのアドバイスをとても素直に受け入れて少しづつ自分のモノにしていった。
僕がそんな宮島さんを知って、好きになるまでに多くの時間はかからなかった。
けれど宮島さんは外科医の浅尾先生のことが好きで。
宮島さんは浅尾先生が既婚者だったのもあって、彼にアプローチをしようとせず恋心をいつも内に秘めていた。
彼の仕事がやりやすいように看護師として懸命に介助して、彼に褒められる。そんなときの彼女は浅尾先生に顔を見られないように俯いて、笑みをこぼさないように唇を引き結ぶ。
彼女の幸せはそんな毎日が続くことのように僕には感じられた。その控えめな愛情は僕を益々虜にした。
僕は地元へ帰って小児科のクリニックを開院する。
僕はクリニックで宮島さんと一緒に働きたい。
彼女は小児看護に片足を突っ込んだばかりだけれど、自閉症児に寄り添う優しさがあって、素直さがある。その誠実さで子どもたちも、親からの信頼も厚かった。
まだ知らないことが多く何にも染まっていないからこそ、僕が宮島さんに小児医療を教え、育ててみたい。
僕が自分のクリニックへ熱心に勧誘したとき、彼女は不思議がった。どうして僕が自分にそんなに良くするのか、と。
「わからない?」頷く宮島さんに少し笑って、「僕のことをもっともっと知りたいと思ったら教えてあげるよ」と頬を撫でた。思っていた以上に柔らかくしっとりと滑らかにキミの肌が僕の手に沿って、胸が高鳴る。
僕は宮島さんに恋心を仄めかした。触れてしまって、もう抑えられないと悟ってしまった。
小児科病棟の改装工事が終了し、外科病棟で働く宮島さんとの接点がなくなっても、僕は宮島さんに恋焦がれていた。
月日が流れ、外科病棟の休憩室でひとり涙を流している宮島さんを見つけたとき、僕は浅尾先生と宮島さんとの間に何か重大なことが起きたことを悟った。
何も聞かないつもりだったけれど、宮島さんは浅尾先生が僕が宮島さんの力になるからと伝えられたと僕に告げて、益々泣いた。
僕は無意識のうちに背中を摩る手を彼女の身体にまわし抱きしめていた。
宮島さんの涙は僕を切なくさせるし胸の痛みを強くさせるけれど、どうしようもなく僕を優しく振る舞わせる。
気の済むまで泣いて良いよ。一人で泣かないでね。泣きたい時は僕を頼ってね。
そのためなら何回でも何時間でも、いつでもどこでも駆けつけるよ。
「優しすぎます」と涙ながらに呟くキミが愛おしくて。
「僕はキミのことが好きだからね。どうしようもなく優しくしたくなる」と告げる。
僕がキミに優しいのは、キミのことを愛しているから。
ただ僕が好きなだけだから、僕のことは気にせず泣いてくれれば良いからね。
僕は以前、僕のクリニックへキミを誘いながら告げたことがある。
「僕のことをもっともっと知りたいと思ったら教えてあげるよ」と。
あれは僕のことをキミが好きになってくれて、僕のことを知りたくなったら教えてあげる、という意味だったけれど、宮島さんが僕のことを好きになる前に告白してしまった。
僕は…宮島さんのことを愛しているが故に、感情を抑制しきれないところがあると薄々気づいてたけど…これ以上抑制するのは無理かもしれない。
もちろん、僕は宮島さんの気持ちはこれからも慮っていくつもりだけど……
僕は宮島さんを抱きしめながら、僕の想いは僕自身でもコントロールができないほど強くなっていることを悟った。
浅尾先生もまた、自分のクリニックを開業するために辞めて行った。
浅尾先生は、宮島さんを自分のクリニックに誘わなかったし、俺を頼れと告げるほど、彼女には自分の心を隠し通した。宮島さんが俯いている間でしか柔らかな笑顔を見せないほど、宮島さんに恋していたのに。
宮島さんは配置換えにより、僕と一緒に小児科病棟で働きだした。
やっぱり、宮島さんには小児科が合っている。
ちょっとした変化に敏感で、子どもの感情を汲み取る能力があり、不安に自然と寄り添うことができる。
僕は病棟で個々の患児について宮島さんや病棟スタッフと一緒にサポートしながら、やっぱり宮島さんと僕のクリニックで一緒に働きたい想いを募らせた。
小児科病棟の子どもたちの可愛さや忙しさが、なんとなく宮島さんの浅尾先生への想いを忘れさせたような気もした。
僕は改めて宮島さんを僕のクリニックへ勧誘し、彼女からは僕に誘われてすごく嬉しいと、本当に感謝している様子がありながらも、一緒に働くことを断られた。
小児科病棟でせめてリーダー業務を独り立ちできるくらいには、小児看護の経験を積みたいから、とのことだった。
その決断は、とても宮島さんらしかった。
彼女はなにより努力家で、看護師としての責任感が強い人だったから。
僕は宮島さんの考えを支持した。
小児科病棟でしか経験できないことはたくさんある。
日中、一時的に関わるクリニックと、四六時中目を離さない病棟看護では、小児の情報量が全く違うし、昼間は元気に見えても、朝方、夕方、夜間と状態が悪くなることはとても多い。
その時間帯の看護判断はとても難しいがとても重要で、患児の病状に強く影響する。
それは僕が懇切丁寧に口頭で説明したとしても、経験に勝るものはない。
僕は限りある宮島さんとの時間を大切にしていこうと決めた。
この頃にはもう、僕は自分の気持ちを抑えきれなくなっていた。
小児科病棟のスタッフたちは僕と宮島さんを応援してくれているらしく、気づけば僕たちを二人きりにしてくれていることがよくあった。
「キミのことはわかるよ。もう何ヶ月も好きだからね」
僕は宮島さんに僕の気持ちをそっと伝えていった。
宮島さんは瞳を逸らし俯いてしまったり、小さく佐々木先生と呟いたり、何か用事を見つけたフリをして僕から離れてしまったり。
決して嫌がっているわけではなく、照れた上での行動だとわかるから、僕はいつも穏やかに笑っている。
そうして別れがすぐそこに来たある日、僕は職員食堂で宮島さんと一緒になった。
検食のスイーツを彼女が笑顔で食べるのを眺めるのが好きだから、杏仁豆腐を彼女のトレーへ載せた。
「いただきます…」と言った後の宮島さんはスプーンを持ったけれど、その手は動かなかった。
「宮島さん?」
気遣わしげに読んでみると、「何でもないです」と食べ始めたけれど、僕に返事をした声は湿っている。
何度もこんなやりとりをしてきたけれど、僕が検食をするのは今回が最後だもんね。
僕との小さな幸せのやり取りがなくなってしまうことに、寂しさを感じてる?僕はとても寂しいよ。
宮島さんに今夜の用事を聞いて、ラーメンに誘った。
あの外科小児科病棟合同の飲み会の後で、料理好きの店主が創作料理も提供してくれる、キミが気に入ってくれたラーメン屋さん。
僕の提案に同意してくれたことに安堵して、僕は宮島さんを眺めた。
どうしたら、キミの寂しさを埋めてあげられるかな…
ラーメン屋を出て、都会の夜の街で宮島さんと手を繋いで僕のコートのポケットへ。
やっぱり冬の夜だから宮島さんの手は冷たい。
「嫌なら…」手を繋ぐのをやめるよ、と最後まで言わずとも宮島さんは僕の手を握り返した。
驚く僕に気づいて、宮島さんは笑みをこぼした。
ちょっとした悪戯が成功したような得意気な微笑みが新鮮で、新しい発見で、僕は笑う。
どうしよう。今夜は楽しくて、嬉しくて、幸せで。
でもこの夜はずっと続く幸せではなくて、僕が長野へ帰郷してしまえば終わってしまう幸せで…それが切ない。
どんなに僕が宮島さんを想っても、キミが少しだけ僕に好意的なのだとしても、もうすぐ終わってしまう。
僕は大きく息を吐いた。
「自分で決めたことだけど、地元に帰るのを躊躇いたくなるね」と自嘲気味に告げる。
どうしようもないけれど、本当にどうしようもないのかな。
だって宮島さんは僕の手をずっと握ってくれているのに。
宮島さんの小さな声が聞こえた。
「私も…先生と過ごした日々が楽しかったです。すごく…」
湿り気を帯びた途切れ途切れの声音。
足を止めて宮島さんに向き直る。
「あ、泣いてないですよ、私…」
「…今にも泣きそうだよ」
僕に心配をかけまいと、泣いていないと伝えるキミが益々愛おしくなる。
こんなときでも、僕のことを考えてくれるいじらしさに僕は夢中になる。
どうしよう。僕は君のことを好きすぎる。
「僕と離れるの、寂しい?」
問いかけは優しい声になった。
しっかりと頷いてくれたことに安心して、宮島さんを安心させるために背中に手を回して優しく抱きしめる。
本当は…僕が抱きしめたいだけなのかもしれない。
君の寂しいという本音が、僕を昂揚させる。
「寂しがってくれて、喜んじゃってごめんね」
「素直すぎます…」
「うん、ごめんね」
寂しかったら寂しいと素直に伝えて欲しいこと、
君に我慢させたくないこと、
寂しさを受け止めに会いに行くことを伝える。
新幹線で1時間半。近いよね、と笑ってあげる。
うん、近いよ、1時間半なんて、宮島さんのことを考えていたらあっという間だ。
「近いです…」
そう言って僕の顔を見た宮島さんの瞳は涙に濡れて、キラキラ輝いて綺麗だった。
その瞳に吸い込まれていると、君はそっと言葉を紡いだ。
「私も会いに行っても良いですか?」
目を見開いた僕は、その言葉を頭の中で反芻して返事して抱きしめた。
ううん、今となっては抱きしめたのが先か、返事をしたのが先か思い出せない。
「もちろん。会いに来て。待ってる」
強く強く抱きしめていた。
宮島さんが泣き止むまで抱きしめた後、車で宮島さんのマンションまで送った。
僕も宮島さんもシートベルトを外したけれど、宮島さんは立ち去りがたいのか、膝の上に置いたバッグの持ち手をギュッと握っていた。
「宮島さん、思い出をひとつ作ろうか」
僕の提案に、宮島さんは顔を上げて「今からどこかに…」出かけるんですか?と続くだろう言葉に微笑む。
違うよ、お出かけじゃなくてさ。
僕は瞳を閉じて顔を傾けて宮島さんの唇にそっとキスを落とした。
唇を離して見えた顔はすごく驚いていて可愛くて、目元にも優しくキスを落とした。
これで二人だけの思い出ができたね。
寂しくなったら、僕は何度でもこのキスを思い出すよ。
キスを拒まないでいてくれるとは思ったけれど、驚かせてごめんね。
でも僕はキスをしたら、君ともっと離れがたくなったよ。
未だ驚いて固まっている宮島さんを皿に驚かせるようなことを言うけど、これは僕の本音。
怖がらないで欲しいな。
「帰らないの?僕の部屋に連れてっちゃうよ」
宮島さんが我に帰って僕の瞳を見る。
真っ直ぐに見つめ返す。
まだ一緒にいたい。でも、これ以上僕の気持ちを伝えても大丈夫なのかな。宮島さんのキャパシティオーバーしちゃうかな。
宮島さんは息を呑んで、慌てて僕にお礼を言って車から降りて行く。
キャパオーバーか。
僕は宮島さんの慌てぶりを感じつつも伝えずにいられなかった。
「最高の思い出をありがとう」
宮島さんは病棟の廊下ですれ違うときのように律儀にペコリとお辞儀した。
抑えきれなかったなぁ…
僕は宮島さんがマンションのエントランスに入って行くのを、車内から見えなくなるまで見送った後、車を静かに発進させた。
唇に指を当てる。
宮島さんの柔らかな感触が戻ってくるよう。
キスせずにいらないほど膨らんだ愛情と、抱きしめずにはいられない衝動。
ただ君だけが僕の理性を柔らかに打ち砕いて、愛を捧いでしまう。
僕が帰郷して寂しくなったら、宮島さんはきっと連絡してくれる。
「君が寂しいときは僕も寂しい」気持ちも信じてくれる。
今はもう、そう信じられる。
会いに来てくれたら、きっと僕は今よりももっと歯止めが効かなくなるのだろう。
ただ君だけが僕の心を強く揺さぶる。
ただ君だけ
今日は幼馴染の結婚式だった。
満開の桜が青空に映える。
花嫁の化粧をほどこされた彼女は白いウエディングドレスがとてもとても似合っていた。
2つ歳上の幼馴染の彼女のことが、僕は幼い頃からとても好きだった。
本当の姉と弟みたいだと互いの家族は笑い、僕たちも笑いあった。
そう、姉のように憧れているだけだと思っていた。
桜の花びらが舞う。
白いウエディングドレスの彼女が隣の男を見上げて微笑んだ。
彼女の美しさを目に焼き付けたいのに、霞んで見えなくなる。
僕は涙を零さないように、満開の桜を見上げて鼻を啜った。
その後の披露宴のことは、正直憶えていない。
僕が式場を後にすると、彼女がひとりで追いかけてきた。
「今日は来てくれてありがとう」
「ん。おめでとう」
二人の間に沈黙が流れるのを僕は笑って遮った。
「ドレス、良く似合ってる」
「え、あ、ほんと?たくさん試着して決めたんだよ」
「うん」
彼女は嬉しそうに笑った。
今度こそ目に焼き付けようと思ったのに、ダメだった。
涙ぐんでしまって、僕は咄嗟に彼女から目を逸らした。
彼女の旦那さんが、彼女を探しているのが見えた。
「じゃあ、行くから」
「うん」
「お幸せに」
好きだよ、とは言えなかった。
ずっと好きだったんだよ、と言えなかった。
姉のような憧れじゃない、愛してるって、早く気づけば良かった。
そしたら、僕と君は両想いで、君のウエディングドレス選びを僕は見守っていたのかな。
桜が舞い散る。
僕の頬が涙に濡れる。
何か違和感を感じて拭ったら、桜の花びらが一枚指に張り付いた。
今日の彼女の頬のような、桜色。
幸せな結婚式に降り注いだ満開の桜の花びらのうちの一枚。
彼女を忘れられない僕の名残りのような、ひとひらの桜。
僕は大きく息を吐き、手のひらにそっと隠した。
ひとひら
息子は市内の高校から県庁所在地の大学へ進学した。
自転車通学から電車とバスを乗り継いでキャンパスへ向かう。
学生や通勤客でごった返す電車やホーム、バスターミナルも初めての場所、若者たちで賑わうショッピングモールも。
息子の地図は新しい場所が加わっていく。街も、人も、経験も。
平日朝から夕方まで市内で勤務する私は、息子の地図の拡がりを良いなあと羨ましいのと。
折角の機会だから、息子自身で地図を新しく更新していって、と願っている。
新しい地図