俺の住む単身者用マンションの隣に、女性が引っ越してきた。
単身者用のマンションだから入居者の入れ替わりがままあって、入居時の挨拶をする人は居ない。彼女もそうで、共用の廊下やエレベーターですれ違うときに「こんにちは」等挨拶をする程度。
小さな声音でいつも俯きがちな彼女は、20代のOL、大人しそうで真面目そうな印象。俺にとって、それ以上でも以下でもなかった。
夜19時過ぎ。
帰宅途中で、花火が上がっているのが見えた。
そういえば駅の掲示板に近所の神社の祭礼のポスターが貼ってあった。
花火の方角からも間違いないだろう。
引っ越して1年未満。こんなに近所で花火を見られるなんて思わなかった。
帰って部屋着に着替えてから、冷蔵庫からビールを取り出す。
夕食はまだだけど、花火を見ながら1杯やるのもなんか良いし。
俺はビールを持って、ベランダから花火を眺める。
小さな神社なのに、頑張ってるんじゃないの?
スターマインまで上げちゃったりさ。
ドーーンと低く大きな破裂音や、スターマイン後にパラパラパラと花火が散りゆく音が風に乗って運ばれてくる。
疲れた身体にビールが旨えや。
「わーー、キレー!」
弾んだ声と共に隣の部屋の窓が開き、人が出てきたのが音でわかる。
「花火なんて久しぶりっ!ベスポジだよ!」
誰かと話しているかのような声の大きさだけど、独り言だ。
俯きがちな小さな声音の彼女とはにわかには信じがたい明るい声音。
風に乗って、聴こえる声に。
「良い声だなぁ」
俺は思わず呟いてしまっていた。
一瞬、シン…と音が静まった気がして焦る。ものすごく焦る。
今日、たまたま花火が上がったから俺と隣人がベランダに出てきて、パーテーション越しに声が聴こえてしまっただけ。
だけどもしも、隣人が自分の声を俺がこっそりと聴いているなんて誤解されたら?
隣人と顔を合わせられない。ものすごく恥ずかしい。
息を沈めてしばらく様子を伺うと、缶飲料のプルタブを開ける音がした。
「乾杯」
小さな囁き声は、独り言か俺に向けたものか。
わからない。
けれど、風のいたずらが彼女の音を運んでくれる。
大人しそうに見えた彼女は花火が綺麗だと喜ぶ、意外にも明るい女の子だったこと。
アニメのキャラクターのように、艶やかな声音で滑舌が良いこと。
ベランダに出てきたときよりも声が小さくなっても、風が音を運んでくれる。
……挨拶だけじゃなく、もう少し喋ってみたいなあ。
風のいたずらが、隣人への興味を運んできた。
風のいたずら
自死の記述あり 閲覧注意
私の母は私が20代前半のときに精神疾患を患い最期は自ら命を終わらせた。
私はその日のことをずっと忘れられない。
母の目が何か訴えているのに何も言われなかったことも、
私が車で仕事へ行くのを私の姿が見えなくなるまで見送ってくれたことも、
私が働く病院に救急車で運ばれたことも、
色濃く残った外傷も、
心停止している心電図も、
冷たい身体に死後の処置を施しながら、
(お母さんと私って、顔だけじゃなくて、身体のつくりもよく似てるんだ)と思ったことまで、
何もかも全部。
普段は意識的に思い出さないようにしている。
「お母さんの思い出は、宝箱に入れておくと良いよ。思い出したい思い出だけ引き出して、思い出せば良いんだよ」
そう言ってくれた人がいて、私はそれに救われたから。
だからいつもは、そっと、思い出を一部だけ大切に思い出すことにしている。
母が亡くなった晩秋から冬にかけての季節が、私は苦手だ。
平静を装うのが少し大変で、心から笑えない気がしている。
私の意思とは関係なく、宝箱が薄く開いてしまうのだ。
大好きだったお母さんに見つめ続けられて、
「どうしたの?」って一声かければ良かったとか、
職場へ着いてからでも携帯で連絡すれば良かったとか、
後悔が押し寄せる。
…苦しい。
宝箱を開けすぎてしまったのかも。
そっと開けて、そっと閉めておかなきゃね。
私は多分、死ぬまでそうやって生きていく。
宝箱を胸に抱えて、今もまだ辛い気持ちになることを誰にも悟られないように。
宝箱の話をしてくれた旦那にも言わないように、
そっと胸に抱えて。
そっと
宮島歩看護師 × 佐々木貴弘小児科医
私には、まだ見ぬ景色がある。
過去、交際していた人とはその景色を見られなかった。
初めての人だったから?
その次の人も同じだったのは、私に経験値が足りないせい?
「歩(あゆみ)って、ずっと呼びたかった」
真っ白なコットンのバスローブを着た佐々木先生に、同じバスローブを着た私は抱きしめられた。
同じホテルの、同じムスク系のボディソープのはずなのに、どうしてこうもセクシーに香るのだろう。
見上げたら、先生のしっかりとした鎖骨や喉仏がある首すじ、形の良い顎が目に入った。
「佐々木先生…綺麗…」
「貴弘って呼んで」
私の頬に手を添えて懇願するように言われて、「貴弘さん、」と呟いた。
「歩、ずっと欲しかった」
低い声音で囁かれて、私の身体はふるりと震える。
「緊張してるね」
「そう、かもしれません、」
貴弘さんはいつも誤魔化されないから、私は素直に心情を吐露する。
私が辛いとき寂しいときには貴弘さんは私に寄り添いたくて。
いつも気の済むまで泣かせてくれる。
貴弘さんはとても優しい。優しいから、私は貴弘さんを信じられる。
「でも、私、貴弘さんのことをもっともっと知りたいです。…だめ、ですか?」
貴弘さんの両目が見開かれて、一瞬言葉に詰まる。
「良い。良いよ」
一気に口を塞がれて、食べられてしまうかと思うほど濃厚な大人のキスをされる。
貴弘さんにこんな情熱的な一面があるなんて知らなかった。
頭がクラクラして立っていられない。
と思ったらベッドの端に座らされて、優しく体重をかけられて私の上に貴弘さんの身体が重なる。
ベッドの足元をほんのり照らすライトの薄闇のベットルームで、
二人の吐息が溢れ落ちていく。
愛しか感じられないこの行為の先。
まだ見ぬ景色はきっとある。
好き、愛してる、歩。
たくさん囁かれて、私の心と身体が満たされる。
貴弘さんのことが、どんどん好きになる。
好き。大好き。
目尻から涙がこぼれ落ちるのは、貴弘さんの愛がどこまでも伝わってくるから。
繋がった場所がじんじん痺れて、身体中に熱く拡がっていく。
そのくせ頭は霞がかかったようにクリアではなく、貴弘さんに溺れている。
まだ見ぬ景色はこの愛の先にきっと。
どこまでも深く繋がったまま訪れる感覚のその先にきっと。
私は貴弘さんのことをもっともっと知って……
その景色はきっと、貴弘さんとしか見られない。
まだ見ぬ景色
脳梗塞後遺症で左半身麻痺。
それが僕の診断名だ。
70歳で脳梗塞を発症し、総合病院の脳神経外科病棟で治療の後、リハビリ病院でリハビリをした。
麻痺で動かなかった左上肢は、なんとか頭頂部を触れるくらいには動かせるようになった。同じく麻痺していた左下肢はゆっくりだけど杖歩行できるまでに回復した。
でも、一人暮らしを継続するには不安だらけ。
医療チームや遠くに住む子どもたちの勧めもあり、1週間に2回、介護施設のリハビリに通うことになった。
朝と帰りは自宅まで送迎付き。
理学療法士と作業療法士のリハビリと、マシンを使った自主訓練。
食事とおやつと入浴サービス。来所後のウェルカムドリンクのサービスと、看護師の医療相談、必要時は施設医の診察もある。
もちろん利用料金の支払いはあるけれど、至れり尽くせりだなあ。
僕に合うように介護保険サービスの範囲内の利用を提案してくれたケアマネに感謝だな。
「おはようございます」
来所して席に着けば、すぐにコーヒーを出してくれる。
ミルクと砂糖入りで甘め。ちょうど飲み頃の温度で一口目からごくごく飲める。温くはなく、「あたたかい」がピッタリな温度。
最初に飲んだときは、初めて提供されたコーヒーの温度で驚いた。
「利用者さんが飲んで舌を火傷しないように飲み頃を出させてもらっています。熱いのに変えてきましょうか?」
申し訳なさそうにスタッフに説明され、コーヒーの交換を提案されたけど、断った。
「そっか。そういうことも考えてくれてるんだね。大丈夫だよ」
今、多くの利用者が施設に到着したばかり。
手指消毒をしながらコーヒーを配る。荷物を預かったり、利用者の話を聞いたり、彼女も他のスタッフもとても忙しそうだった。
コーヒーはあたたかい。温くない。
「利用者すべての人が舌を火傷しないように」
それはここのスタッフの優しさ。
コーヒーの交換の提案をしてくれたのは、もっと優しくて嬉しかった。
1ヶ月も利用すれば、コーヒーひとつとっても、様々な工夫があることがわかった。
糖尿病の方にはブラックコーヒーを勧めたり、ブラックが飲めなければ、砂糖ではなく人工甘味料で糖分をカットしたり。
熱いコーヒーが好みの方には、「熱いです」と説明して熱いコーヒーを提供していることも知った。
アイスコーヒーが好きな人にアイスコーヒーを提供するのはもちろん、好みを聞いて氷を入れたり入れなかったり。
また、最初にコーヒーを選んでも、緑茶や紅茶にいつでも変更することもできた。
体調を把握して必要時には緑茶やスポーツドリンクを勧めていたり。
僕の隣の席の利用者には、「熱いです」とコーヒーを置いていく。
僕は相変わらず、あたたかいコーヒーに口をつける。
一口目からごくごく飲める、飲み頃の、舌を火傷しない優しさがあたたかいコーヒーを。
「ありがとう。美味しい」
そう言ったら、コーヒーを出してくれた看護師さんが「良かったです」と微笑んだ。
あたたかいね
10年前、中学校の3年1組のクラス担任になったとき、印象深い生徒がいた。
その生徒は1年生の頃から学年1、2位を争う成績の良い生徒で、何より知的好奇心が高く、物事をよく知っていた。
年度初めの最初の学級活動の議題は、1年間の学級目標と、クラス委員や係の仕事、学校の委員会活動の委員を決めることだった。
クラス目標を決めた後、クラス委員長などの係決めをする。その都合上、今回の会議は日直が司会をしてくれている。1人の生徒が挙手をして、日直が彼を指名した。
「【SUPERNOVA 】が良いと思います」
へぇ、良いじゃん。
そうは思いつつも、担任として公平にクラス目標を決めて欲しくて、顔には出さないように平静を装う。
俺はその意見に関心したが、クラスの皆んなはぽかんとした。
察した生徒が説明する。
『supernovaって超新星のことなんだけど、恒星が生まれて消滅する変化を辿るときの最終形態の大爆発のことで、その爆発は一時的に他の恒星を凌ぐほど明るくなるって言われてる。僕たちも、supernovaみたいに輝きたい、輝くぞっていう意味を込めてみた』
説明を聴いている途中で生徒たちの目がキラキラと輝きだし、それはクラス全員に広がった。なにより、提案をした生徒が明るく前向きに快活に説明する。
直感的にこのクラスは彼を中心に良いクラスになる、そんな気がした。
その後のクラス役員決めで、彼が全員一致でクラス委員長に決定するのは、もはや当然のことだった。
結局、彼は定期テストや模試など学年1位を1年間守り続ける。
高校受験模試では偏差値が70を下回ることはなく、県内のどの高校を志望しても進学できる実力があった。当然、学校内では県内トップの進学校の受験を推す声ばかりだったが、彼は首を横に振った。
中学校校区内にある偏差値60の進学校に行くと言う。
理由を尋ねると、彼は言った。
「天文部に入りたいんです。学校の大型の天体望遠鏡で天体観測をしたり、定期的にプラネタリウム鑑賞をしたり、他の高校の天文部と交流会を盛んに行っているので、そこしか考えていません」
年度初めのクラス目標をsupernovaにしたいと言った彼を思い出す。
希望に満ち溢れた快活さで、クラス全員と俺を魅了したあの瞬間を。
同席している進路指導主事が尋ねた。大学進学先に大きな差が出るが、それでも良いのかと。
彼はそれにも明確な答えがあった。
「親と話し合って、進学塾に入る予定です。結局、塾で対策するのが効率よく試験対策ができると思いますから」
親御さん納得の上での進路決定なら、もう何も言うことはなかった。
彼は高校へ行っても輝くのだろう。
Supernovaのように。
卒業式終了後、教室で俺たち教師が1年間撮り溜めたクラス写真や動画をスライドショーにして、生徒や親御さんに見てもらう。
彼を中心に、1人ひとりが超新星爆発後の星のかけらのような、輝きに満ち溢れた写真が次から次へと流れていく。
泣くまいと堪えていた涙腺が、合唱コンクールの歌声で崩壊した。生徒にはバレたくなくて、涙を拭わずにパソコンのキーボードを睨みつける。
スライドショーが終わり、俺は生徒たちに背を向けたまま、深呼吸を繰り返して心を落ち着ける。
生徒たちに向けた、最後のメッセージ。
星のかけらのような煌びやかなこの子たちへ。
Supernova みたいに、って言おうとしたのに、まだ感情が昂っていて、涙声で言葉が詰まって出てこない。
「先生、頑張って」と生徒から応援の声が上がりだして、益々言えなくなった。
顔を見れば、ニヤついている顔もあるけれど、皆んな瞳がキラキラしている。
「皆んな、ありがとう。このクラスの担任で良かった。これからも、努力して、Supernovaみたいに輝いてください。それが君たちにとっての未来への鍵になるはずです」
色々省略したけれど、言いたいことは言ったと最後のクラス写真を撮るために整列する。
教室の黒板の上に掲示してあったクラス目標がいつの間にか剥がされていて、それを手に持たされて1番前の中央に座らされる。
俺はまた泣くとか女子かよ。
泣き顔で座る俺は、親御さんに写真をバンバン撮られてヤケになるしかなかった。
あれから10年。
俺の姪っ子が、あの、クラス委員長の彼と結婚する。
彼と結婚すると姪っ子に報告されたときの俺の驚きように姪っ子は爆笑し、挙式披露宴に招待してくれた。
いよいよ明日、2人は結婚する。
その事実が嬉しくて眠れなくなり、深夜、外へ出て近所を散歩した。夜空を見上げると、深夜の空はたくさんの星が瞬いている。
10年ぶりに彼と会える。きっと彼は未来への鍵をしっかり握りしめて、立派な大人の男になっていることだろう。
3年1組の同級生は誰か招待しているのだろうか。
女子は流石に招待していないか。
同窓会みたいにならないかなあ。
やっぱり興奮して眠れそうにない。
俺はたくさんの星から冬の大三角形を見つけて、知っている星座を辿っていった。
星のかけら & 未来への鍵