Mey

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8/5/2025, 8:19:35 PM

「泡になりたいな」

私の隣でレモン酎ハイを傾けている同僚が吐息混じりに呟いた。
彼女のレモン酎ハイからはジョッキの下に沈んだレモンの種から微細な気泡が上昇していた。
確かこの気泡って閉じ込めてある炭酸ガスが刺激されて、炭酸ガスイコール二酸化炭素が発泡する現象だった気がする。

シュワシュワと細かな気泡は見てる分には飽きないような気がする?どうだろ?

「二酸化炭素になりたいってこと?」


彼女、宮島さんは私と同期の看護師。

私たちは既婚者である外科医の浅尾先生に不毛な恋をしている。って、宮島さんは私が浅尾先生を好きなことを知らないけれど。

「じゃなくて、酸素の方。水が温まると溶けてた酸素が気泡になるでしょ?私も人を温めて、酸素の泡として人の役に立てたらいいなあって」
頬を紅潮させて力なくへにゃりと笑う顔は同性から見ても可愛い。

「好きな人の役に立ちたいんだ?」

私は自分のシャンパンを一口飲んでクスッと笑った。
彼、浅尾先生は既婚者なのに、宮島さんに秘めた恋をしている。
二人は実際は両想いで、浅尾先生は宮島さんの好意を知っていて、宮島さんは浅尾先生の恋を知らない。浅尾先生も教えるつもりはない、はず。

「うん」と恥じらいつつ頷いた宮島さんは、両頬を両手でパタパタと扇ぎながら「あつーい」と笑っている。


「でも、酸素で良かった」
「ん?」
「人魚姫みたいになりたいって言われたらどうしようかと思った」

ポツリと呟いた声は、自分が思った以上に寂しげでドキッとした。

王子様に失恋して、王子様を刺して人魚に戻らずに海の泡として消えてしまった人魚姫。
初めて読んだのは、小学校の教室の後ろに並べられた絵本だった。
悲しい物語はずっと心に残り、中学生になって、人魚姫の結末が自己犠牲の愛のカタチだと知った。

「…私、片想いしてるけど、今でじゅうぶん幸せだから」

でも、あなたはもっと浅尾先生の役に立ちたいと思っているんでしょう?
ちょっとだけ悔しいけれど、宮島さんは誰よりも浅尾先生のために一生懸命に看護師の仕事をしてる。でも、まだ、浅尾先生の役に立ちたいんだね。


「ふぅん。じゃあ私は酸化ヘモグロビンになろうかな」
「あっ、ズルい。古川さん!」
「ズルいって」

真剣に抗議の声を上げる宮島さんに笑ってしまう。

私は酸化ヘモグロビンになって、浅尾先生の全身の血液中を巡り巡って酸素を届けて、彼の身体を活性化させてあげよう。


「二人の会話、聴こえちゃった。面白い話をしてるね」
「佐々木先生、お疲れさまです。救急の患者さん、大丈夫でした?」
「うん、単純性の熱性けいれんだったからね。様子見て帰宅させたよ」

小児科医の佐々木先生は穏やかに笑った。
飲み会始まってすぐに呼ばれてそろそろお開きになる時間だと言うのに、笑顔を絶やさない穏やかさは私も見習わなくちゃと思う。

「それで?なんで酸化ヘモグロビンの話?」

小児科の待機当番だからと烏龍茶を頼んだ佐々木先生は、さっそく私に水を向けた。
ほんとは宮島さんと話したいですよね、なんて思ってしまう。
さりげなく宮島さんの前に座ってるし、佐々木先生は宮島さんのことを好きなことを視線や態度に隠してないし隠そうとも思っていないのは明白だから。


酸化ヘモグロビンの話に至った経緯を話すと、僕は、と私のシャンパングラスを指差した。

「シャンパンですか?」

宮島さんが尋ねる。「綺麗だからかなあ」なんて酔っている宮島さんは普段の聡明さはどこへやら、子どもみたいな感想を漏らした。

「正確にはシャンパンの泡。
シャンパンの泡ってね、『天使の拍手』『幸せが湧き上がる』なんて言われていてね、二人の幸せが永遠に続くことを意味してるんだよ」

シャンパンを注いでもらったときの、気泡が弾けて小さな音を立てながらたくさんの泡が立ち上っていたことを思い出す。

「あ、だから結婚式の乾杯はシャンパンなんだ」
「うん、古川さん、その通り」

佐々木先生が私に笑いかけて、私も笑う。

シャンパンの泡になりたい、だなんて、佐々木先生は随分とロマンチストだなあと思う。
肝心の宮島さんには佐々木先生の好意は届いていなさそうだけど、でも、佐々木先生は穏やかに微笑んで楽しそうだ。

『天使の拍手』『幸せが湧き上がる』
シャンパンの泡の意味、素敵だなあ。

それを知ってる佐々木先生が、さりげなく私たちに教えてくれるって、素敵なこと。
こんなふうに佐々木先生はいつも患児や家族、私たちスタッフにも優しく寄り添ってくれる。

佐々木先生に愛される人---宮島さんが佐々木先生の手を取ったなら、宮島さんは絶対に幸せになれるはずなのに。

現実の宮島さんは離れた席にいる浅尾先生の後ろ姿を眺めていて、佐々木先生は宮島さんの視線をたどって一瞬だけ唇を噛んだ。

私と目が合った佐々木先生が、あ、と小さく声を漏らして額に手を当てた後、肩をすくめた。
「妬いたの、バレちゃった?」
「はい」

私にコッソリ問いかけ、私は肯定する。
宮島さんには内緒にね、という意味で佐々木先生は自分の口元に人差し指を立てて悪戯っぽく笑った。

そこには浅尾先生の嫉妬を綺麗に消し去った佐々木先生がいる。


「佐々木先生、お疲れさまです!救急の子、大丈夫でした?」
「あ、うん。熱性けいれんだったんだけど---」

佐々木先生が外科の看護師に囲まれて、私たちと一緒に飲もうと外科ナースの集団へ連れて行かれる。
佐々木先生が宮島さんを好きだとこの飲み会で認めさせちゃおう!と宮島さん不在の昼休憩で盛り上がっていた集団だ。

小児科ナースは宮島さんと一緒に飲みたいと連れて行く。

小児科ナースたちは佐々木先生を慕っている。
佐々木先生が宮島さんへの好意を隠していないことと、宮島さんは素直な頑張り屋だから、彼女への信頼はとても厚い。
宮島さんの浅尾先生への想いは知られていないだろうから、佐々木先生の恋を皆んなで応援しちゃうのだろう。


「泡になりたい」「片想いしてるけど、今でじゅうぶん幸せだから」
宮島さんの呟きは私の耳に残ってる。

佐々木先生の恋を応援するが故に、彼女の秘めた恋を暴かないでほしい。宮島さん今、それで幸せだから。
そう願うのは、私の恋も暴かないでいてほしいと思うからか。


目の前のシャンパンは琥珀色に輝きを放っている。
誰しもきっとシャンパンの泡のような恋がしたくて、でも、それはひと握りで。




「泡になりたい」

8/3/2025, 3:21:53 AM

彼女と初めて結ばれて幸せだと思った月明かりの夜。
翌朝、朝陽の明るさに目覚めると、彼女が居たはずのシーツは冷たく、浴衣は元通りに畳まれていた。

彼女は元彼を忘れて俺のことを好きになってくれたと思っていたのに、それは俺の独りよがりだったのだろうか?
波が寄せては返す波打ち際に白いワンピース姿で座って波音に耳を澄ます彼女。

朝陽を受けて波がキラキラ輝いている。
真っ白なワンピースが眩しい。
ふと、旅館の白いシーツを思い出した。彼女不在の真っ白なシーツとその冷たさを。
波音に耳を澄ませた彼女は何を想っているのだろう。

それはきっと、俺のことではなくて……


あの初めて結ばれた翌朝から、俺たちに流れる空気はなんとなくよそよそしくなったように思う。
どこかお互いの顔色を伺うような、意識的に笑顔を見せているような気がする。
気のせいだったら良いのだけど……アイスコーヒーを飲む彼女の横顔を伺う。

「味見したい?」
「え、」
「ジッと見てくるから」
「……あ、うん、俺のも良かったら」
「ううん、コーラはどこで飲んでも一緒だもん」
「…だよな」

彼女のブラックコーヒーに口をつける。
苦い。めちゃくちゃ苦い。
一口飲んで顔を顰めた俺に、彼女はふふっと笑った。
「どうせお子様舌だよ」
アイスコーヒーを返す。同じ歳だけど、彼女の方が大人だと思い知る。味覚だけじゃなくて、何もかも。
俺が初めて結ばれた人は彼女だけど、彼女はすでに経験していた。元彼と。

「あの……私、手紙を書いたの。言葉で話すの、難しいと思って」
彼女がバッグから真っ白な封筒を取り出して両手で差し出した。
俺の名前が細く小さめな丁寧な文字で書かれていた。
封筒の裏をひっくり返すと、彼女の名前が宛名よりさらに小さな文字で書かれていた。
封をした水色のマスキングテープが、あの渚を思い出させる。

心臓が強く打ち付け、鳴り止まない。
この手紙には何が書いてあるのだろうか。
愛の言葉、別れの言葉…。
薄い封筒なのに重たさを感じて、指先が微かに震え始める。
俺は封筒が折れ曲がらないように注意深くカバンへ入れた。
彼女が一連の流れを不安そうに見守っている。
心配してくれるのなら、まだ、俺に可能性が残されているのだろうか。

「帰ろうか」
「……うん」
彼女を家まで送る。その間、手紙のことは俺も彼女も一切触れなかった。
一刻も早く手紙を読んで、彼女の想いを知って、俺の想いを告げてしまえばこのよそよそしい関係から脱せられるかもしれないのに。
ベッドに寝転び白い封筒を手にしても、開封する勇気が持てない。
水色のマスキングテープは意図的か、偶然か。


眠れない夜を過ごし、空が白んだ頃眠ったらしい俺が起きたのは、太陽が真上に登ってからだった。
歯磨きをして身支度を整えて彼女からの白い封筒に入った手紙をまたカバンに入れる。
ローカル線とバスを乗り継ぎ、あの渚に向かう。
初めて二人で旅したあの海岸へ。一人で。


彼女が波音に耳を澄ませていた海岸へ到着したのは、空が夕焼けに移行しつつある時間だった。

手にしている白い封筒に目を留める。
あの日着ていた彼女のワンピースと旅館のシーツの白い冷たさを思い出して、水色のマスキングテープを剥がす勇気が出ない。
手紙を読むのが怖い。読まなければ彼女の想いを受け取ることができないのに、受け取るのが怖い。
そのまま歩き続けて桟橋に辿り着いた。
桟橋の先で、手紙を読もう。そう決めて、桟橋を歩く。
キシキシと歩くたびに小さな音が鳴っているけれど、それ以上に絶え間なく果てしなく続く波音が心を揺らしている。


俺は、彼女が好き。
きっと手紙を読んでも。変わらずに好きだ。

テープを外し、便箋を開く。
細く小さめな丁寧な文字が並ぶ。彼女らしい繊細さと可愛らしさに知らず笑みが溢れる。

「二人で旅行した日、楽しかった。あなたの想いが嬉しかったのも本当だよ。あの夜、幸せだとも思った。
だけど……私の気持ちがあなただけに向いているのかどうか、正直わからない。
こんな中途半端な気持ちであなたのそばにいることが心苦しくなることがあるの。
あなただけを愛したいから、私に時間をください。
お願いします」

彼女の心はやはり揺れている。
寄せては返す波のように、俺と元彼の間で。
それを誠実に手紙に認めてくれて、俺はホッと息を吐いた。
俺を簡単に切り離さず、嘘を吐かず、誠実な彼女は俺の好きになった彼女のままだった。


彼女はきっと答えを導き出す。
時間をかけた結果、俺だけを好きだ確信してくれるかはわからない。
だけど、俺は彼女のことが好きだから。待ってる。


便箋を封筒に入れて、水色のマスキングテープをしっかりと押さえた。
桟橋から手を伸ばして海へ差し出すと手紙は海へ滑り落ちていった。
キラキラ光る海に白い封筒が漂う。

彼女の気持ちはわかった。
俺は彼女を待つことに決めた。

それで良い。

彼女の憂いは、彼女が最終的にどうするか決めた後には、なかったことになった方がきっと良い。


夕焼け色にキラキラ光る海は美しい。




「波にさらわれた手紙」

8/1/2025, 8:12:48 AM


週末の夕暮れ、緑地公園でのランニングを終えて俺は池のほとりを歩きながら汗が引くのを待っていた。
美しい夕焼け空が大きな池の水面に映り込んでいる。
汗が引いたあとで立ち寄る池のほとりにあるコンテナのカフェのスペシャリティコーヒーは、初めて立ち寄った日から俺のお気に入り。

「早坂先生、こんにちは。いつものですか?」
「ああ、頼む」
一段高くなったコンテナの中で明るく尋ねるバイト中の米田を見上げる。

少し微笑みながらカップにゆっくりとコーヒーを注いでくれる米田は表情も手つきも丁寧で優しい。
コーヒーの芳ばしい香りがたちのぼり、鼻から息を吸い込む。どこからかひぐらしの鳴き声がする夏の夕暮れ。
大学生の彼女はカフェエプロンを身につけ、長い髪を後ろでひとつにまとめている。髪の毛先や顔の輪郭が夕陽に縁取られ、金色に光って見えて俺はしばし見惚れた。


米田が本郷中学校1年生のときに、俺が体育教師として選抜長距離継走部で指導に関わった元教え子だ。
翌年、俺は西部中学校へ転勤となった。それで彼女との関わりは途絶えたかに思えたがそうではなくて、曇天のち霧雨が降った翌年の大会で彼女と再会した。米田は駅伝の選手として走ったが後半、明らかにバテていた。それは彼女が捻挫して走り込みが足りなかったからだが、俺は1年時の米田と同様、2年生になってもやる気のない練習態度のせいだと誤解して、霧雨降る中叱責し、彼女や彼女の親友を悲しませた。
それは今も雨の匂いと共に苦い思い出ではあるが、同時に教師としても人としても俺を成長させてくれた出来事だった。
苦い想いを払拭したのは米田本人であり、米田の親友で同じ長距離継走部の鈴木だった。そして俺に謝罪の機会を与えて成長させてくれたのは憧れの神谷先生だった。



「はい、いつものです」
「ありがとう」
微笑んでホットコーヒーのカップを差し出されて受け取るとき、互いの指先が軽く触れ合った。鼓動がとくんと鳴る。指先が触れ合っただけで。
今までこんなことなかったのに。

笑顔で「いつもの」と言われてニヤケそうになるほど嬉しいなんて。
軽く咳払いをすると、「どうかしました?」と問いかけられる。
どうもしない、どうとも思わせないでくれ。
支払い後米田から離れてテラス席へ座る。

なんで今日はこんなに米田が眩しく想えるんだ?
週末、時間を作っては緑地公園で走り、脈拍が速いままカフェに来て米田と喋るからだな。米田としか喋らないから。


客は俺しか居ない。
いつものように米田はコンテナから降りて、テラス席へ座る俺の前に座った。
「早坂先生」
「ん?」
心の内を知られないように軽く返事をする。
元教え子にときめいたなんて知られてたまるか。
「私、来月ここを辞めるんです」
「えっ!?」
「熱っ」
勢いよく立ち上がったせいで倒れかけたコーヒーカップ。米田が咄嗟に手を伸ばしてくれて倒れずに済んだけれど、米田の白い指先に淹れたてのコーヒーの雫が飛んで、指先が赤くなった。
「ごめんっ」
「大丈夫」
「じゃないだろっ、冷やさないと!」
テラスの端にある水道へ手首を引っ張って強引に連れて行き、蛇口を捻り、彼女の手へ流水をかけ続ける。
「悪い、熱かったよな。ごめんな」
「いえ、私も突然伝えて驚かせちゃったから、」
「そんなの、米田が謝ることじゃないだろ」

米田を責めていると思われないように、囁くように伝えていく。
米田の性格は明るく活発に見えるけど、実際はわざと明るく冗談めかせて振る舞ったりする、本当は繊細なヤツだから。
コーヒーを丁寧に淹れてくれる細やかな穏やかさが、米田本来の姿だから。
ああ、だから俺の鼓動が動いたのか。

「あの、もう大丈夫です」
米田の声が震え、顔が赤い。
気づいたら、俺は米田にものすごく接近していた。
彼女の手の平を支えて指先に流水を当てながら、ジッと指先を見つめていて気づかなかった。
「悪い、」
急いで米田の手を離し、一歩後ろへ下がる。
米田の赤面に釣られるように、俺の頬も赤くなる。
しっかりしろ、元教え子にときめくな。

「バイト、辞めるんだ?」
「はい。大学が忙しくて。バイト、楽しくて辞めたくなかったんですけど、なかなか難しくて」
「そうか」
寂しそうな微笑みに、手を伸ばして慰めたくなるのを踏みとどまる。俺は教師で米田は元教え子。彼氏でもないのに、簡単に触れて良い訳がない。
「寂しくなるな。米田がいないと」

赤い夕焼けが眩しくて目を細める。
夕焼けが色濃くなり、池がさらに赤く染まる。
「米田が淹れてくれるコーヒーは格別だったよ」
鼓動が熱い。
こんなの知りたくなかった。
元教え子に恋する俺なんて知りたくなかった。
教師と元生徒のままでいたかったのに。


「早坂先生」
「ん?」
「ありがとうございました」
「なに?」
お辞儀した後で微笑まれて、それが夕陽に照らされて眩しくて、俺はどんな顔をすれば良いんだろう?
「先生とお喋りしてる時間、楽しかったです」
「ああ」
「だから、ありがとうございました」
照れ笑いに「俺も、楽しかったよ。ありがとうな」と微笑んだ後、俺は靴紐を結び直すフリをして屈んだ。
動悸が騒がしい。何か言ってはいけない言葉、伸ばしていけない手を差し出してしまいそうな衝動を逃すために。
キュッと紐を締め直して呼吸をひとつ。

「米田」
「はい?」
「何か困ったことがあったら、西部中学の俺宛てに連絡しろよな。話を聞くことくらいはできるから。
米田は一人じゃない。家族も、鈴木もチカラになってくれる。俺や神谷先生ももちろん、家族、友人、恩師。皆んな仲間だ。米田のチカラになるから仲間をちゃんと頼れ」

見上げて瞳を見る。真っ直ぐに見返されてドギマギするほど黒目がちの瞳は澄んで綺麗だ。

米田は今日初めて、声をたてて笑った。
「早坂先生、あれみたい。卒業式で校長先生が話す言葉」
「式辞?まぁそうか。あれも旅立ちへのエールだからな。俺も、米田を応援してるからな」
明るく笑われてホッとしつつも胸は高鳴っている。
さっきからうるさい心臓。眩しすぎる笑顔の前では、多分この高鳴る鼓動は熱いまま鳴り止まない。
俺は、ちゃんと演技できているだろうか。教育者としての演技を。

「ありがとうございます!」
「おう、じゃあな。頑張れよ!」
「はいっ」

とっておきのエールにバカでかい返事をした米田は颯爽とコンテナへ戻っていく。
長い髪が夕陽を受けて煌めきながら軽やかに揺れる。


米田、頑張れよ。
俺は夕陽に照らされて茜色に反射している池のほとりを緑地公園の出口へ向かって走り始めた。
夕陽が背中を押すように熱い鼓動が鳴り止まない。
掴んだ細い手首が、冷たくなってくれた指先の感触が手の内に残ってる。
池のほとりの夕陽は眩しく煌めいて、それはまるで米田の笑顔を縁取った金色のようで。




眩しくて、熱い鼓動

7/16/2025, 8:34:58 AM

毎年、地元ではお盆の帰省に合わせて市が主催の花火大会が行われる。
清流が流れる渓谷に花火の轟音が響き渡り、水面に花火が映り込む、地元の夏の風物詩。

学生で夏休み中のバイトに明け暮れるつもりだった私は、今年は帰省をやめようと思っていた。
でも、アパートの郵便受けに入っていた、男友だちのアイツからの向日葵の暑中見舞いの絵葉書を見て「帰ろう」と決めた。


花火大会当日の夕方、せっかくだからと濃紺に黄色の向日葵が描かれた浴衣を着る。
白いTシャツとジーンズ姿の彼は「良いじゃん」と笑った。

観覧席は今年から有料の予約制になっていた。
それを私も彼も知らず、2人でふわふわに丸く高く盛られたかき氷を手に、「どうする?」と顔を見合わせる。

結局、渓谷沿いではあるけれど足場の悪い大きな岩肌を登る。
下駄を履いた足が滑ったときのために私の手を彼はしっかりと握って、私もしっかりと握り返す。彼は私を上へ上へと引き上げてくれた。
大きな花火が轟音と共に頭上で光り渓谷を一瞬のうちに明るくし、渓谷に反響する残響の中をパラパラと渇いた音と共に光が筋になって谷へ吸い込まれてゆく。
私たちはその光の中、岩肌を登っていた。きっと私たちの2人の影を花火が浮かび上がらせているのだろう。
岩肌をてっぺんまで登ったら少し川へ近づくように降りて、2人が横並びに座れるスペースへ向かう。
そこに座ると、背中側は岩肌、正面は川と花火と渓谷の対岸。対岸の斜面は緑の樹木に覆われて人っこ1人いない。
ここは、私と彼のふたりだけの特等席。

轟音と共に打ち上げ花火が夜空へ向かう。
首を思いっきり仰向けて大輪の花火を見上げる。

山盛りに盛られたかき氷は溶け出して容器の淵から甘い蜜が垂れ始めていた。
「美味しい」と呟くその声も花火の轟音と残響にかき消されるのがわかって、かき氷が溶け切る前に急いで食べていく。
先に限界がきたのは私。
額を押さえる私に、「頭痛い?」と尋ねる彼。
頷く私に、彼は「ちょうだい」と私にかき氷を持たせたまま私のスプーンでかき氷を掬い、自分の口元へ運んだ。

間接キス……
カップを持つ私とは違う長く筋ばった指、スプーンを含む厚い唇。
意識していなかった男らしさに、私は息を飲む。
そんな私に気づいていないのか、彼は私のかき氷を口に次から次へと運んでいく。

いつのまにか、打ち上げ花火はスターマインが始まっていた。
優しくなった破裂音と、上がり続けるたくさんの彩どりの花火。
私は彼越しに水面の花火を見続けていて。

ふと目の前に影が差し込んだ。
影が彼の顔と気づいたときには、唇に彼の唇が触れていた。
キス…氷のように冷たくて、ふわふわのかき氷のような柔らかな感触。夢心地のような、甘い気持ちが溶け出してしまいそうな……
スターマインの最後、たくさんの花火が渇いた音と共に落ちてくる。
渓谷を光で彩り、その後、暗く静寂が訪れた。
聴こえなかった楽しげな祭囃子が遠く聴こえる。

「友だちを続けてきたけど」
彼が私の瞳を覗き込んだ。
「ほんとは、ずっと前から好きだった」
「うん」
真剣な瞳に私は頷く。
「俺のこと、どう思ってる?」
緊張気味に震える声に、ちょっとだけ冷静になる。
キスなんて、すごく大胆なことをしたくせに。

「ホントは向日葵の絵葉書を受け取る前は、向こうで夏休みはバイト三昧で過ごして帰省するつもりはなかった」
「そうだったんだ。じゃあ、なんで帰ってきたの?」

彼の瞳に蛍光色の鮮やかな光が映している。
水面では金魚花火が流れていく。
水面を小さな花火が火花を散らしながら滑って泳いでいくような、可愛いかわいい花火。
私のいちばん好きな花火。
「金魚花火を見たかったのと」
「金魚花火と?」
彼の瞳に浮かぶ期待と不安。
私は逸る鼓動を少し落ち着かせようと呼吸してみたけど、到底無理だなってすぐに結論を出して。

「あなたに告白しようと思っ…」
最後まで言い切れずに抱きしめられる。
暗い渓谷、水面に浮かぶ赤い金魚花火。
可愛くて大好きな花火。

真っ白なTシャツのあなたと向日葵の浴衣の私の、まるでふたりだけの花火大会。


本当の夏が来た。
あなたと生きる季節が眩しい。

もう友だちじゃない、あなたと私の二人だけの本当の夏。





「夏、二人だけの。」



渡辺美里さんの『夏が来た!』をイメージして書いてみました

7/14/2025, 9:37:30 AM


「隠された真実」



総合病院の外科小児科混合病棟の看護師の業務はとても多く、今朝もとても慌ただしい。

看護師3年目、同期入社の私と宮島さんは一緒に病室を回って患者さんの採血をしていた。
宮島さんが採血の難しい患者さんを一回で採血して、彼女は人懐っこい笑みを浮かべて患者と喜びあっている。
私も失敗なく採血をできるけれど、宮島さんのように感謝されたことはない気がする。
ううん、新人看護師だった頃は、私の方が患者さんや病棟スタッフに褒められていた。
自分で言うのもなんだけど、私は決して自分の器用さに胡座を描いていたわけじゃない。私だって努力していたけれど、いつしか宮島さんに全てを追い抜かれていた。処置の手技も、看護過程の展開も、患者さんや家族の信頼も何もかも。


「古川さん」
病室を出たところで、外科医の浅尾先生に呼び止められる。
浅尾先生は今夜、当直だった。夜中に救急搬送の対応をして眠れていないはずなのに、微塵も感じさせないところ、相変わらずかっこいい。
浅尾先生が緊急で入院させた患者さんの様子を尋ねられる。
「バイタルは正常値で安定しています。鎮痛剤が効果あったみたいで、夜は良眠してました」
「そうか。ありがとう」
微かな笑みを残し、白衣を翻して去って行く。と思ったら、病室を出た宮島さんの肩に触れて呼び止めた。
なにやら楽しげに会話をして、宮島さんは照れたように俯き、浅尾先生は優しく穏やかに微笑んで宮島さんを見つめている。

そっか。浅尾先生も宮島さんが特別なんだ。

浅尾先生は既婚者。
宮島さんは随分前から浅尾先生のことが好きなんだと思う。
だけど知られるわけにはいかないから、彼女は浅尾先生への恋心をひた隠しにしている。


浅尾先生はいつも小さな笑顔を見せるだけのクールなタイプだ。あんなふうに、優しく、どこか嬉しそうに笑みを溢すことなんてない。

宮島さんだから---彼女は何もかも、私の欲しいものを手に入れている。仕事の賞賛も、浅尾先生の気持ちも。
私も浅尾先生が既婚者だから、自分の恋心を隠しているのに。
彼女と私の隠された想いは同じなのに、仕事への努力も、浅尾先生への恋心も同じなのに。彼女は何もかもを得ている。正直、悔しくて、胸はチクチク痛む。


仕事を終えて職員専用エレベーターを待っていると、後方から「古川さん、ちょっと良いかな」と浅尾先生に呼び止められた。
浅尾先生は今年度でこの病院を退職して外科クリニックを開業するという噂があった。私を誘ってくれるのかなと淡い期待とそんなわけないと否定する気持ち。
浅尾先生の後ろを着いて行くと人通りの少ない自販機コーナーでコーヒーを奢ってくれた。

そして私に自分の外科クリニックで働いてほしいと伝えてくれた。
浅尾先生に認められた。宮島さんに看護師として追い抜かれて自己肯定感が下がっていた私にとって、それは驚きで嬉しくて…浅尾先生の瞳を見つめて「私をですか?」と尋ねる。
「そう。古川さんに働いてもらいたい」ハッキリと先生は伝えてくれた。
「ぜひ、働かせてください」

嬉しくて嬉しくて。浅尾先生は外科医としても、人柄的にもカリスマ性があって優れた人。何よりとても好きな人。
奥さんがいるから私の想いは口にできないけれど、浅尾先生とこれからも一緒に働けるだけで良い。

コーヒーを飲み終えて、私は一礼してエレベーターへと向かう。
浅尾先生の姿が見たくなって、離れてからそっと振り返る。
…浅尾先生はテーブルに頬杖を付いていた。その表情は厳しくて、とても、看護師一人を自分のクリニックに引き抜けた安堵や喜びの表情とは思えなかった。

……浅尾先生が本当に一緒に働きたかったのは、宮島さんじゃないのかな。
宮島さんが処置に就くと、浅尾先生はいつもやり易そうだった。宮島さんの手から欲しい器材が欲しいタイミングで手渡される。宮島さんは患者さんにも気を配って観察と報告をする。浅尾先生から患者の様子を尋ねられることもなかった。

宮島さんは、浅尾先生の誘いを断ったの?それで私に白羽の矢が当たったの?
それとも、浅尾先生は宮島さんのことを忘れるために、私を働かせて宮島さんをこの病院に残すことにしたの?

私は唇を噛み、迫り上がってくる涙をこぼさないように堪える。
まだわからないよ。まだ、誰かに何かを言われたわけじゃない。
エレベーターの鏡に映る自分は悲しく涙を溢している。それを指先で擦るように拭って、1階で降りた。誰とも会わなくて良かったと思いながら。



外科小児科混合病棟の看護師は2週間おきに外科看護担当と小児看護担当に振り分けられる。
私はその日外科担当で、慌ただしい日勤業務を行っていた。
病室でシーツ交換をしていると、宮島さんが「手伝うね」とベッドの反対側に回って手伝ってくれる。
私と宮島さんは忙しなく手を動かしながら、他に誰もいないことを良いことにお喋りする。

「あれ?今って検査出しの時間じゃないの?」
「胃カメラ、延期になっちゃって。禁食ってちゃんと説明して、床頭台のお菓子も預かっておいたのに」
「あの患者さん、何か食べちゃったんだ?」
「うん。畳んである服の間にお菓子を隠し持ってて、空袋を見つけてね」
「うわぁ」
「先生に謝って、怒られてきたとこなの」

宮島さんはシュンと落ち込んだ様子を見せた。
こんな宮島さんの姿は新人の頃は何度か見たけれど、最近ではちょっと信じられないくらい珍しい。
そう言えば新人の頃、私たちは他の病棟の同期も含めて時々ご飯を食べに行っていた。
三交代制の勤務上、皆んなの予定が合わなくなっていつの間にか途絶えていたけれど、私は宮島さんの素直で一生懸命なところが好きだった。

「まあそういうこともあるよね。万全にしても、患者さんがそれを上回るの」
「古川さんにもあるの?」
「あるよ、あるある。困るよね」
私が大袈裟にため息を吐くと、宮島さんはふふっと軽く笑った。

「古川さんってシーツ交換早いよね」
「そう?」
「早いし綺麗だよ。この隣の女性部屋の患者さんたち、古川さんのシーツ交換がいちばん綺麗にしてくれるから、寝てて気持ち良いんだって盛り上がってた」
「ほんと?」
「うん。それからね、洗髪して欲しいって言ってた。私でも良いんだけど、力加減とか手際が良くて古川さんの洗髪が恋しいんだって」

私の劣等感が患者さんの好意を伝えてくれる宮島さんの優しさで解けていく。
後で顔を出す事を伝えると、彼女はうん、と笑った。


シーツ交換を終えると、遠慮がちに宮島さんは私の名前を呼んだ。

「あの……浅尾先生からクリニックに誘われたって、ほんと?」

宮島さんの瞳が不安げに揺れている。
いつもの優しく明るい瞳とは違う影が見える。

違うのに。浅尾先生は本当はあなたを誘いたかったと思うの。
私は心の中で呟いた。それを私が宮島さんに口にするわけにはいかない。
だって浅尾先生が隠していることだから。あなたが俯いているときにしか、浅尾先生は嬉しそうに笑みを溢さないから。

「うん。誘われたよ」
「……そっか」
宮島さんは瞳を伏せた。なるべく優しい声で言いたかったのに、私の声は緊張して硬くなったような気がする。

「古川さん居なくなると寂しいな」
宮島さんは本当に寂しそうに微笑んだ。
嘘を吐いたわけではないのに嘘を吐いたような居心地の悪さと罪悪感が私を襲う。
「私も宮島さんと仕事できないの、寂しいよ」
私たちはグスッと鼻を啜った。

浅尾先生に失恋している私と、失恋していると思っている宮島さん。
隠すことしかできない恋心。


ナースコールが鳴って、宮島さんが明るく笑顔を作り、患者さんのもとへ行く。

私はやっぱり宮島さんには敵わない。
だって宮島さんはとても性格が良いから。
私は大きくため息を吐いた。


宮島さんの人柄や看護は、小児科でも輝いていた。
ううん、小児科の方が宮島さんに合っているのかもしれない。
彼女は子どもたちからも親御さんからもスタッフからもその素直さや一生懸命さで評判が良かった。

中でも小児科医の佐々木先生は宮島さんに熱心に小児医療のポイントを丁寧に教えていた。

佐々木先生は次第に宮島さんに好意を寄せているのを病棟スタッフの誰も疑わなくなるほど、宮島さんに笑ったり、ちょっとだけ揶揄ったり、いつも楽しそうにしていた。
宮島さんも佐々木先生とはリラックスして仕事をしていて、私は羨ましかった。
私と同じく小児看護の関わりは学生以来のはずなのに、宮島さんは私より何歩も先へ進んでいる。
彼女は小児科ナースとして期待されて、2週間ごとのローテーションから外れて小児を担当することが多くなっている。


宮島さんが小児科担当に相応しい理由って何だろう?
私は小児科のプレイルームで子どもたちと遊びながら、部屋の片隅で自閉症児と一緒に寄り添う宮島さんを観察する。

宮島さんが歩くんが着ているパジャマのキャラクターのぬいぐるみをそっと膝に乗せる。歩くんが持つと、宮島さんはもう一つパジャマに描かれている別のキャラクターのぬいぐるみを膝の上にそっと乗せた。
通りがかった佐々木先生がにっこり笑って、歩くんの頭を撫で、宮島さんの肩にポンっと軽く触れて、私と集団で遊んでいる子どもたちの和の中に入る。

佐々木先生はときおり宮島さんを見つめて眩しそうに微笑んだ。
私や宮島さん、浅尾先生のように想いを隠さずに、真実だからと当然のように恋心をオープンにしている佐々木先生が羨ましい。

佐々木先生と私で子どもたちの相手をしているはずなのに、子どもたちは佐々木先生に話しかける。子どもたちは以前から佐々木先生と仲良しだから、彼に話しかける。
私はそう思い込むことにした。そうしないと涙が溢れそうだった。



佐々木先生も浅尾先生に遅れて小児科クリニックを開業することになっている。
佐々木先生は宮島さんを引き抜くと誰もが思っていて、それは職場の休憩時にいつも雑談の話題だった。

そんなある日、いつも穏やかな佐々木先生が、宮島さんを切なく見つめるようになっていることに気づいた。

宮島さんが佐々木先生の誘いを断ったから、とそっと噂は流れていった。
佐々木先生は小児科の子どもたちにもスタッフにもとても優しくて、彼を悪く言う人はいない。彼のクリニックで働きたい人は大勢いた。

宮島さんはどうして誘いを断ったのだろう?
誰もが首を捻っている中、私には予感があった。

宮島さんまで少し元気がないような気がする。
彼女も佐々木先生も患者さんの前では明るく振る舞っているけれど、廊下やナースステーションではこれまでよりもちょっとテンションが低いのだ。

宮島さん…佐々木先生に期待を持たせたくなくて一緒に働くのを断ったんじゃないの?
だって、宮島さんは浅尾先生への想いを秘めてるから。
そんな中で、浅尾先生のいない長野県で開業する佐々木先生の元で働きだしたら、佐々木先生はいつかきっと、って期待するかもしれないから。
そんな期待をさせたくなくて、佐々木先生を悲しませたくなくて、宮島さんは佐々木先生の誘いを断ったんじゃないの…?

そんな考えに至ったら、宮島さんのいじらしさに私は切なくなる。
きっと宮島さんはそう思ったことを佐々木先生に伝えず、何か別の理由をつけて断っているのだろう。
佐々木先生は鋭いから、宮島さんのそんな気持ちもきっと気づいてる。


皆んな、切ない。
私も、宮島さんも、浅尾先生も、佐々木先生も。
ただ恋したいだけなのに、真実を隠すようにしか恋ができないなんて。 
だけど、隠した想いを手放そうとも思わない。隠した想いはそれぞれの優しさだから。きっとこの優しさが私を強くしてくれる。
今はそう信じることにする。


プレイルームで子どもたちと一緒に片付けをしていたら、私の持つおもちゃ箱へ歩くんが持っていたぬいぐるみを一人で片付けに来てくれた。
初めての歩くんからの急接近に驚きと嬉しさとで私は歩くんの頭をそっと優しく撫でる。くすぐったそうに歩くんがちいさな笑顔を見せる。

良かった。
私にも、小児科で役にたつことが少しあるみたい。
宮島さんはそばに来た歩くんと手を繋ぎながら、私を見て微笑んだ。


浅尾先生がプレイルームの前を颯爽と通り過ぎる。
その姿を憧れて見つめてしまう、私と宮島さん。

私と宮島さんの、共通の真実の想い。
颯爽と通り過ぎた浅尾先生も、また。

そっと、全てを覆い隠して。




隠された真実

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