毎年、地元ではお盆の帰省に合わせて市が主催の花火大会が行われる。
清流が流れる渓谷に花火の轟音が響き渡り、水面に花火が映り込む、地元の夏の風物詩。
学生で夏休み中のバイトに明け暮れるつもりだった私は、今年は帰省をやめようと思っていた。
でも、アパートの郵便受けに入っていた、男友だちのアイツからの向日葵の暑中見舞いの絵葉書を見て「帰ろう」と決めた。
花火大会当日の夕方、せっかくだからと濃紺に黄色の向日葵が描かれた浴衣を着る。
白いTシャツとジーンズ姿の彼は「良いじゃん」と笑った。
観覧席は今年から有料の予約制になっていた。
それを私も彼も知らず、2人でふわふわに丸く高く盛られたかき氷を手に、「どうする?」と顔を見合わせる。
結局、渓谷沿いではあるけれど足場の悪い大きな岩肌を登る。
下駄を履いた足が滑ったときのために私の手を彼はしっかりと握って、私もしっかりと握り返す。彼は私を上へ上へと引き上げてくれた。
大きな花火が轟音と共に頭上で光り渓谷を一瞬のうちに明るくし、渓谷に反響する残響の中をパラパラと渇いた音と共に光が筋になって谷へ吸い込まれてゆく。
私たちはその光の中、岩肌を登っていた。きっと私たちの2人の影を花火が浮かび上がらせているのだろう。
岩肌をてっぺんまで登ったら少し川へ近づくように降りて、2人が横並びに座れるスペースへ向かう。
そこに座ると、背中側は岩肌、正面は川と花火と渓谷の対岸。対岸の斜面は緑の樹木に覆われて人っこ1人いない。
ここは、私と彼のふたりだけの特等席。
轟音と共に打ち上げ花火が夜空へ向かう。
首を思いっきり仰向けて大輪の花火を見上げる。
山盛りに盛られたかき氷は溶け出して容器の淵から甘い蜜が垂れ始めていた。
「美味しい」と呟くその声も花火の轟音と残響にかき消されるのがわかって、かき氷が溶け切る前に急いで食べていく。
先に限界がきたのは私。
額を押さえる私に、「頭痛い?」と尋ねる彼。
頷く私に、彼は「ちょうだい」と私にかき氷を持たせたまま私のスプーンでかき氷を掬い、自分の口元へ運んだ。
間接キス……
スプーンを持つ私とは違う長く筋ばった指、スプーンを含む厚い唇。
意識していなかった男らしさに、私は息を飲む。
そんな私に気づいていないのか、彼は私のかき氷を口に次から次へと運んでいく。
いつのまにか、打ち上げ花火はスターマインが始まっていた。
優しくなった破裂音と、上がり続けるたくさんの彩どりの花火。
私は彼越しに水面の花火を見続けていて。
ふと目の前に影が差し込んだ。
影が彼の顔と気づいたときには、唇に彼の唇が触れていた。
キス…氷のように冷たくて、ふわふわのかき氷のような柔らかな感触。夢心地のような、甘い気持ちが溶け出してしまいそうな……
スターマインの最後、たくさんの花火が渇いた音と共に落ちてくる。
渓谷を光で彩り、その後、暗く静寂が訪れた。
聴こえなかった楽しげな祭囃子が遠く聴こえる。
「友だちを続けてきたけど」
彼が私の瞳を覗き込んだ。
「ほんとは、ずっと前から好きだった」
「うん」
真剣な瞳に私は頷く。
「俺のこと、どう思ってる?」
緊張気味に震える声に、ちょっとだけ冷静になる。
キスなんて、すごく大胆なことをしたくせに。
「ホントは向日葵の絵葉書を受け取る前は、向こうで夏休みはバイト三昧で過ごして帰省するつもりはなかった」
「そうだったんだ。じゃあ、なんで帰ってきたの?」
彼の瞳に蛍光色の鮮やかな光が映している。
水面では金魚花火が流れていく。
水面を小さな花火が火花を散らしながら滑って泳いでいくような、可愛いかわいい花火。
私のいちばん好きな花火。
「金魚花火を見たかったのと」
「金魚花火と?」
彼の瞳に浮かぶ期待と不安。
私は逸る鼓動を少し落ち着かせようと呼吸してみたけど、到底無理だなってすぐに結論を出して。
「あなたに告白しようと思っ…」
最後まで言い切れずに抱きしめられる。
暗い渓谷、水面に浮かぶ赤い金魚花火。
可愛くて大好きな花火。
真っ白なTシャツのあなたと向日葵の浴衣の私の、まるでふたりだけの花火大会。
本当の夏が来た。
あなたと生きる季節が眩しい。
もう友だちじゃない、あなたと私の二人だけの本当の夏。
「夏、二人だけの。」
渡辺美里さんの『夏が来た!』をイメージして書いてみました
「隠された真実」
総合病院の外科小児科混合病棟の看護師の業務はとても多く、今朝もとても慌ただしい。
看護師3年目、同期入社の私と宮島さんは一緒に病室を回って患者さんの採血をしていた。
宮島さんが採血の難しい患者さんを一回で採血して、彼女は人懐っこい笑みを浮かべて患者と喜びあっている。
私も失敗なく採血をできるけれど、宮島さんのように感謝されたことはない気がする。
ううん、新人看護師だった頃は、私の方が患者さんや病棟スタッフに褒められていた。
自分で言うのもなんだけど、私は決して自分の器用さに胡座を描いていたわけじゃない。私だって努力していたけれど、いつしか宮島さんに全てを追い抜かれていた。処置の手技も、看護過程の展開も、患者さんや家族の信頼も何もかも。
「古川さん」
病室を出たところで、外科医の浅尾先生に呼び止められる。
浅尾先生は今夜、当直だった。夜中に救急搬送の対応をして眠れていないはずなのに、微塵も感じさせないところ、相変わらずかっこいい。
浅尾先生が緊急で入院させた患者さんの様子を尋ねられる。
「バイタルは正常値で安定しています。鎮痛剤が効果あったみたいで、夜は良眠してました」
「そうか。ありがとう」
微かな笑みを残し、白衣を翻して去って行く。と思ったら、病室を出た宮島さんの肩に触れて呼び止めた。
なにやら楽しげに会話をして、宮島さんは照れたように俯き、浅尾先生は優しく穏やかに微笑んで宮島さんを見つめている。
そっか。浅尾先生も宮島さんが特別なんだ。
浅尾先生は既婚者。
宮島さんは随分前から浅尾先生のことが好きなんだと思う。
だけど知られるわけにはいかないから、彼女は浅尾先生への恋心をひた隠しにしている。
浅尾先生はいつも小さな笑顔を見せるだけのクールなタイプだ。あんなふうに、優しく、どこか嬉しそうに笑みを溢すことなんてない。
宮島さんだから---彼女は何もかも、私の欲しいものを手に入れている。仕事の賞賛も、浅尾先生の気持ちも。
私も浅尾先生が既婚者だから、自分の恋心を隠しているのに。
彼女と私の隠された想いは同じなのに、仕事への努力も、浅尾先生への恋心も同じなのに。彼女は何もかもを得ている。正直、悔しくて、胸はチクチク痛む。
仕事を終えて職員専用エレベーターを待っていると、後方から「古川さん、ちょっと良いかな」と浅尾先生に呼び止められた。
浅尾先生は今年度でこの病院を退職して外科クリニックを開業するという噂があった。私を誘ってくれるのかなと淡い期待とそんなわけないと否定する気持ち。
浅尾先生の後ろを着いて行くと人通りの少ない自販機コーナーでコーヒーを奢ってくれた。
そして私に自分の外科クリニックで働いてほしいと伝えてくれた。
浅尾先生に認められた。宮島さんに看護師として追い抜かれて自己肯定感が下がっていた私にとって、それは驚きで嬉しくて…浅尾先生の瞳を見つめて「私をですか?」と尋ねる。
「そう。古川さんに働いてもらいたい」ハッキリと先生は伝えてくれた。
「ぜひ、働かせてください」
嬉しくて嬉しくて。浅尾先生は外科医としても、人柄的にもカリスマ性があって優れた人。何よりとても好きな人。
奥さんがいるから私の想いは口にできないけれど、浅尾先生とこれからも一緒に働けるだけで良い。
コーヒーを飲み終えて、私は一礼してエレベーターへと向かう。
浅尾先生の姿が見たくなって、離れてからそっと振り返る。
…浅尾先生はテーブルに頬杖を付いていた。その表情は厳しくて、とても、看護師一人を自分のクリニックに引き抜けた安堵や喜びの表情とは思えなかった。
……浅尾先生が本当に一緒に働きたかったのは、宮島さんじゃないのかな。
宮島さんが処置に就くと、浅尾先生はいつもやり易そうだった。宮島さんの手から欲しい器材が欲しいタイミングで手渡される。宮島さんは患者さんにも気を配って観察と報告をする。浅尾先生から患者の様子を尋ねられることもなかった。
宮島さんは、浅尾先生の誘いを断ったの?それで私に白羽の矢が当たったの?
それとも、浅尾先生は宮島さんのことを忘れるために、私を働かせて宮島さんをこの病院に残すことにしたの?
私は唇を噛み、迫り上がってくる涙をこぼさないように堪える。
まだわからないよ。まだ、誰かに何かを言われたわけじゃない。
エレベーターの鏡に映る自分は悲しく涙を溢している。それを指先で擦るように拭って、1階で降りた。誰とも会わなくて良かったと思いながら。
外科小児科混合病棟の看護師は2週間おきに外科看護担当と小児看護担当に振り分けられる。
私はその日外科担当で、慌ただしい日勤業務を行っていた。
病室でシーツ交換をしていると、宮島さんが「手伝うね」とベッドの反対側に回って手伝ってくれる。
私と宮島さんは忙しなく手を動かしながら、他に誰もいないことを良いことにお喋りする。
「あれ?今って検査出しの時間じゃないの?」
「胃カメラ、延期になっちゃって。禁食ってちゃんと説明して、床頭台のお菓子も預かっておいたのに」
「あの患者さん、何か食べちゃったんだ?」
「うん。畳んである服の間にお菓子を隠し持ってて、空袋を見つけてね」
「うわぁ」
「先生に謝って、怒られてきたとこなの」
宮島さんはシュンと落ち込んだ様子を見せた。
こんな宮島さんの姿は新人の頃は何度か見たけれど、最近ではちょっと信じられないくらい珍しい。
そう言えば新人の頃、私たちは他の病棟の同期も含めて時々ご飯を食べに行っていた。
三交代制の勤務上、皆んなの予定が合わなくなっていつの間にか途絶えていたけれど、私は宮島さんの素直で一生懸命なところが好きだった。
「まあそういうこともあるよね。万全にしても、患者さんがそれを上回るの」
「古川さんにもあるの?」
「あるよ、あるある。困るよね」
私が大袈裟にため息を吐くと、宮島さんはふふっと軽く笑った。
「古川さんってシーツ交換早いよね」
「そう?」
「早いし綺麗だよ。この隣の女性部屋の患者さんたち、古川さんのシーツ交換がいちばん綺麗にしてくれるから、寝てて気持ち良いんだって盛り上がってた」
「ほんと?」
「うん。それからね、洗髪して欲しいって言ってた。私でも良いんだけど、力加減とか手際が良くて古川さんの洗髪が恋しいんだって」
私の劣等感が患者さんの好意を伝えてくれる宮島さんの優しさで解けていく。
後で顔を出す事を伝えると、彼女はうん、と笑った。
シーツ交換を終えると、遠慮がちに宮島さんは私の名前を呼んだ。
「あの……浅尾先生からクリニックに誘われたって、ほんと?」
宮島さんの瞳が不安げに揺れている。
いつもの優しく明るい瞳とは違う影が見える。
違うのに。浅尾先生は本当はあなたを誘いたかったと思うの。
私は心の中で呟いた。それを私が宮島さんに口にするわけにはいかない。
だって浅尾先生が隠していることだから。あなたが俯いているときにしか、浅尾先生は嬉しそうに笑みを溢さないから。
「うん。誘われたよ」
「……そっか」
宮島さんは瞳を伏せた。なるべく優しい声で言いたかったのに、私の声は緊張して硬くなったような気がする。
「古川さん居なくなると寂しいな」
宮島さんは本当に寂しそうに微笑んだ。
嘘を吐いたわけではないのに嘘を吐いたような居心地の悪さと罪悪感が私を襲う。
「私も宮島さんと仕事できないの、寂しいよ」
私たちはグスッと鼻を啜った。
浅尾先生に失恋している私と、失恋していると思っている宮島さん。
隠すことしかできない恋心。
ナースコールが鳴って、宮島さんが明るく笑顔を作り、患者さんのもとへ行く。
私はやっぱり宮島さんには敵わない。
だって宮島さんはとても性格が良いから。
私は大きくため息を吐いた。
宮島さんの人柄や看護は、小児科でも輝いていた。
ううん、小児科の方が宮島さんに合っているのかもしれない。
彼女は子どもたちからも親御さんからもスタッフからもその素直さや一生懸命さで評判が良かった。
中でも小児科医の佐々木先生は宮島さんに熱心に小児医療のポイントを丁寧に教えていた。
佐々木先生は次第に宮島さんに好意を寄せているのを病棟スタッフの誰も疑わなくなるほど、宮島さんに笑ったり、ちょっとだけ揶揄ったり、いつも楽しそうにしていた。
宮島さんも佐々木先生とはリラックスして仕事をしていて、私は羨ましかった。
私と同じく小児看護の関わりは学生以来のはずなのに、宮島さんは私より何歩も先へ進んでいる。
彼女は小児科ナースとして期待されて、2週間ごとのローテーションから外れて小児を担当することが多くなっている。
宮島さんが小児科担当に相応しい理由って何だろう?
私は小児科のプレイルームで子どもたちと遊びながら、部屋の片隅で自閉症児と一緒に寄り添う宮島さんを観察する。
宮島さんが歩くんが着ているパジャマのキャラクターのぬいぐるみをそっと膝に乗せる。歩くんが持つと、宮島さんはもう一つパジャマに描かれている別のキャラクターのぬいぐるみを膝の上にそっと乗せた。
通りがかった佐々木先生がにっこり笑って、歩くんの頭を撫で、宮島さんの肩にポンっと軽く触れて、私と集団で遊んでいる子どもたちの和の中に入る。
佐々木先生はときおり宮島さんを見つめて眩しそうに微笑んだ。
私や宮島さん、浅尾先生のように想いを隠さずに、真実だからと当然のように恋心をオープンにしている佐々木先生が羨ましい。
佐々木先生と私で子どもたちの相手をしているはずなのに、子どもたちは佐々木先生に話しかける。子どもたちは以前から佐々木先生と仲良しだから、彼に話しかける。
私はそう思い込むことにした。そうしないと涙が溢れそうだった。
佐々木先生も浅尾先生に遅れて小児科クリニックを開業することになっている。
佐々木先生は宮島さんを引き抜くと誰もが思っていて、それは職場の休憩時にいつも雑談の話題だった。
そんなある日、いつも穏やかな佐々木先生が、宮島さんを切なく見つめるようになっていることに気づいた。
宮島さんが佐々木先生の誘いを断ったから、とそっと噂は流れていった。
佐々木先生は小児科の子どもたちにもスタッフにもとても優しくて、彼を悪く言う人はいない。彼のクリニックで働きたい人は大勢いた。
宮島さんはどうして誘いを断ったのだろう?
誰もが首を捻っている中、私には予感があった。
宮島さんまで少し元気がないような気がする。
彼女も佐々木先生も患者さんの前では明るく振る舞っているけれど、廊下やナースステーションではこれまでよりもちょっとテンションが低いのだ。
宮島さん…佐々木先生に期待を持たせたくなくて一緒に働くのを断ったんじゃないの?
だって、宮島さんは浅尾先生への想いを秘めてるから。
そんな中で、浅尾先生のいない長野県で開業する佐々木先生の元で働きだしたら、佐々木先生はいつかきっと、って期待するかもしれないから。
そんな期待をさせたくなくて、佐々木先生を悲しませたくなくて、宮島さんは佐々木先生の誘いを断ったんじゃないの…?
そんな考えに至ったら、宮島さんのいじらしさに私は切なくなる。
きっと宮島さんはそう思ったことを佐々木先生に伝えず、何か別の理由をつけて断っているのだろう。
佐々木先生は鋭いから、宮島さんのそんな気持ちもきっと気づいてる。
皆んな、切ない。
私も、宮島さんも、浅尾先生も、佐々木先生も。
ただ恋したいだけなのに、真実を隠すようにしか恋ができないなんて。
だけど、隠した想いを手放そうとも思わない。隠した想いはそれぞれの優しさだから。きっとこの優しさが私を強くしてくれる。
今はそう信じることにする。
プレイルームで子どもたちと一緒に片付けをしていたら、私の持つおもちゃ箱へ歩くんが持っていたぬいぐるみを一人で片付けに来てくれた。
初めての歩くんからの急接近に驚きと嬉しさとで私は歩くんの頭をそっと優しく撫でる。くすぐったそうに歩くんがちいさな笑顔を見せる。
良かった。
私にも、小児科で役にたつことが少しあるみたい。
宮島さんはそばに来た歩くんと手を繋ぎながら、私を見て微笑んだ。
浅尾先生がプレイルームの前を颯爽と通り過ぎる。
その姿を憧れて見つめてしまう、私と宮島さん。
私と宮島さんの、共通の真実の想い。
颯爽と通り過ぎた浅尾先生も、また。
そっと、全てを覆い隠して。
隠された真実
私が高校生だった頃、私の青春は部活動だった。
ギター・マンドリン部。マンドリンは知らない人もいるだろうし、形状は知っていても実際に音色を聴いたことがない人も多いだろう。
そんな知る人ぞ知るギター・マンドリンには全国大会があって、私の高校は全国大会出場の常連校だった。吹奏楽部出身者には馴染み深い、コンクールの評価形式は金賞、銀賞、銅賞であり、当然私たちも金賞を目指して闘志を燃やしていた。全国大会金賞の常連校の私たちは、先輩たちが築いた連続受賞を逃途絶えさせるわけにはいかなかった。
2年生の全国大会。私は大阪城ホールでの演奏中、マンドリンの1stパートの後ろの方で、アップテンポなその曲に四苦八苦していた。
自分たちの出番が終わった後、他校の演奏を観客席から聴いて思ったのは、自分たちは難曲に挑戦したということ。他校の演奏は私たちと同等か同等以上の実力のように思えた。
全出場校の演奏終了後、結果が発表される。祈るような先輩を横目に、私はステージをじっと見つめる。
結果は銀賞だった。ああ、やっぱり。私は目を瞑った。
先輩や同級生のすすり泣く声が聞こえる。
自分がもっと頑張れば、とも思えなかった。朝練も午後練も土曜日も夏休みも毎日音楽室で練習していた。練習のない日はマンドリンを持ち帰って自宅でも練習した。部員はみんなそうしていた。
だから、もう、この結果は仕方ないんだ。
女子高生30人は口数少なく観光バスに乗り込み、それぞれ車窓を眺めた。
出発してすぐだったか、スタジアムが見えた。スタジアム周辺で野球のユニフォームに身を包む、坊主頭の団体も。
白いユニフォームは土に汚れ、日焼けした筋肉質な男子学生の集団は私と同じくらいの年に思えて---彼らは泣いていた。腕を目元で覆い立ち尽くす部員。頭からタオルを被り、膝まづく部員。一人で泣く部員、慰め合う部員たち。
緑の木々が繁る木漏れ日の道を私たちを乗せたバスはゆっくり走る。
いつのまにか私の頬に涙が流れていた。
どうして泣いているんだろう。
理由もわからず、濡れた頬をハンカチで拭った。
あの日の景色
病院の1階メインロビーにはダウンライトに照らされて大きな笹に彩りどりのたくさんの短冊が今年も結えられている。
七夕の夜、仕事終わりにそこへ向かうと、愛しの由希奈ちゃんが七夕飾りを見上げていた。
ナース服から普段の装いに着替えて佇む彼女もダウンライトの光を浴びてその横顔は目映く美しい。
凛とした彼女とは異なる優しい表情に、俺は彼女の空間を邪魔しないよう、声を顰めて「おつかれ」と囁いた。
「あ、大和くん。おつかれ」
彼女は俺に笑顔を向ける。彼女は外科ナース、俺はレントゲン技師としてこの総合病院で働いている。医療従事者という職業柄、一つのミスも許されない時間から互いに解放され、癒されるひととき。
「病気が治りますように、っていう願いごとが多いね」
由希奈ちゃんの言葉に短冊を眺めていくと、その通りだった。患者本人や家族からの願いが込められた文言。中には患者本人も余命は知っているだろうに、幼い子どもが祖父母やパパ、ママと書かれたつたない文字もあって胸が苦しくなる。たくさん飾られた短冊のターミナル期の患者さんの中には由希奈ちゃんの受け持ち患者さんも複数いて…つくづく看護師という職業の過酷さを想う。痛みや息苦しさ、怒りや悲しみ、諦め、不安…全てに寄り添って、できる限り安全安楽に過ごせるよう手助けする。
こんなに細い身体で患者の気持ちを一身に背負い、一生懸命寄り添っていく。
由希奈ちゃんの手を繋ぐと、驚きながら「どしたの?」と俺を見上げた。
「由希奈ちゃん、すごいなぁと思って。病気が治りますように、っていう願いって、叶う人、残念だけど叶わない人もいるじゃん」
「うん、そうだね」
「そのどちらの人にもしっかりと向き合ってるじゃん?特にターミナル期の人に看護師として看護師間だけじゃなく医師や栄養士や薬剤師、ソーシャルワーカーと相談したりして。
痛みが強くてもお風呂に入ると少し楽になるって言われたらなんとか入浴させたりさ。ずっと背中を摩ってあげたり。泣きながら訴える患者さんの話をずっと傾聴したり」
「看護ってそういうものだから。って言うか、大和くんがそんなに見ててくれたの驚きだよ。…でも、嬉しい」
由希奈ちゃんが嬉しそうに照れくさそうに笑った。
「うん、いつも想ってはいたんだけど、なかなか言うタイミングなくて」
俺も少し照れくさくなって頭を掻く。互いに声を顰めてふふっと笑う。
そして唐突に想った。こんなふうに優しい気持ちで由希奈ちゃんとずっと一緒に居たいって。
「せっかくまだ短冊が余ってるしさ、願いごと、書こうよ」
俺の提案に由希奈ちゃんは「そうだね」とペンと水色の短冊を手に取った。
俺も由希奈ちゃんの好きなピンクの短冊を手に取った。
「大和くん、まだ見ちゃダメだからね」
「ふぅん、俺のもまだ見ないでよ」
何やら真剣にダメ出しされたけど、俺にとっても好都合だった。
短冊に一文字一文字心を込めて筆を乗せる。
由希奈ちゃんに気持ちが届くように。驚かせるかな。微妙な顔をされたらどうしよう。
「書けた」
「俺も。見ても良い?」
「うーん、恥ずかしいから一緒に見せ合うのは?」
「オッケ-。せえの」
互いに背中に隠していた短冊をそれぞれに渡し合う。
由希奈ちゃんの水色の短冊には、青いマジックで
『大好きな人とずっと一緒にいられますように 由希奈』
うわ……マジか…嬉しい…嬉しすぎる……
じんわりと胸に暖かな気持ちが広がっていく。
それでも心配なのは、俺が書いた短冊を見た由希奈ちゃんの反応だ。
『由希奈ちゃんと結婚できますように 大和』
俯き加減の由希奈ちゃんが手にした短冊ごとぶるぶる震えている。
「由希奈ちゃん?」
由希奈ちゃんの今の気持ちがわからなくて、そっと声をかける。
「あの…ダメ、だった…?俺、由希奈ちゃんとずっと一緒にいたいってすげぇ思って、想ったから…」
まだ顔を上げてくれず、俺はさらに言い募る。
「あ、俺も、ずっと一緒にいられますように、ってすれば良かったかな。いきなりで驚いたよな。こんなん、夢見てたのと違っただろうし、」
俯いて震えられて、どうして良いかわからず、俺は「由希奈、なんか言って」と情けなく呟いた。
「驚いた」
由希奈ちゃんがポツリと呟く。
「うん、だよね」
俺は由希奈ちゃんに渡した短冊を受け取ろうと指に挟んで引っ張ったけれど、彼女のチカラは強く抜けなかった。
「驚いたけど、嬉しい」
由希奈ちゃんは顔を上げてその大きな瞳は涙ぐんでいた。
俺の緊張の糸はするりと解けて俺も泣き笑いのような笑顔になる。
「そっか、良かった」
「うん」
胸がいっぱいになって、言葉にならない。
俺は改めて由希奈ちゃんに手を差し出すと、その手をしっかりと握り返してくれる。
繋いでいない手には、一生モノの宝物になった短冊が互いの手に握られている。
「短冊、持って帰っても良いと思う?」
「良いんじゃね?俺も持って帰るし」
彼女がクリアファイルに挟んでカバンに入れたのを見届けて、俺も同様に仕舞う。
「なにか食べに行こうか。良いモノ」
「思い出になるもの?って言っても遅番終わって21時だよ」
「隠れ家的な深夜営業もしてるお鮨屋さん、浅尾先生が結構美味かったって言ってた」
「浅尾先生が言うなら間違いないね。そこ行こ」
職員通用口を出て、病院のエントランスへ回る。
ガラス越しに大きな笹がダウンライトに照らされて美しく浮かび上がっている。
今夜は夜風が少し日中の暑さを和らげて、心地の良い七夕の夜だ。
なんとなく空を見上げる。雲ひとつなく晴れ渡り、星々が白く瞬く美しい星空だった。
由希奈ちゃんと手を繋いだまま、病院の庭園のベンチに座って無言で星空をしばらく眺める。
「由希奈ちゃん」
「ん-?」
「ひとつ提案があるんだけどさ」
「大和くん、短冊を結びに戻ろうと思った?」
静かな問いかけになんでわかるの?と振り向く。彼女は「やっぱり」と悪戯っぽく微笑んだ。
「さすが、有能な看護師さん」
「て言うか、私も短冊を結んでも良いかなあって思っただけだよ。…織姫と彦星みたいに願いごとを叶えたいし」
「うん。俺も、全く同じこと考えてた」
ふたり、自然と同じことを願っているのがすごいと思う。素敵なことだと思う。
「なあに、大和くん、ニヤケちゃってるよ」
指摘されて咳払いして。でも、と由希奈ちゃんを見た。
「だってやっぱりすごいよ。短冊の願いも、短冊を結ぼうと思い直したことも。俺たちってずっとこうやって楽しく一緒に過ごせそうだなと思って」
由希奈ちゃんはふうわりとゆるく笑って「うん、大和くんとなら」と俺の手を強く握り返した。
「戻りますか」
「うん」
エントランスから窓越しに笹を見つめ、通用口を通って無人の静かな玄関ロビーへ回る。
二人でそっとテーブルを運び、由希奈ちゃんが支える中、俺は爪先立ちをして1番高い枝に二人の短冊を結える。ピンクと水色の短冊は光に照らされて白く浮かび上がるようだ。テーブルを支えている由希奈ちゃんが、「なにも書いてないように見えるよ」と伝えてくれた。
テーブルから降りて由希奈ちゃんの柔らかな手をギュッと包み込むと、彼女は静かに握り返し、大きな瞳で俺を見つめた。
「俺とずっと一緒にいてくれる?」
彼女の瞳が、星空みたいに揺れている。互いに見つめ合う静かな時が流れる。
「もちろん。私と…ずっと一緒にいてね?」
由希奈ちゃんの声は小さくて、でも心からの願いがこもっていた。
「もちろん。ずっと一緒にいるよ」
病院を後にして夜風に吹かれながら星々を見上げる由希奈ちゃんの横顔をそっと見つめる。気づいた彼女と瞳が合う。まるで星々の煌めきを宿したように美しいと想う。
「大和くん、私、今夜のことずっと憶えてる」
「俺も。最高の七夕の夜だ。…でも、鮨も楽しみ」
弾んだ声で付け加えると、「ね。私も」と同意の声は弾んでいた。
小さな笑い声が夜空に溶けてゆく。
七夕の夜の誓いは、短冊の光のように、澄んだ星々のように、静かに美しく響き合っていた。
「願いごと」
カーテンから差し込む朝の光に目覚めると、漸く手に入れたと信じた人は俺の隣に居なかった。
『波音に耳を澄ませて』
白いシーツに横たわっていたはずの彼女の痕跡を探るように手を這わす。そこは人がいた形跡はなくシーツの冷たさだけがあった。
下着だけを身につけていた俺は、床に落ちていた浴衣を羽織り帯をゆるく結ぶ。脱がしたはずの彼女の浴衣は着用前のように整然と畳まれていた。
元カレのことをやっと忘れてくれて、付き合うことができて、二人旅の昨夜、漸く身も心も結ばれたと実感できた。俺のことを好きになってくれて、幸せだと実感した翌朝、彼女が隣にいないなんて。
宿の温泉に行ったとも、ロビーでモーニングコーヒーを味わっているとも思えなくて、だけど一縷の望みは捨てたくなくて廊下を見渡しながら玄関まで歩く。
俺の靴だけが下駄箱にポツンと残されていた。
靴に履き替え、波音と潮の香りに導かれるように砂浜へ足を向ける。
白いワンピースを着た彼女は白い砂浜の波打ち際にひとり佇んでいた。
朝陽が海面を照らし金色にキラキラ光っている。
さざ波が浜に打ち寄せ砂浜を濃く濡らし海へ還っていく。
終わることのない繰り返しに彼女は微動だにせず、波音に耳を澄ませているよう。
何を思っているのだろう。
きっと、俺のことではなくて……
『波音に耳を澄ませて』