自死の記述あります
私には、最低でもこの歳まで生きようと決めている年齢がある。
今の目標は54歳の誕生日を迎えること。あと3年。
その前は48歳だった。
47歳——精神病を患って希死念慮に取り憑かれていたお母さんが本当にこの世を去ってしまった年齢。
母の歳の離れた兄—私の叔父—も47歳で自死してしまった。
お母さんが亡くなった当時、私は24歳。私も47歳になったら自死してしまうんじゃないかと本気で悩み、48歳の誕生日を迎えることが自分の最大の目標になった。
こんなに悲しくて酷い目標は、誰にも言えない。
母の仏壇や墓石の前だけの決して声に出さない、私が一方的に語りかけるささやかな約束。
私は幸いにも精神病を患うことはなかったが、子育て中には反抗期の「お母さん大嫌い」などの言葉、旦那との口喧嘩に傷ついたり悩んだりした。
時々、誰も知らない場所へ行きたい、お母さんの眠る墓園へ行きたいと願う日もあった。
そこを踏ん張って48歳を迎えた日、次の目標が決まった。
54歳を迎えようと。
お母さんが私が24歳の誕生日を迎えるのを待ってくれたように、私も長女が24歳の誕生日を迎えるのを待とう、と。
だけど——私には3人の子どもがいる。
最低でも3人の子どもが24歳を迎えるまではちゃんと生きていたい。
3人目の子は特に、私のことが結構好きだと思うから、彼女を悲しませたくない。
あと10年。61歳。ちょっとだけ長いような気がするけど、私は心で私に約束をしていこうと思う。
だって本当の私はもっと欲張り。
お母さんの遺してくれたお金は、とある支払いに回した。
それ、75歳まで分割で私に還ってくるんだよね。
お母さんの遺してくれたお金、私が大切に使いたいもん。
だからできれば、75歳まで生きたいんだ。
ささやかな約束
君と歩く秋の夕暮れ、金木犀の甘い香りが僕の心を過去の淡い片恋の想い出へと向かわせる。
行かないで、お願い。
幼すぎて言えなかった願いは叶わずに、君は両親に手を引かれて引っ越してしまった。
ジェット機の音を追いかけて空を見上げると、金木犀の鮮やかなオレンジ色が陽光に反射して眩しく揺れていた。
成人して、君は僕が住むこの街へ帰ってきた。
僕が見上げたあの金木犀が植えられた家へ、今日から僕と君は一緒に住むんだ。
キンモクセイ
どこへ行こう
って休日の前日や当日によく思う。
スマホで眺めて時間が溶ける。
結局近場へ出かけたり出かけなかったり。
普段からスマホで動画やSNSを眺めてるくせに、ランチの場所でさえ(どこへ行こう)って思うんだよね。
忘れっぽくてめんどさがり、結果インドアな自分。
人生損してる気がする。
どこへ行こう
23歳の私の誕生日、交際中の彼がバースデーケーキの箱を抱えて私の部屋へやって来た。
いつ言おう…
そんな私の悩みなど知らない彼は、笑顔で私にケーキの入った箱を開けさせる。中には2〜3人用の小さなホールケーキが入っていた。
私の好きな、フルーツタルトのケーキ。チョコレートのプレートには私の名前とhappy birthdayと筆記体の流れるような文字。
交際を始めた大学生の頃から、彼は毎年お祝いしてくれている。
ケーキに刺したキャンドルの炎を吹き消し、2人でホールケーキを食べ切る。
「2人とも甘いものが好きで良かったよね」なんて、過去、笑顔で食べていたのに、今の私は少しだけ胃もたれ気味だ。
ケーキを食べ終わると、彼はいつの間にか背中の後ろへ隠し持っていた箱を自分の両掌に乗せて私へ差し出した。
「結婚してください」
彼の声は少しだけ震えている。
言い終わって引き結んだ唇と私を見つめる瞳が、私の返事を待って揺れる。
彼に、私との結婚の意思があることは気づいていた。
大学生の頃、結婚するなら私みたいな人が良いと何回か伝えてくれていた。私は小さな声で「うん、私も」と返事をしたこともある。
手を繋いで幸せだと思ったあの頃。
…だけど、私の気持ちは揺らいで、そして変わっていった。
社会人として働くようになって、彼と働き方に大きな差があることが気になってしまった。
総合病院の看護師として働く私と、中小企業に勤めるサラリーマンの彼。
平日8時間労働、残業なしの彼と、残業がデフォルト、夜勤や土日出勤が当たり前の私。
不規則な勤務体系の休日を休息に当てたい私と、土日は一緒に過ごして欲しい彼。
私が頑張らなければ、不満に思う彼。
彼のことは好き。
ライブの楽しさを教えてくれて、サーキット場へ行ってモータースポーツの迫力も教えてくれた。
愛し合う夜が愛を強くすることも教えてくれた。
彼は今でも、私との結婚を考えてくれている。
新卒でこの総合病院に就職したとき、本当に仕事のできない看護師だった。
それでも勉強して、先輩看護師に叱られても教わりながら、なんとか職場の人や患者家族に認められるようになった。
いずれ辞める日が来るとしても、今じゃない。
あと数年はこの病院を辞めたくない。
スキルアップするために、病棟看護師を辞めたくない。
だけど彼が満足できる結婚生活を送るためには、私が職場を変わらなければいけない。
基本給や手取りが減って、収入が減るってわかっているのに。
「ごめんなさい」
彼が差し出した掌に乗る小さな箱を、そっと、だけど確かな意思を持って押し返す。
それをされた彼の瞳が哀しげに揺れる。
「どうしても…受け取れない?」
「うん…ごめんなさい」
婚約指輪だとも結婚指輪だとも言われていない箱を彼の掌に乗せたまま、私を見つめて懇願した。
「でも…開けてみて」
「できないよ。ごめんなさい」
中身の見えないその箱を、私は持つこともしなかった。
悲しんでいる彼を直視できずに、私は自分の身体を抱きしめる。
彼はため息を吐いた。
私が頑なに断ったとき、梃子でも動かないと彼は知っているからだ。
彼は小さな箱が入っていた紙袋からラッピングされた袋を出してそのリボンをするりと解き、淡いピンク色の毛糸で編まれたマフラーを取り出した。
彼にマフラーをするりと首に巻かれると柔らかな風合いで暖かかった。
淡いピンク色…彼に私はこんなに可愛く映っていたんだと思うと、申し訳ない気持ちになった。
「…今日は帰るよ。誕生日、おめでとう」
彼の声には疲れが滲んでいた。
「…今までありがとう」
結婚したい彼の時間をこれ以上奪いたくなかった。
彼が私を驚いて見つめて、何かを言おうとして唇が震える。だけど彼は言葉を発することなく、顔を横に向けて視線を逸らせた。
私の声は震えていたけれど、彼にきっと私の想いは伝わった。
彼は私が受け取らなかった箱を乱暴にバッグに放り込んで、玄関へ速足で駆けていった。
彼は傘立てにぶつかったのだろう。傘立てが倒れた音が大きく響く。その音に重なるように玄関ドアが閉まる音も重く響いた。
ごめんなさい。
もう彼に謝罪の言葉は聞こえないけれど、私はまた呟く。
私が受け取らなかった箱。
彼も二度と開けない箱にしてしまったのかもしれない。
秘密の箱
光と靄の狭間で
彼女の23歳の誕生日。
僕は彼女の好きなフルーツタルトのホールケーキを持って彼女の部屋を訪れた。
小さなホールケーキのキャンドルの炎を彼女が吹き消すと柔らかな淡い光が余韻を残す。僕は照明のリモコンを手に取り、部屋を明るくしてケーキを切り分けた。
交際を始めた大学生の頃から、僕は彼女と2〜3人用の小さなホールケーキを食べ切ってきた。
「二人とも甘いものが好きで良かったよね」と笑い合って、半分こづつ。彼女はフォークで小さく切り取って小さな口に少しづつ運ぶ。
彼女はずっと昔から可愛い。小動物のようなその食べ方だけでなく。
彼女は光のような人だ。
僕は彼女と想い出を共有してきた。アーティストのライブやサーキット場の迫力を、黒目がちの瞳をキラキラさせて彼女は喜んでくれた。
夜の帷が降りた暗い部屋で二人きりで過ごす時間は、二人の愛が強くなることを教えてくれた。
僕たちは一度も喧嘩をしたことがない、穏やかな関係だ。
互いに意見を言い合わなくてもなんとなく思いを察することができている。それって、素晴らしい関係だと思う。
だから僕は大学生の頃、彼女に「結婚するなら君みたいな子が良いなあ」と何回か言ったし、それに対して「うん、私も」と小さな声で返事をしてくれたとき、嬉しかったけれど当然のこととも思った。
彼女に光だけが差しているわけじゃないとわかったのは、大学生卒業後だ。
看護師として就職したとき、側から見ている僕でも看護師という仕事は精神を削られていくんだとわかった。
やつれていく彼女が心配で、僕は彼女と休みが会うたびに彼女を外へ連れ出した。気分転換が彼女には必要だった。
彼女が働き始めて1年を過ぎた頃、彼女の顔にはようやく明るさが戻った。
その頃だっただろうか。
彼女が休みの日に僕が部屋を訪れたときに笑顔で迎え入れてくれていない気がしたのは。