Mey

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10/14/2025, 3:49:28 PM

私が幼かった頃、毎年晩秋になると母親と母の兄一家は私を愛知県からお隣の長野県へ、りんご狩りに連れて行ってくれた。

国道151号線、山道のドライブはくねくね道。酔いやすい私は今でこそ酔い止めを飲んで道中は眠る、という技を編み出しているが、その当時は子ども用の酔い止めがなかったのか、飲ませたくなかったのか、丸腰でくねくね道に挑戦させられ、毎年のように車酔いをしていた。
それでも、標高が高くなると枯れ草が雪に覆われ、やがて車窓から見える畑も雪に覆われる。
雪景色にわくわくし、飽きることない雪原の眩しさに嬉しくなる。
飯田から中央道に乗れば南アルプス山脈の雪景色が続き、手前はりんご畑がどこまでも拡がる。
否が応でもりんご狩りへの期待が高まった。


「こんにちは」「こんにちは」
毎年お馴染みのりんご農家のおじちゃん、おばちゃんとにこやかに挨拶を交わす。おじちゃんは白髪短髪、薄い茶色のサングラスをかけた中肉中背で筋肉で腕が太い人。おばちゃんは黒髪白髪混じりのショートカットでサイドの髪を耳にかけた、女性にしては背が高くキリッとした感じの人。
りんご畑の土は靴越しに柔らかくふんわりと沈む。りんごの甘酸っぱい匂いが周囲に強く漂う。
「準備してたよ」とブルーのレジャーシートの上には、薄緑色のプラスチック製のカゴ、ハサミ、ナイフ。
りんごの美味しい見分け方を習っている私だけど、おばさんはまた美味しいりんごの見本を見せてくれて説明してくれる。
艶々した大きな紅いりんごは、ふじ。大好きな品種。

「りんごのお尻を見てね。深く窪んでて黄色っぽいものだよ」
ナイフでスパッとりんごを縦に切ると、果汁が飛び、蜜がいっぱい入って、甘酸っぱい匂いが強くなる。
「美味しそう!」
「頑張っていっぱい食べてね」

タートルネックのセーターに厚手のジャンパーと内側が起毛処理してあるズボン。厚手の靴下。
防寒対策バッチリで着膨れしたままら青空とりんごの葉やりんごのお尻を眺めながら、手を目一杯伸ばしてりんごを斜めに持ち上げると、パキッと小君良い音と共にりんごの茎がポッキリ折れた。
ちょっとベタベタするこの感じは、蜜がいっぱい入っててきっと美味しい。
りんご農家のおばちゃんは忙しく接客中で、おじちゃんのところへ見せに行く。
「これ、美味しいよね!?」
おじちゃんはりんごのお尻をチラッと見て「美味しいよ」と白い歯を見せて笑った。
「やった!」
そのまま私の家族が座るレジャーシートに座って、りんごの皮を剥いてくれる。皮が陽に透けそうなほど薄く、私は感嘆のため息をこぼす。
おじちゃんは私の視線に気づいて嬉しそうに笑った。

正午近くになり秋の日が差し出すと暑くなってジャンバーを脱ぐ。
湿度の低い爽やかな風が気持ち良い。
蜜の入ったりんご、2個目を齧る。


「梨、剥いてきたよ」
その声に振り返ると、おばちゃんが大皿に山盛りの梨を抱えて持っている。
梨の甘い香り。
梨の断面から水滴が滲んで、食べる前から瑞々しい梨だとわかる。
「いただきまーす」
次々と大皿に手が伸び、大きな梨を手に取る。
程よく冷やされた梨は、大きな口で齧っても、まだ半分も減っていない。そしてとても甘く、口の中で水分が弾けた。
「美味しいっ!」
「うんうん。今年は梨もりんごも甘くて美味しいから、たくさん食べてね!」
「うんっ」

親友の姪っ子という理由だけで、りんご狩りなのにお腹いっぱいになるまで梨をサービスしてくれる。
帰り際、おばちゃんは私にスーパーの袋いっぱいに詰めた梨をプレゼントしてくれた。
両手で抱えて持ってもズッシリと重い。
「ありがとうございます!!」
「また来年も来てね」
「うんっ」

毎年交わした約束は、私が高校を卒業するまで続いた。


それから10年ほどは、私は学業や仕事が忙しく、毎年恒例のりんご狩りに参加できなかったが、母と母の兄夫婦は自分の息子夫婦や孫を連れてりんご狩りをしていた。
親が長野県から帰宅すると、家の寒い勝手口はりんごと梨の甘酸っぱい匂いで充満し、私はあのりんご狩りの風景を思い出した。
りんごの皮も梨の皮も剥いて食べるが、あのおじさんのように陽が透けるほど薄く長く剥くことはできない。千切れた皮を見ては、「もっと薄く剥くんだよ」と教えられた高校生の頃を思い出す。


その後、私の母が亡くなり、母の兄が亡くなり、恒例のりんご狩りは途絶えてしまった。
ただ、りんごや梨が美味しい時期になると、りんご農家のおじさんおばさんは、母の兄の奥さん--叔母さん--へたくさんのりんごと梨を送ってくれた。
「持ちにおいで」と言われて持ちに行き、段ボールに詰められたりんごをひっくり返してお尻を見る。黄色っぽく、窪み、りんごの表面がペタペタしてる。
家まで1時間の距離を待てなくて、叔母さん宅で梨の皮を剥いて手づかみで食べる。変わらず瑞々しくて濃厚な甘味。だけどどこかサッパリしてて美味しい。
「心を込めて育てました」
段ボールに入れられた手紙のコピーに笑みが溢れる。
「電話したら美味しかったって言っておいてね」
「わかった」

甘い匂いの段ボールを抱えて車に載せる。
匂いと共に1時間、家に帰れば旦那と子どもたちが競うように食べるのだろう。
あの子たちは、りんごの皮を剥かない方が美味しいというこだわりがある。
それも素敵なことだよね。

私は笑顔でハンドルを握った。


数年前、りんご農家のおばさんが認知症状が進んで施設に入居したと、私の叔母さんから聞いた。
女性にしては背が高くキリッとしているけれど、梨をたくさんプレゼントしてくれる、あのおばちゃんが。
「そっか…姉さん女房なんだっけ?」
「そう。5歳くらい上だったかな」
「若く見えるのにね」

りんご農家のおじさんおばさんは今はもう80歳を超えているはず。
あのりんご園はどうなったのだろうか?
ふかふかの土と、りんごと梨の甘酸っぱい匂いに満たされたあの場所は。

「ひとり、息子さんいたよね?」
「うん、あんたと同世代。東京で暮らしてる」
「そっか…」

歳月は流れていくんだ。誰のもとへも平等に。

仏壇にお供えしたりんごと梨はスーパーで買ってきた物。
お尻の黄色味の少ない、表面がペタペタしない、蜜が入っていないだろうりんご。

叔父さんへ線香をあげて手を合わせた。
「りんごと梨、これでごめんね」と。


そして昨年、りんご農家のおじさんが亡くなったと、叔母さんから聞いた。
薄い茶色のサングラスの下で瞳がいつも笑って、皮を剥くのが上手なおじちゃんが。

「そっか…」
「東京の息子さんが、私の番号をなんとか調べて電話をかけてくれてね。家にかかってきた電話だけど、なんか胸騒ぎがして、出て良かった」
「ホントだね」


2人、お茶を飲みながらしんみりとする。

そう言えば、りんご園は寒いからと湯呑みと急須には熱いお茶を準備してくれた。
お茶請けは小松菜の漬物。
お菓子じゃないことにビックリしたけれど、長野県のお茶請けは漬物が定番だと聞いて二度驚いたことを思い出す。


おじさんが亡くなったことに少なからずショックを受けて、その日は早めにお暇した。

もう二度と逢えないんだ。

青空に、冷たい風が木々を吹き抜け、ザワザワと葉を揺らした。



旦那がスーパーで買う梨は、収穫が早いのか緑がかって青臭い。
甘味が足りず、瑞々しさが足りず、満足感が得られない。

だけど、ごく稀に。
甘い香りのする、瑞々しく張りのある大きな黄色の梨に出会うことがある。
お尻を眺めて満足して半分に切ると、断面から水分が弾ける。


そんなとき、あの、りんご狩りに行った日のことを思い出す。
寒くて、積もる雪景色が綺麗で、梨もりんごも美味しくて、おじさんおばさんの温かな笑顔を。

もう二度と戻れないかけがえのない晩秋を。






10/13/2025, 10:01:36 AM

『どこまでも』



「左へ進むと俺の家」
耳元で囁かれた言葉を意識しないわけじゃない。
でもそれ以上に、闇に飲み込まれそうな見知らぬ細い路地を、同僚と繋いだ手の温もりと、同僚の背中のカバンの金属が街灯に照らされてキラキラと光るのを頼りに私は歩いてきたから。
この切れかけた街灯が薄ぼんやりと照らす見知らぬ交差点の私の行き先は、きっと、左。

交差点を左に曲がった。
同僚は私を慌てて追いかけて、私のカバンをそっと受け取った。パソコン、モバイルバッテリー、ファイル。重かったビジネスバッグは同僚が引き受けてくれて、右肩が軽くなる。
私の手は再び同僚にすっぽり包まれている。
「俺の手、暖かいでしょ?」と手を繋がれて「うん」と答えた。

交差点の先では変わらず夜の闇に溶けそうな細い路地が続いた。
恋人の裏切りが頭の片隅で疼いている。あの吐き気を催す光景――同期の彼が、新入社員の女を膝に乗せ、親しげにパソコンを覗き込む姿。まるでキスしそうな距離感だった。
でも、今、彼の手の温もりが、私の痛みをそっと包み込んで少しだけ和らいでいるかもしれない。


彼と私の交際は、会社では内緒だった。同期入社の戦友のような関係がいつしか恋に変わったけど、私たちは職場で私情を持ち込まないようにしようと話し合った。だから、誰も知らないはずだった。
なのに、なぜか今、隣で手を引いてくれるこの同僚の瞳には、私のすべてを見透かしているような深さがある。

「ここ、俺の家」
彼が立ち止まり、路地の奥のアパートを指さした。3階建ての建物とシンボルツリーがダウンライトに仄かに照らされどこか温かく浮かび上がっていた。
彼は階段を上った先の角部屋のドアの前で私を振り返って言った。
「狭いけど、まあ、上がって」

部屋はワンルームで、モノトーンやダークブラウンの家具で統一された簡素だけどお洒落な部屋だった。
同僚の会社のデスクと同じように部屋は整頓されていて、ビジネス書やノートパソコンが置いてある。
裏表のない性格なんだなあとなんとなく眺めてしまうと、彼は「あんまり見るなよ」とボソッと呟いた。

「ん、でも、柴犬?の羊毛フェルト?だっけ?かわいいね」
玄関の鍵を置くスペースにちょこんと乗った柴犬の手芸に笑みが溢れる。誰かからのプレゼントかな?
「実家で柴犬を飼ってるんだけどさ。一人暮らしをする前に妹が作ってプレゼントしてくれた」
「妹さんがいるんだ。お兄ちゃんのために、って優しいね」
「どうだか。こういうのに作るのにハマってる時期だったから、ちょうど良かったんじゃねーの?」
「そんなこともないと思うんだけどなあ」

彼は少し照れている。プライベートの話を聞くのは初めてだった。なんか楽しい。気が紛れる。
「座ってて。何か嫌いなものはある?」
「ううん、何でも食べれる」
「それは助かる」
ジャケットを脱いだ彼は冷蔵庫を開けて中身を確認している。

「手伝うよ」
私が立ち上がると、彼は柔らかい笑顔で首を振る。「キッチン狭いから、座ってて。チャーハンにするよ。すぐできるから」

その言葉通り、まな板で野菜を切るリズミカルな音がフライパンを振る音に変わり、チャーハンの香りが部屋に広がる。
胃が小さく鳴り、恥ずかしくてバッグをぎゅっと抱えた。
「自炊、するんだね。私、一人暮らしなのに、コンビニ弁当ばっかり」

彼は卵を割りながら、肩をすくめた。
「一人暮らしならキッチンも狭いし、そんなもんでしょ。俺は気分転換になるからしてるだけ。茨城に住む婆ちゃんが家庭菜園の野菜を送ってくるし」
彼の声に、照れ臭さとほのかな優しさが混じる。
「家族、仲が良いんだね」
「うん、まあ、そうかも」
だからあんなに仕事ができても友好的でいられるのかな。
穏やかな人柄のルーツを垣間見た気がして、なんだか微笑ましか思った。

テーブルに置かれたチャーハンは、シンプルだけど彩りがきれい。パラパラの米、刻んだネギ、ごま油の香り。「いただきます」一口食べると、温かさが身体に染みる。「…美味しい」思わず呟くと、彼は照れくさそうに笑った。「まじ?良かった」

夕食を終え、彼が「駅まで送るよ」と言ってくれた。
バッグを肩に掛け、夜のひんやりした空気の中を歩く。
路地を抜けると、あの交差点に辿り着いた。電球が切れかけた街灯が、薄ぼんやりと光る。闇に溶けそうな小さな交差点。

彼が立ち止まり、細い路地を指さした。
「さっき言わなかったけど、この細い路地、広い通りに出るよ。小池町に」

その言葉に、胸が締め付けられた。小池町。あの男の家がある場所。
行きの交差点では同僚の選択肢になかったのもあって、細すぎて気に留めなかった路地。

真っ直ぐ進めば、彼の家――裏切りの光景がフラッシュバックする。
会社で見た、彼が新入社員の女を膝に乗せる姿。「負けず嫌いなとこ、好きだよ」と言っていた彼が、仕事ができないとぼやいていた子と楽しそうに笑い合っていた。顔も身体もピタリとくっついてしまいそうなあの距離感が、吐き気をもよおす。

ふと、彼の瞳を見ると、どこか悲しげな光がある。「左、行く?」彼の声はそっと、私の心に問いかけているかのように響いた。

その瞬間、気づいてしまった。彼は知っていたんだ。私とあの男が付き合っていたこと。
きっと、あの裏切りも――。だから、私の異変に気がついて、追いかけてくれたんだ。

「…知ってた、んだよね?私とあいつのこと」
声が震える。
「あいつの裏切りも、ずっと前から…」
最悪な光景がフラッシュバックする。

彼は一瞬、目を逸らし、静かに頷いた。
「ごめん」
彼の声も傷ついている。私はため息を吐いた。
「言ってくれれば良かったのに」
「ごめん」
「謝らなくて良いよ。悪いのはあの男なんだから」

薄ぼんやりと灯っていた街灯が、切れかけて光がチラチラ揺れる。ノイズが夜の闇に響く。

「あいつの裏切りに気づいてから、言うべきか言わないでおくべきかずっと迷ってた。いや、言った方が良いに決まってるんだけど、言って傷つくのがわかってるから怖くて言えずにいた」

彼の声は低く、どこか痛みを帯びていた。
「ごめん、黙ってて」

胸が締め付けられた。彼は私のために黙っていた。ライバル視していた私に、いつもさりげないヒントをくれ、追いかけてきてくれたこの人は、こんなにも私のことを考えてくれていたんだ。


同じ交差点。行きの左は優しい同僚の家。
帰りの左は私を裏切った男の家。

私は目を閉じた。
裏切りの光景が頭をよぎる。あの笑顔、彼女の肩に触れる手。向き合いたい。でも、胸の奥が震える。

「まだ、行けない…」
私らしくない。裏切った男に、私へ伝えていたことと180度違う、どういうことかと問い詰めたい。
だけどそれをするには、会社での光景があまりに酷くて辛くて。

彼は一瞬黙り、切なそうに、だけど優しく微笑んだ。
「そうだね」と私の手を包み込むように握り、駅へと歩き出す。
私はまた彼の後ろを歩いた。
彼はダークスーツを脱ぎ、白い長袖Tシャツに着替えていた。闇い夜に白いTシャツが街灯に照らされる。まるで道標のように。


駅までの道は、静かで温かかった。彼の手の温もりが、私の凍えた心をやっぱり少しずつ溶かしてくれていると思う。
「何かあったらさ」
「うん?」
「もっと頼ってくれていいから。やけ食いでも、飲みに行くでも、何でも。俺、どうせ暇してるし」

テーブルの上にあったビジネス書は、付箋が何枚も貼られていた。
それでも、彼は私の力になってくれると伝えてくれる。
胸の奥が熱くなった。

彼が私の交際を知り、裏切りを知りながら、黙ってそばにいてくれたこと。それが、どれほどの優しさだったか。

改札の前で、彼は私のバッグをそっと返した。 
「また明日、会社でな」
「うん…ありがと」
バッグを抱え、改札をくぐってからそっと振り返る。
彼は私を見送ってくれていた。
なんとなく寂しそうな表情をしている彼と目が合って、彼は小さく微笑んだ。彼の優しさに心が揺れる。私は小さく手を振って、ホームへと急ぎ足で向かった。


まだ勇気を出せない。あの男と向き合う力は、今の私にはない。
でも、この手を握ってくれた彼がいる。この温もりが、私を支えてくれる。
いつか、きっと、決着をつけられる日が来る。

その日まで、この道標の光を胸に刻んでおこう。

どこまでも、歩いていける気がする。




『どこまでも』

10/12/2025, 1:59:26 AM

私の手を引いてくれるダークグレーのスーツを着た同僚の後ろを歩く。
てっきり駅へ向かって私の知らない近道を歩いているのだと思ったけれど、どうも街の雰囲気は駅の賑やかさとは対極にある気がする。入り組んだ狭い路地を歩き続けて、方角は見失っているけれど。
繋いだ手の温もりがなければ見失ってしまいそうなほど、彼のスーツは夜の闇に溶けていた。


住宅街を貫く見知らぬ路地裏の交差点で私は「ねえ」と同僚を呼んだ。
急に立ち止まった私の隣に彼は並んだ。
背の高い彼に見下ろされ、黒い瞳に光は届いていない。
ドクン、と心音が低く響いた気がした。

「どこ行くの?駅、じゃないの?」
大きな声で尋ねたつもりだったのに、私の声は震えてか細かった。
「違うよ」
間髪入れずに彼は低い声で答えた。私の質問は彼の思惑通りだったかのように。

彼は私の背後へ回り両肩にそっと触れて、私の身体を右方向へ向けた。
「右へ進むと行き止まり」
「えっ?」
クルッと身体の向きを変えられ、私の顔の横へ彼の顔が近づく。
吐息が微かに私の耳へ触れた。
「左へ進むと俺の家」
ドクンドクンと心音がうるさく鳴り響く。

「駅へ行くなら来た道を戻る。もっと戻ると会社」
「会社は嫌」

私は吐き捨てた。


会社で残業終わりに廊下から見てしまったのは、交際中の彼が所属している部署とは異なるデスクで、新入社員の女を膝に乗せて一緒にパソコンを操作している姿だった。
今にもキスしそうな距離感は、吐き気をもよおすほど気持ちが悪かった。


彼氏、否、私を裏切った人は私と同期入社で、あの人とは会社の歓迎会で意気投合して友人から交際へと発展した。
負けず嫌いでいつも頑張る私が好きだと、私をよく褒めてくれた。
「俺も負けないようにしなきゃな」とまるで戦友のような恋人関係は、私の理想の交際相手だと信じて疑わなかった。

それなのに。
彼が膝に乗せていたあの子は、ウチの会社の中でも女子力が高い、良いところのお嬢様だともっぱらの噂の人。
肝心の仕事の能力はまだまだだとぼやいていたのは、他ならぬ彼なのに。

仕事を頑張る私が好きだった人が、なんで仕事ができない女へ裏切るの?


部署に走って戻った私に同僚は驚いて、私を呼び止めるように大きな声で呼んだ。私は彼の方を見ずに挨拶だけをして部署を飛び出した。
会社の前で手首が掴まれ、引き留められる。強く握られて「痛い」と伝えたら涙声だった。街灯は容赦なく私を照らす。

同僚と私は仕事の実力が拮抗していて、私は彼をいつもライバル視していた。負けたくなかった。
彼はそんな私に友好的な態度で接した。それが彼の余裕を感じさせて、私は益々負けないように仕事に精を出した。
そんな相手に自分の弱さを見せている今の状況はとても嫌。

「大丈夫だから」
「大丈夫と思えないから追いかけたんだけど」

彼は掴んだ手を外し、私のビジネスバッグを取り上げて自分の肩に掛けた。空いた手は私と手を繋ぐ。私の手は大きな手にすっぽりとおさまった。

「俺の手、あったかいでしょ」
「…うん」
人懐っこい笑顔を向けられて、小さく頷く。
彼がふふっと軽く笑ったのが夜の闇に溶けた。

歩き出した彼の後ろを着いて行く。
彼の背負ったバッグの金属を街灯がキラキラと反射させている。
闇い夜の道標のように。


同僚に対する私の態度は、決して褒められたものじゃなかったと思う。
ライバル視して、接し方も一線を引いたような態度だったはずなのに。

彼は私に時折さりげなくヒントを置いてくれた。アドバイスほど明瞭な助けではなく、私のプライドを崩さないように、解決への手がかりになる小さなアイデアを。

本当は、ずっとずっと彼に負けているんだ。
彼が他の社員に気づかせないように気遣ってくれているだけで。


「いつも…ありがとう」
「何が?」
突然の私からの感謝の言葉に彼は振り返って不思議そうに疑問を投げかけた。

「仕事で私が行き詰まってると、さりげなくヒントくれるでしょう?すごく助けられてるのに、私、お礼を言ったことなかったなと思って」

夜の闇に紛れて、彼の瞳に私がぼんやりと映る。
「別に…同じチームだし、なんとなくこうしたら良いんじゃないかなと感じたことを言ってるだけ。実際に仕事を動かしているのは貴女だよ」
私は首を横に振った。
「ヒントがなければ打開できなかったよ」
「そっか。お役に立ててなにより」
彼は微笑んで再び歩き始めたけれど、私は立ち止まって彼の歩みを止めた。

「今日も…ありがとう。追いかけてくれて、嬉しかった」

驚きに目を丸くした彼は、次の瞬間、破顔した。
嬉しそうに笑う笑顔はちょっと可愛くて、走ったときのように鼓動が速まった気がする。



見知らぬ交差点。
左か、元来た道を戻るか。

私は彼が持っている自分のバッグに手を伸ばす。
彼の瞳が悲しげに揺れた気がした。

彼は私のバッグを私の手に持たせた。

「ごめん…送らないけど」

彼の傷ついたような声を初めて聴いた。

ああ、そうか。
この人は私のことが好きだったのか。

だから私に優しくて、私の異変に気がついて、後を追いかけてくれたのか。


薄ぼんやりと浮かぶ電球が切れかけた街灯がひとつだけの、暗闇に溶けそうな信号のない小さな交差点。

だけど、手の温もりとカバンの金属が反射する光を頼りに私が自ら歩いてきた交差点。

この導かれた交差点の先は、きっと同僚が教えてくれる。

交差点を左折する。
追いかけてくれるはずの彼は隣に並ばなかったから、数メートル先で振り返った。

「道案内してくれなきゃわからないよ」
「あっ、」

駆け寄った彼は私のバッグをそっと肩から外した。
タブレット、モバイルバッテリー、ファイル。
重かった右肩が軽くなる。


カバンの金属が街灯に反射して眩しいくらいにキラキラ光る。

「…良かった。追いかけて…」
彼がポツリと呟いた一言は、夜の闇にとても優しく温かく私の心に響いた。




未知の交差点

10/10/2025, 10:31:06 AM

秋恋

憂いを感じますね
書けたら書きます

10/9/2025, 10:11:50 AM

R15
自死の記述あり


ねえ。まだ自分のことを俺のセフレだと思ってる?
白いシーツに包まれて穏やかな寝息を立てる隣の女の艶やかな黒髪を一房掬い上げて口づける。

俺が「遊び人」と周囲から評価されていることは知ってる。
それを利用して人恋しくなっていたキミの肌に触れたのは俺。

でもさ、そろそろ「遊び人」のレッテルも「セフレ」のレッテルも剥がしてくれても良いんじゃない?
キミのこと、ずっと目で追っているから、キミに近づく男を追い払えるんだよ?


キミの魅力には、最初から気がついてたよ。
キミが大学のキャンパスで、黒い眼鏡をかけて休憩時間に小説を読んでいた頃から。
木陰のベンチで読書するキミの横顔はいつも物語に惹き込まれていた。微笑んでいたり、涙を拭っていたり、考え込んでいたり。


俺が初めて喋りかけた日は天気雨だったね。
少し離れたところからキミを見つめていたら急に雨が降り出して、俺は雨宿りするフリをしてキミのいる木陰に走って滑り込んだ。
キミは会釈した後、ハードカバーをハンカチで丁寧に拭ってた。
雨が香る。雨が降る明るい空が景色を輝かせる。
キミが横髪を耳にかけると色白の柔らかそうな肌と、淡いピンク色のリップが目に入った。
その仕草に見惚れて、恋してることを知った。

「本、大丈夫そう?」
「あ、うん」
キミの落ち着いた雰囲気に合わせて、ポツリポツリとキミに話しかける。
キミが今読んでる本は昔映画化された原作だと教えてくれた。
俺はその日のうちに映画作品を視聴できるアプリ会員に登録してタブレットで視聴した。
初めて知る世界はそれなりに面白くて、でも、今、キミが隣にいたら良いなと思いながら缶ビールが減っていった。



ベッドルームに朝陽が差す。
キミはふるりと長い睫毛を震わせて目を開けた。

「おはよう」
俺が笑うとキミは顔を背けて「今何時?」とベッドフレームのスマホを探し始める。

スマホをキミに探させたまま、耳、首筋、肩…柔らかなキスを繰り返す。指は触れるか触れないかの強さで柔やわとキスの後を辿っていく。
キミは口元に手を当てたけれど、隠しきれない吐息が熱く乱れていく。

「どうして我慢するの?」
「だって、朝からなんて、」
「時間なんて関係ないよ」


俺を恋人だと認めたくないのなら、

外せない蔦を絡めてあげる。
甘やかな棘で刺してあげる。


キスをさせてくれない酷い女。

他界した元カレを忘れられない憐れな女。


キミと俺がキャンパスの木陰のベンチで会話するようになってから、キミの元恋人---俺の親友が俺たちの会話に加わるようになった。
3人で遊びに行くようになって、何度も3人で遊びに行って、そしてキミの心は親友に傾いていった。

俺の前で笑い合う2人。
小説が映画化されたと、映画館デートを約束する2人。
一緒に観に行って良かったと、感想を言い合う2人。

首に浮かぶ鮮やかなキスマーク。



もう、どうでも良いや。
それからは、木陰のベンチに行かなくなった。

飲み会で誘われるまま女の肩を抱き、肌を重ねた。

キャンパスで会うキミは、俺に心配そうな視線を投げた。

LINEで大丈夫かと問いかけられて、ホテルに誘ってみた。
それ以降、LINEが送られてくることはなかった。



親友は、俺の気持ちに気づいていた。

「ごめん。でも、アイツだけは譲れないから」
「そりゃそうだろ。俺だってそうするよ」

頭を下げた親友の肩を叩いてキャンパスを後にする。
天気雨が俺の顔を濡らす。

濡れたまま歩く俺を人々が足早に追い抜いていく。
水溜りの飛沫が俺の脚元を濡らして、カーキのズボンに濃いシミを作った。


「何で歩いているかなあ」

呆れたような声に視線を向けると、何度か肌を重ねた女が俺に傘を差し掛けようとしていた。
長い黒髪の眼鏡、色白の小柄な女。キミに外見が似ている女。

「雨、気持ち良いからさ」
「そう?」
女が傘を閉じて、俺は慌てた。
「待て待て、結構降ってるぞ?」
「気持ち良いって言ったじゃん」
「言ったけどさあ」

会話だけは軽やかに、女は俺のペースに合わせて早歩きをしてくれているんだと気づいた。

「俺とさ。彼氏ができるまで付き合ってくれない?」
「それって、セフレじゃなくってこと?」
「そう。男女交際の方」
瞳をまん丸にして、俺を見上げた。
「唐突だね。まあ良いけど」

女の目の前でセフレをブロックして、女との交際は3年ほど続いた。

キミから再び連絡が来るまで。



キミから呼び出されて向かった先は大きな大学病院だった。
痩せ細った親友が、ベッドに横たわって点滴に繋がれていた。

「俺さ、癌なんだ。若いから進行が速いんだって。余命数ヶ月ってとこ」
か細く聴き取りにくいけれど、親友は気丈に話した。
親友が癌になったことも、余命数ヶ月だということも、信じたくないのに、親友の痩せ細った姿が現実を突きつける。

「また来るから」
碌に会話もせずに約束だけを残して、病室のドアを後ろ手に閉める。
信じられない。信じたくない。
指先が冷たくなって小刻みに震えている。



その後、何度か病室へ通った。
キミも気丈も親友に付き添っていた。

キミは会うたびに顔色が悪くなって、痩せていった。



---親友は自ら命を絶ってしまった



遺書はキミと俺と両親に宛てられた3通。
「彼女を頼む」

たった5文字の最期の願い。
彼女なんて書くなよ。
ずっとオマエのモノみたいじゃん。


棺の中の親友は癌の疼痛に歪んでいた表情が嘘みたいに穏やかに眠っているよう。
泣きじゃくるキミを抱き寄せて、俺も泣いた。
そんなことしかできなかった。


頼まれても無理だよ。
俺には、無理だよ。



キミとの再会は、親友の墓前。親友の誕生日だった。
花を手向け、線香を焚いて手を合わせるキミの横顔は白過ぎて、リップには彩がのっていなかった。

透き通って消えてしまうかと思うほど儚げな姿が痛々しくて俺は目を背けた。

墓前から離れた背中も手脚も細過ぎて、やっぱり目を背けた。

「この後、用事ある?ないならなんか食いに行く?」
「私…あんまり食べれないから、ごめんね」

あんまり食べてないだろうこと、行かないという意思表示は予想通りと言えばそうだった。

「じゃ、一緒に眠るか。俺、実はあんまり眠れてないんだ。キミも、だろ?」
「うん…」

俺の部屋へ連れて行き、肩を寄せ合って寝転んだ。
一つの布団を分け合って、緩く抱き寄せた。
声を殺して泣くキミの背中を摩った。
眠っても、キミの頬には涙が流れた。

いっそう強く、抱きしめた。


翌朝、キミは僕が焚いた白米を食べてくれた。目玉焼きしか作れないと言うと、キミは卵焼きを作ってくれた。
美味しいって笑える俺たちは、少しだけ前に進めた気がした。



肩を寄せ合い眠る夜が、肌を重ねて寝る夜に変わる。
吐息を漏らし、汗ばむ体躯を揺らす夜になる。

キスはいつも手で覆われて、唇へ届かない。



身体は開けるのに、心は開けない女。




愛する、それ故に、
本当の俺はキミの心を欲しがっている。




愛する、それ故に

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