「美しい」
僕はいつも君の涙を美しいと思ってた
続きかけたら書きます…
君と歩いたこの道で、君と僕の心の距離感は少しずつ近づいていったね。
一度目の夜は勤務先の外科小児科混合病棟で行われた飲み会後に、君と一緒に〆のラーメンを食べに行った帰り道。
ラーメン屋と標榜しつつ創作料理も提供している暖色のダウンライトが小洒落たラーメン屋の個室で、開院予定の僕の小児科クリニックでナースとして働いて欲しいと僕は君を熱心に誘った。
君は僕が余りにも君を小児科ナースとして僕が育てたいって熱心に誘うから、目を丸くして驚いてた。
僕が一緒に働きたいという理由がわからなくて戸惑う君。
そんな顔も可愛くて、僕は秘めていた心を少しだけ伝えたんだ。
「宮島さんが、僕のことをもっともっと知りたいと思ってくれたら、教えてあげるよ」って。
愛しさに言葉だけじゃ足りなくて、頬にそっと触れてしまった。
頬は柔らかくて温かくてしっとりとしていて、そして熱っぽくなっていったのを僕は気がついたよ。
そんな夜の帰り道は、君は普段よりも口数が少なくて、僕と目を合わせられなくて、僕のことを意識してくれて緊張していて…
僕は君の横顔をチラチラと見ながら、僕のことを意識してくれている嬉しさと、その可愛いさに胸を踊らせていた。
君の想い人は外科医の浅尾先生だって知っているし、浅尾先生のために処置や回診の介助を先生がやり易いように気を配っているのも知っていたし、君の幸せは浅尾先生に褒められることだってわかってた。
浅尾先生は既婚者だけど、君のことを好きだった。二人は両想い。だけど浅尾先生は君を好きなことを巧妙に隠してた。
僕も君も、浅尾先生との恋は上手くはいかないって知ってたけれど、君の幸せはとてもささやかな願いだったから、僕は君のことをそっと見守っていた。
後日、外科看護師の君は外科看護の勉強を続けたいと僕の誘いを断ったけれど、君は僕の誘いをとても喜んでくれて、感謝と謝意を君の言葉でしっかりと告げてくれた。その中に、君のことを好きな僕の元へ行って僕に期待させたくない想いが見え隠れしていて、僕はその誠実さにますます君が好きになった。諦められないと悟った。
僕の想いは届かなくても、君のことがとてもとても好きだった。
二度目の夜は、君が浅尾先生に突然、恋の終止符を打たれた夜だった。
僕が学会のお土産を持って外科病棟の廊下をひとりで歩いていると、浅尾先生がナースステーション前の階段を青褪めた顔で駆け降りて行くところが廊下の端から見えた。
冷静沈着な浅尾先生の普段と異なる様子に違和感を覚えて、君と浅尾先生に何かがあったんじゃないかと疑った。それで浅尾先生が直前までいただろうナースステーションに足早に向かった。
君はナースステーション奥の休憩室で、ひとりで口元に指を当ててさめざめと泣いていた。
あまりにも哀しい涙に僕は君の手首を掴んでそこから連れ出して、ナース服を着替えもさせずに僕の車の助手席に君を乗せて車を発進させた。
コインパーキングに駐車してからも、嗚咽を堪えて泣く君が切なくて、ひとりで泣かせたくなくて、手を繋いでカラオケに連れて行った。カラオケなら人目を憚らずに泣けるだろうと思って。
何も聞かないつもりだったけど、君は涙の理由を自分から言ってくれた。
「佐々木先生は誰よりも君の力になってくれると言ってました。佐々木先生は宮島さんがお気に入りだから」って。
君が浅尾先生の助けになりたくて外科看護を一生懸命頑張っていることを、誰よりも知っている浅尾先生自身が、小児科の僕を頼りにしなさい、宮島さんは僕のお気に入りだからと告げる。
僕が君のことを好きなのを浅尾先生は知っているのに。僕に託すようなことを告げるのは、自分に片想いする時間はもう終わりだと教えるのと同じで、浅尾先生が宮島さんに僕を勧めたことになるのに。
ねえ、宮島さん。
「私は既婚者を好きになったのに。佐々木先生は誰も責めないんですね」って、そりゃそうだよ。君の愛し方は浅尾先生に褒められるだけで喜ぶ、誰にも迷惑がかからない純粋で秘めた恋だったからね。
「君は何も悪くないよ。あえて言うなら、出会いがもっと早ければ良かったのにって、言うことしかできないよ」
だって、恋ってそういうものだから。落ちてしまうものだから。
浅尾先生と宮島さんの出会いが早ければ良かったのに。
声を上げて泣き出した宮島さんを抱きしめる。
「いくらでも泣きなさい。胸を貸すから」
ひとりで泣かせたくない。僕がそばにいる。ずっと。君が泣くときは、いつも。いつでも。何時間でも寄り添いたい。
カラオケルームで泣き止んだ後の帰り道が、この道の二度目の夜。
君は俯いて、目を腫らして、グスグスと鼻を啜っている。
僕は来たとき以上にゆっくり歩く。
飲み屋に誘う店員に手を振って断りながら、僕の背中に君を隠して、僕が握った手を頼りに歩く君に、ますます愛しくて切ない想いを募らせた夜。
君のことをずっと守るよ。そう誓った夜。
三度目の夜は、君と一緒に働く総合病院の退職が来月に迫った年末。
その日、昼休憩の職員食堂で会った君はいつもの快活さがなく、僕は忘年会後に君が気に入ってくれたラーメン屋に君を誘った。
僕は長野県へ帰郷し、クリニックを開院する。君は退職せずに東京で働く。
今までみたいに病院内でバッタリ会うことも会話することもなくなってしまうことを考えて、寂しがってくれてるんだね。
君の寂しさを埋めるために僕はどうすれば良いんだろう。
ラーメン屋で儚げに微笑む君。
冬の夜は寒く、ラーメン屋を出た後でこの道を歩き始めてすぐ、僕は君の手を繋ぎ、僕のコートのポケットに二人の手を入れた。
「嫌なら…」言いかけた僕の手を君に握り返されて、驚いて君を見ると君は悪戯っぽく笑った。
初めてのその表情にドキッとした後、僕も笑って、イルミネーションに輝く都会の街を手を繋いで歩く。
デートみたいだねって言ったら、君は照れて顔を赤く染めるのかな。
君の横顔を街の輝きが照らす。綺麗だ、とても。
だけど、この幸せな時間には終わりがある。
宮島さんの浅尾先生への失恋を小児科の子どもたちが癒して、患児たちとたくさん君が笑うようになった頃、僕はもう一度宮島さんに僕のクリニックで働いてもらえないかと誘った。
君は小児科病棟で小児看護のリーダー業務を自信を持って独り立ちできるようになりたい、もっと小児看護を学びたいと言ってくれた。
そこには子どもたちと僕への責任が強く見て取れて、僕は君が努力家で看護の仕事への責任感がとても強い人だったことを思い出した。
僕は君との時間を惜しむように君に小児医療を教え、僕が君を好きなことも少しずつ伝えていった。
君は顔を赤くして俯いたり、「佐々木先生…」と小さく呼んだり、用事を見つけたふりをしてその場から離れたりした。
僕を嫌っているわけではなく、照れたうえでの行動だとわかるから、僕はいつだって穏やかに笑っていた。
…本当に君との時間は終わってしまうのかな。
だって君は、今も僕の手を握り返してくれているのに。
「自分で決めたことだけど、帰郷するのを躊躇いたくなるね」
自嘲気味にポツリと呟く。
君は小さく途切れ途切れの湿った声で呟く。
「私も…先生と過ごした日々が楽しかったです…すごく…」
僕が歩みを止めると、君は言い訳をするように告げた。
「あ…泣いてないですよ、私…」
「…今にも泣きそうだよ」
嘘のつけない宮島さん。きっとそんなところが小児に好かれていて、僕の好きなところでもある。
いじらしくて、君は僕を夢中にさせる。
「…僕と離れるの、寂しい?」
囁きは優しい声音。僕は君を好きになって、君にこの上なく優しくしたくなるし、優しくなった。
問いかけに君はしっかりと頷いてくれたことに安堵して、僕は静かに泣き始めた君を抱きしめた。
都会の街中のイルミネーションが彩る歩道を人々が行き交っているとか、多分僕たちを視界に入れてるとか、どうでも良くなるくらい、僕は君に安心して欲しかった。
「ひとりで泣かないでね。寂しくなったら伝えてね。
君が寂しいときは、きっと僕も寂しさを感じてるよ。我慢しないでね。君のことがわからない方が、僕は辛いよ」
僕は君との二度目のこの道で、君をひとりで泣かせなくない、君が泣くときはいつも、いつでも、何時間でもそばに寄り添いたいと誓った。
物理的に距離が離れても、それでも僕が君を一人にしたくない。
「長野と東京。新幹線で1時間半。近いよね」
口にしたら、本当に近い距離だと思った。君のことを考えていたら、1時間半なんてあっという間だ。
「近いです…私も会いに行っても良いですか?」
その後、強く抱きしめたのが先か、返事をしたのが先か、僕は思い出せない。
「もちろん。会いに来て」
僕と君の心の距離が近づいた瞬間だった。
今夜が四度目の夜。
東京で3日間行われるうちの初日の小児科学会が終わった後、君は学会が行われたホテルの1階ラウンジで僕が来るのを待ってくれていた。
僕が贈ったスモーキーピンクの細身の手袋は、華奢で可愛らしい清楚な26歳の君によく似合っている。
LINEでもメッセージをくれたのに直接僕にお礼を言ってはにかんでて可愛い。
ホテルのイルミネーションの光が瞳に差し込み、煌めいている。
僕は久しぶりに会った顔なじみの同僚たちの誘いを「また明日」と断りを入れる。「彼女の予定が合わなかったからだろ」と揶揄われて「そうだよ」と笑った。
LINEや電話でのやり取りはあったけれど、会うのは1ヶ月ぶりなんだ。
一見多愛ないやりとり。でもどれも君も僕の二人の近況がわかる、忙しくて、病気の子どもたちへの愛に溢れているやりとり。
LINEを見ながら優しい君に惹かれる僕と、小児看護に真剣な君。
君が少しずつ小児看護に自信をつけられるように、僕は君のしていることは間違っていないと肯定して、自信を持たせていく。
君から感謝されることがとても嬉しい。
君が浅尾先生に褒められたくて頑張っていたことを思い出した。
君のことを献身的だと感心していたし、その気持ちに変わりはないけど、好きな人に褒められるってすごく嬉しくてくすぐったいものだね。
今、触れることはできないのに、僕は君のことを近くに感じて、ますます好きになっている。
そしてとても会いたい。
「来月、小児科学会で東京に行くよ。宮島さんに会いたい」
電話で伝えたら、少し息を呑んで、君は慌てて小児科学会の日程を質問した。
君の来月の勤務表はすでに組まれていて、初日と最終日に互いに時間が取れることがわかった。
声が弾む僕と君。
絶対に会おう、体調を崩さないようにね。
以前、小児科外来を手伝ってもらったときに小児から風邪をもらった君を早退させたことがある。
その時のことを思い出して、今度はちゃんと気をつけます!と君が気合いを入れたのがわかって笑ってしまう。
僕にこんなに会いたいと思ってくれてるんだね。
僕はそれだけでとても幸せだ。
「宮島さん」
「はい」
「好きだよ」
気持ちが溢れるまま電話越しに囁くと、「はい」と小さな返事。
「来月楽しみだね」
「楽しみです!」
言葉に力が入っていて、僕たちは笑いながら「おやすみ」と優しく伝え合って電話を切った。
窓の外は白く積もって眩しい雪と、長野の冬空にたくさんの星々の瞬き。
来月は僕が東京に行くけど、その次は君に長野に来てもらえると良いな。
空気が澄んでいるうちに、僕の故郷の満天の星々を一緒に眺めたい。きっと君は自然の美しさに感動してくれるだろうから。
隣に並ぶ君をそっと見下ろすと、君は俯いて微笑みつつ照れている。
可愛いなあ、やっぱり。
僕はホテルを出てすぐに手を握った。
柔らかな手袋の感触は、君の手がこの1ヶ月間冷たくならなかったことを物語っているけれど、君の肌の感触を求めたくなるのは、僕が男だからかな。
あの三度目の夜、君をマンションまで送った車内で「思い出を作ろうか」ってキスしてしまったし。
離れることによる寂しさを埋めたい、二人だけの思い出を作りたい、離れていても僕のことを考えていてほしい。
色々理由はつけられるけど、結局、僕の愛しさが膨れ上がって、キスしたいのを抑えられなかった。
君が僕をどれほど本気でいてくれているのかはわからないけれど、好意的なのはわかっていたから触れてしまった唇。
時が止まったかのように目を見開いて息をするのも忘れて驚いているのが可愛くて、目元にもキスをして。まだ固まって動けない君にダメ押しをした。
本気を冗談にも取れるように、「帰らないの?僕の部屋に連れて行っちゃうよ」って……
僕の宿泊先のホテルはこの道の先。
久しぶりに会ったのにラーメンもね。1ヶ月前に行ったばかりだし。と説得して、宿泊先の最上階のレストランでビーフがメインのコースディナーを予約した。
この道の街路樹は青色のLEDに彩られている。
「この街路樹はレストランからも見えると思う。きっと綺麗な景色の一部になっているよ」
僕はこの景色よりも君を見つめていたいくらい大好きだけどね。心の中でそっと呟く。
「佐々木先生」
「ん?」
「先生の担当してた歩(あゆむ)くん、昨日退院しました」
「そっか。うん、良かった」
子どもは大人のように自覚症状を訴えられず、普段よりも眠そうだったり遊ばなかったりと、小さな気づきが大切で。
自閉症児であり慢性疾患持ちの歩くんは、うちに篭りがちな性格が故に体調の変化に気づきにくい。
だけど、宮島さんはその変化を見逃さずにいつも報告してくれる。そして新しく処置が必要になった場合でも、歩くんは宮島さんが介助に入れば、以前は怖くて暴れた処置でも、処置の間は我慢して宮島さんの指示に従えるようになった。
「宮島さんのおかげだね」
「先生方のおかげです」
「でも、君がいなかったら、歩くんは処置が怖いままだった」
この手のおかげかな。
僕は君と繋いだ手を君の手ごと持ち上げて指先にキスをする。
「せんせ、い…」
やっぱり赤い顔をしている。
僕は微笑んで、街路樹に設けられたベンチへ誘導した。
手を繋いだまま二人で並んで腰掛ける。
街路樹には青いLEDがキラキラと光る。
「君と離れている間…僕は君とのキスを思い出してた」
君が隣で息を呑んだ。
「驚いている君が可愛くて、僕はもっと君を好きになった。もう、自分でも抑えきれないくらいに宮島さんのことが好き」
僕を見つめたまま、君は息を呑む。
僕は顔を覗き込んで、瞬きもせずに固まっている君に笑った。
「僕は何度も君に愛を伝えているのに。久しぶりに言われて、ドキッとした?」
コクンと頷くのを見届けて、僕は君の肩を抱いて自分へと抱き寄せた。
君は僕を信頼してくれて、僕に身を預けている。
僕はこの1ヶ月間、気になっていたことを静かに問いかけた。
寂しかったら連絡してね、と伝えていたけれど、宮島さんからの「寂しい」のメッセージは一度もなかった。
「寂しかった?僕と離れて」
「…病院の中が、寂しかったです」
「院内?」
「はい。佐々木先生がどこかの病室からひょっこり現れる気がして。現れてくれないかな、って期待したりして。
仕事が忙しいとあまり考えずにいられるんですけど、ふとした瞬間に…」
「僕を思い出してくれたんだね」
「はい」
小さな声で、頷いてくれた。
それだけで僕は嬉しくて、肩を抱く指先に力がこもる。
「病院からの帰り道、ときどきこの道を歩いたんです」
「えっ、」
病院の最寄駅だけど、遠回りになる道。
イルミネーションが美しいからと、わざわざこの道を歩く病院関係者はほとんどいないと思う。あの病院は多かれ少なかれ残業する日があり、残業後にわざわざイルミネーションを楽しむ余裕は考え難い。
思案顔をする僕に、宮島さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「佐々木先生と歩いたことを思い出してました。
手を繋いだ夜のこと。優しくて、暖かくて…」
とくんとくんと鼓動が暖かく鳴っている。
宮島さんは、僕のコートの上から胸にそっと手を置いた。
「佐々木先生は暖かい人ですね。キス、思い出に残りすぎてます。思い出すたびに先生に…好きって言われてるみたいで、寂しいなんて思えなかったです」
「宮島さん、」
「寂しくはなかったですけど、ずっと会いたいなって思ってました」
涙が浮かんで瞳が潤んでいる。
「僕に逢ったら、何をして欲しかった?」
僕の声は優しかった。
宮島さんは首を横に静かに振って、涙ながらに微笑んだ。
「好きって伝えたかったです。佐々木先生のことが大好きって」
僕は最後まで冷静に聴けなくて、宮島さんを胸にかき抱いていた。
すっぽりと僕の胸に収まって、愛しい君が泣いている。
僕は君の後頭部に触れて、よしよしと頭を撫でる。
君からの涙でもらい泣きしそうな自分を誤魔化して。
ありがとう、と呟いた声に涙声が混じる。
顔を上げたら、イルミネーションは揺らめき、木々や街中を照らし出している。
君と歩いたこの道は、未来へ繋がっている。
君と歩いた道
私が高校生だった頃、近所のファミレスで知り合ったバイト仲間の大学生がいた。
私はその人を兄のように慕い、彼は私を妹のように面倒を見てくれた。
バイトの仕事内容を教えてくれたり、休み時間には私が苦手な英語を教えてくれたり、夜、バイト終わりの時間が重なると私を家まで送ってくれたりした。
「雨止んだみたいですね」
「良かったよな」
そんなことを話しながら、傘立てに立てていた傘を引き抜いてクルリと回して束ねる。
バイト終わり、従業員出口の軒先からは名残惜しげに水滴が垂れている。
不意に腕を強めに引かれてよろめいて彼の体にぶつかった。
「あ、ごめん。足元、水たまりがあったから」
「あ、うん、」
ビックリした。急に引っ張られたことも、体の温もりを感じるほど近づいてしまったことも。
彼はすぐに私の腕から手を離したけれど、私は彼にずっと腕を握られているかのように感触が消えなかった。
彼に自宅まで送ってもらっている間中、とくんとくんと胸が熱く波打っている。
帰宅してからも、私が足を踏み入れないようにしてくれた水たまりを思い出す。
水たまりは、夜の暗さを映しとるアスファルトの闇の中、明るいファミレスの光を受けてオレンジ色に反射していた。
半年後、彼は海外へ留学した。
私は受験勉強のため、バイトを辞めた。
彼とはそれきり会っていない。
大学卒業後に友人の紹介で知り合った人と私は交際を開始した。
映画鑑賞が2人とも好きで、新作旧作問わず感想を伝え合っているうちに意気投合。
そのうち一緒に映画を観に行くようになり、その日観たSF映画を無邪気に語る笑顔が眩しくて、なんだか見惚れてしまうこともあって。
映画館で手を握られ恋に落ちていることに気づいて、その日は映画どころじゃなく、心臓はバクバクだった。
「雨止んで良かったよな」
「うん」
束ねた傘から水滴が落ちる。
今日は彼氏の家でまったりDVD鑑賞デート予定。
「古い映画だけど俺のお気に入り。きっと気に入ると思うんだよね」
何度も確信めいて言うから、ずっと気になっていた映画。
今のところこんなに!?って思うほど彼氏と私のお気に入りの映画は被ってる。
きっと今日の映画も私のお気に入りになる気がするよ。
2人きりのお家デート、嬉しいな。
足取り軽く、彼氏が住むマンションへ向かう途中の歩道橋の上で、雨上がりの水たまりに雲を宿した青空が映っているのに気がついた。
水たまりの空は、見上げた空の景色のまま映しとられている。
あのファミレスの夜に、人工的な鮮やかな揺れる光とは異なる、スッキリとした青い空。
見上げても見下ろしても青空が瞳に映るってなんだか不思議。
まだ恋人同士になって間もないけれど、気分が晴れやかなときも、落ち込んでしまっているときも、こんな感じだと良いな。
空の青さのように、自分のありのままの心を開けていられたら良いな。
彼氏のありのままの心を、私が大切にできると良いな。
「ん?どうした?」
「何でもないよ」
歩道橋で不意に立ち止まった私に彼氏が声をかけ、心配そうな瞳を向ける。私はクスッと笑って隣に並ぶ。
高校生のときのように、水たまりに気づかずに足を踏み入れることは今はもうない。
大人になったからというわけではなくて、きっと、兄のように守ってくれる人がいなくなり、無意識のうちに自立心が芽生えたからだと思ってる。
それでも思い出すのだ。
彼が留学先へ飛び立つ日のやり取りを。
「英語、頑張れよ」
「留学するほど英語が得意なら、もっと教えてもらえば良かった!」
私の言葉に、彼のみならず、バイトの皆んなが一斉に爆笑したことを。
寂しさを押し殺して、バイバイとそっと呟いたことを。
青空に滑空する飛行機をバイト仲間で見上げたことを。
今日のような水たまりの空を見ると、この空のどこかに繋がっている彼のことを。
歩道橋を降りる2人の軽やかな足音が重なる。
傘を持っていない手に手を滑り込ませると、彼氏がちょっとだけ驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。
その横顔を見て私の胸はじんわりと暖かくなる。
今日のような水たまりの空を見ると、この空のどこかに繋がっている彼のことを思い出す。
そして願う。
水たまりを踏まないように支えてくれた、皆んなに優しい彼でいてくれることを。
「水たまりに映る空」
行為を終えて乱れたシーツの上で互いに下着だけを身につけたとき、朝陽が「なぁ」と私に声をかけた。
彼は同い年で、大学のときの飲み会で知り合って意気投合。
その日の夜に私たちはラブホのベッドで乱れに乱れた。
有り体に言えば、とても気持ち良かったのよ、お互いに。
それ以降、どちらかに恋人ができた期間は互いに連絡を取らず、別れたら連絡を取り合って…
ここ数年の私たちは予定のない週末には朝陽のマンションのワンルームでそういう関係を続けている。
今日も身体には汗を一枚纏い、心地良い気怠さ。
眠たいなぁ。ちょっとだけ眠りたいかも。
私は欠伸をしながら「なに…?」と返事をする。
あ、ほんとに眠い。寝ちゃうかも。
気づいたら朝陽はズボンも履いてた。
朝陽は趣味でキックボクシングをしている。
細マッチョで筋肉が引き締まっていて、私好みの体型を最初に知り合った頃から維持している。否、パワーアップしている。
夕方から夜へ移行する薄暗がりに彼の上半身が浮かび上がる。その美しさに私は思わず眠気を忘れて見惚れていた。
「葵って彼氏と別れて何年経った?」
「なに、突然」
「ん、良いから、教えて」
よくわからないけど答えて欲しそうではあるから、「2年とちょっと」と答える。
ああそうか。この人と私は2年間セフレを続けてるんだ。
その間好きな人もできず、男性と遊びに行くこともなく、私は朝陽との週末エッチだけで満足しちゃってるんだ。
「えっ、そっちは?」
「俺も2年位」
「ああそうだったね。私と同じ時期だったもんね」
今となっては懐かしいなあ。
学生の頃って、恋人との別れは人生最大の落ち込み、奈落の底に突き落とされたかって位号泣してたのに、最後の別れはそんなことなかった。
LINEで友だちに送るように報告したっけ。
「実は、別れちゃった」
「俺もうまく行ってない。別れることになるかもしれない」
「そっか。話聞くよ」
ありがとう、とスタンプが来て、1週間後には別れたって報告されたんだった。
朝陽の手が伸びて、私のブラのストラップが腕に落ちたのを肩に引き上げて直してくれる。
「毎回落ちるよな、左肩だけ」
「ストラップで長さを調節しても、なんか上手くいかなくて」
「女って大変だな」
ストラップをやりづらいとか言いながら少し短くしてくれた。
今までにないフィット感がちょうど良い感じ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
振り返って笑ったら、朝陽も白い歯を見せてニカッと笑った。
「朝陽ってイイ男なのに、なんで恋人ができないんだろうね?2年間も」
「何でだと思う?」
朝陽は少し背を屈めて私の目を覗き込んだ。
何かを見透かされそうにジッと見つめられて、私は何故か焦っている。
「何で、か、わからない」
「葵といるのが1番楽しいからだよ」
黒目がちの瞳が私を見つめている。
柔らかな深い声が、それが冗談ではないと告げている。
部屋を満たす無音が、私を緊張させる。
何て答えれば良いの?何て。
「ぅっ、クシュっ」
突然の私のくしゃみに朝陽は横を向いてフッと笑って、私の肩にタオルケットをかけた。
裸の肩に柔らかな暖かさ。
まるで朝陽に包まれているような、安心感。
「…朝陽」
「ん?」
「私も…朝陽といるのが1番楽しいのかもしれない…です…うん」
「そうか」
コクっと頷く。
これが恋とは思わない。
ときめきほど心臓が早鐘を打つわけでもなく、朝陽のことを四六時中考えているわけでもなく。
愛が、恋の未来にあるものならば、これは絶対に愛じゃない。
でも、愛は恋の先にあるものでないとしたら?
恋でも愛でもないのなら、残るのは友情か。
体の関係を続ける友情って何だろう?
朝陽と私の関係。
難しすぎてわからない。
この関係性はずっと続くと思っていたけれど、いつか終わりが来たり、形を変えてしまうのだろうか。
指先を口元に当てて考える。
いつか朝陽に言われたことを思い出す。
葵って、指先を口元に当てて考えるよなって。
私の癖を指摘するのも、私のストラップが落ちることを知っているのも朝陽だけ。
朝陽が、私のことを1番よく理解している。
朝陽が私の背後に周り、タオルケットごと抱きしめた。
私の頭に顎が乗って、体重をかけられて少し重い。
筋肉質な体は私の好きな重み。
だけど、朝陽は私のことをどう思っているのかはわからない。
恋か、愛か、それとも。
「俺は葵が大切だよ」
ぐちゃぐちゃになりそうな頭の中を、朝陽は一言だけ私の心に響かせた。
恋か、愛か、それとも
叔母にお金を貸した。叔母の息子、私の従兄弟の離婚の慰謝料だ。
多分従兄弟には、私から借りたとは言ってない。叔父叔母から出したお金になっているだろう。
そのお金は何年経っても返済されない。
あるとき痺れを切らして請求したら、「もっと早く言ってくれれば返せたのに」と心底残念そうに言われた。
叔父が亡くなって、落ち込んでて、叔母は友人の慰めで旅行に何度も行った。
叔母に元気が戻ったかなと思って請求したらこれだよ。
約束だって言ってたのに。
って、貸すときに覚悟はしたけどね。返ってこないかもしれないって。
でも、慰謝料代なんて貸すものじゃないね。
離婚理由は従兄弟が100パー悪かったし。
ああ、腹が立ってきた。
約束だよ(!)
なんか良いお話が浮かんだら差し替えます…