私が高校生だった頃、私の青春は部活動だった。
ギター・マンドリン部。マンドリンは知らない人もいるだろうし、形状は知っていても実際に音色を聴いたことがない人も多いだろう。
そんな知る人ぞ知るギター・マンドリンには全国大会があって、私の高校は全国大会出場の常連校だった。吹奏楽部出身者には馴染み深い、コンクールの評価形式は金賞、銀賞、銅賞であり、当然私たちも金賞を目指して闘志を燃やしていた。全国大会金賞の常連校の私たちは、先輩たちが築いた連続受賞を逃途絶えさせるわけにはいかなかった。
2年生の全国大会。私は大阪城ホールでの演奏中、マンドリンの1stパートの後ろの方で、アップテンポなその曲に四苦八苦していた。
自分たちの出番が終わった後、他校の演奏を観客席から聴いて思ったのは、自分たちは難曲に挑戦したということ。他校の演奏は私たちと同等か同等以上の実力のように思えた。
全出場校の演奏終了後、結果が発表される。祈るような先輩を横目に、私はステージをじっと見つめる。
結果は銀賞だった。ああ、やっぱり。私は目を瞑った。
先輩や同級生のすすり泣く声が聞こえる。
自分がもっと頑張れば、とも思えなかった。朝練も午後練も土曜日も夏休みも毎日音楽室で練習していた。練習のない日はマンドリンを持ち帰って自宅でも練習した。部員はみんなそうしていた。
だから、もう、この結果は仕方ないんだ。
女子高生30人は口数少なく観光バスに乗り込み、それぞれ車窓を眺めた。
出発してすぐだったか、スタジアムが見えた。スタジアム周辺で野球のユニフォームに身を包む、坊主頭の団体も。
白いユニフォームは土に汚れ、日焼けした筋肉質な男子学生の集団は私と同じくらいの年に思えて---彼らは泣いていた。腕を目元で覆い立ち尽くす部員。頭からタオルを被り、膝まづく部員。一人で泣く部員、慰め合う部員たち。
緑の木々が繁る木漏れ日の道を私たちを乗せたバスはゆっくり走る。
いつのまにか私の頬に涙が流れていた。
どうして泣いているんだろう。
理由もわからず、濡れた頬をハンカチで拭った。
あの日の景色
病院の1階メインロビーにはダウンライトに照らされて大きな笹に彩りどりのたくさんの短冊が今年も結えられている。
七夕の夜、仕事終わりにそこへ向かうと、愛しの由希奈ちゃんが七夕飾りを見上げていた。
ナース服から普段の装いに着替えて佇む彼女もダウンライトの光を浴びてその横顔は目映く美しい。
凛とした彼女とは異なる優しい表情に、俺は彼女の空間を邪魔しないよう、声を顰めて「おつかれ」と囁いた。
「あ、大和くん。おつかれ」
彼女は俺に笑顔を向ける。彼女は外科ナース、俺はレントゲン技師としてこの総合病院で働いている。医療従事者という職業柄、一つのミスも許されない時間から互いに解放され、癒されるひととき。
「病気が治りますように、っていう願いごとが多いね」
由希奈ちゃんの言葉に短冊を眺めていくと、その通りだった。患者本人や家族からの願いが込められた文言。中には患者本人も余命は知っているだろうに、幼い子どもが祖父母やパパ、ママと書かれたつたない文字もあって胸が苦しくなる。たくさん飾られた短冊のターミナル期の患者さんの中には由希奈ちゃんの受け持ち患者さんも複数いて…つくづく看護師という職業の過酷さを想う。痛みや息苦しさ、怒りや悲しみ、諦め、不安…全てに寄り添って、できる限り安全安楽に過ごせるよう手助けする。
こんなに細い身体で患者の気持ちを一身に背負い、一生懸命寄り添っていく。
由希奈ちゃんの手を繋ぐと、驚きながら「どしたの?」と俺を見上げた。
「由希奈ちゃん、すごいなぁと思って。病気が治りますように、っていう願いって、叶う人、残念だけど叶わない人もいるじゃん」
「うん、そうだね」
「そのどちらの人にもしっかりと向き合ってるじゃん?特にターミナル期の人に看護師として看護師間だけじゃなく医師や栄養士や薬剤師、ソーシャルワーカーと相談したりして。
痛みが強くてもお風呂に入ると少し楽になるって言われたらなんとか入浴させたりさ。ずっと背中を摩ってあげたり。泣きながら訴える患者さんの話をずっと傾聴したり」
「看護ってそういうものだから。って言うか、大和くんがそんなに見ててくれたの驚きだよ。…でも、嬉しい」
由希奈ちゃんが嬉しそうに照れくさそうに笑った。
「うん、いつも想ってはいたんだけど、なかなか言うタイミングなくて」
俺も少し照れくさくなって頭を掻く。互いに声を顰めてふふっと笑う。
そして唐突に想った。こんなふうに優しい気持ちで由希奈ちゃんとずっと一緒に居たいって。
「せっかくまだ短冊が余ってるしさ、願いごと、書こうよ」
俺の提案に由希奈ちゃんは「そうだね」とペンと水色の短冊を手に取った。
俺も由希奈ちゃんの好きなピンクの短冊を手に取った。
「大和くん、まだ見ちゃダメだからね」
「ふぅん、俺のもまだ見ないでよ」
何やら真剣にダメ出しされたけど、俺にとっても好都合だった。
短冊に一文字一文字心を込めて筆を乗せる。
由希奈ちゃんに気持ちが届くように。驚かせるかな。微妙な顔をされたらどうしよう。
「書けた」
「俺も。見ても良い?」
「うーん、恥ずかしいから一緒に見せ合うのは?」
「オッケ-。せえの」
互いに背中に隠していた短冊をそれぞれに渡し合う。
由希奈ちゃんの水色の短冊には、青いマジックで
『大好きな人とずっと一緒にいられますように 由希奈』
うわ……マジか…嬉しい…嬉しすぎる……
じんわりと胸に暖かな気持ちが広がっていく。
それでも心配なのは、俺が書いた短冊を見た由希奈ちゃんの反応だ。
『由希奈ちゃんと結婚できますように 大和』
俯き加減の由希奈ちゃんが手にした短冊ごとぶるぶる震えている。
「由希奈ちゃん?」
由希奈ちゃんの今の気持ちがわからなくて、そっと声をかける。
「あの…ダメ、だった…?俺、由希奈ちゃんとずっと一緒にいたいってすげぇ思って、想ったから…」
まだ顔を上げてくれず、俺はさらに言い募る。
「あ、俺も、ずっと一緒にいられますように、ってすれば良かったかな。いきなりで驚いたよな。こんなん、夢見てたのと違っただろうし、」
俯いて震えられて、どうして良いかわからず、俺は「由希奈、なんか言って」と情けなく呟いた。
「驚いた」
由希奈ちゃんがポツリと呟く。
「うん、だよね」
俺は由希奈ちゃんに渡した短冊を受け取ろうと指に挟んで引っ張ったけれど、彼女のチカラは強く抜けなかった。
「驚いたけど、嬉しい」
由希奈ちゃんは顔を上げてその大きな瞳は涙ぐんでいた。
俺の緊張の糸はするりと解けて俺も泣き笑いのような笑顔になる。
「そっか、良かった」
「うん」
胸がいっぱいになって、言葉にならない。
俺は改めて由希奈ちゃんに手を差し出すと、その手をしっかりと握り返してくれる。
繋いでいない手には、一生モノの宝物になった短冊が互いの手に握られている。
「短冊、持って帰っても良いと思う?」
「良いんじゃね?俺も持って帰るし」
彼女がクリアファイルに挟んでカバンに入れたのを見届けて、俺も同様に仕舞う。
「なにか食べに行こうか。良いモノ」
「思い出になるもの?って言っても遅番終わって21時だよ」
「隠れ家的な深夜営業もしてるお鮨屋さん、浅尾先生が結構美味かったって言ってた」
「浅尾先生が言うなら間違いないね。そこ行こ」
職員通用口を出て、病院のエントランスへ回る。
ガラス越しに大きな笹がダウンライトに照らされて美しく浮かび上がっている。
今夜は夜風が少し日中の暑さを和らげて、心地の良い七夕の夜だ。
なんとなく空を見上げる。雲ひとつなく晴れ渡り、星々が白く瞬く美しい星空だった。
由希奈ちゃんと手を繋いだまま、病院の庭園のベンチに座って無言で星空をしばらく眺める。
「由希奈ちゃん」
「ん-?」
「ひとつ提案があるんだけどさ」
「大和くん、短冊を結びに戻ろうと思った?」
静かな問いかけになんでわかるの?と振り向く。彼女は「やっぱり」と悪戯っぽく微笑んだ。
「さすが、有能な看護師さん」
「て言うか、私も短冊を結んでも良いかなあって思っただけだよ。…織姫と彦星みたいに願いごとを叶えたいし」
「うん。俺も、全く同じこと考えてた」
ふたり、自然と同じことを願っているのがすごいと思う。素敵なことだと思う。
「なあに、大和くん、ニヤケちゃってるよ」
指摘されて咳払いして。でも、と由希奈ちゃんを見た。
「だってやっぱりすごいよ。短冊の願いも、短冊を結ぼうと思い直したことも。俺たちってずっとこうやって楽しく一緒に過ごせそうだなと思って」
由希奈ちゃんはふうわりとゆるく笑って「うん、大和くんとなら」と俺の手を強く握り返した。
「戻りますか」
「うん」
エントランスから窓越しに笹を見つめ、通用口を通って無人の静かな玄関ロビーへ回る。
二人でそっとテーブルを運び、由希奈ちゃんが支える中、俺は爪先立ちをして1番高い枝に二人の短冊を結える。ピンクと水色の短冊は光に照らされて白く浮かび上がるようだ。テーブルを支えている由希奈ちゃんが、「なにも書いてないように見えるよ」と伝えてくれた。
テーブルから降りて由希奈ちゃんの柔らかな手をギュッと包み込むと、彼女は静かに握り返し、大きな瞳で俺を見つめた。
「俺とずっと一緒にいてくれる?」
彼女の瞳が、星空みたいに揺れている。互いに見つめ合う静かな時が流れる。
「もちろん。私と…ずっと一緒にいてね?」
由希奈ちゃんの声は小さくて、でも心からの願いがこもっていた。
「もちろん。ずっと一緒にいるよ」
病院を後にして夜風に吹かれながら星々を見上げる由希奈ちゃんの横顔をそっと見つめる。気づいた彼女と瞳が合う。まるで星々の煌めきを宿したように美しいと想う。
「大和くん、私、今夜のことずっと憶えてる」
「俺も。最高の七夕の夜だ。…でも、鮨も楽しみ」
弾んだ声で付け加えると、「ね。私も」と同意の声は弾んでいた。
小さな笑い声が夜空に溶けてゆく。
七夕の夜の誓いは、短冊の光のように、澄んだ星々のように、静かに美しく響き合っていた。
「願いごと」
カーテンから差し込む朝の光に目覚めると、漸く手に入れたと信じた人は俺の隣に居なかった。
『波音に耳を澄ませて』
白いシーツに横たわっていたはずの彼女の痕跡を探るように手を這わす。そこは人がいた形跡はなくシーツの冷たさだけがあった。
下着だけを身につけていた俺は、床に落ちていた浴衣を羽織り帯をゆるく結ぶ。脱がしたはずの彼女の浴衣は着用前のように整然と畳まれていた。
元カレのことをやっと忘れてくれて、付き合うことができて、二人旅の昨夜、漸く身も心も結ばれたと実感できた。俺のことを好きになってくれて、幸せだと実感した翌朝、彼女が隣にいないなんて。
宿の温泉に行ったとも、ロビーでモーニングコーヒーを味わっているとも思えなくて、だけど一縷の望みは捨てたくなくて廊下を見渡しながら玄関まで歩く。
俺の靴だけが下駄箱にポツンと残されていた。
靴に履き替え、波音と潮の香りに導かれるように砂浜へ足を向ける。
白いワンピースを着た彼女は白い砂浜の波打ち際にひとり佇んでいた。
朝陽が海面を照らし金色にキラキラ光っている。
さざ波が浜に打ち寄せ砂浜を濃く濡らし海へ還っていく。
終わることのない繰り返しに彼女は微動だにせず、波音に耳を澄ませているよう。
何を思っているのだろう。
きっと、俺のことではなくて……
『波音に耳を澄ませて』
外科病棟の廊下に不似合いな甘い匂いが漂う。綿菓子やかき氷の甘い砂糖の、まるで子どもの頃に訪れた夏の縁日のような匂い。
小児科病棟の改装工事で外科との混合病棟になった今年、病棟内に夏祭り会場が設けられた。祭囃子が流れ、子どもたちの笑い声、親やスタッフの楽しそうな声が響き合う。
その賑やかな声に誘われて、祭り会場へ足を踏み入れた。
「浅尾先生、浴衣姿カッコイイっす」
ヨーヨー釣りのブースに並ぶ気胸で入院させた高校生男子が俺に気づき声をかける。隣には手を繋いだ彼女が並んでおり、俺は「今日はぜひ楽しんで」と微笑んだ。
隣の輪投げブースに並んだ子どもからも声をかけられて、自己紹介をした後少し言葉を交わす。
翔くんの頭にはピカチュウのお面が被さっている。
ここ10日間ほど前からだったか、外科の患者さんの比較的体調が良い人たちが、病室やロビーで夏祭りに配るお面製作を楽しんでいた。
このピカチュウのお面は、先日乳がんの手術をして片側の乳房を切除したことによりボディメカニクスの変容に落ち込んでしまった田中さんの気が少しでも紛れればと、看護師の宮島さんが病室に必要な物品をそっと置いていったものだった。田中さんは「小さな子どもたちが点滴台を持ちながら歩いているのを見てたら、手術が成功した私が塞ぎ込んでちゃいけないなと思って」とお面作りを少しずつ始めた。その姿に安堵していると、俺が浴衣を着たところを見たいと田中さんは笑う。浴衣を着て笑顔が見られるのなら、安いものだよ。
翔くんは黄色のヨーヨーを持っている。
「そっか。黄色、ピカチュウの色だ」
「うん!せんせい、あたまいいね」
翔くんの無邪気な言葉にその場にいた人々の笑いを誘い、俺も声を立てて笑った。
ふと輪投げブースで輪投げをする患児を笑顔でサポートする浴衣姿の小児科医の佐々木先生と目が合った。彼は珍しいモノでも見るように俺を見た後、ふわっと嬉しそうに笑った。
夏祭り会場を見渡すと、宮島さんが目に入った。彼女もまた浴衣姿で、ナース服で忙しなく動く姿とは異なり、どこかはんなりと笑顔と優しさを漂わせている。休憩所兼飲食スペースへ杖をついて歩く高齢患者の大竹さんを彼のペースに合わせて誘導している。去年のクリスマスイブ、彼女の受け持ち患者は病室内で転倒してしまった。幸い打撲で済んだが、それ以降彼女は転倒予防に誰よりも気を配っている。
宮島さんは患者を座らせた後かき氷のブースへ行った。大竹さんは腎機能が少し落ちている。かき氷を楽しみながら水分摂取量が増えればと考えてのことか。子どもを楽しませながら生活を改善する小児看護の経験が彼女の成長を促しているんだろう。
かき氷を食べ始めた大竹さんのところへ行く。宮島さんは隣で見守ってくれている。
「浅尾先生、さすが男前だ」
「いや、俺なんて。大竹さんの狐のお面も粋ですよ」
大竹さんと話しながら、その隣の宮島さんを見る。
宮島さんの頬がほんのり赤くなっている。宮島さんの視線や態度は、俺に好意的なのが透けて見えて、俺も宮島さんのことは可愛いなと思っている。柔らかく見つめると、「あの、浅尾先生もかき氷食べます?」と席から立ちあがろうとしたのを俺は制した。少しだけ落ち込ませてしまった気がして「片付け前に残ってたら、もらおうかな」肩にポンと軽く触れてフォローすると、「はい!」と明るい声が聞けた。
「浅尾先生、田中さんのところへかき氷を持って行こうと思ってるんですけど、一緒にどうですか?田中さん、夏祭りを楽しみにしてくれていたのに、今日、微熱でこの場に来られなかったから」
「なるほど。良いよ。俺も浴衣姿を見せに行かなきゃいけなかったし」
宮島さんに微笑んで、夏祭り会場をいったん後にしようとすると、佐々木先生と目が合った。いつもの優しく明るい笑顔とは異なり、ほんの一瞬、目が細まり、そしてフッと視線を逸らせた。俺に嫉妬…なのだろうか。俺に好意的な宮島さんの様子に気がついたのかもしれない。以前から小児看護の経験がない宮島さんへ佐々木先生がサポートしているのをよく目にしている。彼は今ひとつ小児看護に自信のない宮島さんの看護を笑顔で肯定していた。宮島さんはどこかホッとしていて、二人の間には優しく暖かな雰囲気が漂っていた。
「たかひろせんせーい、あゆみちゃーん」
たくさんの子どもたちが佐々木先生と宮島さんをヨーヨー釣りのブースから呼んでいる。二人は笑顔で子どもたちに取り囲まれて並んで座り、顔を見合わせて楽しそうに笑う。二人の距離感はとても近く、集まった子どもたちのせいで二人が並ぶスペースがないからだと言い聞かせても、やはり胸はチリリと焼ける痛みが伴う。こよりを持ってヨーヨー釣りに興じる二人はお似合いのカップルに思えてくる。既婚の俺なんかよりよっぽど。佐々木先生への嫉妬に気がつき首を振る。妻のことを愛しているのに。愛し続けなければならないに。
医局へ戻ると、医療用のスマホが鳴る。
佐々木先生からだった。電話に出ると、10歳の子どもが熱傷で運ばれてくるが、俺にコンサル(相談、紹介)するかもしれないとのことだった。わかりましたと了承する。そこには宮島さんのことで嫉妬しあう佐々木先生や俺の公私混同はなく、あるのは医師としての使命感だけ。
踵を返して外科小児科混合病棟へ向かう。田中さんのところへ浴衣を見せに行く。宮島さんとは一緒に行けなくなったけれど、彼女はわかってくれるはずだ。
田中さんが予想以上に喜んでくれて写真を撮っていると、かき氷を持った宮島さんが病室に顔を覗かせた。
「わっ、浅尾先生!聞きました、時間外外来に呼ばれるかもしれないんですよね?」
「ああ。もう行くけど」
「あっ、田中さん、かき氷食べられますか?冷たくて気持ち良いと思うんですけど」
「ありがとう、ちょうど喉が渇いてて」
「良かったぁ」
嬉しそうに笑顔になる。こんなとき、宮島さんは素直な良い子だなと俺の胸を温かくする。
「それじゃ、お大事になさってください」
「わざわざありがとうございました」
かき氷にサクッと堅い氷にスプーンを入れた音がした。
夏の匂い。
子どもの頃とも学生時代とも違う、甘やかなジェラシーが結びついてしまった。それはずっと忘れられなくなりそうな恋の匂いーーー
夏の匂い
小児科の改装工事のため、一時的に外科病棟に小児科の患児が入院するようになって、1週間。外科病棟の看護師の私も混合病棟の間は2週間ごとのローテーションで外科患者と小児科患者の両方を担当する。
今週と来週の日勤勤務は小児科の看護師として仕事をする。
今日は、小児科用に天井や壁が折り紙や風船、ぬいぐるみで飾り付けられた処置室で点滴を受ける5歳の男の子のプレパレーションを行った。プレパレーションは、検査や処置を行う子どもにわかりやすく目的や手技などを説明し、心の準備を整えておく大切なプロセス。ベテランの小児科看護師さんが私のつたない説明を見守ってくれている。
説明が終わると翔くんは「ぼく、がんばる」と言ってくれて、その健気な様子に心を打たれて胸がじーんと熱くなる。
思わず小さな頭を撫でて、「そばにいるからね。いっしょにがんばろうね」と笑いかけるとコクンと頷いてくれた。
「今、佐々木先生を呼びますね」
「せんせい、あそこ」
翔くんが私の後方を指差すと、クスクスと小さな笑い声が聞こえた。
えっ!?
振り返ると、小児科医の佐々木先生が処置室のドアの前に立っていた。いつの間に…!?
「宮島さんの言うとおり、大切なお薬だから、がんばろうね」
「うん」
大切なお薬って、わりと最初の方に説明したよ…。
佐々木先生にほぼ全部聞かれていたことを知って、私の説明で大丈夫だったかなと少し心配になる。だけど翔くんを励ますため微笑みを絶やさずに、処置台に横になってもらい抑制帯を巻く。説明をしたけれど、実際に行われると翔くんは不安そうな表情をした。
翔くんお気に入りのピカチュウのぬいぐるみが処置室内にもあったことを思い出して、窓辺にあるそれを手に処置台へ行く。
佐々木先生は微笑んで頷いてくれて、私は翔くんにそれを渡した。
「先生、こっちの手に点滴を入れるんだって。だから反対の手でピカチュウ、抱っこしててくれる?」
「うん」
「点滴するときは痛いから泣いても大丈夫だよ。でもピカチュウはずっと抱っこしててあげてね。ピカチュウ、そばにいればもっとがんばれるよね?」
「うん」
私は点滴をしない利き手側の腕をピカチュウごと動かないように固定する。
先生は「えらいぞ。ピカチュウ、かっこいいもんな」と話しかけながら翔くんの注意を逸らし、あっという間に点滴を刺し終えた。その手技は惚れ惚れするほど鮮やかで、先輩看護師が点滴の管が抜けないように手首をシーネでさっと固定する。私は点滴の固定から気をそらせるために翔くんへ話しかける。最後に貼ったテープを見て、「ピカチュウだ!」と涙が粒が光る頬で笑った。
「宮島さんが描いたんだよ。上手だよね」
「えっ?」
私は驚いて佐々木先生を見た。
「あれ、違った?」
「合ってますけど、」
「夜勤で描いてるのを見かけてさ。キミたちが寝てる間も、看護師さんは皆んなを応援してくれてるんだよ。すごいよね」
「そんな、先生こそ、毎日夜遅くまでお仕事してるのに」
話をしながら点滴の滴下を見たり、刺入部位の観察をする。うん、大丈夫。翔くん、ちゃんと頑張ってくれた。
処置室の前で待機してくれていたお母さんにも翔くんが頑張ってくれたことを報告して、点滴台を引きながら一緒に病室へ戻る。
点滴一つとっても、成人や老人とは全然違う。でも、達成感があって、なんだか感動しちゃう。
私は病室を出て心を弾ませながらナースステーションへ戻った。
その日の看護記録を終えて、これで私の今日の業務は終了。
手首や指先、指の間など基本に沿ってしっかりと手洗いをして、ナースステーション奥の休憩室に置かれた冷蔵庫へ向かう。冷凍庫の中には出勤前に病院内のコンビニに寄って買ったアイスのピノが入っている。夏の始まりは朝から暑く、日勤が終わったら食べようと買ったもの。
箱のビニール紐を引っ張ってグルリと一周。ミシン目に沿ってビリビリと音を立てて開けて青色のピックを持ち、チョコアイスにプスっと刺して口元へ運ぶ。
「あーん」と言って口を開けたとき、休憩室のドアを開けた佐々木先生と目が合った。
あ……
佐々木先生は口元を押さえて俯いた。その肩が揺れていて、笑いを堪えようとして堪えきれてないのは一目瞭然。
私はどんな顔をしてたのか、想像するに間抜けな顔で口を開けてたに違いない。顔が熱く赤面してるのがわかる。思わずピノを元のスペースへ戻した。佐々木先生はテーブル越しに私の正面に腰掛け、笑い声の混じる声音で言った。
「宮島さん、食べな?」
「う…はい、」
「夏だもんねえ。ピノ、昔からあるけどうまいよねぇ」
「はい…」
佐々木先生から視線を逸らせておずおずと口に運ぶと、冷たさとチョコレートとバニラの濃厚な甘さが口に広がる。美味しい〜とほわほわ幸せな気持ちになる。佐々木先生がふふっと笑ったのが聞こえた。
恥ずかし……
そう思いながら、そっと私の前に座る佐々木先生を見上げた。目が合って、「ん?」と微笑まれる。
何でもないです、と言おうとして、少し迷ったけれど声をかけた。
「あの、先生も良かったらどうぞ。爪楊枝ありますし」
冷蔵庫の上にあるボックスから爪楊枝の入った箱をピノと一緒に差し出す。
先生は私の顔を一瞬見て、爪楊枝を手にした。
「じゃあお言葉に甘えて。宮島さん、ありがとう」
柔らかく微笑んで、パクッと食べて、「美味しい」と笑う。
…なんか、すごくかわいい食べ方。30代半ばの大人の男性に失礼だけれど。先生の美味しそうな食べ方を見てたら私ももう一個食べたくなって、ピックを刺す。
「あー…」ん、と口にしかけると佐々木先生は今度は笑いを堪えようとせずにプッと吹き出した。
「宮島さんって案外…」
「なんでしょう」
少しだけ開き直って口元を手で隠してもぐもぐ咀嚼しながら尋ねる。
「天然だよね」
「う、」
「言われたことない?」
「よく言われます…」
出会って数日で見破られてしまった。
さすが小児科医。この鋭い観察力は言葉よりも表情や態度で患児の病状や心情を把握する小児科医らしい。まして佐々木先生は注意深く診てくれると評判のお医者さん。
やっぱり、と佐々木先生が楽しそうに笑う。
「宮島さん」
「はい?」
「どう?小児科は。まだ小児看護が始まったばかりだけど」
「…そうですね。子どもたちは言葉で説明できない分、自分が子どもたちの変化に気づかなきゃいけないことも多いですし、対応も子どもの年齢や性格で違ってきますし、そういうところは成人や老人看護よりも細やかな気遣いが大切だと思います」
佐々木先生がそうだね、と穏やかに頷いてくれた。
「でも、子ども可愛いでしょ?」
「はいっ、それはもうすごく!」
明るく尋ねられて、私は力強く同意する。本当に子どもは可愛くて、病気で弱っている子どもたちのチカラになってあげたくなる。
「さっきの点滴のプレパレーション、とても良かったよ。ピカチュウに気づいて持ってきてあげたのも良かった。ああいうちょっとしたことに気づくのは、キミが病室の状況を気にかけているからだね」
「先生」
「歩(あゆむ)くんのことも。キミがそばに居てくれるから、歩くんはプレイルームに来られるようになった」
「そんな、私なんて、」
自閉症児の歩くんがプレイルームに病棟引越し後まもなく来られるようになったのは私のおかげだと、小児科の看護師長からも歩くんのお母さんからも言われたけれど、私にはその実感はあまりなかった。ただ、「あゆむ」と「あゆみ」と名前が同じ漢字で、読み方が一文字違うだけの似通った名前という偶然があっただけ。
「キミが思っている以上に、僕はキミに小児科ナースの適正があるんじゃないかなと思っているよ。わからないことはどんどん聞いて、勉強していってね」
「はい」
「ピノ、ごちそうさま。気をつけて帰ってね」
「はい」
佐々木先生は休憩室を後にした。
どうして休憩室に来たのかなと思っていたけど、佐々木先生は私に小児科ナースの適正があるんじゃないかと伝えたかったのかもしれない。プレパレーションも良かったと認めてくれて、ひょっとしたら、あの場で私が心配になったことを見抜いていたのかもしれない。
外科小児科混合病棟は小児科病棟の改装工事が終了するまでの、一時的な小児の預かり場所。
だけど小児にとっては、そのときやその後の病状を左右するだけでなく、小児科病棟へ移った後や退院してからの検査や治療の場面の精神状態にもかかわってくる。それは治療の成果に直接的に影響を与えてしまう。此処は大切な場所。そこで働く私も、子どもへ影響を与えてしまう。
頑張らなきゃ。勉強しなきゃ。
私はスマホを取り出して時刻を見た。病院内の書店は閉店してしまったけれど、駅ビルの書店は今ならまだ間に合う。あそこは医科大学が近く、看護学部もあって、医療や看護の書籍をたくさん取り扱っている。
夏のはじまり、アイスコーヒーを片手に小児看護の本に目を通そう。
廊下に出ると、点滴台をお母さんに引かれて歩く翔くんが前から歩いてきた。翔くんが私が描いた点滴の固定のピカチュウのテープを見せてくれる。そう言えば、翔くんには洗い替えのピカチュウのパジャマがあった。お母さんに翔くんに知られないように声をひそめて尋ねる。
「明日、ピカチュウのパジャマを着ますか?」
「ええ、そのつもりですが…?」
「翔くん、明日、ピカチュウのパジャマを着るの、お手伝いするね」
「ほんと?」
「ほんと。点滴しててもちゃんと着れるから、私と約束ね」
「うん、やくそく」
「また明日ね」
お母さんには会釈して、翔くんにはハイタッチとバイバイをして病棟を離れる。
翔くんが少しでも早く退院して夏を楽しめるように。
私は日没前の明るい夜の街を書店へと急いだ。
夏の気配