「最後の声」
*自死に関する記述あり、閲覧注意*
私の母は精神を病んで自死した。
私宛ての遺書には「ごめんなさい、こうするしかありません」と白い便箋にボールペンで書かれた文字は少しだけ震えていた。
私は自殺未遂をした母が精神科の病院を退院して、母が再び仕事に出勤するようになってもまた自分を傷つけるんじゃないかといつも不安だった。気が気じゃなくて気が狂いそうなほど心配していた。
入院中や退院後とは見違えるほど母の表情が明るくなってもまだ不安で、でも、ずっと私が母を見張っているわけにはいかなかった。
看護師の資格を持つ私は、精神疾患の回復期にも自殺が多いことを知っていたけれど、周囲は母が元気になって良かったと母や私のために喜んでくれていた。喜ぶ姿を見て、実はそうじゃないんです、と否定したらまた気遣わしげな視線を向けられるのが辛くて、私は母を精神を病んでいないお母さんとして接した。
そんな不安を母は見透かしていたのだろうか。
最後の声が「ごめんなさい」「こうするしかありません」はやるせなくて、私は自分を許すことができない。
でもそれは残された私が感じていることで、母はきっと私の幸せを願って自ら死を選んだのだとも思う。こうすれば、私が幸せになると信じて。だから母の優しさが、自死を選ばせたのだと、母の部屋の鏡台に置かれた通帳と銀行印を私は胸に抱きしめた。
私が涙を流せたのは、いつだったか覚えていない。
母に死化粧を施したときも、棺に花を手向けたときも、涙は流れなかったから。
最後の声は、とても重要なんだと自分に言い聞かせる。
私の家族の枷にならないように。
最後の声
子どもの頃、と言っても小学生高学年から中学1年生にかけて。
私の夢は、「絵本作家」になることだった。
自分でお話を作り、イラストを描く。
小学生の夏休みの自由研究は、5年生は絵本を、6年生では紙芝居を作った。
夏休み明けで紙芝居を提出したときは担任に褒められた。そして全校児童が体育座りで座る中、体育館のステージで紙芝居の読み聞かせをすることになった。自作の紙芝居の用紙は10枚くらいあったか、体感10分くらいは読んでいたように思う。体育館に集まった児童の全員に何の反応もないように思えて、その時間は私にとって苦痛だった。教師を見る余裕は私にはなかった。
私は音読が得意で、図書委員として給食の時間に新刊のハードカバーを紹介するといつも友だちや先生たちから褒められた。絵本作家の前は「声優」になるのが夢だったほどには、音読に自信を持っていた。それなのに。
物語はある年のクリスマスに、良い子にしてたら楽しみにしているサンタクロースが来てくれるよって話。小学生低学年に刺さるとも思わないけど、高学年には説教くさいかも。そもそも真夏にクリスマスじゃあテンション上がらないよね。
色塗りも色鉛筆だから、広い体育館の後方では真っ白に見えたかもしれない。私が持って、私が入れ替えて、で今のようにスクリーンに映したわけじゃないし。
自信を喪失しながら発表を終えた。発表後、誰かから何か言われたような気がするけれど、大人になった今、記憶にない。
そんな私が中学校に入学してすぐの頃、将来なりたい職業を調べて図にしましょう、という授業があった。
クラスの皆んなで図書館で資料を探し、職業の内容や就職するために行うことを画用紙にまとめる時間が割り与えられた。
さて、どうしよう。
「絵本作家」なんて、子どもっぽい夢かな。「声優」も現実的ではないかもしれない。その前はなんだっけ?確か色々あって、花屋さん、パン屋さん、バスガイド……
画用紙の真っ白を見ながら逡巡していたけど、クラスメイトは資料を持ってテーブルに戻ってくる人も現れ始めた。
「絵本作家」になるための資料なんてあるかなぁと半信半疑なままたくさんの本を左から右、上から下へとタイトルを見ながら探していく。もしもなかったら、他の夢を書けばいいやと思いながら。
色々な職業について説明している本を手に取って、パラパラ捲るとその中に「絵本作家」があった。
あるじゃん…!
心が高揚したのがわかった。ドキドキして、口元が笑んで緩むのを引き締める。自分が肯定されたような気がした。コレで良いんだよって言われている気がした。
残り時間に余裕があるわけではない。
私は真っ白な画用紙にシャーペンで下書きを始めた。
テーブルには先生が置いた12色の色鉛筆やマジックが並んでいる。
そうだ、イラストも描こう。絵本が良い。
いつの間にか楽しくなっている。担任がテーブルを回っているけれど、視線は全く気にならなかった。
授業終わりのチャイムまで、細かなところを詰めていく。
真っ白だった画用紙は、マジックで濃く色鮮やかになっていた。
後日、将来の夢が書かれた画用紙は教室の後ろの壁に掲示された。色鉛筆の淡い色の画用紙が並ぶ中、私のマジックの画用紙の主張は激しく目立っていた。
担任は、「よく調べてよく書けてるよ」と言ってくれた。それだけで私の夢も私自身も肯定されたようで、くすぐったくてとても嬉しかったのをよく覚えている。
子どもの頃の夢
「どこにも行かないで」
目の前の幼女が瞳にいっぱい涙を溜めて僕に懇願している。
僕は神社の境内の自分に与えられたスペースにしゃがんで幼女に道化を演じる。
「僕は日本中の子どもたちを笑わせるために、たくさんの場所を廻らなきゃいけないんだ」
「だめ。ずっとここにいて」
「それはできないんだよ」
泣いている女の子の願いを叶えてはあげられない。
僕は全国津々浦々を旅するクラウン。
各地のイベント、お祭りに出演させてもらって生計を立てている。
週末はイベントの予定でスケジュールは埋まっている。
「でもね」
僕は立ち上がって手を伸ばし幼女の体を肩車する。
身長2メートルの僕の眺めはとっても良いはずだ。
グルリとその場で回転する。
女の子は「わあ」と歓声を上げた。
肩車から胸元に抱え直し、女の子と目線を合わせる。
「僕は日本中の子どもを笑顔にしたら、この街へ帰ってくるよ」
「ホント?」
「うん、ホント」
「だから、楽しみに待っていてね」
「うん!まってる!」
お姫様抱っこに変えて、グルリとその場で回転する。
女の子はまた歓声を上げて喜んだ。
「じゃあ、またね」
「うん、まってるね」
ハイタッチをして、女の子は僕に手を振って両親に連れられていく。
帰る場所がある。
その約束が、僕をクラウンとして生かしてくれる。
「どこにも行かないで」
すき、きらい、すき、きらい、すき……
「みいちゃん、花うらないしよっ」
「うん!」
なかよしのゆうちゃんと川のどてをころがるように走りおりて、丸いきいろのツブツブのまわりに白くほそい花びらがたくさんついた花を1本づつ手にとる。
「せーの、すき、きらい、すき…」
あたしたちは声をあわせて、ふたり同じタイミングで花びらを1まいづつつまんで、草の上に花びらをおとしていく。
さいごの1まいが、ゆうちゃんもあたしも「すき」になれば「せいこう」のうらない。
あたしたちのすきな人は、みいちゃんは「あたし」で、あたしは「ゆうちゃん」。
どっちかのさいごの1まいが「きらい」になるのはゆるせなくて、5時の音楽がどこからかきこえるまで、あたしたちはむちゅうで花びらをむしっていた。
中学校に入学してすぐ、私は剣道部に一緒に入部しようとゆうちゃんを誘った。先輩たちの袴と防具姿がカッコ良くて、背の高いゆうちゃんもきっと似合う。ゆうちゃんも私と一緒の部活が良いと言ってくれて、2人で剣道部へ。練習は厳しかったけれど、背が高く運動神経がそれなりに良かった私たちは地区大会の新人戦で表彰されるくらいには活躍できた。
小学生低学年のときに川の土手を転げ落ちるような勢いで駆け降りていた私たちは、今、土手の上のコンクリートで舗装された狭い道を自転車で走り抜ける。
小学生のときに、昼放課に2人で学校の図書館で花の図鑑を広げてあの花占いをした花のことを一緒に調べたことがある。ハルジオンという名前が付いていた。花言葉は「追憶の愛」。ルビがふってあった。
「ついおくってなあに?」
「さあ?でも、愛だって」
「愛とか、なんか恥ずかしいね」
「ゆうちゃん、好きな人いる?」
「男子で、ってことだよね?いないよ。みいちゃんは?」
「あたしもいない。男子って、サッカーとか、ゲームのこと話しててよくわかんない」
「あたしも。みいちゃんがいちばん話が合う」
「ゆうちゃん、ずっと友だちでいてね」
「うん、もちろん!みいちゃんもだよ」
やくそくね、と小指を絡ませて腕を軽く振りながら指切りげんまんを一緒に歌った。
今はもう、「追憶」も「愛」も説明できる。
自転車を軽快に走らせる。
川のせせらぎ、水面の煌めき、草花の青と土の香り、ハルジオンの群生の鮮やかな白と黄色が風に揺れる。
風がスカートをパタパタと音を立てて揺らし、前髪を巻き上げる。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
私はゆうちゃんに、男子剣道部主将、青柳先輩に片想いしていることをそっと伝えた。
青柳先輩がお面を外すときの指の長さ、外した後、手の甲で汗を拭う姿、部員と笑い合う姿。全部カッコよくて、眩しい。
ゆうちゃんは最初ビックリしたみたいだけど、うん、と笑顔になった。「青柳先輩、カッコイイもんね」と私の手を握った。ゆうちゃんの手が冷たくて、ビックリした。
今は夏。部活終わりで2人でいつまでも自転車置き場の屋根の下で喋っていて、湿度が高く蒸し蒸ししているのに。ゆうちゃんの顔をそっと覗く。それに気づいたゆうちゃんは口角を上げた。
「暑いね。帰ろっか」
「…うん」
ゆうちゃんに青柳先輩を好きなことを打ち明けて良かったのかな。
私は川沿いの自転車を走らせながら考える。
私は試合前、緊張しているときに指先が冷たくなる。私はゆうちゃんを緊張させてしまったの?
私は青柳先輩のことが好きだけど、ゆうちゃんのことは子どもの頃からずっと大好きなのに。あの、指切りげんまんした、「ずっと友だち」の約束はずっと続いてる。ゆうちゃんも、そうだよね…?
耳をすませば、ゆうちゃんが私の後ろを自転車でずっと追ってくれているのがわかる。私はそれに安心して自転車を走らす。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
2人で「好き」を揃えた花占い。
私が今占うなら、「青柳先輩」と「ゆうちゃん」。ゆうちゃんは、誰を占うの…?
私とゆうちゃんは別々の高校へ進学した。
私は青柳先輩の後を追って進学校へ、ゆうちゃんは大学の附属の女子高へ進学した。
私は背の高い剣道部員として一部の女子に人気で、交際を申し込まれたりもした。
そうして私は初めて気がついた。
部室の更衣室で2人っきりで頬を染めて一生懸命に告白してくれた後輩を見て、こんな恋もあるんだってことを。
そんな出来事は1度きりではなくて、私への告白に眉を顰める人や心配してくれる人もいた。竹刀を振りながら、交際を断った後輩の視線が私を追いかけているのを感じる。
そうだよね。すぐに別の人を好きになれるほど、恋は簡単じゃないよね。私は青柳先輩を視線で追って、幸せな気持ちになる。誰かを好きになることは普通のことで、同性を好きになることも普通だと感じられる人と、異常だと感じる人がいる。それだけのこと。
……その日、青柳先輩は私を好きだと告白してくれた。後にも先にもこんなに嬉しくて幸せなことはないと思えて、私も「中学の頃からずっと好きでした」と告げる。青柳先輩はすごく嬉しいと、優しく抱きしめてくれた。
帰宅してからも、嬉しいとか、幸せだと喜び合うメッセージを送りあう。日付けが変わる頃、もう寝なくちゃね、とお休みスタンプを送りあって幸せな気持ちで目を閉じた。
別々の高校で過ごしてゆうちゃんが恋しくなった頃、ゆうちゃんが連絡をくれた。SNSでやりとりしたり、休日には繁華街へ遊びに行くこともあった。
ゆうちゃんは女子高生らしくオシャレになって、すごく可愛くカッコよくなった。女子高の新しい友だちがヘアアレンジやメイクを教えてくれるから、って笑った。メイクのせいか同性なのに大人っぽくて少しドキドキしてしまう。
青柳先輩とデートするときに、こんなふうにヘアアレンジやメイクができたら良いなあ。アイシャドウのラメのキラキラに目を奪われていると、「みいちゃん、もう、見過ぎだよー」とゆうちゃんが片手で顔を覆った。
照れてる。中学生のときの、私の知ってるみいちゃんだ。
「だって、ゆうちゃん綺麗だもん」
「えー?別に普通だよ」
「綺麗だって!今度メイク教えてね」
「良いよ!もちろん!」
私はゆうちゃんの腕に手を絡ませた。ゆうちゃんの身体が一瞬、強張る。
「あ、ごめん」
「ううん、大丈夫。でも、私、汗臭いかもだし」
「そんなことないよ。むしろ良い匂いだった」
「なにそれ」
ゆうちゃんはケラケラと笑った。
ゆうちゃんと私。
ちゃんと「友だち」のはずなのに、あの図書館で約束をしたときに思い描いていた「友だち」とはカタチが異なる気がして胸騒ぎがする。私たちは「友だち」のはずなのに。
帰り道、今日はゆうちゃんの後ろを走りたいと、私はゆうちゃんが漕ぐ自転車の背中を自転車で追っている。
中学時代、いつもゆうちゃんが私の背中を追いかけてくれていた。
私がゆうちゃんの背中を追いかければ、なにかこの胸騒ぎの理由がわかるのかもしれない。
ゆうちゃんは自転車を走らせる。
川のせせらぎ、水面の煌めき、草花の青と土の香り、ハルジオンの群生の鮮やかな白と黄色が風に揺れる。
ゆうちゃんは自転車を端に寄せて両足を地面に付けた。私は不思議に思いながらゆうちゃんの隣に並ぶ。
「ハルジオン、見よっか」
「…うん、良いよ」
ゆうちゃんの行動が子どもの頃をただ懐かしむだけじゃなくて、他にも理由があるような気がする。
私たちは川縁の土手に降りて、ハルジオンの群生に立つ。
お互いに茎を1本折り切って、白い小さな細い花びらを1枚づつ千切っていく。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
ハルジオンは「花びらがいっぱいで、どっちになるかわからなくてたのしいね」ってふたり言い合った懐かしい声が聞こえた気がした。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
花びらを半分残して結果がわからないハルジオンを、ゆうちゃんが青空へぽーんと放り投げた。
片側半分だけ花びらがついたハルジオンが放物線を描いて川のせせらぎに着水し、水の流れに乗って遠くへ運ばれていく。
ゆうちゃんのことをわかりたいのにわからなくてもどかしい。一緒に、好き、嫌い、好き、って声を合わせて摘んでいたのに。
「どうして投げちゃったの?」
「うん。私がみいちゃんのことを好きなら、やっぱりそれで良いなって確認できたから」
私はゆうちゃんの言っていることの半分も理解できていないかもしれない。
戸惑いながらゆうちゃんを見つめると、ゆうちゃんが夕陽を背中に受けてそっと微笑んだ。
大人びた儚げな笑みは、白く細い繊細なハルジオンの花びらのよう。
元気な黄色の花心みたいだと思っていたゆうちゃんの本当の心は、繊細な花びらの方かもしれない。
私は…ゆうちゃんが黄色の花心でも、繊細なハルジオンでも、どっちのゆうちゃんのことも好き。
私も花びらを半分残して結果がわからないハルジオンを、青空へぽーんと放り投げた。
片側半分だけ花びらがついたハルジオンが放物線を描いて川のせせらぎに着水し、水の流れに乗って遠くへ運ばれていく。
みいちゃんが私の顔を見つめる。私は笑った。
「私もゆうちゃんが好きだから、それだけで良いと思った!」
ゆうちゃんは急に体を反転させた。川のハルジオンに目を凝らしているみたいで、私も川に視線を移した。
まるで私のハルジオンがゆうちゃんのハルジオンを追いかけているように、二つのハルジオンの茎や葉の緑、川砂利に映える白い花びらとこんもり丸い黄色の花芯がキラキラ煌めく水面を滑るように運ばれていく。
私たちはそれを見送って、土手を登って自転車のスタンドを跳ね上げて跨った。
ハルジオンの白と黄色の花が風に優しく揺らぐ群生を見ていると、風が前髪を巻き上げた。
長くなった前髪をお気に入りの白い花のモチーフがついたぱっちんどめで留めて、ハルジオンの花占いをしていたあの時間は、ふたりだけのかけがえのない時間だったね。
私、ゆうちゃんの笑顔が好き。
ゆうちゃんの笑顔を守るために、私は何ができるんだろう?
優しく揺らぐハルジオンみたいに、そっと、遠くから見守っていたら、ゆうちゃんは今よりももう少しだけゆうちゃんの本心を私に打ち明けてくれる?
「みいちゃん、この先にハルジオンの群生地があること、知ってる?」
「え、知らない。見たい!」
「うん!」
背中を追って自転車をぐんぐん漕いで、子どもの頃は遠くて行くことができなかった土手のハルジオンの群生地に到着する。
そこはもっと多くの白と黄色の小さな花々が揺れていて、白と黄色の波を作る。
ゆうちゃんがいつか、私に秘密にしていることを打ち明けてくれるその日まで。
そのときの私が笑顔でゆうちゃんが好きだと受け入れられるように。
私は控えめに、優しく、遠くから、ずっと見守っている
私たちの周りを風が爽やかに吹き抜ける。
私たちは夕涼みしながら、いつまでも土手のハルジオンを眺め続ける。
ハルジオンの白と黄色が、川面にキラキラ映る。
「ゆうちゃん」
「ん?」
「自撮りしよ?」
スマホを取り出して私たちはスマホの画面を覗き込んだ。
「みいちゃん、嬉しそう」
「だって嬉しいもん」
「ゆうちゃんだって」
「そっか」
穏やかに瞳を細めて軽くて微笑むゆうちゃんと、明るい笑顔の私。
たくさんのハルジオンが揺れる土手をバッグに写真を撮ってゆうちゃんに送ると、写真を確認したゆうちゃんは「ありがとう」とスマホを胸にそっと抱きしめる。
ハルジオンの群生は夕陽の中で優しく揺らいでいた。
君の背中を追って
すき、きらい、すき、きらい、すき……
「みいちゃん、花うらないしよっ」
「うん!」
なかよしのみいちゃんと川のどてをころがるように走りおりて、丸いきいろのツブツブのまわりに白くほそい花びらがたくさんついた花を1本づつ手にとる。
「せーの、すき、きらい、すき…」
あたしたちは声をあわせて、ふたり同じタイミングで花びらを1まいづつつまんで、草の上に花びらをおとしていく。
さいごの1まいが、みいちゃんもあたしも「すき」になれば「せいこう」のうらない。
あたしたちのすきな人は、みいちゃんは「あたし」で、あたしは「みいちゃん」。
どっちかのさいごの1まいが「きらい」になるのはゆるせなくて、5時の音楽がどこからかきこえるまで、あたしたちはむちゅうで花びらをむしっていた。
中学校に入学すると、みいちゃんは袴と防具姿のカッコ良さに憧れて剣道部に入部したいと私に言った。みいちゃんのいない部活は考えられなくて、私も剣道部に入部した。背が高く運動神経がそれなりに良かった私たちは地区大会の新人戦で表彰されるくらいには活躍できた。
小学生低学年のときに川の土手を転げ落ちるような勢いで駆け降りていた私たちは、今、土手の上のコンクリートで舗装された狭い道を自転車で走り抜ける。
小学生のときに、昼放課に2人で学校の図書館で花の図鑑を広げてあの花占いをした花のことを一緒に調べたことがある。ハルジオンという名前が付いていた。花言葉は「追憶の愛」。ルビがふってあった。
「ついおくってなあに?」
「さあ?でも、愛だって」
「愛とか、なんか恥ずかしいね」
「ゆうちゃん、好きな人いる?」
「男子で、ってことだよね?いないよ。みいちゃんは?」
「あたしもいない。男子って、サッカーとか、ゲームのこと話しててよくわかんない」
「あたしも。みいちゃんがいちばん話が合う」
「ゆうちゃん、ずっと友だちでいてね」
「うん、もちろん!みいちゃんもだよ」
やくそくね、と小指を絡ませて腕を軽く振りながら指切りげんまんを一緒に歌った。
今はもう、「追憶」も「愛」も説明できる。
自転車を軽快に走らせるみいちゃんの背中を追いかける。
川のせせらぎ、水面の煌めき、草花の青と土の香り、ハルジオンの群生の鮮やかな白と黄色が風に揺れる。
みいちゃんの白い半袖のセーラー服と、後ろで一つに束ねた長い黒髪…。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
みいちゃんは私にそっと教えてくれた。男子剣道部主将、青柳先輩に片想いしているって。
私の好きな人は変わらずみいちゃんで、それ以上に好きな人なんていない。
みいちゃんが花占いで占う人は「青柳先輩」で、私は「みいちゃん」。
私たちは女子だから、みいちゃんが普通で、私は異常。だからみいちゃんに言えない。絶対に知られちゃいけない。
それに、指切りげんまんした、「ずっと友だち」の約束を、私の本当の心は破っている。
みいちゃんの自転車のシルバーの泥除けが陽光に反射して眩しく光っていた。
それはまるで、真っ直ぐなみいちゃんの光のような眩しさ。
反射板の赤さが鮮やかに怪しげに視界に差し込む。
それはまるで、私の恋の警告の光。
私はみいちゃんとは別の高校へ進学した。
みいちゃんは進学校へ、私は大学の附属の女子高へ進学した。
私は背の高い剣道部員として一部の女子に人気で、交際を申し込まれたりもした。
そうして私は初めて気がついた。
部室の更衣室で2人っきりで頬を染めて一生懸命に告白してくれた後輩を見て、私の恋は普通なのかもしれないって。
そんな出来事が何度か続き、この女子高の中で、私は普通になれた気がした。だけど私への告白に眉を顰める人や心配してくれる人もいた。竹刀を振りながら、交際を断った後輩の視線が私を追いかけているのを感じる。
そうだよね。すぐに別の人を好きになれるほど、恋は簡単じゃないよね。誰かを好きになることは普通のことで、同性を好きになっても普通だと感じられる人と、異常だと感じる人がいる。それだけのこと。
……私は結局のところ、「みいちゃん」が好きで、他の人では私の心は動かなかった。
別々の高校で過ごしているとみいちゃんが恋しくなり、私はみいちゃんに連絡を取った。SNSでやりとりしたり、休日には繁華街へ遊びに行くこともあった。
中学のときよりも明確に恋愛感情を募らせ、本心を押し隠す。だって知られたらみいちゃんに嫌われちゃう。
好きの反対は無関心と、世間でよく聞く言葉だけど---みいちゃんの好きの反対はきっと、嫌い。あの花占いのように、好きか嫌いか、どっちかだ。
青柳先輩と恋人になったみいちゃんは私のことを友だちとして好きだけど、恋人にとって代わりたいと思う私のことは嫌いになってしまう。
約束を破っている私のことを、みいちゃんは嫌いになってしまう。
自転車を端に寄せて川縁の土手に降りて、ハルジオンの群生に立つ。
茎を1本折り切って、白い小さな細い花びらを1枚づつ千切っていく。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
ハルジオンは「花びらがいっぱいで、どっちになるかわからなくてたのしいね」って明るい高いみいちゃんの懐かしい声が聞こえた気がした。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
花びらを半分残して結果がわからないハルジオンを、私は青空へぽーんと放り投げた。
片側半分だけ花びらがついたハルジオンが放物線を描いて川のせせらぎに着水し、水の流れに乗って遠くへ運ばれていく。
ハルジオンの茎や葉の緑、川砂利に映える白い花びらとこんもり丸い黄色の花芯がキラキラ煌めく水面を滑るように。
私はそれを見送って、土手を登って自転車のスタンドを跳ね上げて跨った。
ハルジオンの白と黄色の花が風に優しく揺らぐ群生を見ていると、風が前髪を巻き上げた。
子どもの頃、みいちゃんは前髪が長くなると、いつも白い花のモチーフのぱっちんどめで前髪を留めていた。
みいちゃん、覚えてる?
私と一緒に花占いをしたこと。
2人の「好き」が重なって、みいちゃんと「やったー!」と喜びあったこと。
今、あの時間が、ふたりだけのかけがえのない時間だったと感じているよ。
私、みいちゃんの笑顔が好き。
みいちゃんの笑顔を守るためなら、自分のこの想いは封印しても良い。
優しく揺らぐハルジオンみたいに、そっと、遠くから見守っているだけできっと良い。
私はみいちゃんが好き。
自転車をぐんぐん漕いで、子どもの頃は遠くて行くことができなかった土手にもハルジオンの群生地があることに気がついた。
そこはもっと多くの白と黄色の小さな花々が揺れている。
みいちゃんと遠く離れても、私の心は咲き続ける。
控えめに、優しく。
そんな想いを抱えていたい。
ハルジオンの群生が、風に揺れて白と黄色の波を作る。
みいちゃんの笑顔は、遠くても私の心に咲いている。
いつか、この土手でまた一緒にハルジオンを見られたら。
その日まで、私の「好き」は、控えめに、優しく、咲き続ける。
好き、嫌い、