雨の香りがすると、思い出すことがある。
頬に流れた涙の跡を見つけた痛みと共に---
雨の香り、涙の跡
休日の午後、ベランダの洗濯物を取り寄せながら曇天を見上げる。
今にも雨が降り出しそうと言えば、そうだけど。
梅雨時の雨が降らない貴重な休日は、やはり走っておきたい。
ランニングシューズを履き、車のキーや免許証、小銭やスマホやらの必要最低限のものをウェストポーチに詰めて車に乗り込んだ。
緑豊かな都市公園は、長距離継走部の教え子たちを鍛える場所。
休日は、俺や、尊敬する体育教師の神谷先生が好んで走るランニングコース。
走り出して暫くすると、ポツリ、一粒の雨が頬に当たった。
ポツリ、ポツリ、途切れ途切れの雨粒は、木々の生い茂る葉が遮ってくれる。
降り出した雨に、草木が濡れ、土が濡れ、独特の香りが漂う。
埃っぽいような雨の降りはじめのこの香りには名前が付けられていた。確か、ギリシャ語でペトリコール。石のエッセンスという意味だ。
この香りは、俺にとって戒めであり、慰めでもあった。
5年前、俺は市民長距離継走大会当日、女子生徒を泣かせてしまったことがある。
その前年、本郷中学校の長距離継走部の顧問となり、選抜された中学1年生の2人をやる気にさせることができなかった。2人はいつも上級生の走るスピードに着いて行けず、チンタラ走っていた。
俺の指導力不足を反省しなければいけないところ、俺は2人をやる気にさせたくていつも叱責した。彼女たちの練習態度は変わらず、タイムも伸びず、上級生とのタイムの差は遠退くばかりで試合の補欠にも選ぶことができなかった。
俺は翌年3月に本郷中学校から西部中学校へ移動となり、彼女たちとの接点はなくなった。
…はずだった。
1年ぶりの曇天の長距離継走大会で俺は西部中学校の指導者として、彼女たちは本郷中学校の駅伝ランナーとして再会した。
米田は3位で襷を受け取り、最初のうちはかなり飛ばしていたが、後半失速して6位まで順位を落とした。
走り込み不足だな。襷を次の走者の鈴木に渡した直後に倒れ込みそうになって、神谷先生に抱きかかえられる。
それを横目でチラッと見て、俺は自分の現在の教え子に意識を集中する。練習通り、順調だ。それで良い。どこかで勝機は訪れる。
米田からの襷を6位で受け取った鈴木が、4位でトラックに帰ってきたのは驚きだった。
速い。区間賞が狙えるペースだ。
そして鈴木の前に走るのは、ウチの学校の2年生。
「抜かれるぞ!ペースを上げろ!腕を振れ!」
間一髪、抜かれる前に襷を次の走者に渡してウチの生徒も倒れ込む。
「よくやった。良かったぞ」
身体を支えながら健闘を讃える。
鈴木は米田に抱きつかれ、健闘を讃えられている。米田は鈴木のおかげで命拾いしたな。
ただ、ポテンシャルはあるはずなのに、練習不足が実力を発揮できないのはもったいないぞ。
神谷先生は、何を思っているんだろう。
次の走者に指示を飛ばす後ろ姿からは、何かを読み取れるはずはなかった。
全ての競技が終わり、表彰式前にトイレを済ませると、同じタイミングで米田もトイレからトラックの方へ戻るところだった。
「米田」
「早坂先生」
「見たぞ、米田の走り。前半は良かったけど、後半は身体がついて行かなかったな」
「……はい」
小さな声で返事が返ってきた。
去年の部活の印象では活発で明るいイメージがあったけど、今日は流石に反省しているのか。
「走り込み不足だな」
来年は練習頑張れよ、最上級生なんだから、下級生の手本にならなきゃダメだぞ。そんな意味を込めて、背中をポンと軽く叩く。
俯いている米田が気になるけど、今にも雨が降り出しそうなため、表彰式は準備ができ次第行われることになっている。
教師が遅刻するわけにはいかない。
「来年、頑張ろうな」
俺は表彰式が行われるトラックへ一足先に走って戻ることにした。
表彰式後、各学校に割り当てられた片付けを行う。
西部中学校の隣は本郷中学校で、顔見知りの神谷先生が片付けていた。
片付け終わり、神谷先生に「鈴木速かったですね。区間賞おめでとうございます」と声をかける。
2年生で区間賞を取るなんて大したものだ。1年の時はあんなにチンタラ走っていたくせに。
神谷先生からも「西部中学校3位おめでとうございます」と言葉が返ってくる。勝敗に関係なく、お互いの健闘を讃え合う。スポーツの素晴らしいところだ。
鈴木を褒め、俺は鈴木と仲の良い米田の失速ぶりを話題にあげた。彼女は明らかに練習不足だった。指導に定評のある神谷先生でも、彼女のおちゃらけた態度は変わらなかったのか。もったいない。
神谷先生は、米田が走り込めなかった真相を教えてくれた。
米田が夏休み前に捻挫したこと、練習再開まで1か月を要したこと、捻挫前は米田と鈴木の実力は拮抗していたこと---
俺は口元を押さえた。
なんてことを米田に言ってしまったのだろう。
走りたいのに走れなくなった人に対して…鈴木と実力が拮抗していたなら、それは米田が真面目に練習していたに他ならないのに。
練習したくてもできない悔しさを抱えていたのかもしれないと思い遣ることもせず、米田が練習にマトモに取り組まなかったせいだと決めつけて---
神谷先生は後方を振り返っていた。
視線を追うと、雨でぼやけたスタンド席に、体操服らしき生徒2人の影が見える。
神谷先生から米田と鈴木であることを確認して、俺は「米田に謝ります」とスタンド席に向かって歩きだした。
一刻も早く謝りたい。駆け出したい気持ちでいっぱいだったが、傷つけてしまった米田に何と謝ったら良いのか考えを纏めなければいけない。
そんな俺のことも、米田の気持ちも理解しているだろう神谷先生が助け舟をくれた。
「先ずは俺が落ち着かせます。駐車場に連れて行きます」と時間の猶予まで与えて。
「お願いします」と頭を下げる。考えをまとめよう。
雨の香りが立ち込める霧雨を歩きながら。
駐車場で3人を待っていると、程なくして2人はやってきた。
傘を差す米田と鈴木の頬に涙を拭った跡が残されており、心が軋む。
自分がこの子たちを傷つけたくせに、俺が傷ついてどうする。
俺にできることは俺が全面的に悪かったと謝って、この子たちの負の感情を霧散させることだ。
深く頭を下げて、自分の思い込みや言葉足らずだったことを誠心誠意謝罪する。
雨の香りがする。埃っぽい、咽せるような強い香りが。
そんな俺に、米田は優しかった。
「私、来年も選ばれたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにします」
「米田」
「隣の体育教師にいっぱい教えてもらいます。鈴ちゃんと頑張ります」
言われた言葉は予想外。何て良い子なんだろう。
ポカンと数秒呆気にとられた後、俺はホッとして笑った。
涙ぐんでしまっていたから、笑顔と共に涙の粒がこぼれ落ちそうで、生徒の前でそれは避けたい。首元のタオルで顔の汗や雨を拭くフリをして顔全体を拭う。
「米田、ありがとう」
「打倒西中!」
「「そこは今年1位の南部中だろ」」
神谷先生と俺が同時にツッコミを入れたのは言うまでもなかった。
自分の車に向かう俺の後方から、2人の「先生、さよーならー」とデカイ声が聞こえて笑う。
本当に良い子たちだ。両親の育て方と、神谷先生が素晴らしいからだな。
車のドアを閉め、次々とこぼれ落ちる涙を拭う。
霧雨の雨の香り、米田と鈴木の涙の跡。
戒めと慰めの記憶として、心に刻んでおこう。
いつか、神谷先生のような尊敬する師になるために。
都市公園の雨はすぐに止むかと思ったが、止みそうになかった。
ハッキリ言って寒い。梅雨寒だ。
クシャミをして人差し指で鼻の下を押さえる。
風邪なんて引いてる場合じゃない。
明日から5日間、学校へ出勤しなければならない。
都市公園で常設されているコンテナのカフェまでは、池を半周した先にある。
屋根付きのテーブルやベンチもあるし、スペシャリティコーヒーが話題になって久しい。
そう言えば一度は飲んでみたいと思いながら、まだ行ったことがないことを思い出して駆け出した。
「あれっ、早坂先生?」
コンテナの一段高くなっているカフェ提供ブースから、素っ頓狂な声がした。
一瞬ウチの生徒かと思ってドキッとしたが、見上げるとついさっきまでの思い出の人物、米田だった。
中学生だった米田は成長して髪をひとつに縛り、化粧をしていた。店員のエプロンとユニフォームがよく似合っているけれど、一目で米田とわかる面影があった。
「米田か。中学生ぶりか。変わってないなぁ」
「は?失礼すぎるって。私、大学生ですよ」
「冗談だよ。バイト中?」
「はい!ご注文何にしますか?」
ニコッと笑顔を向けられてメニューを見るが、せっかくだから米田に決めてもらうことにした。
「オススメは、深煎りアイスコーヒーです!!」
「寒いから却下。温かいのでよろしく」
「やっぱり?」
悪戯っぽく笑われて苦笑する。
そうだ、米田はこんな調子だから、本来の傷つきやすい繊細な性格に気づかなかったんだ。
「当店オリジナルのブレンドコーヒーはいかがですか?1番人気です」
「そうだな。ブレンドで」
「かりこまりました」
コーヒーの芳ばしい香りが忽ち立ち込める。丁寧にドリップをしてくれているのが表情でわかる。
「バイト歴、長いのか?」
「大学入ってすぐだから2年目?長いですか?」
「微妙だな」「ですよね」
支払いを済ませると、他に客が居ないからと俺のテーブルの向かい側に座った。
「鈴ちゃん、わかります?」
「鈴木だろ? わかるも何も、つい最近まで俺のクラスで教育実習生してた」
「先生が鈴ちゃんの教育担当なんですよね?先生から見た鈴ちゃんってどんな感じ?」
興味津々と言った様子に、俺は笑った。
「相変わらず仲良いんだな」
「そりゃもう!ずっと親友だもん!」
「頑張ってたよ。ウチのクラス、ひとり知的好奇心が旺盛で高度な質問する生徒がいるんだけど、初日はその生徒が納得できるような回答ができなくてさ」
米田が無言で神妙な顔をして頷く。
俺は微笑んで続きを話した。
「翌日、鈴木はその生徒の質問をことごとく答えていった。どんなに高度な質問にも、単元の範囲外の質問にも。相当調べ上げて記憶したと思うよ」
「さすが鈴ちゃん!」
「鈴木は努力家で結構な負けず嫌いだな。ま、授業はそのせいで進まなかったから、俺の指導を入れたけど」
「わ、自分の手柄を入れた」
米田のツッコミに笑う。
「授業ってのは、1人のためじゃない、皆んなにわかるように進めるんだよ。まあでも、生徒想いなのはよくわかるから教生として充分合格だよ」
「やった!」
両手を握って胸の前でガッツポーズをする。
鈴木、良い親友を持って幸せだな。
コーヒーの香りを嗅ぐ。
「美味いな。スッキリしてる」
「ですよね?フレンチトーストも人気メニューですよ」
「それはまたにするよ」
霧雨が降り注ぐ。
雨の香りは変わらない。
だけど、心におった小さな傷は癒えている気がする。
「米田、あのときごめんな」
「はい?」
「陸上競技場で、傷つけたこと。泣かせて悪かった」
「…そんなこと、もうとっくに、あの日に謝ってもらっているのに」
戸惑いながら、米田は胸元で拳を握った。
「なんか、霧雨と雨の香りで思い出してさ。あのとき、俺はちゃんと謝れたか自信がなかったから」
「充分でしたよ。先生の謝罪、伝わってました」
「そうか」
「はい!それに」
米田は俺の顔を覗き込んだ。悪戯めいた表情に、ドキッとする。
「私と鈴ちゃん、早坂先生の言葉で泣いたわけじゃないですよ」
「そうなのか!?」
初めて突きつけられた言葉に驚き、大声を出す。
雨に紛れて、すぐに俺の声は自然の中に吸い込まれていった。
「じゃあ、誰のせいで、」
「神谷先生ですよ。私には、『米田は今日も頑張ってた。俺は米田が頑張っているところをずっと見てきたから』って言ってくれたんです」
「神谷先生が…」
神谷先生なら言いそうだ。あんなに生徒思いの先生はなかなか居ない。
「鈴ちゃんにも言ってました。『米田のためによく頑張ったな。あんなに速く返って来るとは驚いたよ』って。それで2人とも泣いちゃって…」
俺は額を抑えてテーブルに突っ伏した。
なんなんだよ、それ。
神谷先生の優しさが米田と鈴木を泣かしてんじゃん。
「鈴ちゃん、神谷先生みたいに優しくて頼り甲斐のある先生になりたいんだって。早坂先生、機会があったら、鈴ちゃんを助けてあげてくださいね」
「…わかったよ」
頭上から米田のふふふっと穏やかな笑い声が聞こえる。
優しさの涙の跡だなんて、そんなんありなのかよ。
「…俺の憧れも神谷先生だから」
「嘘!」
「マジで」
「そしたらあたし、ラッキーですね。時々神谷先生、コーヒー飲みに来てくれますもん」
「マジか。俺ももっと飲みに来るわ」
「ありがとうございます!」
雨の香り、涙の跡が切ない思い出から明るい思い出に変わる。
雨の香り、涙の跡
*腸管内の記述あり、読了に注意が必要です*
外科病棟で看護師として勤務している私は、今日の外科回診時に行われる100歳の患者さんの開腹手術後の抜糸の介助につく。
一般的に腹部の抜糸は術後7日目だけど、100歳の患者さんの抜糸は離開の恐れはないだろうと判断された術後14日目の今日、行われる。
病室のラジオからは、患者さんの好きな演歌が流れている。
2日前の抜糸一日目、縫合した糸を一糸づつ間隔を開ける半抜糸を主治医の浅尾先生が行った。今日、回診担当の初老の男性医師が傷の診察後、全ての糸を抜く全抜糸を行った。
…が、全抜糸直後、腹部正中切開後の創は大きく離開し、腹壁を構成する皮膚、脂肪、筋肉が視認、腹膜すら離開して腸の鮮やかなピンク色が動いているのが見えた。
ヒェッ
声を上げかけるのをなんとか飲み込み、医師にガーゼをたくさん渡す。
脳裏には緊急手術の文字が頭に浮かぶ。
抜糸するときに誰もが感じるわずかな痛みだけなのか、患者さんはケロッとしており、それが救いだった。
病室で抜糸の後片付けを行い、病室を出て、ハア、とため息を吐く。
患者さんが100歳と超高齢だったこともあり、主治医の浅尾先生が術後の経過に普段以上に気を配っていた患者さん。
再手術は浅尾先生が外来を中断するのか、午前の外来終了後に行うだろう。
私が急いで行わなければならないことを脳内で整理する。
手術のための医師から家族へのインフォームドコンセントの同席、家族へ同意書の記載を依頼し確認、手術記録用紙準備、心電図や検査データを揃えて、手術着に着替えて…
あっ、患者さんに絶対安静だって言わないと!!
病室のドアを勢いよく開けて、ベッドサイドに足を下そうとしている患者を慌てて止める。患者さんは私の勢いに肩をビクつかせて、宮島さん、と私の名を呼んだ。
「すみません、動かないでいてください!!」
「何で?」
不思議そうな患者さん。
それはそう。手術翌日から術後合併症予防のために、痛み止めを使ってでも動いてくださいって離床を強く勧めたのは、何を隠そう私なのだから。
「先生からこの後説明がありますから!!用事があるなら、私、やります!!」
「お茶を飲も」
「待って、ダメです!!」
患者さんの前に立ちはだかり必死な私に、患者さんは口を開けてポカンとしている。
まぁそうだよね。普段の私はおっとりしている。
そのくせ、優しそうな口調で離床させるから容赦ないと言われることも多々あるけれど。
インフォームドコンセントの同席や手術準備はできてないけど、きっと今日のチームリーダーは頼れる先輩看護師、青木さんだから、彼女が仕事を割り振り、皆んなが必死になってやってくれているはず。
今日のチームメンバーを思い浮かべ、協力的なメンツが揃っているよねと信じることにして、私は目の前の患者さんに全力を注ぐ。
何といっても100歳。
理解力があると言っても100歳。
虫垂炎の痛みを大したことないと片付けて、診察時には腹膜炎になっていた患者さん。
患者さんが気づいていない些細な変化を見逃さないようにしなくちゃと看護師として使命感に燃える。
患者さんに腹部に力を入れさせないようにゆっくりとベッドに横になってもらって、絶対安静が必要だと説きながら、状態を観察する。
一般状態は変化なし。
その後、浅尾先生と家族が病室に来て、傷の離開で緊急手術が必要なことを患者さんへ説明する。
患者さんは私の祈るような顔を見て合点がいったようで「わかりました」と返事をされた。
手術の準備を済ませ、ベッドに臥床してもらったまま手術室へ青木さんと私の看護師2名で移送する。
頭もとで顔色を見ながら搬送する私に患者さんが声をかけた。
「麻酔して糸を縫って終わりかい?」
「そうですね。麻酔後にお腹を綺麗に洗ってから縫うと思いますよ」
「また手術になるなんてなぁ」
「申し訳ありません…」
「看護師さんのせいじゃないよ。歳のせいだ」
患者さんが微笑む。
「ありがとうございます」
青木さんと二人でお礼を言って、私は少しだけ微笑んだ。
緊張の糸が切れそうになり、なぜか泣きそうになるのを上を向いてこらえる。
泣いたら患者さんが不安を募らせるから、絶対にダメだ。
空調が効いて少し肌寒い手術室ロビーに到着した。患者さんの好きな演歌が流れ、手術室看護師が挨拶をして笑いかける。浅尾先生も「手術はすぐに終わりますからね」と安心させるように力強く患者さんの肩に触れる。「よろしくお願いします」と患者さんは気丈に振る舞った。
患者さんを手術室のストレッチャーに私たち外科病棟の看護師と手術室スタッフで移動させると、私は患者さんに「病室で待ってますね」と手を振る。患者さんは頷いてくれ、浅尾先生は私に微笑みを残して、手術室に搬送していった。
再手術後の抜糸は1度目の時よりも慎重に時期をみて浅尾先生によって行われた。
半抜糸はせずに糸を多く残して抜糸し、数日後に半抜糸、さらに数日後に抜糸を少し行い、さらに数日後全抜糸をした。
今回の傷は綺麗に閉じている。
私も患者さんもホッと息を吐き、患者さんと目が合って笑顔になる。
浅尾先生が病室を後にして足音が遠ざかってから、私は「良かったですね」と笑った。
「退院伸びたけどねえ」
「すみません!」
「看護師さんのせいじゃないよ。歳のせいだ」
患者さんは悪戯っぽい瞳でニヤリと笑う。
緊急手術前のやりとりを覚えていることに舌を巻く。
100歳の元気な患者さん。
今回は虫垂炎からの腹膜炎で開腹手術になり、創の離開による再手術を経てもう少ししたら退院になる。
私が看護師経験2年目で初めての100歳の受け持ち患者さん。
「糸ってすごいんだねえ」
「私もそう思います」
病室で腹腔内を観察したことは、今も心臓がバクバクするほど衝撃的な出来事だ。
無事に退院の予定が経って良かった。
本当に良かった。
晴天の日、車椅子に乗って100歳の患者さんは家族の笑顔と共に退院していった。
病棟の皆んなへと持ってきた菓子折りを荷物が全てバッグに収まった病室で「あげる」「お気持ちだけ受け取らせてください」と同じやりとりを何度も攻防し、家族の援助もあって、なんとか患者さんに折れてもらえた。
十数分後、ナースステーションから笑顔の100歳男性に病棟スタッフが笑顔で手を振る。私と浅尾先生はステーション前のエレベーターに乗り込む患者さんと家族に「お大事になさってください」と別れの挨拶をした。
…その後、病室の後片付けをしていた看護助手から「部屋に置いていかれました」と断ったはずの菓子折りを苦笑いと共に受け取ることになるとは思わなかったけれど。
100歳、恐るべし。
私はその後、患者の疾患と共に年齢をメモしなきゃと硬く決意した。
糸
私が働く高齢者のデイサービスに、米軍基地の元調理人という経歴を持つ高齢の男性が利用を開始した。
彼は「グッドモーニング」「サンキュー」「ベリーグッド」と日本人のスタッフに陽気にカタカナ英語でコミュニケーションを取る。
英語に苦手意識のある私もその簡単な英語と彼の陽気な笑顔に「グッドモーニング!」と挨拶を返す。
カタカナ英語の彼に、スタッフのみならず「グッドモーニング」と挨拶する他の利用者さんも現れ始めて、彼は笑顔の素敵な人気者になった。
彼は、奥さんと二人暮らし。所謂老老介護である。
数週間後、彼の妻も彼と同じ曜日にサービスの利用を開始した。
妻は古風な日本人女性らしい淑やかさと可愛らしい笑顔が魅力的な女性で、私たちに「おはようございます」と初日は緊張気味に挨拶をしてくれた。
「おはようございます」とにこやかに挨拶をしながら、カタカナ英語でないことにほんのちょっとだけ肩透かしを感じたけれど、彼女の可愛らしい笑顔がそれを打ち消した。
先に利用を開始してデイサービスに慣れている彼が、施設日程や決まりごとなどを伝えて甲斐甲斐しくお世話している。
妻も彼も耳が遠く、お互いの耳を近づけて一所懸命に会話をしてる。長年の良好な夫婦関係がみてとれて、「仲良いですね」って思わず話しかけてしまうと、「普通ですって」と彼らは照れ笑いを浮かべた。
カタカナ英語の彼と淑女の彼女は私たちの推しカップルで、今日は彼を数人のスタッフで取り囲む。
雑談がなぜか恋愛話に発展し、話の流れであるスタッフが彼に告白の言葉を聞いた。
彼が、後方で女性利用者と談笑している奥さんをそっと振り返る。
イタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「内緒」
楽しい雰囲気を崩さずに、ちょっとだけ推してみた。
「教えてくださいよー」
「内緒」
カタカナ英語で告白してたら素敵なんだけどなと、思いつきを言葉に乗せる。
「アイラブユーとか?」
彼の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「え、ほんとに?」
「内緒!」
彼の少しだけ大きくなった声に後方の奥さんが振り返って、私たちの方を心配そうに見ているのに気がついた。
「内緒ですよね」
「内緒」
彼がホッとしたように笑って、私たちも笑顔になる。
奥さんは安心したようにまた女性利用者との会話に戻っていった。
年月を重ね、高齢になっても深い愛情で結ばれている二人。
それはとても美しく、素敵なこと。
私は交際中の彼の顔を思い浮かべる。
私たちも、この二人のように助け合いながら笑いあっていけると良いな。
仕事が終わったら電話しよう。
あの暖かな声が、聴きたくなったから。
I love
私は佐々木先生に何度涙を見せちゃうんだろう。
一度目は浅尾先生への片想いを、浅尾先生から佐々木先生が力になってくれるよ、と暗に終止符を打たれたときだった。
嗚咽を漏らさないようにひとり、職場の休憩室で泣いていたのに、佐々木先生に見つかって、「ひとりで泣かないで」と胸に包まれて、涙が止まらなくなった。
浅尾先生は既婚者で、いつまでも好きでい続けちゃいけなかったのに、それすらも佐々木先生は許してくれる。佐々木先生は私のことが好きなのに、私は浅尾先生のことが好きで佐々木先生を傷つけることを言ってるのに、それでも「泣きなさい」って泣かせてくれる。
なんて心の美しい人なんだろう。
優しさにホッとして、佐々木先生を悲しませていることが申し訳なくて、失恋も哀しくて、私は佐々木先生の胸に縋って泣いた。
二度目の涙は、佐々木先生が帰郷する日が近づいて、別れを実感したときだった。
浅尾先生は年度末に病院を退職して、年度初めに私は外科病棟から小児科病棟に配属され、佐々木先生と医師と看護師として毎日職場で関わるようになった。
佐々木先生と知り合うきっかけになった、外科小児科混合病棟で働いたときよりも、小児科単独病棟は看護師の責任が重い。
だけど私の拙い看護でも佐々木先生は「よく頑張ってるね」「できることが増えたね」と励ましてくれて、看護に必要なことを熱心に教えてくれる。
そんな日々が、浅尾先生への恋を忘れさせて、少しずつでも佐々木先生の手助けができるようにと私を頑張らせた。
佐々木先生は私のことが好きだと職場でオープンにしていて、職場の人たちは気づくと私と佐々木先生を二人きりにしていることがあった。
そんなとき、佐々木先生は私が好きなことをそっと軽く伝えてきた。頬の熱さで頬が赤らんでいるのを自覚してる私に、佐々木先生の穏やかな笑い声が聞こえる。恥ずかしくて顔を見れなくて、でもきっと先生は嬉しそうにしてる。
そんな日々は恥ずかしいのに楽しくて。すごく楽しくて。職場へ向かう足取りが軽くなる。
そうして佐々木先生の退職が間近に迫って、もうこんなやり取りができないんだなって思ったとき、佐々木先生に夕食に誘われた。
夕食を食べ終わり駅まで歩いていると、佐々木先生に手を握られて私も握り返す。驚いた顔に笑うと佐々木先生も笑った。でもこんな日々はもう終わってしまう。
「寂しい?」と優しく問われ、「寂しい」と答えて涙する。
泣かないでおこうって思っていたのに、私が佐々木先生の前で涙を堪えることなんてやっぱり無理だった。
そんな私に先生は「新幹線で1時間半。近いよね」と笑ってくれる。
「寂しいときは寂しいと言って。きっと僕も寂しいから」と背中に手を回して伝えてくれる。
会いに来るよって言う先生に、私も会いに行きたいと心が求めていることに気づいた。
「私も会いに行っても良いですか?」
「良い。良いよ。会いに来て」
切羽詰まったような声で、背中に回した腕に力が加わり強く抱きしめられる。
優しさに、暖かさに、安堵に、それなのに切なくて、ごちゃ混ぜの感情が私の涙腺を壊す。
泣き止んだ後、グスッと鼻を鳴らしたら、優しい微笑みで私の手をもう一度繋いでくれたから、私も握り返してちょっとだけ笑った。
マンション前に先生は車で送ってくれた。
今夜の佐々木先生との二人きりの時間が終わってしまうのが惜しくて帰れないでいると、「思い出を作ろうか」と優しく唇にキスを落とされた。驚いていると、目元にもふわっと唇が触れる。
先生は私のことを好きなのを知っているけど、今までは泣いてる私を慰めるために抱きしめられただけで。好きって軽く伝えられたことは何度もあるけど、でも、キスしちゃうほど私のことを好き、だったなんて。
「帰らないの?僕の部屋に連れてっちゃうよ」
冗談か本気かわからないよ。真剣味を帯びているような気もするし、冗談を言われている気もするし、瞳も声もどっちかわからないよ。
私は車を降りて、先生の笑顔に会釈する。
部屋に入り、姿見の自分の唇に視線が行きそっと触れる。
先生のキスは優しかった。
決して先生の気持ちを押し付けられただけじゃなくて、寂しくないように、私が佐々木先生のことを思い出せるように思い出を作ってくれたんだと思う。
先生はいつも私に優しさを与えてばかりで。
…キス、優しかったの。
嫌じゃなかった。感触の残ってる今も、胸がドキドキ熱くなってる。
今、気づいた。
「好きです」と鏡に向かって声に出さずに言葉にすると、涙がこぼれ落ちる。
好きって気持ちも言葉も大切すぎて、涙に向かわせる。
先生の心がまっすぐで美しいから、私は泣けちゃいます。
三度目は、今夜だった。
佐々木先生が1ヶ月ぶりに小児科学会のために東京へ来ることになり、今夜一緒にホテルディナーを食べることになっていた。
綺麗目なワンピースにコートを着て、先生からプレゼントされた手袋を身につける。上品で暖かくて重宝して、何より先生の心のこもったものだから毎日付けてる。私に似合っていると思ってくれたら良いな。
学会が行われているホテルのロビーで先生と待ち合わせ、先生が宿泊するホテルへ向かう。
そこの展望レストランが今日のディナーを食べる場所だから。
先生と手を繋ぎイルミネーション輝く街路樹そばのベンチへ腰をかける。
寂しくなかったか問われ、「会いたかった」と告げる。
「先生からのキスを思い出して、好きだって言われてるみたいで寂しくなかったです」と。
「僕に会えたら、何をして欲しかった?」
優しく問われる。私の願いを叶えようとしてくれてるのがわかって、好き、大好きって感情が膨れ上がる。
私は静かに首を振って、佐々木先生を涙を溜めながら微笑んで見上げた。
「好きって伝えたかったです。佐々木先生が大好きって」
言葉の途中で先生に背中を引き寄せられ強く抱きしめられる。
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
先生が、「ありがとう」と呟いた声は涙に濡れてる。
少し震えているような気がして、私も背中に手を回して抱きしめ返す。
好きって気持ちが大きくなって、佐々木先生を包んであげたくて。
泣かせてごめんなさいって申し訳なく思う気持ちと、泣かないように我慢しつつ泣いてしまうほど喜んでくれる素直さに優しい気持ちになる。
告白して良かった。喜んでもらえて良かった。
安堵が、私の頬を濡らす。
先生が大きく息をついて、私の頭をよしよしと撫でた。優しい手。安心する手。
ひっついてわかる胸の鼓動の大きさ、速さ。全部が愛しい。
顔を上げると照れ臭そうに笑ってる。
でも瞳は潤んでいて、涙が光ってる。
私はバッグからハンカチを取り出して先生に渡した。先生はごめん、ありがとうと目元を拭った。
「もらい泣きしちゃった」
「もらい泣きですか?」
「うん、もらい泣き」
私の頬の涙を先生がハンカチを押し当て拭ってくれる。
先生の頭上や背後からイルミネーションの光が届き、輪郭を柔らかに見せる。
「綺麗」
「ん?ああ、イルミネーション綺麗だよね。僕は宮島さんを輝かせて綺麗だと思うけど」
「私じゃなくって、佐々木先生です」
「僕?」
心底心外だと不思議そうな表情をしているのに笑った。
「佐々木先生はいつでも綺麗ですよ。
容姿も、心の美しさも。
私だけじゃなくて、きっと、佐々木先生に関わる人、皆んなが感じることですよ」
「それ、そっくりそのまま宮島さんに返したいな。
僕はいつも、君の涙を美しいと見惚れていたから」
「いつも?」
「うん。切ない涙、寂しがる涙、喜びの涙、緊張の涙。そこには君の純粋な気持ちが溢れ出してて、」
佐々木先生はそこで一旦言葉を切った。
私は胸を手で押さえて、止まない動悸を感じてる。
「僕は君の涙を見るたびに、恋心が強くなってた」
そっと、口元に唇が近づく。
「危なかったね。今、車の中ならキスしてたよ」
素早く頬にキスをしかけられて、私はどうすれば良いの?熱くなる頬を押さえることしかできなくて。
「ご飯食べに行こうか。神戸牛、絶対に美味しいよ」
「はい」
イルミネーションに照らされる佐々木先生に手を差し出され、指を絡めて恋人繋ぎをする。
コートの袖が触れ合って、都会の夜空に白い息が溶け合った。
美しい
君と歩いたこの道で、君と僕の心の距離感は少しずつ近づいていったね。
一度目の夜は勤務先の外科小児科混合病棟で行われた飲み会後に、君と一緒に〆のラーメンを食べに行った帰り道。
ラーメン屋と標榜しつつ創作料理も提供している暖色のダウンライトが小洒落たラーメン屋の個室で、開院予定の僕の小児科クリニックでナースとして働いて欲しいと僕は君を熱心に誘った。
君は僕が余りにも君を小児科ナースとして僕が育てたいって熱心に誘うから、目を丸くして驚いてた。
僕が一緒に働きたいという理由がわからなくて戸惑う君。
そんな顔も可愛くて、僕は秘めていた心を少しだけ伝えたんだ。
「宮島さんが、僕のことをもっともっと知りたいと思ってくれたら、教えてあげるよ」って。
愛しさに言葉だけじゃ足りなくて、頬にそっと触れてしまった。
頬は柔らかくて温かくてしっとりとしていて、そして熱っぽくなっていったのを僕は気がついたよ。
そんな夜の帰り道は、君は普段よりも口数が少なくて、僕と目を合わせられなくて、僕のことを意識してくれて緊張していて…
僕は君の横顔をチラチラと見ながら、僕のことを意識してくれている嬉しさと、その可愛いさに胸を踊らせていた。
君の想い人は外科医の浅尾先生だって知っているし、浅尾先生のために処置や回診の介助を先生がやり易いように気を配っているのも知っていたし、君の幸せは浅尾先生に褒められることだってわかってた。
浅尾先生は既婚者だけど、君のことを好きだ。二人は両想い。だけど浅尾先生は君を好きなことを巧妙に隠している。
僕も君も、浅尾先生との恋は上手くはいかないって知ってたけれど、君の幸せはとてもささやかな願いだったから、僕は君のことをそっと見守っていた。
後日、外科看護師の君は外科看護の勉強を続けたいと僕の誘いを断った。だけど君は僕の誘いをとても嬉しかったと、感謝と謝意をしっかりと告げてくれた。その中に、君のことを好きな僕の元へ行って僕に期待させたくない想いが見え隠れしていて、僕はその誠実さにますます君が好きになった。諦められないと悟った。
僕の想いは届かなくても、君のことがとてもとても好きだと改めて感じた。
二度目の夜は、君が浅尾先生に突然、恋の終止符を打たれた夜だった。
僕が学会のお土産を持って外科病棟の廊下をひとりで歩いていると、浅尾先生がナースステーション前の階段を青褪めた顔で駆け降りて行くところが廊下の端から見えた。
冷静沈着な浅尾先生の普段と異なる様子に違和感を覚えて、君と浅尾先生に何かがあったんじゃないかと疑った。それで浅尾先生が直前までいただろうナースステーションに足早に向かった。
君はナースステーション奥の休憩室で、ひとりで口元に指を当ててさめざめと泣いていた。
あまりにも哀しい涙に僕は君の手首を掴んでそこから連れ出して、ナース服を着替えもさせずに僕の車の助手席に君を乗せて車を発進させた。
コインパーキングに駐車してからも、嗚咽を堪えて泣く君が切なくて、ひとりで泣かせたくなくて、手を繋いでカラオケに連れて行った。カラオケなら人目を憚らずに泣けるだろうと思って。
何も聞かないつもりだったけど、君は涙の理由を自分から言ってくれた。
「佐々木先生は誰よりも君の力になってくれると言ってました。佐々木先生は宮島さんがお気に入りだから」って。
君が浅尾先生の助けになりたくて外科看護を一生懸命頑張っていることを、誰よりも知っている浅尾先生自身が、小児科の僕を頼りにしなさい、宮島さんは僕のお気に入りだからと告げる。
僕が君のことを好きなのを浅尾先生は知っているのに。僕に託すようなことを告げるのは、自分に片想いする時間はもう終わりだと教えるのと同じで、浅尾先生が宮島さんに僕を勧めたことになるのに。
ねえ、宮島さん。
「私は既婚者を好きになったのに。佐々木先生は誰も責めないんですね」って、そりゃそうだよ。君の愛し方は浅尾先生に褒められるだけで喜ぶ、誰にも迷惑がかからない純粋で秘めた恋だったからね。
「君は何も悪くないよ。あえて言うなら、出会いがもっと早ければ良かったのにって、言うことしかできないよ」
だって、恋ってそういうものだから。落ちてしまうものだから。
浅尾先生と宮島さんの出会いが早ければ良かったのに。
声を上げて泣き出した宮島さんを抱きしめる。
「いくらでも泣きなさい。胸を貸すから」
ひとりで泣かせたくない。僕がそばにいる。ずっと。君が泣くときは、いつも。いつでも。何時間でも寄り添いたい。
カラオケルームで泣き止んだ後の帰り道が、この道の二度目の夜。
君は俯いて、目を腫らして、グスグスと鼻を啜っている。
僕は来たとき以上にゆっくり歩く。
飲み屋に誘う店員に手を振って断りながら、僕の背中に君を隠して、僕が握った手を頼りに歩く君に、ますます愛しくて切ない想いを募らせた夜。
君のことをずっと守るよ。そう誓った夜。
三度目の夜は、君と一緒に働く総合病院の僕の退職が来週に迫った年末。
その日、昼休憩の職員食堂で会った君はいつもの快活さがなく、僕は飲み会後に君が気に入ってくれたラーメン屋に君を誘った。
僕は長野県へ帰郷し、クリニックを開院する。君は退職せずに東京で働く。
今までみたいに病院内でバッタリ会うことも会話することもなくなってしまうことを考えて、寂しがってくれてるんだね。
君の寂しさを埋めるために僕はどうすれば良いんだろう。
ラーメン屋で儚げに微笑む君。
冬の夜は寒く、ラーメン屋を出た後でこの道を歩き始めてすぐ、僕は君の手を繋ぎ、僕のコートのポケットに二人の手を入れた。
「嫌なら…」言いかけた僕の手を君に握り返されて、驚いて君を見ると君は悪戯っぽく笑った。
初めてのその表情にドキッとした後、僕も笑って、イルミネーションに輝く都会の街を手を繋いで歩く。
デートみたいだねって言ったら、君は照れて顔を赤く染めるのかな。
君の横顔を街の輝きが照らす。綺麗だ、とても。
だけど、この幸せな時間には終わりがある。
宮島さんの浅尾先生への失恋を小児科の子どもたちが癒して、患児たちとたくさん君が笑うようになった頃、僕はもう一度宮島さんに僕のクリニックで働いてもらえないかと誘った。
君は小児科病棟で小児看護のリーダー業務を自信を持って独り立ちできるようになりたい、もっと小児看護を学びたいと言ってくれた。
そこには子どもたちと僕への責任が強く見て取れて、僕は君が努力家で看護の仕事への責任感がとても強い人だったことを思い出した。
僕は君との時間を惜しむように君に小児医療を教え、僕が君を好きなことも少しずつ伝えていった。
君は顔を赤くして俯いたり、「佐々木先生…」と小さく呼んだり、用事を見つけたふりをしてその場から離れたりした。
僕を嫌っているわけではなく、照れたうえでの行動だとわかるから、僕はいつだって穏やかに笑っていた。
…本当に君との時間は終わってしまうのかな。
だって君は、今も僕の手を握り返してくれているのに。
「自分で決めたことだけど、帰郷するのを躊躇いたくなるね」
自嘲気味にポツリと呟く。
君は小さく途切れ途切れの湿った声で呟く。
「私も…先生と過ごした日々が楽しかったです…すごく…」
僕が歩みを止めると、君は言い訳をするように告げた。
「あ…泣いてないですよ、私…」
「…今にも泣きそうだよ」
嘘のつけない宮島さん。きっとそんなところが小児に好かれていて、僕の好きなところでもある。
いじらしくて、君は僕を夢中にさせる。
「…僕と離れるの、寂しい?」
囁きは優しい声音。僕は君を好きになって、君にこの上なく優しくしたくなるし、優しくなった。
問いかけに君はしっかりと頷いてくれたことに安堵して、僕は静かに泣き始めた君を抱きしめた。
都会の街中のイルミネーションが彩る歩道を人々が行き交っているとか、多分僕たちを視界に入れてるとか、どうでも良くなるくらい、僕は君に安心して欲しかった。
「ひとりで泣かないでね。寂しくなったら伝えてね。
君が寂しいときは、きっと僕も寂しさを感じてるよ。我慢しないでね。君のことがわからない方が、僕は辛いよ」
僕は君との三度目のこの道で、君をひとりで泣かせなくない、君が泣くときはいつも、いつでも、何時間でもそばに寄り添いたいと誓った。
物理的に距離が離れても、それでも僕が君を一人にしたくない。
「長野と東京。新幹線で1時間半。近いよね」
口にしたら、本当に近い距離だと思った。君のことを考えていたら、1時間半なんてあっという間だ。
「近いです…私も会いに行っても良いですか?」
その後、強く抱きしめたのが先か、返事をしたのが先か、僕は思い出せない。
「もちろん。会いに来て」
僕と君の心の距離が近づいた瞬間だった。
今夜が四度目の夜。
東京で3日間行われるうちの初日の小児科学会が終わった後、君は学会が行われたホテルの1階ラウンジで僕が来るのを待ってくれていた。
僕が贈ったスモーキーピンクの細身の手袋は、華奢で可愛らしい清楚な26歳の君によく似合っている。
LINEでもメッセージをくれたのに直接僕にお礼を言ってはにかんでて可愛い。
ホテルのイルミネーションの光が瞳に差し込み、煌めいている。
僕は久しぶりに会った大学時代の友人たちの誘いを「また明日」と断りを入れる。「彼女の予定が合わなかったからだろ」と揶揄われて「そうだよ」と笑った。
LINEや電話でのやり取りはあったけれど、会うのは1ヶ月ぶりなんだ。
LINEや電話は一見多愛ないやりとりだった。でもどれも君も僕も二人の近況がわかる、忙しくて、病気の子どもたちへの愛に溢れているやりとり。
LINEを見ながら優しい君に惹かれる僕と、小児看護に真剣な君。
君が少しずつ小児看護に自信をつけられるように、僕は君のしていることは間違っていないと肯定して、自信を持たせていく。
君から感謝されることがとても嬉しい。
君が浅尾先生に褒められたくて頑張っていたことを思い出した。
君のことを献身的だと感心していたし、その気持ちに変わりはないけど、好きな人に褒められるってすごく嬉しくてくすぐったいものだね。
今、触れることはできないのに、僕は君のことを近くに感じて、ますます好きになっている。
そしてとても会いたい。
「来月、小児科学会で東京に行くよ。宮島さんに会いたい」
電話で伝えたら、少し息を呑んで、君は慌てて小児科学会の日程を質問した。
君の来月の勤務表はすでに組まれていて、初日と最終日に互いに時間が取れることがわかった。
声が弾む僕と君。
絶対に会おう、体調を崩さないようにね。
以前、小児科外来を手伝ってもらったときに小児から風邪をもらった君を早退させたことがある。
その時のことを思い出して、今度はちゃんと気をつけます!と君が気合いを入れたのがわかって笑ってしまう。
僕にこんなに会いたいと思ってくれてるんだね。
僕はそれだけでとても幸せだ。
「宮島さん」
「はい」
「好きだよ」
気持ちが溢れるまま電話越しに囁くと、「はい」と小さな返事。
「来月楽しみだね」
「楽しみです!」
言葉に力が入っていて、僕たちは笑いながら「おやすみ」と優しく伝え合って電話を切った。
窓の外は白く積もって眩しい雪と、長野の冬空にたくさんの星々の瞬き。
来月は僕が東京に行くけど、その次は君に長野に来てもらえると良いな。
空気が澄んでいるうちに、僕の故郷の満天の星々を一緒に眺めたい。きっと君は自然の美しさに感動してくれるだろうから。
隣に並ぶ君をそっと見下ろすと、君は俯いて微笑みつつ照れている。
可愛いなあ、やっぱり。
僕はホテルを出てすぐに手を握った。
柔らかな手袋の感触は、君の手がこの1ヶ月間冷たくならなかったことを物語っているけれど、君の肌の感触を求めたくなるのは、僕が男だからかな。
あの三度目の夜、君をマンションまで送った車内で「思い出を作ろうか」ってキスしてしまったし。
離れることによる寂しさを埋めたい、二人だけの思い出を作りたい、離れていても僕のことを考えていてほしい。
色々理由はつけられるけど、結局、僕の愛しさが膨れ上がって、キスしたいのを抑えられなかった。
君が僕をどれほど本気でいてくれているのかはわからないけれど、好意的なのはわかっていたから触れてしまった唇。
時が止まったかのように目を見開いて息をするのも忘れて驚いているのが可愛くて、目元にもキスをして。まだ固まって動けない君にダメ押しをした。
本気を冗談にも取れるように、「帰らないの?僕の部屋に連れて行っちゃうよ」って……
僕の宿泊先のホテルはこの道の先。
久しぶりに会ったのにラーメンもね。1ヶ月前に行ったばかりだし。と説得して、宿泊先の最上階のレストランでビーフがメインのコースディナーを予約した。
この道の街路樹は青色のLEDに彩られている。
「この街路樹はレストランからも見えると思う。きっと綺麗な景色の一部になっているよ」
僕はこの景色よりも君を見つめていたいくらい大好きだけどね。心の中でそっと呟く。
「佐々木先生」
「ん?」
「先生の担当してた歩(あゆむ)くん、昨日退院しました」
「そっか。うん、良かった」
子どもは大人のように自覚症状を訴えられず、普段よりも眠そうだったり遊ばなかったりと、小さな気づきが大切で。
自閉症児であり慢性疾患持ちの歩くんは、うちに篭りがちな性格が故に他の患児よりも体調の変化に気づきにくい。
だけど、宮島さんはその変化を見逃さずにいつも報告してくれる。そして新しく処置が必要になった場合でも、歩くんは宮島さんが介助に入れば、以前は怖くて暴れた処置でも、処置の間は我慢して宮島さんの指示に従えるようになった。
「宮島さんのおかげだね」
「先生方のおかげです」
「でも、君がいなかったら、歩くんは処置が怖いままだった」
この手のおかげかな。
僕は君と繋いだ手を君の手ごと持ち上げて指先にキスをする。
「せんせ、い…」
やっぱり赤い顔をしている。
僕は微笑んで、街路樹に設けられたベンチへ誘導した。
手を繋いだまま二人で並んで腰掛ける。
街路樹には青いLEDがキラキラと光る。
「君と離れている間…僕は君とのキスを思い出してた」
君が隣で息を呑んだ。
「驚いている君が可愛くて、僕はもっと君を好きになった。もう、自分でも抑えきれないくらいに宮島さんのことが好き」
僕を見つめたまま、君は息を呑む。
僕は顔を覗き込んで、瞬きもせずに固まっている君に笑った。
「僕は何度も君に愛を伝えているのに。久しぶりに言われて、ドキッとした?」
コクンと頷くのを見届けて、僕は君の肩を抱いて自分へと抱き寄せた。
君は僕を信頼してくれて、僕に身を預けている。
僕はこの1ヶ月間、気になっていたことを静かに問いかけた。
寂しかったら連絡してね、と伝えていたけれど、宮島さんからの「寂しい」のメッセージは一度もなかった。
「寂しかった?僕と離れて」
「…病院の中が、寂しかったです」
「院内?」
「はい。佐々木先生がどこかの病室からひょっこり現れる気がして。現れてくれないかな、って期待したりして。
仕事が忙しいとあまり考えずにいられるんですけど、ふとした瞬間に…」
「僕を思い出してくれたんだね」
「はい」
小さな声で、頷いてくれた。
それだけで僕は嬉しくて、肩を抱く指先に力がこもる。
「病院からの帰り道、ときどきこの道を歩いたんです」
「えっ、」
病院の最寄駅だけど、遠回りになる道。
イルミネーションが美しいからと、わざわざこの道を歩く病院関係者はほとんどいないと思う。あの病院は多かれ少なかれ残業が多く、残業後にわざわざイルミネーションを楽しむ余裕は考え難い。
思案顔をする僕に、宮島さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「佐々木先生と歩いたことを思い出してました。
手を繋いだ夜のこと。優しくて、暖かくて…」
とくんとくんと鼓動が暖かく鳴っている。
宮島さんは、僕のコートの上から胸にそっと手を置いた。
「佐々木先生は暖かい人ですね。キス、思い出に残りすぎてます。思い出すたびに先生に…好きって言われてるみたいで、寂しいなんて思えなかったです」
「宮島さん、」
「寂しくはなかったですけど、ずっと会いたいなって思ってました」
涙が浮かんで瞳が潤んでいる。
「僕に逢ったら、何をして欲しかった?」
僕の声は優しかった。
宮島さんは首を横に静かに振って、涙ながらに微笑んだ。
「好きって伝えたかったです。佐々木先生のことが大好きって」
僕は最後まで冷静に聴けなくて、宮島さんを胸にかき抱いていた。
すっぽりと僕の胸に収まって、愛しい君が泣いている。
僕は君の後頭部に触れて、よしよしと頭を撫でる。
君からの涙でもらい泣きしそうな自分を誤魔化して。
ありがとう、と呟いた声に涙声が混じる。
顔を上げたら、イルミネーションは揺らめき、木々や街中を照らし出している。
君と歩いたこの道は、未来へ繋がっている。
君と歩いた道