Mey

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*腸管内の記述あり、読了に注意が必要です*




外科病棟で看護師として勤務している私は、今日の外科回診時に行われる100歳の患者さんの開腹手術後の抜糸の介助につく。
一般的に腹部の抜糸は術後7日目だけど、100歳の患者さんの抜糸は離開の恐れはないだろうと判断された術後14日目の今日、行われる。
病室のラジオからは、患者さんの好きな演歌が流れている。

2日前の抜糸一日目、縫合した糸を一糸づつ間隔を開ける半抜糸を主治医の浅尾先生が行った。今日、回診担当の初老の男性医師が傷の診察後、全ての糸を抜く全抜糸を行った。

…が、全抜糸直後、腹部正中切開後の創は大きく離開し、腹壁を構成する皮膚、脂肪、筋肉が視認、腹膜すら離開して腸の鮮やかなピンク色が動いているのが見えた。
ヒェッ
声を上げかけるのをなんとか飲み込み、医師にガーゼをたくさん渡す。
脳裏には緊急手術の文字が頭に浮かぶ。
抜糸するときに誰もが感じるわずかな痛みだけなのか、患者さんはケロッとしており、それが救いだった。

病室で抜糸の後片付けを行い、病室を出て、ハア、とため息を吐く。
患者さんが100歳と超高齢だったこともあり、主治医の浅尾先生が術後の経過に普段以上に気を配っていた患者さん。
再手術は浅尾先生が外来を中断するのか、午前の外来終了後に行うだろう。
私が急いで行わなければならないことを脳内で整理する。
手術のための医師から家族へのインフォームドコンセントの同席、家族へ同意書の記載を依頼し確認、手術記録用紙準備、心電図や検査データを揃えて、手術着に着替えて…

あっ、患者さんに絶対安静だって言わないと!!
病室のドアを勢いよく開けて、ベッドサイドに足を下そうとしている患者を慌てて止める。患者さんは私の勢いに肩をビクつかせて、宮島さん、と私の名を呼んだ。
「すみません、動かないでいてください!!」
「何で?」
不思議そうな患者さん。
それはそう。手術翌日から術後合併症予防のために、痛み止めを使ってでも動いてくださいって離床を強く勧めたのは、何を隠そう私なのだから。
「先生からこの後説明がありますから!!用事があるなら、私、やります!!」
「お茶を飲も」
「待って、ダメです!!」
患者さんの前に立ちはだかり必死な私に、患者さんは口を開けてポカンとしている。
まぁそうだよね。普段の私はおっとりしている。
そのくせ、優しそうな口調で離床させるから容赦ないと言われることも多々あるけれど。

インフォームドコンセントの同席や手術準備はできてないけど、きっと今日のチームリーダーは頼れる先輩看護師、青木さんだから、彼女が仕事を割り振り、皆んなが必死になってやってくれているはず。
今日のチームメンバーを思い浮かべ、協力的なメンツが揃っているよねと信じることにして、私は目の前の患者さんに全力を注ぐ。

何といっても100歳。
理解力があると言っても100歳。
虫垂炎の痛みを大したことないと片付けて、診察時には腹膜炎になっていた患者さん。
患者さんが気づいていない些細な変化を見逃さないようにしなくちゃと看護師として使命感に燃える。
患者さんに腹部に力を入れさせないようにゆっくりとベッドに横になってもらって、絶対安静が必要だと説きながら、状態を観察する。
一般状態は変化なし。


その後、浅尾先生と家族が病室に来て、傷の離開で緊急手術が必要なことを患者さんへ説明する。
患者さんは私の祈るような顔を見て合点がいったようで「わかりました」と返事をされた。

手術の準備を済ませ、ベッドに臥床してもらったまま手術室へ青木さんと私の看護師2名で移送する。
頭もとで顔色を見ながら搬送する私に患者さんが声をかけた。
「麻酔して糸を縫って終わりかい?」
「そうですね。麻酔後にお腹を綺麗に洗ってから縫うと思いますよ」
「また手術になるなんてなぁ」
「申し訳ありません…」
「看護師さんのせいじゃないよ。歳のせいだ」
患者さんが微笑む。
「ありがとうございます」
青木さんと二人でお礼を言って、私は少しだけ微笑んだ。
緊張の糸が切れそうになり、なぜか泣きそうになるのを上を向いてこらえる。
泣いたら患者さんが不安を募らせるから、絶対にダメだ。

空調が効いて少し肌寒い手術室ロビーに到着した。患者さんの好きな演歌が流れ、手術室看護師が挨拶をして笑いかける。浅尾先生も「手術はすぐに終わりますからね」と安心させるように力強く患者さんの肩に触れる。「よろしくお願いします」と患者さんは気丈に振る舞った。
患者さんを手術室のストレッチャーに私たち外科病棟の看護師と手術室スタッフで移動させると、私は患者さんに「病室で待ってますね」と手を振る。患者さんは頷いてくれ、浅尾先生は私に微笑みを残して、手術室に搬送していった。


再手術後の抜糸は1度目の時よりも慎重に時期をみて浅尾先生によって行われた。
半抜糸はせずに糸を多く残して抜糸し、数日後に半抜糸、さらに数日後に抜糸を少し行い、さらに数日後全抜糸をした。
今回の傷は綺麗に閉じている。
私も患者さんもホッと息を吐き、患者さんと目が合って笑顔になる。
浅尾先生が病室を後にして足音が遠ざかってから、私は「良かったですね」と笑った。
「退院伸びたけどねえ」
「すみません!」
「看護師さんのせいじゃないよ。歳のせいだ」

患者さんは悪戯っぽい瞳でニヤリと笑う。
緊急手術前のやりとりを覚えていることに舌を巻く。
100歳の元気な患者さん。
今回は虫垂炎からの腹膜炎で開腹手術になり、創の離開による再手術を経てもう少ししたら退院になる。
私が看護師経験2年目で初めての100歳の受け持ち患者さん。

「糸ってすごいんだねえ」
「私もそう思います」
病室で腹腔内を観察したことは、今も心臓がバクバクするほど衝撃的な出来事だ。
無事に退院の予定が経って良かった。
本当に良かった。


晴天の日、車椅子に乗って100歳の患者さんは家族の笑顔と共に退院していった。
病棟の皆んなへと持ってきた菓子折りを荷物が全てバッグに収まった病室で「あげる」「お気持ちだけ受け取らせてください」と同じやりとりを何度も攻防し、家族の援助もあって、なんとか患者さんに折れてもらえた。
十数分後、ナースステーションから笑顔の100歳男性に病棟スタッフが笑顔で手を振る。私と浅尾先生はステーション前のエレベーターに乗り込む患者さんと家族に「お大事になさってください」と別れの挨拶をした。


…その後、病室の後片付けをしていた看護助手から「部屋に置いていかれました」と断ったはずの菓子折りを苦笑いと共に受け取ることになるとは思わなかったけれど。
100歳、恐るべし。


私はその後、患者の疾患と共に年齢をメモしなきゃと硬く決意した。





6/18/2025, 2:19:34 PM