Mey

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6/5/2025, 3:11:53 PM

私が高校生だった頃、近所のファミレスで知り合ったバイト仲間の大学生がいた。
私はその人を兄のように慕い、彼は私を妹のように面倒を見てくれた。
バイトの仕事内容を教えてくれたり、休み時間には私が苦手な英語を教えてくれたり、夜、バイト終わりの時間が重なると私を家まで送ってくれたりした。


「雨止んだみたいですね」
「良かったよな」
そんなことを話しながら、傘立てに立てていた傘を引き抜いてクルリと回して束ねる。
バイト終わり、従業員出口の軒先からは名残惜しげに水滴が垂れている。

不意に腕を強めに引かれてよろめいて彼の体にぶつかった。
「あ、ごめん。足元、水たまりがあったから」
「あ、うん、」
ビックリした。急に引っ張られたことも、体の温もりを感じるほど近づいてしまったことも。

彼はすぐに私の腕から手を離したけれど、私は彼にずっと腕を握られているかのように感触が消えなかった。
彼に自宅まで送ってもらっている間中、とくんとくんと胸が熱く波打っている。


帰宅してからも、私が足を踏み入れないようにしてくれた水たまりを思い出す。
水たまりは、夜の暗さを映しとるアスファルトの闇の中、明るいファミレスの光を受けてオレンジ色に反射していた。



半年後、彼は海外へ留学した。
私は受験勉強のため、バイトを辞めた。

彼とはそれきり会っていない。




大学卒業後に友人の紹介で知り合った人と私は交際を開始した。
映画鑑賞が2人とも好きで、新作旧作問わず感想を伝え合っているうちに意気投合。
そのうち一緒に映画を観に行くようになり、その日観たSF映画を無邪気に語る笑顔が眩しくて、なんだか見惚れてしまうこともあって。
映画館で手を握られ恋に落ちていることに気づいて、その日は映画どころじゃなく、心臓はバクバクだった。


「雨止んで良かったよな」
「うん」
束ねた傘から水滴が落ちる。

今日は彼氏の家でまったりDVD鑑賞デート予定。
「古い映画だけど俺のお気に入り。きっと気に入ると思うんだよね」
何度も確信めいて言うから、ずっと気になっていた映画。
今のところこんなに!?って思うほど彼氏と私のお気に入りの映画は被ってる。
きっと今日の映画も私のお気に入りになる気がするよ。
2人きりのお家デート、嬉しいな。


足取り軽く、彼氏が住むマンションへ向かう途中の歩道橋の上で、雨上がりの水たまりに雲を宿した青空が映っているのに気がついた。
水たまりの空は、見上げた空の景色のまま映しとられている。

あのファミレスの夜に、人工的な鮮やかな揺れる光とは異なる、スッキリとした青い空。
見上げても見下ろしても青空が瞳に映るってなんだか不思議。
まだ恋人同士になって間もないけれど、気分が晴れやかなときも、落ち込んでしまっているときも、こんな感じだと良いな。
空の青さのように、自分のありのままの心を開けていられたら良いな。
彼氏のありのままの心を、私が大切にできると良いな。


「ん?どうした?」
「何でもないよ」
歩道橋で不意に立ち止まった私に彼氏が声をかけ、心配そうな瞳を向ける。私はクスッと笑って隣に並ぶ。


高校生のときのように、水たまりに気づかずに足を踏み入れることは今はもうない。
大人になったからというわけではなくて、きっと、兄のように守ってくれる人がいなくなり、無意識のうちに自立心が芽生えたからだと思ってる。

それでも思い出すのだ。
彼が留学先へ飛び立つ日のやり取りを。


「英語、頑張れよ」
「留学するほど英語が得意なら、もっと教えてもらえば良かった!」
私の言葉に、彼のみならず、バイトの皆んなが一斉に爆笑したことを。
寂しさを押し殺して、バイバイとそっと呟いたことを。
青空に滑空する飛行機をバイト仲間で見上げたことを。

今日のような水たまりの空を見ると、この空のどこかに繋がっている彼のことを。


歩道橋を降りる2人の軽やかな足音が重なる。
傘を持っていない手に手を滑り込ませると、彼氏がちょっとだけ驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。
その横顔を見て私の胸はじんわりと暖かくなる。


今日のような水たまりの空を見ると、この空のどこかに繋がっている彼のことを思い出す。
そして願う。
水たまりを踏まないように支えてくれた、皆んなに優しい彼でいてくれることを。





「水たまりに映る空」

6/4/2025, 1:05:41 PM


行為を終えて乱れたシーツの上で互いに下着だけを身につけたとき、朝陽が「なぁ」と私に声をかけた。
彼は同い年で、大学のときの飲み会で知り合って意気投合。
その日の夜に私たちはラブホのベッドで乱れに乱れた。
有り体に言えば、とても気持ち良かったのよ、お互いに。
それ以降、どちらかに恋人ができた期間は互いに連絡を取らず、別れたら連絡を取り合って…
ここ数年の私たちは予定のない週末には朝陽のマンションのワンルームでそういう関係を続けている。

今日も身体には汗を一枚纏い、心地良い気怠さ。
眠たいなぁ。ちょっとだけ眠りたいかも。

私は欠伸をしながら「なに…?」と返事をする。
あ、ほんとに眠い。寝ちゃうかも。

気づいたら朝陽はズボンも履いてた。
朝陽は趣味でキックボクシングをしている。
細マッチョで筋肉が引き締まっていて、私好みの体型を最初に知り合った頃から維持している。否、パワーアップしている。
夕方から夜へ移行する薄暗がりに彼の上半身が浮かび上がる。その美しさに私は思わず眠気を忘れて見惚れていた。

「葵って彼氏と別れて何年経った?」
「なに、突然」
「ん、良いから、教えて」
よくわからないけど答えて欲しそうではあるから、「2年とちょっと」と答える。
ああそうか。この人と私は2年間セフレを続けてるんだ。
その間好きな人もできず、男性と遊びに行くこともなく、私は朝陽との週末エッチだけで満足しちゃってるんだ。

「えっ、そっちは?」
「俺も2年位」
「ああそうだったね。私と同じ時期だったもんね」


今となっては懐かしいなあ。
学生の頃って、恋人との別れは人生最大の落ち込み、奈落の底に突き落とされたかって位号泣してたのに、最後の別れはそんなことなかった。
LINEで友だちに送るように報告したっけ。

「実は、別れちゃった」
「俺もうまく行ってない。別れることになるかもしれない」
「そっか。話聞くよ」
ありがとう、とスタンプが来て、1週間後には別れたって報告されたんだった。


朝陽の手が伸びて、私のブラのストラップが腕に落ちたのを肩に引き上げて直してくれる。
「毎回落ちるよな、左肩だけ」
「ストラップで長さを調節しても、なんか上手くいかなくて」
「女って大変だな」
ストラップをやりづらいとか言いながら少し短くしてくれた。
今までにないフィット感がちょうど良い感じ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
振り返って笑ったら、朝陽も白い歯を見せてニカッと笑った。

「朝陽ってイイ男なのに、なんで恋人ができないんだろうね?2年間も」
「何でだと思う?」

朝陽は少し背を屈めて私の目を覗き込んだ。
何かを見透かされそうにジッと見つめられて、私は何故か焦っている。

「何で、か、わからない」
「葵といるのが1番楽しいからだよ」

黒目がちの瞳が私を見つめている。
柔らかな深い声が、それが冗談ではないと告げている。
部屋を満たす無音が、私を緊張させる。
何て答えれば良いの?何て。

「ぅっ、クシュっ」
突然の私のくしゃみに朝陽は横を向いてフッと笑って、私の肩にタオルケットをかけた。
裸の肩に柔らかな暖かさ。
まるで朝陽に包まれているような、安心感。


「…朝陽」
「ん?」
「私も…朝陽といるのが1番楽しいのかもしれない…です…うん」
「そうか」
コクっと頷く。


これが恋とは思わない。
ときめきほど心臓が早鐘を打つわけでもなく、朝陽のことを四六時中考えているわけでもなく。

愛が、恋の未来にあるものならば、これは絶対に愛じゃない。

でも、愛は恋の先にあるものでないとしたら?

恋でも愛でもないのなら、残るのは友情か。
体の関係を続ける友情って何だろう?


朝陽と私の関係。
難しすぎてわからない。
この関係性はずっと続くと思っていたけれど、いつか終わりが来たり、形を変えてしまうのだろうか。

指先を口元に当てて考える。
いつか朝陽に言われたことを思い出す。
葵って、指先を口元に当てて考えるよなって。
私の癖を指摘するのも、私のストラップが落ちることを知っているのも朝陽だけ。

朝陽が、私のことを1番よく理解している。


朝陽が私の背後に周り、タオルケットごと抱きしめた。
私の頭に顎が乗って、体重をかけられて少し重い。
筋肉質な体は私の好きな重み。

だけど、朝陽は私のことをどう思っているのかはわからない。

恋か、愛か、それとも。


「俺は葵が大切だよ」

ぐちゃぐちゃになりそうな頭の中を、朝陽は一言だけ私の心に響かせた。





恋か、愛か、それとも

6/3/2025, 2:01:07 PM

叔母にお金を貸した。叔母の息子、私の従兄弟の離婚の慰謝料だ。
多分従兄弟には、私から借りたとは言ってない。叔父叔母から出したお金になっているだろう。
そのお金は何年経っても返済されない。
あるとき痺れを切らして請求したら、「もっと早く言ってくれれば返せたのに」と心底残念そうに言われた。
叔父が亡くなって、落ち込んでて、叔母は友人の慰めで旅行に何度も行った。
叔母に元気が戻ったかなと思って請求したらこれだよ。
約束だって言ってたのに。
って、貸すときに覚悟はしたけどね。返ってこないかもしれないって。
でも、慰謝料代なんて貸すものじゃないね。
離婚理由は従兄弟が100パー悪かったし。
ああ、腹が立ってきた。



約束だよ(!)


なんか良いお話が浮かんだら差し替えます…

6/2/2025, 3:00:38 PM

夕方の駅前でビジネスバッグの中をゴソゴソと漁りまくっている若いビジネスマンがいた。
空からはしとしとと弱い雨が降り続いている。
ビジネスマンが私のよく知っている幼馴染とわかって、私は離れた所から観察する。
探してる、探してる。
一度開けて確認して閉めたファスナーを全部また開けたりして。
それだけ探してないのにまだ諦めないんだ。
私なら、駅のコンビニでビニール傘を買っちゃうけどね。
…自宅の玄関に私が買った3本はあるビニール傘を思い出して、だからやたら物が多いんだ、と今更ながら気づいた。

さて。
目の前で困っている幼馴染を放っておけるほど、私はろくでなしでもないしね。

「お兄さん、私の傘に入りませんか?」
背後から声をかけたら、ビクッと体をびくつかせて顔を強張らせて私を見る。
おいおい、子供の頃も、中学校と高校も同じ仲良しグループだったのに、私の声を忘れちゃったのぉ?
「…ビックリした」
「傘、入る?」
「入る」

傘を忘れた幼馴染に私の傘を持たせる。
彼氏にプレゼントされた今日のような小雨に似合う、ウォーターグリーンの24本骨の長傘。日傘にもなる超軽量の優れ物。
「晴雨兼用なら、傘をまた買わなくても良いしな」
って、雑貨屋デートで買ってくれた。
私のことをよく知ってくれているみたいで嬉しかった。
それなのに。


職場で、私以外の傘に入って帰って行った彼氏を思い出す。
ワインレッドで1つ大きな薔薇の刺繍が目を引く大人っぽい傘と、長く緩やかな茶色のカール。
彼氏が時々言ってた人だ。
あの受付の人、すごい綺麗。高嶺の花だなって。
私にヤキモチ妬かせて楽しんでいるって信じたかったけど、やっぱりあの女性の方が良かったんだ---


「どうした?溜息なんか吐いて。溜息吐くと幸せが逃げるんだって昔誰かさんに言われたなぁ」
「…私だよ、それ」
中学生の時。皆んなで遊びに行ったあの雨の日に、幼馴染は傘を電車で無くした。
深い紺色でダークブラウンの竹製の持ち手が特徴の、和傘風の素敵な傘だった。
電車を降りて改札を出た後で電車の中に忘れたって涙ぐむ。大好きなおじいちゃんの肩身だったのにって。
傘の持ち手におじいちゃんのイニシャルが小さく刻まれていたからすぐに見つかり、終点の駅で預かってくれることになって。
結局その日の予定を変更して、行ったことのない街へ皆んなで繰り出した。

電車の窓をしとしとと弱い雨が濡らす中、片道1時間の行きの車内の皆んなの口数は少なかった。
けれど帰りの1時間は皆んな笑顔だった。幼馴染が傘をずっとギュッと握っていたから。
行きと帰りは同じ行程なのに、帰り道は片道1時間の電車旅のよう。
あの帰り道はとても楽しくて、今でも仲間が集まれば思い出話に花が咲く。


「この傘さ、彼氏がプレゼントしてくれたんだよね。晴雨兼用、これをいつも持っていればビニール傘を買わなくて良いからって」
「…うん」
ぽつりと呟いた私に思うところがあったのか、幼馴染は言葉少なに頷いた。
「今日、一緒に帰ろうと思ったのに、受付の綺麗な女性と帰っちゃった」
「え、」
幼馴染の声が固くなった。
気遣うように私に視線を下ろしているのを感じる。
私は前を向いたまま、さっきまでと同じようにぽつりと呟いた。

「私たちの交際、まだ社内で内緒にしてたの」
「……どうして?」
「どうしてだろう。彼の元カノも同じ職場だからかなと思ってたんだけど、理由は聞いてないの」
何となく聞けなかった。
幸せが逃げていく気がして。
無言になった私に、幼馴染は何も言わなかった。
ただ、私の腕には幼馴染の温もりがある。

「…今度、遊びに行こうか」
「えっ、」
「寂しそうだから」
足を止めて隣を仰ぎ見る。
幼馴染も私を見下ろしていて目があった。
この雨のような、深く静かな黒目がちの瞳。
「2人で。彼氏に内緒で」
ドクンドクンと強く鼓動が打つ。
不自然にならないようにそっと視線を下ろすと、幼馴染の肩がしっとりと濡れていた。
私は濡れていない。ずっと傾けてくれて……
「考えてみて。俺は遊びに行けたら良いなと思うけど」

彼は私に傘を持たせて、傘を飛び出して家に向かって走り出した。
徒歩5分の距離。走ったらどのくらいなのだろう。
あんなに折りたたみ傘を探していたのに、今も小雨は降り止まないのに。

パシャパシャとアスファルトの雨水を跳ね返させながら走る後ろ姿を傘の中から見送る。
街灯や車のライトが暗いアスファルトにキラキラ反射して綺麗だった。

傘の中で、幼馴染の低く優しい声を思い出す。
私と幼馴染の秘密の---





傘の中の秘密

6/1/2025, 10:58:45 AM


勝ち負けなんて関係なかった。
俺は、最後までトラックを走り抜く米田と鈴木が誇らしかった。



勝ち負けなんて



陸上競技場のスタンド席の屋根の下、中学校の指定ジャージに着替えた米田と鈴木が霧雨の向こうに霞んで見える。2人はスタンド席に座り、霧雨のトラックをぼんやりと眺めていた。
そんな2人を視界の端にとらえながら、俺は撤収作業をしていた。

曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、教師らは生徒を先に帰宅させた。
うちの生徒の鈴木が、陸上競技場に佇む米田の隣に寄り添っていた。


「神谷先生、お疲れ様です」
隣のブースで撤収作業を終えた早坂先生に声をかけられた。
早坂先生は去年までうちの中学校で長距離継走部の顧問をしていた体育教師。
「お疲れ様です」

「鈴木、速かったですね。区間賞、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
鈴木彩花は米田から6位で襷を受け取り、4位まで順位を上げていた。
「西中も3位入賞おめでとうございます」
「ありがとうございます」

互いの健闘を讃えあう。
そこに勝ち負けは関係ない。素晴らしい世界だと思う。

「鈴木は1年生の練習では3年の走るペースについて行けなくて、米田と一緒になってヘラヘラ笑いながら走っていたんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。どれだけ叱責したことか」

俺は苦笑する。

今年、この中学に赴任して長距離継走部の顧問をすることになって、1,000M走のタイムを見て2年生女子はあいつらを選んだ。
選抜メンバーだと告げた時、開口一番に「なんでウチらが!」って抗議されたっけ。

「おまえらが1番速いんだからしょうがないだろ」
「でもウチら、去年は大会の補欠にも選ばれなかったくらい遅かったの!」
「まだ1年だったからな。俺がフォームチェックしてタイム伸ばしてやるよ」
笑う俺に露骨に嫌そうな顔をする2人。
「ほら、頑張るぞ。練習は嘘を付かないからな」
背中をバンッと叩いた。

「前を見据えろ」「背筋は伸ばせ」「腕は小さくリズミカルに触れ」「膝は少し曲げて走れ」
練習中に大声を張り上げてフォームを改善していく。
2人は俺には照れ隠しでやる気のないようなことを言うけど、タイムは初日とは比べ物にならないほど日毎に伸びていった。


「鈴木は伸びましたけど、米田は相変わらずですかね。
今日も走り込み不足でトラックに戻って来るのがやっとの状況で」
米田を1年のときと同じ練習態度だと誤解している。
米田は練習を頑張っていた。
今日だって、懸命に走っていた。

「米田は、夏休み直前に捻挫をしたんですよ」
「そうでしたか」
「練習再開まで1ヶ月を要しました。
練習再開後にタイムは落ちましたけど、捻挫までは米田と鈴木の実力は伯仲していました」
早坂先生の顔が強張る。
米田の名誉のために言ってやりたかった。
あいつは頑張っていた。本当に良く頑張っていた。
早坂先生が口元を手で押さえる。
俺の口調は強かったと思う。言い過ぎたか?
早坂先生が深く頭を下げた。
「先生、すみません…」
「いえ、そんなに気にすることじゃ、」
「違うんです。俺、さっき、米田に会って言ってしまったんです。走り込み不足だなって。本当にすみません」

米田は普段、本心を隠しがちなヤツだ。
ヘラヘラするし、冗談を言うし、言い返したりもするけれど、本当は傷つきやすく繊細なヤツだ。
繊細に見える鈴木の方がよっぽど芯が強くストレスに耐性がある。

米田は、自分のせいでマラソンの順位を落として落ち込んでいると思っていた。
それだけじゃなく、早坂先生がワザとでないにしろ、拍車をかけていたなんて……。

苦い思いで後ろを振り返る。
トラックの向こうにいる2人は霧雨越しでぼんやりとしか見えないが、相変わらずトラックを眺めているようだった。
俺の視線を追って、早坂先生がアッと声を上げた。
「あれ、米田と鈴木ですか…?」
「ええ」
「俺、米田に謝ります」
スタンド席に歩き始めた早坂先生を制する。
「先ずは俺が2人を落ち着かせます。
駐車場に2人を連れて行きますから、それで良いですか?」
「わかりました。お願いします」

頭を下げた早坂先生に大丈夫だと笑いかける。

あの2人は素直だから、心からの謝罪をきっと受け入れる。
大丈夫。俺があいつらを守る。

「早坂先生」
「はい」
「今日の鈴木は、実力以上を発揮してくれましたよ」
「えっ?」
「米田に順位を落として襷を渡されて、鈴木は米田が気に病まないように精一杯走ったんです。俺もあんなに早く帰って来るとは思いませんでした」
「……」
「米田も。走り込み不足で練習も今日も辛かったと思うんです。それでも、彼女の今日のタイムは伸びました。もう少し前半セーブできたら、もっとタイムは伸びたと思うんですけどね」
襷を次のランナーの鈴木に渡した直後、ふらつく米田を抱き留めたとき、あいつは過換気手前で、呼吸がままならなかった。
それほど頑張っていた。

「俺の指導力不足ですね。来年は表彰式のトロフィーを持ち帰りますよ」
「そうはさせませんよ」
早坂先生に笑顔が戻る。
「今日、神谷先生とお話できて良かったです。
俺、教師としてもっと生徒をよく見て、思い込みで判断してはいけないことを学びました」
「早坂先生…」
「米田も鈴木も、きっと先生が好きなんでしょうね。
俺が指導していたときは、ホント、2人チンタラ走ってましたから」
想像はできる。俺は笑った。


トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせる。
俺が行くまで。早坂先生が謝罪してくれるまで。
霧雨に優しさを託そう。

「さあ、行きましょうか。もう暗くなりつつありますし」
「ええ。駐車場で待っています」


早坂先生と別れて紳士用の傘を差してスタンド席に向かう。
「帰るぞー」
普段の俺の口調で、態度で、米田と鈴木を和ませる。
傘を2人で差すように貸して、自転車は此処に置いて、車で自宅まで送ると告げて歩き出す。
霧雨が髪を、顔を、肩を、背中を濡らしていく。
優しい雨だ。
濡れて気持ちの良い雨だ。
傘を差さずに歩いたら2人と距離が開いてしまって、振り返って待った。
俺を待たせちゃ悪いと歩くスピードを速めた2人。
そんなこと気にしなくても良いのに、意外にかわいいところがあるんだよな、あいつら。
微笑ましく思った次の瞬間、俺はギョッとする。
傘を閉じた鈴木。
バッグからタオルを出して胸に抱えた米田。

「おまえら、なぁにやってんだー」
叫ぶ俺と、すっげぇ楽しそうに笑いながら走って来る2人。
早歩きが面倒なのはわからなくもないけれど、わざわざ雨の中、走って来ることないだろうが。
「あーあー」
呆れてるけど、ホッとしてもいる。
こいつら2人、意外に元気になっている。
鈴木が米田を癒してくれたのか。


あの米田が捻挫した暑い夏の日。
太陽がアスファルトを照りつけ、汗が噴き出していた鈴木は、自分のことのように心を痛めて悔しがっていたもんな。


霧雨は変わらず優しく降り続ける。
白いライトが木々の葉に降り注ぐ霧雨を優しく照らす。

駐車場に着く前に、早坂先生が話をしたいからと駐車場で待っていることを告げる。
顔を強張らせる米田。鈴木は先ほどあったことを俺に怒り口調の早口で悔しそうに告げる。
「それを含めてだそうだ。とにかく、早坂先生の話を最後まで聞きなさい。その後で、言いたいことは言えば良い。人の話を最後まで聴くのは最低限の礼儀だぞ」
「…わかりました」
「米ちゃん」
静かに頷く米田と心配そうにそっと見つめる鈴木。
「米田」
「はい」
「言いたいことは我慢するなよ。米田はよく頑張ったんだから。俺はずっと見てきたから」
「……はい」
泣きそうになる米田と、鈴木。
俺は笑った。
「鈴木まで感極まらなくても」
「だって、良いこと言い過ぎ」
「鈴木も米田のためによく頑張ったな。あんなに速く帰ってきて驚いたよ」
2人は鼻をグスっと鳴らした。
「頼むから、駐車場に着く前に泣き止めよ。早坂先生に会う前に」
「先生が泣かせたくせに」
2人は米田のタオルで顔を拭っていた。
俺はまた微笑んで、前を向いてゆっくり歩く。

霧雨の傘を滑る音は優しかった。


駐車場に入ると、早坂先生は足早に歩いてきた。
駐車場の一角にある屋根の下に入り、俺たちは早坂先生が目を潤ませ頭を下げる心からの謝罪を聞く。

聞き終わって、米田は言った。
「私、来年も選ばれたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにします」
「米田」
「隣の体育教師にいっぱい教えてもらいます。鈴ちゃんと頑張ります」
明るい笑顔で、淀みなく、優しく強く。
早坂先生は少し呆気に取られた後、安心したように笑った。
「米田、ありがとう」
「打倒西中!」
「「そこは今年1位の南部中だろ」」
早坂先生と俺が同時にツッコミを入れる。

サワサワと木の葉が擦れる音がして、微風が足元をしっとりと濡らす。

「帰りますか」
「ですね」

早坂先生に「さようならー」と元気に挨拶をする2人。
本当に良い子たちだ。きっと、親御さんが素晴らしいんだな。



この日の俺たちに、勝ち負けなんて関係なかった。
最後までトラックを走り抜く米田と鈴木が誇らしかった。




勝ち負けなんて

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