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勝ち負けなんて関係なかった。
俺は、最後までトラックを走り抜く米田と鈴木が誇らしかった。



勝ち負けなんて



陸上競技場のスタンド席の屋根の下、中学校の指定ジャージに着替えた米田と鈴木が霧雨の向こうに霞んで見える。2人はスタンド席に座り、霧雨のトラックをぼんやりと眺めていた。
そんな2人を視界の端にとらえながら、俺は撤収作業をしていた。

曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、教師らは生徒を先に帰宅させた。
うちの生徒の鈴木が、陸上競技場に佇む米田の隣に寄り添っていた。


「神谷先生、お疲れ様です」
隣のブースで撤収作業を終えた早坂先生に声をかけられた。
早坂先生は去年までうちの中学校で長距離継走部の顧問をしていた体育教師。
「お疲れ様です」

「鈴木、速かったですね。区間賞、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
鈴木彩花は米田から6位で襷を受け取り、4位まで順位を上げていた。
「西中も3位入賞おめでとうございます」
「ありがとうございます」

互いの健闘を讃えあう。
そこに勝ち負けは関係ない。素晴らしい世界だと思う。

「鈴木は1年生の練習では3年の走るペースについて行けなくて、米田と一緒になってヘラヘラ笑いながら走っていたんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。どれだけ叱責したことか」

俺は苦笑する。

今年、この中学に赴任して長距離継走部の顧問をすることになって、1,000M走のタイムを見て2年生女子はあいつらを選んだ。
選抜メンバーだと告げた時、開口一番に「なんでウチらが!」って抗議されたっけ。

「おまえらが1番速いんだからしょうがないだろ」
「でもウチら、去年は大会の補欠にも選ばれなかったくらい遅かったの!」
「まだ1年だったからな。俺がフォームチェックしてタイム伸ばしてやるよ」
笑う俺に露骨に嫌そうな顔をする2人。
「ほら、頑張るぞ。練習は嘘を付かないからな」
背中をバンッと叩いた。

「前を見据えろ」「背筋は伸ばせ」「腕は小さくリズミカルに触れ」「膝は少し曲げて走れ」
練習中に大声を張り上げてフォームを改善していく。
2人は俺には照れ隠しでやる気のないようなことを言うけど、タイムは初日とは比べ物にならないほど日毎に伸びていった。


「鈴木は伸びましたけど、米田は相変わらずですかね。
今日も走り込み不足でトラックに戻って来るのがやっとの状況で」
米田を1年のときと同じ練習態度だと誤解している。
米田は練習を頑張っていた。
今日だって、懸命に走っていた。

「米田は、夏休み直前に捻挫をしたんですよ」
「そうでしたか」
「練習再開まで1ヶ月を要しました。
練習再開後にタイムは落ちましたけど、捻挫までは米田と鈴木の実力は伯仲していました」
早坂先生の顔が強張る。
米田の名誉のために言ってやりたかった。
あいつは頑張っていた。本当に良く頑張っていた。
早坂先生が口元を手で押さえる。
俺の口調は強かったと思う。言い過ぎたか?
早坂先生が深く頭を下げた。
「先生、すみません…」
「いえ、そんなに気にすることじゃ、」
「違うんです。俺、さっき、米田に会って言ってしまったんです。走り込み不足だなって。本当にすみません」

米田は普段、本心を隠しがちなヤツだ。
ヘラヘラするし、冗談を言うし、言い返したりもするけれど、本当は傷つきやすく繊細なヤツだ。
繊細に見える鈴木の方がよっぽど芯が強くストレスに耐性がある。

米田は、自分のせいでマラソンの順位を落として落ち込んでいると思っていた。
それだけじゃなく、早坂先生がワザとでないにしろ、拍車をかけていたなんて……。

苦い思いで後ろを振り返る。
トラックの向こうにいる2人は霧雨越しでぼんやりとしか見えないが、相変わらずトラックを眺めているようだった。
俺の視線を追って、早坂先生がアッと声を上げた。
「あれ、米田と鈴木ですか…?」
「ええ」
「俺、米田に謝ります」
スタンド席に歩き始めた早坂先生を制する。
「先ずは俺が2人を落ち着かせます。
駐車場に2人を連れて行きますから、それで良いですか?」
「わかりました。お願いします」

頭を下げた早坂先生に大丈夫だと笑いかける。

あの2人は素直だから、心からの謝罪をきっと受け入れる。
大丈夫。俺があいつらを守る。

「早坂先生」
「はい」
「今日の鈴木は、実力以上を発揮してくれましたよ」
「えっ?」
「米田に順位を落として襷を渡されて、鈴木は米田が気に病まないように精一杯走ったんです。俺もあんなに早く帰って来るとは思いませんでした」
「……」
「米田も。走り込み不足で練習も今日も辛かったと思うんです。それでも、彼女の今日のタイムは伸びました。もう少し前半セーブできたら、もっとタイムは伸びたと思うんですけどね」
襷を次のランナーの鈴木に渡した直後、ふらつく米田を抱き留めたとき、あいつは過換気手前で、呼吸がままならなかった。
それほど頑張っていた。

「俺の指導力不足ですね。来年は表彰式のトロフィーを持ち帰りますよ」
「そうはさせませんよ」
早坂先生に笑顔が戻る。
「今日、神谷先生とお話できて良かったです。
俺、教師としてもっと生徒をよく見て、思い込みで判断してはいけないことを学びました」
「早坂先生…」
「米田も鈴木も、きっと先生が好きなんでしょうね。
俺が指導していたときは、ホント、2人チンタラ走ってましたから」
想像はできる。俺は笑った。


トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせる。
俺が行くまで。早坂先生が謝罪してくれるまで。
霧雨に優しさを託そう。

「さあ、行きましょうか。もう暗くなりつつありますし」
「ええ。駐車場で待っています」


早坂先生と別れて紳士用の傘を差してスタンド席に向かう。
「帰るぞー」
普段の俺の口調で、態度で、米田と鈴木を和ませる。
傘を2人で差すように貸して、自転車は此処に置いて、車で自宅まで送ると告げて歩き出す。
霧雨が髪を、顔を、肩を、背中を濡らしていく。
優しい雨だ。
濡れて気持ちの良い雨だ。
傘を差さずに歩いたら2人と距離が開いてしまって、振り返って待った。
俺を待たせちゃ悪いと歩くスピードを速めた2人。
そんなこと気にしなくても良いのに、意外にかわいいところがあるんだよな、あいつら。
微笑ましく思った次の瞬間、俺はギョッとする。
傘を閉じた鈴木。
バッグからタオルを出して胸に抱えた米田。

「おまえら、なぁにやってんだー」
叫ぶ俺と、すっげぇ楽しそうに笑いながら走って来る2人。
早歩きが面倒なのはわからなくもないけれど、わざわざ雨の中、走って来ることないだろうが。
「あーあー」
呆れてるけど、ホッとしてもいる。
こいつら2人、意外に元気になっている。
鈴木が米田を癒してくれたのか。


あの米田が捻挫した暑い夏の日。
太陽がアスファルトを照りつけ、汗が噴き出していた鈴木は、自分のことのように心を痛めて悔しがっていたもんな。


霧雨は変わらず優しく降り続ける。
白いライトが木々の葉に降り注ぐ霧雨を優しく照らす。

駐車場に着く前に、早坂先生が話をしたいからと駐車場で待っていることを告げる。
顔を強張らせる米田。鈴木は先ほどあったことを俺に怒り口調の早口で悔しそうに告げる。
「それを含めてだそうだ。とにかく、早坂先生の話を最後まで聞きなさい。その後で、言いたいことは言えば良い。人の話を最後まで聴くのは最低限の礼儀だぞ」
「…わかりました」
「米ちゃん」
静かに頷く米田と心配そうにそっと見つめる鈴木。
「米田」
「はい」
「言いたいことは我慢するなよ。米田はよく頑張ったんだから。俺はずっと見てきたから」
「……はい」
泣きそうになる米田と、鈴木。
俺は笑った。
「鈴木まで感極まらなくても」
「だって、良いこと言い過ぎ」
「鈴木も米田のためによく頑張ったな。あんなに速く帰ってきて驚いたよ」
2人は鼻をグスっと鳴らした。
「頼むから、駐車場に着く前に泣き止めよ。早坂先生に会う前に」
「先生が泣かせたくせに」
2人は米田のタオルで顔を拭っていた。
俺はまた微笑んで、前を向いてゆっくり歩く。

霧雨の傘を滑る音は優しかった。


駐車場に入ると、早坂先生は足早に歩いてきた。
駐車場の一角にある屋根の下に入り、俺たちは早坂先生が目を潤ませ頭を下げる心からの謝罪を聞く。

聞き終わって、米田は言った。
「私、来年も選ばれたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにします」
「米田」
「隣の体育教師にいっぱい教えてもらいます。鈴ちゃんと頑張ります」
明るい笑顔で、淀みなく、優しく強く。
早坂先生は少し呆気に取られた後、安心したように笑った。
「米田、ありがとう」
「打倒西中!」
「「そこは今年1位の南部中だろ」」
早坂先生と俺が同時にツッコミを入れる。

サワサワと木の葉が擦れる音がして、微風が足元をしっとりと濡らす。

「帰りますか」
「ですね」

早坂先生に「さようならー」と元気に挨拶をする2人。
本当に良い子たちだ。きっと、親御さんが素晴らしいんだな。



この日の俺たちに、勝ち負けなんて関係なかった。
最後までトラックを走り抜く米田と鈴木が誇らしかった。




勝ち負けなんて

6/1/2025, 10:58:45 AM