私が高校生だった頃、近所のファミレスで知り合ったバイト仲間の大学生がいた。
私はその人を兄のように慕い、彼は私を妹のように面倒を見てくれた。
バイトの仕事内容を教えてくれたり、休み時間には私が苦手な英語を教えてくれたり、夜、バイト終わりの時間が重なると私を家まで送ってくれたりした。
「雨止んだみたいですね」
「良かったよな」
そんなことを話しながら、傘立てに立てていた傘を引き抜いてクルリと回して束ねる。
バイト終わり、従業員出口の軒先からは名残惜しげに水滴が垂れている。
不意に腕を強めに引かれてよろめいて彼の体にぶつかった。
「あ、ごめん。足元、水たまりがあったから」
「あ、うん、」
ビックリした。急に引っ張られたことも、体の温もりを感じるほど近づいてしまったことも。
彼はすぐに私の腕から手を離したけれど、私は彼にずっと腕を握られているかのように感触が消えなかった。
彼に自宅まで送ってもらっている間中、とくんとくんと胸が熱く波打っている。
帰宅してからも、私が足を踏み入れないようにしてくれた水たまりを思い出す。
水たまりは、夜の暗さを映しとるアスファルトの闇の中、明るいファミレスの光を受けてオレンジ色に反射していた。
半年後、彼は海外へ留学した。
私は受験勉強のため、バイトを辞めた。
彼とはそれきり会っていない。
大学卒業後に友人の紹介で知り合った人と私は交際を開始した。
映画鑑賞が2人とも好きで、新作旧作問わず感想を伝え合っているうちに意気投合。
そのうち一緒に映画を観に行くようになり、その日観たSF映画を無邪気に語る笑顔が眩しくて、なんだか見惚れてしまうこともあって。
映画館で手を握られ恋に落ちていることに気づいて、その日は映画どころじゃなく、心臓はバクバクだった。
「雨止んで良かったよな」
「うん」
束ねた傘から水滴が落ちる。
今日は彼氏の家でまったりDVD鑑賞デート予定。
「古い映画だけど俺のお気に入り。きっと気に入ると思うんだよね」
何度も確信めいて言うから、ずっと気になっていた映画。
今のところこんなに!?って思うほど彼氏と私のお気に入りの映画は被ってる。
きっと今日の映画も私のお気に入りになる気がするよ。
2人きりのお家デート、嬉しいな。
足取り軽く、彼氏が住むマンションへ向かう途中の歩道橋の上で、雨上がりの水たまりに雲を宿した青空が映っているのに気がついた。
水たまりの空は、見上げた空の景色のまま映しとられている。
あのファミレスの夜に、人工的な鮮やかな揺れる光とは異なる、スッキリとした青い空。
見上げても見下ろしても青空が瞳に映るってなんだか不思議。
まだ恋人同士になって間もないけれど、気分が晴れやかなときも、落ち込んでしまっているときも、こんな感じだと良いな。
空の青さのように、自分のありのままの心を開けていられたら良いな。
彼氏のありのままの心を、私が大切にできると良いな。
「ん?どうした?」
「何でもないよ」
歩道橋で不意に立ち止まった私に彼氏が声をかけ、心配そうな瞳を向ける。私はクスッと笑って隣に並ぶ。
高校生のときのように、水たまりに気づかずに足を踏み入れることは今はもうない。
大人になったからというわけではなくて、きっと、兄のように守ってくれる人がいなくなり、無意識のうちに自立心が芽生えたからだと思ってる。
それでも思い出すのだ。
彼が留学先へ飛び立つ日のやり取りを。
「英語、頑張れよ」
「留学するほど英語が得意なら、もっと教えてもらえば良かった!」
私の言葉に、彼のみならず、バイトの皆んなが一斉に爆笑したことを。
寂しさを押し殺して、バイバイとそっと呟いたことを。
青空に滑空する飛行機をバイト仲間で見上げたことを。
今日のような水たまりの空を見ると、この空のどこかに繋がっている彼のことを。
歩道橋を降りる2人の軽やかな足音が重なる。
傘を持っていない手に手を滑り込ませると、彼氏がちょっとだけ驚いた後、嬉しそうに微笑んだ。
その横顔を見て私の胸はじんわりと暖かくなる。
今日のような水たまりの空を見ると、この空のどこかに繋がっている彼のことを思い出す。
そして願う。
水たまりを踏まないように支えてくれた、皆んなに優しい彼でいてくれることを。
「水たまりに映る空」
6/5/2025, 3:11:53 PM